二人の守り人 作:last cinders
レッスン後の休憩スペースで、柳瀬美由紀は弁当のふたを開けた瞬間、ぱっと顔を明るくした。
「わあ、今日はエビフライです!」
それはカニではなかった。
だが、魚介というだけで嬉しそうにする美由紀を見て、久住遥真は手帳を開きかけ、すぐに閉じた。食事のたびに記録を取られては、本人も落ち着かないだろう。
『今、記録しようとしましたね』
「していない」
『しようとはしましたよね』
「黙れ」
『はい』
美由紀は箸を持ちながら、楽しそうに続けた。
「エビさんもおいしいですよね。でも、みゆきはやっぱりカニさんが好きです。カニさんって、食べるときにちょっと大変だけど、その大変なのも楽しくて」
「殻を剥くのが、ですか」
「はいっ。脚のところをこう、ぽきってして、身がきれいに出ると、やったぁってなります。うまくいかないと、むむむってなりますけど」
美由紀は箸を置き、両手でカニの脚を折るような仕草をした。
「でも、あんまり強くやると身が崩れちゃうんです。焦らないで、ちょっとずつ。お父さんが、食べ物にも急がせちゃだめだよって言ってました」
ただの好物の話ではない。
そう思うより早く、篤志が言った。
『久住さん』
「聞こう」
『俺は、この話を"初めて知った"わけじゃありません。美由紀ちゃんがカニを好きなことも、実家のことも、水産の仕事の空気がこの子の言葉に混ざることも、俺は生前の台詞やカードや資料から、ずっとそういう子だと思って見てました』
篤志の声は、少し震えていた。感情に呑まれた震えではなく、長く持っていた解釈を、慎重に差し出そうとする震えだった。
『でも、今大事なのは、俺が知っていたことじゃなくて、本人が今もその方向で話していることです。カニが好き、で終わってない。食べ方の話に、お父さんの言葉が出てきた。急がせちゃだめ、って。
これは美由紀ちゃんにとって、カニが食べ物で、家族で、地元で、働く人の話でもあるっていう確認になります』
「そうだな」
『はい。あと、久住さんが今すぐ"北海道関連の仕事に向いていますね"って言うと、たぶん少し早いです』
「言うつもりだった」
『ですよね』
「読まれているな」
『久住さんの硬いプロデュース思考、少しわかってきました』
「余計なことを言うな」
『はい。でも、先に返すなら、"楽しそうに話しますね"よりもう一歩踏み込んでいいと思います。"食べるところだけじゃなくて、届くまでの話として覚えているんですね"くらいです』
久住は少し考えて、顔を上げた。
「柳瀬さんは、カニを食べるところだけではなく、届くまでの話として覚えているんですね」
美由紀は、ぱちっと目を上げた。
「届くまで?」
「はい。今の話は、殻の剥き方だけではなく、お父さんの言葉や、食べ物を丁寧に扱う話でした」
美由紀は少し照れたように笑った。
「えへへ。そうかもしれません。みゆき、カニさんが好きって言うと、おいしいよねって言ってもらえるんです。それも嬉しいです。カニさん、おいしいので」
「はい」
「でも、カニさんって、お店に並ぶまでにいろんな人が頑張ってるんです。海から来て、運んで、きれいにして、箱に入れて。寒いところでお仕事してる人もいるから、手が冷たくなっちゃうんです」
美由紀の声は明るかった。だがその奥に、生活の手触りがあった。観光パンフレットの北海道ではなく、彼女が家で聞き、見て、覚えてきた北海道だった。
『ここです』
「何がだ」
『俺が知っていた美由紀ちゃんと、今の美由紀ちゃんが重なっているところです。この子のカニの話には、いつも地元とか家族とか、食べる人への距離の近さがあった。今、本人がそれを自分の言葉で話してます』
久住は手帳を開いた。今度は、美由紀の正面ではなく、少し横へずらして。
「それは、家でよく聞いていた話ですか」
「はいっ。お父さんもお母さんも、お仕事の話をしてくれました。難しいことは全部わかるわけじゃないけど、寒いところで頑張ってる人がいることとか、箱に入れるときも丁寧にしないとだめなこととか、そういうのは覚えてます」
