二人の守り人   作:last cinders

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アイドルの一歩目

北海道うまいものフェア当日、駅前広場には朝から白いテントが並んでいた。

 

カニ、ホタテ、じゃがいも、チーズ、とうもろこし、メロン、昆布、ラーメン。それぞれのブースには赤や青ののぼりが立ち、売り子の声と、湯気と、焼き物の匂いが広場の空気を少し浮き立たせている。

 

ステージは広場の端に設けられていた。固定の椅子が数十脚と、周囲に立ち止まれるスペースがある程度の、大きくはない会場だ。プログラム上の表記はこうだった。

 

 

北海道おいしいものミニトーク

ゲスト:北海道出身の若手アイドル・柳瀬美由紀

 

 

 

名前は、冠ではない。主役はフェアであり、北海道の食べ物であり、出店者たちだった。

 

久住遥真は、その立ち位置が今の彼女に合っていると思っていた。名前で人を呼ぶ段階ではない。けれど、立ち止まった人に「少し聞いてみよう」と思わせる力はある。それを無理なく仕事にできるかどうかを、今日は見る。

 

「久住さん、ステージ裏の導線、確認しました」

 

三枝真澄が声をかけてきた。

 

「はい。控室テントからステージ袖まで約二十メートル。途中に来場者通路があるので、移動時はスタッフ一名を前につけます。試食がある場合は、提供元と品目を再確認。食べる量は一口程度。トーク終了後、すぐに水分補給と休憩を入れます」

 

「ありがとうございます」

 

三枝は少し笑った。

 

「今日は"潰す"は禁止でお願いします」

 

「承知しています」

 

『三枝さん、根に持ってるわけじゃないけど、覚えてますね』

 

「当然だ」

 

『久住さんも気をつけましょう。今日は出店者さんもいるし、言葉が硬いと美由紀ちゃんまで緊張します。あと、ステージ前に"カニの話をしっかりしてください"みたいに言いすぎると、背負います』

 

「その予定はない」

 

『はい。じゃあ、念のため言い換え案です。"いつもの美由紀ちゃんの言葉で、楽しく話してください"です』

 

久住は少し黙った。

 

「採用する」

 

美由紀は控室テントの中で、スタッフから進行表を受け取っていた。

 

衣装はフェアに合わせた、明るい色合いのカジュアルなステージ衣装だった。派手すぎず、けれど広場の中ではちゃんと目に留まる。胸元には小さなカニのブローチがついている。衣装担当が用意した小物だったが、美由紀はそれを見つけた瞬間から嬉しそうだった。

 

「カニさん、います」

 

そう言って、何度もそっと触っている。

 

三枝が進行の最終確認をする。

 

「美由紀さん、今日は十五分ほどのミニトークです。司会の方が進行してくれます。難しい説明はしなくて大丈夫です。専門的な話は司会の方や出店者さんが補ってくれます」

 

「はい。みゆきは、楽しくお話する係ですね」

 

「そうです」

 

美由紀は大きく頷いたが、指先が少しだけ衣装の裾を握っていた。

 

久住はそれを見た。篤志も見た。

 

『緊張してます』

 

「確認済みだ」

 

『言い方、柔らかく』

 

「わかっている」

 

久住は進行表を閉じ、美由紀へ声をかけた。

 

「柳瀬さん。今日は、完璧に説明する必要はありません」

 

美由紀は少し目を丸くした。

 

「完璧じゃなくていいんですか?」

 

「はい。司会者も出店者もいます。柳瀬さんが全部を背負う場ではありません。いつもの柳瀬さんの言葉で、楽しく話してください。来場者が少し足を止めて、北海道のおいしいものを見てみようと思ってくれたら、それで十分です」

 

美由紀の表情が、少し柔らかくなった。

 

「足を止めてくれたら」

 

「はい」

 

「じゃあ、みゆき、通りかかった人にも聞こえるように、楽しく話します。カニさんの話も、難しくしないで、楽しく」

 

「それでお願いします」

 

美由紀は胸元のカニのブローチを一度だけ触り、ぱっと笑った。

 

「はいっ。みゆき、北海道のおいしいもの、みんなに好きになってもらえるように頑張ります!」

 

『今の顔、大丈夫そうです。久住さん、今の言い方よかったです』

 

「君の補助線だ」

 

『はい』

 

 

ステージ開始五分前、久住は袖から客席を見た。

 

前方の椅子には親子連れが数組、買い物袋を持った中年の女性二人、物産展目当てらしい男性客、そして通りがかりに足を止めた人たちがまばらに座っている。アイドルファンらしい客も数人いるが、多くは美由紀のことを知らないだろう。

