二人の守り人 作:last cinders
顔合わせから三日後、久住遥真は初めて柳瀬美由紀のレッスンに帯同した。
第三芸能部が契約しているレッスンスタジオは、事務所から電車で二駅の雑居ビルの四階だった。
受付横の掲示板には複数のダンススクールと劇団の稽古予定が混在して貼られている。
久住は入館時にそれらを一通り目で確認し、受付でトレーナーの名前、本日のレッスン枠、使用スタジオ、終了予定時刻を照合した。
管理部門にいた頃からの癖だった。
プロデュース課に移ることになった今も、この癖を捨てるつもりはなかった。むしろ、これまで以上に必要になるだろうと思っている。
アイドル本人の魅力を見ることと、現場の出口や階段や終了時刻を見ることは、別の仕事ではない。どちらも、彼女を仕事の中で安全に立たせるための確認だった。
『レッスン室って、こんなに鏡が大きいんだね』
頭の中で、瀬戸篤志が小さく言った。
『配信とか雑誌でしか見たことなくて。いや、写真では見たことあるけど、こうやって入る前から音が聞こえる感じとか、廊下にシューズの音が響いてる感じとか、全然違う』
「業務時間中の雑談は望ましくない」
『すみません。感想でした』
「感想は後で整理しろ。今は観察だ」
『はーい』
その返事は、以前よりずっと早かった。
美由紀の声を聞いた日から、篤志は少し変わった。
感情が弱まったわけではない。むしろ、美由紀が現実にいることを知ってしまったぶん、彼の中にある感情は輪郭を持って重くなっている。
ただ、それをそのまま久住へ投げることが減った。泣きそうになる前に黙る。言葉にする前に、確認事項か感情かを自分で分けようとする。完全ではないが、その努力は見える。
久住は、そこを評価していた。
評価はするが、信用しきるつもりはない。
扉の向こうから、カウントを取る声と、床を踏む音が聞こえる。久住がノックをしようとしたところで、レッスン室の扉が内側から開き、三枝真澄が顔を出した。
「久住さん、お疲れさまです。もう始まってますよ。後ろからどうぞ」
「お疲れさまです。遅れて失礼しました」
「いえ、予定通りです。美由紀さん、今日は少し気合いが入ってます」
三枝はそう言って、少しだけ笑った。
久住はその笑いの意味をすぐには判断しなかった。気合いが入っている、という言葉は良い意味にも危うい意味にもなる。本人が前向きであることは歓迎すべきだが、前向きな子ほど疲れや不安を明るさで包んでしまう場合がある。
三枝の後に続き、久住はレッスン室へ入った。
中では、美由紀が踊っていた。
久住が最初に思ったのは、思ったよりも小さい、ということだった。
身長一四四センチ。
資料にも書いてあったし、顔合わせでも見ていたはずなのに、広い鏡の前に立つと、その数字は急に現実味を帯びた。
床に引かれた立ち位置のテープ、壁一面の鏡、スピーカーから流れる音、トレーナーの鋭いカウント。その中に立つ美由紀は、資料写真よりずっと小さく見えた。
だが、動き始めると印象が変わった。
ステップの一つひとつに迷いがない。体幹は思ったより安定していて、腕の振りも最後まで伸びる。カウントを口の中で刻みながら、鏡の中の自分だけではなく、鏡の向こうにいる誰かへ向かって踊っているように見える。
小さい。
だが、弱くはない。
『……上手い』
篤志の声が、少し掠れた。
『久住さん、この子、ダンス上手いんだ。俺、知ってたんだよ。カードのコメントでも、ダンスはバッチリって言ってて。でも、動いてるのを見るのは、全然、違って』
「篤志」
『……ごめん。感情です』
「下がれ」
『はい』
篤志はそこで下がった。
下がったが、完全には消えない。
久住の視界の端で、美由紀が右へ踏み込み、身体を返し、左手を伸ばす。篤志の感情は、その一つひとつに反応しようとして、それでもぎりぎりのところで言葉にならないよう抑えられていた。
久住は壁際に立ち、三枝の隣で観察を続けた。
曲はアップテンポだった。
美由紀の表情は明るい。トレーナーのカウントにもよく反応し、指示を受けると「はいっ」と返す声がよく通る。動きの飲み込みも早い。三枝が顔合わせのときに言っていた「場を明るくする」という評価は、レッスン室でも変わらなかった。
ただ、サビ前に細かいステップが連続する箇所があった。
右、左、引いて、返して、左足から前へ入る八カウント。
そこで、美由紀は一度、足を迷わせた。
「わっ」
小さく声を上げ、すぐに笑う。
「ごめんなさいっ、今の、足がこんがらがりました!」
トレーナーも軽く笑った。
「大丈夫、続けて!」
曲は止まらず、振りは流れていった。
久住は手帳に短く記録する。
サビ前、八カウント目、左足始動。
一度目、足運びの迷い。
本人は笑って継続。
数分後、同じ箇所でもう一度、美由紀は足を間違えた。
今度も、彼女は笑った。
「えへへ、またやっちゃった!」
明るい声だった。