「食べる人に届くまでの話ですね」
「そうです!」
美由紀は嬉しそうに身を乗り出した。
「カニさんって、海にいて、捕って、運んで、きれいにして、箱に入って、お店に並んで、やっと食べる人のところに来るんです。だから、いただきますって言うとき、カニさんにも、頑張った人にも言ってる感じがします」
久住は短く書く。
カニ=好物に留まらない、家族の言葉。
地元産業、水産加工・流通への解像度の高い実感。
「届くまで」の意識。
食べる人と働く人をつなぐ視点。
生前の篤志の解釈とも整合する。ただし今後も本人の言葉で確認すること。
篤志が、その最後の一文に反応した。
『久住さん』
「何だ」
『そこ、ありがとうございます』
「礼を言う箇所か」
『はい。俺の知識を事実扱いしないでくれて。でも、完全に無視もしないでくれて』
「君の知識は資料ではないが、補助線にはなる」
『はい』
美由紀が、ふと我に返ったように笑った。
「あっ、みゆき、またカニさんの話いっぱいしちゃいました」
「構いません」
久住は言った。
「今の話は、仕事としても大事だと思います」
篤志が内側で素早く言う。
『久住さん、硬いです』
久住は言葉を止めた。美由紀は首を傾げている。
「仕事として?」
「いえ。まず、柳瀬さんが大事にしているものが、少しわかった気がしました」
美由紀は箸を持ったまま、しばらく黙った。それから、ゆっくり笑った。
「大事にしてるもの」
「はい。カニが好きという話の中に、地元や家族や、働いている人の話が自然に入っていました」
美由紀は、少しだけ頬を赤くした。
「そういうの、言ってもいいんですね」
「はい」
「みゆき、カニさんが好きって言うと、食べるのが好きなんだねって言われることが多いんです。それもほんとです。カニさん、おいしいので」
「はい」
「でも、それだけじゃないって、言ってもいいなら、嬉しいです」
久住は頷いた。
「言っていいと思います」
篤志が、内側で静かに息を吐いた。
『今のは届きました』
「そうか」
『はい。たぶん、本人が話していい範囲が一つ増えました』
美由紀はエビフライを一口食べて、幸せそうに頬を緩めた。
「エビさんもおいしいです」
「よかったですね」
「はいっ。でも、久住プロデューサーさん」
「はい」
「今度、カニさんの話、またしてもいいですか?」
「もちろんです」
美由紀の顔がぱっと明るくなる。
「やったぁ。じゃあ今度は、カニさんのお味噌汁の話もしますね。最後までおいしいんですよ!」
篤志が内側で小さく笑った。
『久住さん』
「何だ」
『今のは感情です』
「言え」
『俺は、それも知ってました。美由紀ちゃんが、最後までおいしく食べる話をする子だって。知ってたけど、今聞けて、やっぱりこの子だって思いました』
久住は手帳を閉じた。
「その感情は、外に出さずに持っていろ」
『はい』
「ただし、業務上の補助線としては有用だった」
『ありがとうございます』
「調子に乗るな」
『乗りません』
少し間を置いて、篤志は言った。
『でも、久住さん』
「何だ」
『今の美由紀ちゃんを見て、俺の知っている美由紀ちゃんと同じだって思うの、すごく嬉しいです。でも、同じだと思った瞬間に、もう見なくていいってなるのは違うんですよね』
久住は、美由紀が弁当を食べる様子を見ながら、内側で答えた。
「そうだ。整合したからこそ、さらに見る」
『はい』
「君の知識は答えではない。観察の入口だ」
『入口』
「今の彼女が何をどう話すかを見るための補助線だ」
篤志は、しばらく黙った。その沈黙は、嬉しさをきちんと畳んでしまうためのものだった。
『わかりました』
休憩スペースの窓から、午後の光が差し込んでいる。美由紀は弁当を食べながら、続きの話をいつ始めようか、少しだけうずうずしているようだった。
久住はそれを急かさず、手帳の上の指を緩めた。