 

それでいい。今日は、そこから始める仕事だ。

 

司会者がステージへ上がった。

 

「皆さま、こんにちは。ただいまより、北海道おいしいものミニトークを始めます。本日のゲストは、北海道出身の若手アイドル、柳瀬美由紀さんです!」

 

拍手は大きくはない。けれど、温かい。

 

美由紀がステージへ出る。

 

「こんにちはっ。柳瀬美由紀です! 今日は北海道のおいしいもののお話ができるって聞いて、すっごく楽しみにしてきました。よろしくお願いします!」

 

声が広場へ抜けた。

 

久住の内側で、篤志が少し揺れた。だが、崩れない。もう、声そのものに呑まれる段階は過ぎている。彼はその声が、どう届くかを見ていた。

 

『前の親子、見ました』

 

「見ている」

 

『女の子が手を振りました』

 

「美由紀も気づいた」

 

美由紀は、客席の前方にいた小さな女の子へ軽く手を振り返していた。司会者がそれを見て、少し笑う。

 

「柳瀬さん、北海道出身ということですが、今日は北海道のおいしいもの、たくさん並んでいますね」

 

「はいっ。ステージに来る前から、いい匂いがいっぱいで、おなかがすいちゃいました」

 

客席から小さな笑いが起きる。

 

「特に気になるものはありますか?」

 

「いっぱいあります。でも、やっぱりカニさんを見ると、わあってなります。カニさん、好きな人いますか?」

 

美由紀は、客席へ向かって片手を上げた。

 

数人が手を上げる。子どもが真似して両手を上げる。それを見て、美由紀の顔が明るくなる。

 

「わあ、仲間です! じゃあ、カニさんを剥くの、ちょっとむずかしいなって思ったことある人は?」

 

今度は、大人の方が笑いながら手を上げた。司会者も手を上げる。

 

「私もあります」

 

「ありますよね。みゆきも、きれいに身が出ると、やったぁってなるんですけど、うまくいかないと、むむむってなります」

 

客席から笑いが起きる。大きな爆笑ではない。しかし、明らかにさっきより人の顔が上がった。通路を歩いていた人のうち、何人かが足を止める。

 

『これです。説明じゃなくて、巻き込みです。カニを知ってる人だけじゃなくて、剥くの難しいって思った人まで参加できる』

 

「記録する」

 

美由紀は続ける。

 

「カニさんって、焦ると身が崩れちゃうんです。だから、ちょっとずつ、ゆっくり。お父さんに、食べ物にも急がせちゃだめだよって言われたことがあります」

 

司会者が自然に受ける。

 

「いい言葉ですね」

 

「はい。急がないで食べると、最後までおいしいんです。それに、みんなで食べると、剥くのが上手な人がちょっと得意そうになったり、苦手な人を手伝ったりして、それも楽しいですよね」

 

前方の中年女性二人が顔を見合わせて笑った。「あるある」と口が動く。

 

美由紀はそれに気づいたのか、少し身を乗り出した。

 

「ありますよね? カニさんって、おいしいだけじゃなくて、食べてる時間も楽しいんです」

 

久住は手帳に短く書く。

 

味ではなく、食べる時間。

客席への問いかけ有効。

反応を拾って返す力あり。

 

司会者が話題を広げた。

 

「柳瀬さんのご実家の方でも、水産物は身近だったんですか?」

 

美由紀は頷いた。

 

「はい。みゆきの家の方では、お魚さんとかカニさんとか、いろんなものが身近にありました。お仕事してる人たちもいて、寒いところで作業するから、手が冷たくなっちゃうって聞いたことがあります」

 

少しだけ声の調子が落ち着いた。客席の空気も、ほんの少し変わる。

 

久住は、ここで「届くまで」に寄りすぎる危険を見た。短いフェアステージで重くなりすぎると、足が離れる。

 

『久住さん、今は美由紀ちゃんに任せて大丈夫です。たぶん戻せます』

 

「根拠は」

 

『この子、自分で楽しいところに戻れる子です』

 

美由紀は、まさにその通りに言葉を続けた。

 

「だから、お店にカニさんが並んでいるのを見ると、ここに来るまでにいろんな人が頑張ったんだなって思います。でも、難しいことを考えながら食べなきゃっていうより、まずはおいしく食べてくれたら、きっと作った人も嬉しいと思うんです」

 

「まずはおいしく」

 

「はいっ。おいしいねって言ってもらえるの、嬉しいと思います。みゆきも、今日ここで"おいしそう"っていっぱい思ってます!」

 

客席がまた笑う。重くなりかけた空気が、自然に戻った。

 

『戻しました。久住さん、これがトークセンスです』

 