レッスン室の空気は悪くならない。トレーナーも責めない。三枝も口を挟まない。美由紀自身も、止まらずに次の振りへ入る。見た目には、よくある小さなミスの一つだった。
だが。
『久住さん』
篤志の声が来た。
震えてはいたが、感情ではなく、何かを差し出す声だった。
「聞こう」
『美由紀ちゃん、笑った後、こっそり自分の足元を見てます。一度目も二度目も同じ八カウント目、左足から入るところです。
笑ってごまかしてるんじゃなくて、笑ってから自分で確認してます。
多分、本人はできてないことをわかっていて、でも曲を止めたくないんだと思います』
久住は視線を動かさないまま聞いた。
『ここから先は感情だけど』
「いや」
久住は短く遮った。
「今ので十分だ」
『はい』
サビ前八カウント。
左足始動。
二回同所。
笑った後、足元を確認。
本人は課題箇所を認識している。
ただし、曲を止めずに流している。
久住は手帳に追記した。
曲が終わり、給水の時間になった。美由紀はペットボトルを持ち、額の汗をタオルで押さえながら、まだ少し息を弾ませている。トレーナーが次の指示を考えている間に、久住は静かに歩み寄り、手帳を開いたまま尋ねた。
「サビ前の八カウント、左足から入る箇所ですが、あそこだけ切り出して、テンポを落とした反復は可能ですか」
トレーナーは少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「できますよ。……気づいてました? あの子、ミスすると笑って流すんです。できるまで自分で夜に練習してくるタイプなんで、こっちも甘えちゃってたかもしれません」
「夜に一人で練習させるより、ここで潰した方が早いですよね」
久住がそう言うと、三枝が隣で小さく咳払いをした。
「久住さん」
「はい」
「言葉」
久住は一拍置いて、言い直した。
「ここで確認した方が、本人の負担は少ないと思います」
トレーナーは笑った。
「ですね。やりましょう」
三枝は少しだけ苦笑し、美由紀の方を見る。
「美由紀さん、今の箇所だけゆっくり確認しましょうか」
美由紀は一瞬、目を丸くした。
「えっ、あそこだけですか?」
「はい。久住さんが見つけてくれました」
「久住プロデューサーさんが?」
美由紀がこちらを見る。
その目には、恥ずかしさと驚きが混じっていた。できなかったところを見られていた、という顔だ。しかし、それをすぐに笑顔で隠そうとする。
「えへへ、ばれちゃいました?」
久住は頷いた。
「見てました」
「うう……みゆき、こっそりあとで練習しようと思ってたのに」
「こっそりではなく、今やりましょう」
久住の言い方は硬かった。
美由紀は一瞬だけ戸惑ったように瞬きをし、それから三枝が柔らかく言葉を足す。
「今ここでできるようにしておいた方が、あとで一人で悩まなくて済みますから」
「そっか」
美由紀はペットボトルを置き、ぱん、と軽く両手を合わせた。
「じゃあ、お願いしますっ。みゆき、できるようになりたいです!」
分解練習が始まった。
テンポを半分に落とし、左足の入りだけを八回、十六回。最初の数回、美由紀は少し恥ずかしそうにしていた。
全体の流れの中では笑って通せるミスでも、そこだけを切り出されると、できない部分がはっきり見える。
「右、左、引いて、返す。次、左」
トレーナーがカウントする。
「はいっ。右、左、引いて、返す、左……あっ」
「もう一回」
「はいっ」
三回目。
「右、左、引いて、返す、左」
「そう。いまの」
「いまのですか?」
「そう。今の足の位置を覚えて」
美由紀は自分の足元を見る。
「ここ……あ、そっか。みゆき、ちょっと前に出すぎてました」
「そうですね。前に出るより、斜め前。次の返しが楽になります」
「斜め前」
四回目あたりから、美由紀の顔つきが変わった。
恥ずかしさより、理解しようとする集中が前に出る。鏡を見る目が、自分を責める目ではなく、次にどう動くかを探す目になる。八回目で足が迷わなくなり、十六回目で腕の振りも戻った。
テンポを少し上げる。
通る。
さらに戻す。
通る。
最後に曲へ合わせた。
サビ前、八カウント。
右、左、引いて、返して、左足から前へ入る。
美由紀は、止まらずに通った。
「──できたっ」
鏡の中で、美由紀が跳ねた。
サイドテールが嬉しそうに揺れ、彼女自身もそれに気づいて、もう一度その箇所を小さく踏み直す。今度は確かめるように、しかし楽しそうに。
「できました! 三枝プロデューサーさん、今の、できましたよね?」
「できてました」
「トレーナーさん!」
「できてました。忘れないうちに、あと二回だけ通しましょう」
「はいっ」
その明るさは、さっきの笑って流す明るさとは違っていた。
できないところを隠すための笑顔ではなく、できたことを自分で掴んだ笑顔だった。
通しが終わると、美由紀は今度こそ給水しながら久住の方を向いた。
「プロデューサーさん!できなかったところ、できました!
見ててくれて、ありがとうございます!」
『────』
頭の中で、篤志が息を止めるのがわかった。
見ててくれて、ありがとうございます。
それは、文字でしか読めなかった言葉と、ほとんど同じ形をしていた。
見ててくださいね。
ホーム画面で何百回も読んだ台詞。
声のなかった台詞。
篤志が、死ぬ直前まで待っていた声の輪郭。
だが、篤志は崩れなかった。
揺れた。
深く、強く、どうしようもなく揺れた。
けれど外には出さなかった。
久住の呼吸は乱れない。
視線も動かない。
喉も詰まらない。
久住は、誰にも聞こえない声にならない声に、内心で頷いた。
それでいい。
外に出さずに持っていられるなら、それは君のものだ。
「できるようになってよかったです」
久住は外側で答えた。
「ただ、今後も同じような箇所があれば、後で一人で抱える前に、レッスン中に申告してください」
「申告」
美由紀が少し背筋を伸ばす。
「はいっ。えっと、できないところを、ちゃんと言うってことですね」
「そうです。できないこと自体は問題ではありません。できないまま一人で長時間練習して、疲労や怪我につながる方が問題です」
「怪我」
その言葉に、美由紀は少し真面目な顔になった。
「みゆき、怪我はしたくないです。踊れなくなったら、寂しいです」
「なら、なおさらです」
三枝が横から柔らかく言う。
「久住さんは少し言い方が硬いですけど、美由紀さんができないところを責めているわけではありません。むしろ、今みたいに早めに見つけて、一緒にできるようにしたいんです」
「はい」
美由紀は頷いた。
それから久住を見て、少しだけ照れくさそうに笑う。
「じゃあ、みゆき、次から苦手なところ、ちゃんと言います。言ったら、また見てくれますか?」
「見ます」
久住の返事は短かった。
だが、美由紀は嬉しそうに笑った。
「えへへ、お願いします!」
その笑顔を見て、篤志がまた少しだけ揺れた。
今度は感情だけではなく、静かな理解が混じっていた。
『久住さん』
「何だ」
『俺、前なら今のを"尊い"で終わらせてました』
「業務中にその語彙を持ち出すな」
『はい。でも、今は、ちゃんと見ないと駄目なんだなって思いました。見ててくれてありがとうって言われたら、嬉しくて終わりじゃなくて、次も見ないといけない。見てるって言った責任が発生する』
久住は、ほんの少しだけ目を細めた。
「その理解で正しい」
『正しいですか』
「少なくとも、今日の君には必要な理解だ」
『はい』
レッスンはその後も続いた。
美由紀は一度できた箇所を何度も確認し、通しの中で二度目、三度目と成功させた。成功するたびに嬉しそうな顔をするが、それに浮かれすぎず、次のカウントへ戻る。
トレーナーも美由紀の集中が途切れていないことを確認し、予定より少しだけ早めにクールダウンへ移った。
久住は時計を見た。
終了予定時刻の七分前。
悪くない。
美由紀の息は上がっているが、返事は明瞭。足元に大きなふらつきはない。ただ、給水の時にペットボトルを持つ手が少し遅くなっていた。疲労はある。
トレーナーがストレッチを指示する間、三枝が久住の横に来た。
「初回からよく見ていましたね。ただ、久住さん」
「はい」
「"ここで潰した方が早い"は、トレーナー相手なら通じますけど、美由紀さんの前では少し強いです。申告も同様です」
「承知しました」
「美由紀さんは、言葉をよく聞いています。強く言われても萎縮するタイプではありませんが、ちゃんと聞くぶん、言葉の硬さも持って帰ります」
久住は頷いた。
「修正します」
「お願いします。久住さんの見方は良いと思います。だからこそ、本人に渡すときは少し柔らかくしてあげてください」
久住は、その指摘を手帳の端に書いた。
三枝が次の打ち合わせへ向かったあと、久住は手帳を開いたまま、しばらくその場に残っていた。
本人へ渡す言葉は柔らかく。
課題の発見と、課題の提示は別工程。
書いた文字は理解できる。
理解はできるが、具体的にどう言い換えるべきかは、まだ手元にない。