「同意する」

 

次に、司会者が出店ブースから提供された試食品を紹介した。北海道産カニを使った、小さなカニ汁だった。

 

久住は袖で提供担当者と目を合わせ、事前確認済みであることを再度確かめる。量は少なめ。熱すぎない。アレルギー確認は済んでいる。昼食時間にも影響しない。

 

美由紀は紙カップを両手で受け取る。

 

「わあ、あったかいです」

 

一口飲む。その瞬間、彼女の顔が本当にゆるんだ。

 

「……おいしいです」

 

飾ったコメントではなかった。司会者が笑う。

 

「今、かなり本気の"おいしい"でしたね」

 

「はい。本気でした。えへへ、カニさんの味がして、でもお味噌汁だからほっとします。寒い日に飲んだら、手まであったかくなりそうです」

 

前方の客が、ステージ横のカニ汁ブースの方を見る。一人、二人。

 

『売れてくださいって言わなくても、視線が行きました。"買って"じゃなくて、"飲んだらあったまりそう"なんですね』

 

「強いな」

 

美由紀は紙カップを置き、客席に向かって言った。

 

「みなさんも、あとでよかったら、あったかいもの食べてくださいね。外で食べると、ちょっと寒くても楽しいです。あ、でも寒かったらちゃんとあったかくしてください。おいしいものは、元気なときに食べた方がおいしいので!」

 

客席がまた笑う。子どもが母親の袖を引き、何かを言っている。母親が頷いて、カニ汁ブースの方を見る。

 

司会者が締めに入る。

 

「柳瀬さん、最後に、今日フェアへ来た皆さんへ一言お願いします」

 

美由紀は客席を見た。椅子に座っている人。立ち止まっている人。通りがかりにこちらを見ている人。出店ブースから様子をうかがっている人。

 

彼女は、その全員へ届くように声を出した。

 

「今日は、北海道のおいしいものがたくさんあります。カニさんも、ホタテさんも、じゃがいもさんも、みんなおいしそうです。見て、食べて、誰かと"おいしいね"って言ってもらえたら、きっと北海道から来たおいしいものたちも嬉しいと思います。みゆきも、今日はいっぱい楽しみます。みなさんも、最後まで楽しんでいってくださいね!」

 

拍手が起きた。最初より、明らかに増えていた。通りがかりに立ち止まった人の中にも、手を叩いている人がいる。前方の子どもは、両手を高く上げて拍手していた。

 

美由紀はその子へ向かって笑い、深くお辞儀をした。

 

 

ステージは十五分で終わった。押しは一分以内。問題なし。

 

三枝は袖で美由紀を迎え、水を渡した。

 

「お疲れさまでした」

 

「お疲れさまでしたっ。三枝プロデューサーさん、久住プロデューサーさん、どうでしたか?」

 

美由紀は息を弾ませていたが、目は明るい。

 

久住は言いかけた。

 

「予定時間内に収まり、客席の反応も――」

 

『久住さん。最初にそれじゃないです』

 

久住は口を閉じた。一拍置く。

 

「よかったです」

 

美由紀の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「ほんとですか?」

 

「はい。来場者への問いかけが自然でした。特に、カニを剥くのが難しいと思ったことがある人、という質問で、客席の反応が増えました」

 

「そこ、みなさん手を上げてくれて嬉しかったです!」

 

三枝が微笑む。

 

「美由紀さんらしいトークでした。真面目な話も入りましたけど、重くなりすぎずに楽しいところへ戻せていました」

 

美由紀は、ほっとしたように胸に手を当てた。

 

「よかったぁ。途中で、寒いところでお仕事してる人の話をしたら、ちょっと真面目になりすぎたかなって思ったんです。でも、ちゃんとおいしい話に戻れましたか?」

 

「戻れていました。そこは、かなり良かったと思います」

 

久住はそこで、少しだけ言葉を探した。篤志は何も言わなかった。もう補助線は引いた。あとは久住自身の言葉だ。

 

「柳瀬さんは、聞いている人を置いていかないですね」

 

美由紀が瞬きをする。

 

「置いていかない?」

 

「はい。自分だけが話すのではなく、客席に聞いて、反応を見て、そこから次の話へ進めていました。だから、知らない人でも入りやすい」

 

美由紀は少し照れたように笑った。

 

「みゆき、一緒にお話してるみたいにしたかったんです。北海道のおいしいもの、みんなで見てる感じがしたら楽しいかなって」

 

「それができていました」

 

美由紀は、胸元のカニのブローチをそっと触った。

 

「よかったです」

 

その時、ステージ横のカニ汁ブースから、出店者の男性が近づいてきた。名札には、北海マルカ水産、佐伯とある。

 

「柳瀬さん、さっきはありがとうございました」

 

美由紀はすぐに姿勢を正した。

 

「ありがとうございました! カニ汁、とってもおいしかったです」

 

「本当においしそうに飲んでくれましたね。あの後、何人かすぐ来てくれました」

 

「ほんとですか?」

 

「ええ。"手まであったまりそう"というのが、効いたみたいです」

 

美由紀の顔が明るくなる。

 

「よかったです。寒い日にあったかいものって、嬉しいですもんね」

 

佐伯は、少しだけ表情を改めた。

 

「それと、寒いところで作業している人の話も。ああいうのは、こちらから言うと宣伝っぽくなるんですが」

 

美由紀は少し照れながらも、まっすぐ佐伯を見た。

 

「みゆき、難しいことはまだ全部わからないです。でも、寒いところでお仕事してる人がいるのは知ってます。だから、おいしいねって言ってもらえたら、きっと嬉しいだろうなって思って」

 

佐伯は頷いた。

 

「それで十分です。──明日のステージも、よろしくお願いします」

 

派手な褒め言葉ではなかった。けれど、久住には重く聞こえた。

 

美由紀のトークは、客席だけでなく、出店者にも届いていた。営業資料に書いた役割に、かなり近い。いや、資料より少し良かった。

 

『久住さん。出店者さんに届きました』

 

佐伯が戻った後、美由紀は小さく息を吐いた。

 

「久住プロデューサーさん」

 

「はい」

 

「今の、嬉しかったです」

 

「そうですね」

 

「みゆき、ちゃんと話せてましたか?」

 

久住は答える前に、一度だけ三枝を見た。

 

三枝は何も言わず、少しだけ頷いた。

 

久住は、美由紀へ向き直る。

 

 

美由紀は少し離れたところで、三枝から水分補給を促されている。「ちゃんと飲みます」と返す声が聞こえた。ステージの上より少し柔らかい、仕事を終えた後の、安心した声だった。

 

久住は手帳を開く。

 

ステージ枠十五分。押し一分以内。

客席巻き込み良好。問いかけにより反応増。

味の感想だけでなく、食べる時間・場面へ展開。

生活実感の話は重くなりすぎず、本人が楽しさへ戻した。

出店者反応あり。売場視線誘導、小規模ながら確認。

 

『久住さん。俺、今日、ちょっとだけわかりました』

 

「何を」

 

『見つかるって、こういうこともあるんですね』

 

久住はペンを止めた。

 

『ステージいっぱいにファンが集まって、名前を呼ばれて、すごい歓声があって。そういうのを、俺はずっと夢見てたと思います。でも今日みたいに、通りがかった人がちょっと足を止めて、カニ汁の方を見て、出店者さんが"それで十分です"って言ってくれるのも、見つかるってことなんですね』

 

「そうだ」

 

『名前を冠にしなくても、届いた。ちゃんと、少しずつ』

 

報告書に書けば、「フェア内ミニトーク出演。予定通り終了。来場者反応良好」程度に収まる一日だろう。だが、美由紀は今日、場に立ち、声を出し、問いかけ、笑いを生み、少し真面目な話をし、また楽しさへ戻し、客席と売場の間に小さな流れを作った。

 

それは、今の柳瀬美由紀に合った仕事だった。そして、次につながる仕事だった。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「今日の補助線も、かなり有効だった」

 

『……はい』

 

篤志の声は、少し詰まっていた。だが、崩れてはいない。

 

『でも、今日いちばん良かったのは、美由紀ちゃんです』

 

「当然だ」

 

『はい。当然でした』

 

「故郷の力を使えた時の彼女は、たぶん、最強なんだろうな」

 

『はい……、はい……っ』

美由紀がこちらへ戻ってくる。

 

「久住プロデューサーさん、三枝プロデューサーさん、次はブースを少し見てもいいですか? ちゃんと休憩してからでいいので」

 

三枝が笑う。

 

「休憩してからなら」

 

久住も頷いた。

 

「十分休んで、水分を取ってからです」

 

「はいっ。みゆき、ちゃんと止まってから行きます」

 

そう言って、美由紀は明るく笑った。

 

止まってから、また進む。

 

 

翌日も、彼女のステージは通りすがりの人を止め、客席のお客さんとのリアクショントークを楽しみ、そして、ステージ上で美味しそうにカニ汁を飲んだ。

 

フェアは大盛況に終わった。

 

柳瀬美由紀の名前は、大きく掲げられてはいない。

けれど、彼女の声は確かに広場へ届いた。

 

まずは、そこからだった。

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