『久住さん』
篤志が言った。
「何だ」
『確認事項、というより、提案です』
「言え」
『"ここで潰した方が早い"は、たぶん正しいんだけど、言われる側からすると、ちょっと怖い。できないところが悪いものみたいに聞こえるかも』
「三枝さんにも言われた」
『うん。だから、たとえば"今ここで一緒に確認した方が、あとで一人で悩まなくて済みます"とか』
久住は手帳に目を落とした。
「一緒に確認」
『美由紀ちゃん、できないところを隠してたというより、持って帰ろうとしてた。だから、"潰す"じゃなくて、"一緒に置いていく"感じの方がいいのかなって』
「一緒に置いていく」
『レッスン室に置いて帰る、みたいな。苦手なところを家まで持って帰らなくていいですよ、って』
久住は、少しだけ黙った。
篤志の言葉は、業務資料の言葉ではない。
だが、美由紀に渡すなら、こちらの方が近いのかもしれなかった。
「採用する」
『おお』
「もし次があったら使おう。ただし、そのまま使うと少し詩的すぎる」
『詩的』
「実務に直す」
久住は手帳に追記した。
課題提示時の言い換え。
「ここで潰す」ではなく、「今ここで一緒に確認する」。
「一人で持ち帰らなくていいようにする」。
本人の努力を否定せず、負担を分ける表現にする。
篤志は少し嬉しそうだった。
『久住さんの言葉、ちょっと柔らかくなったね』
「君の言葉を業務用に硬くしただけだ」
『足して割った感じ?』
「そうだな」
『それ、補助線っぽい』
久住は手帳を閉じた。
「そうだな」
『これからもこういう部分の補助線も引いて行って良いですか?』
「業腹だが、頼む」
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レッスンが終わり、美由紀はトレーナーへ頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「お疲れさま。今日のサビ前、忘れないようにね」
「はいっ。左足、斜め前です!」
「そうそう。夜にやりすぎないこと」
「えへへ」
美由紀が笑ってごまかそうとしたところで、久住が口を挟んだ。
「今日の自主練は、反復回数を決めてくださいね」
美由紀がぴたりと止まる。
「反復回数?」
「はい。たとえば、ゆっくり八回、通常テンポ三回。それ以上はやらない。と言った感じです。
できないから練習量を増やすのではなく、復習で出来るようにしましょう」
美由紀は少し驚いた顔をした。
「復習でですか?」
「はい。全部を今日できるようにしようとすると、疲労だけが残る場合があります」
三枝が補足する。
「今日できるようになったところを、明日もできるか確認するのもレッスンです」
「そっか」
美由紀は真面目な顔で頷いた。
「じゃあ、みゆき、今日はやりすぎないようにします。ゆっくり八回、普通で三回。……あっ、でも、もう一回だけやりたくなったら?」
「その"もう一回だけ"が増えます」
久住が即答すると、美由紀は目を丸くして笑った。
「ばればれだ」
「想定しています」
「久住プロデューサーさん、ちょっと怖いです」
「怖がらせたいわけではありません」
「でも、ちゃんと止めてくれるの、嬉しいです。みゆき、楽しいと、もう一回、もう一回ってなっちゃうから」
篤志が内側で、静かに痛んだ。
楽しいと、もう一回、もう一回になる。
その感覚を、篤志は知っている。。
仕事のシフトも、あと少し、もう一日、次の休みまでと思った。
楽しいことと苦しいことが混ざり、自分が疲れているのかどうかもわからなくなった。
だから今、美由紀が笑いながら言った「もう一回」を、久住は見逃さなかった。
篤志も、見逃さなかった。
『久住さん。確認事項じゃなくて、反省です』
「短く」
『俺、楽しいなら止めなくていいと思ってました。好きなことなら頑張れるって。でも、好きでも止めないといけない時があるんですね』
「ある」
『美由紀ちゃんにも、俺にも』
「君はもう止まった後だ」
『刺さる』
「刺した」
『はい』