二人の守り人   作:last cinders

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投稿頻度はモチベーション次第です。


頭の中の声

久住遥真は、目覚ましの鳴る五分前に目を覚ます人間だった。

 

それは才能ではなく、習慣だ。

 

スマートフォンのアラームに起こされるより先に意識を浮上させ、布団の中で今日の予定を確認する。

十時から社内定例。

十一時半に備品発注の承認。

午後はレッスン室の利用調整。

夕方にはタレントの送迎記録の確認。

 

芸能事務所の仕事は、外から見えるほど華やかではない。

 

久住が担当しているのは、表に立つ人間の後ろに積まれる細かな事務だった。

契約書、備品、鍵、レシート

確認。確認。さらに確認。

 

派手さはないが、穴が空けば誰かが困る。

 

だから久住は、毎朝決まった手順で一日を始める。

 

布団から起き

カーテンを開け

湯を沸かす。

 

スマートスピーカーでニュースを流しながら、洗面台に向かって顔を洗う。

 

その日も、そうなるはずだった。

 

『うわっ、どこだここ!?』

 

久住は目を開けた。

 

天井がある。

 

見慣れた、自室の天井だ。

白いクロス。

隅に小さな照明。

紺色の遮光カーテンの隙間から朝の光。

 

異常はない。

 

『え、天井?

 知らない天井……いや、知らない天井って言うほど天井に詳しくないけど!』

 

久住はゆっくり瞬きをした。

 

声がした。

 

耳からではない。

 

隣室からでも、スマートフォンからでも、玄関の外からでもない。

思考のすぐ横。

自分の考えではない言葉が、はっきりとそこにあった。

 

久住は布団の中で三秒間思考が停止した。

 

まず、枕元のスマートフォンを手に取った。

 

画面を見るが、アラームが鳴る時間にはまだ早い。

通話中しているわけでもなければ、動画再生もしていない。

 

『え、待って、スマホ?

俺のじゃない。いや手が動いてる?

動いてるの俺じゃない?

誰!?誰の手?』

 

久住はスマートフォンを伏せた。

 

「誰だ」

 

声に出すと、部屋はいつも通り静かだった。

 

『えっ』

 

久住はもう一度言った。

 

「誰だ」

 

『……聞こえてる?』

 

「聞こえている」

 

『本当に?』

 

「そうでなければ、独り言としては不自然すぎる」

 

頭の中の声が、息を呑んだように止まった。

 

久住は布団から起き上がる。

 

めまいはない。

頭痛もない。

手足の痺れも、視界の歪みもない。

 

次に室内。

 

玄関の鍵、窓は閉まっている。

隠れられるような場所はない。

ワンルームの部屋に、他人の気配はない。

 

久住は洗面台へ向かい、鏡を見た。

 

映っているのは自分の顔だった。

 

二十七歳。

寝起きにしては表情が硬い。

しかし顔色は悪くない。

 

『あ、顔……男の人だ。いや俺も男だけど……。』

 

一旦顔を洗おうと、蛇口をひねって水を出し、手ですくって顔に被った。

 

『ちべたっ!』

 

「名前は」

 

『え?』

 

「名前を聞いている」

 

『あ、えっと……瀬戸。瀬戸篤志』

 

「年齢は」

 

『たぶん二十九。いや、死んだ時点で二十九』

 

久住のは絶句した。

 

鏡の中の自分が、わずかに目を見開く。

 

「死んだ?」

 

『……たぶん』

 

「たぶん、とは」

 

『覚えてる最後が、コンビニのバックヤードで倒れたところだから。身体が動かなくなって、スマホ落として、それで……気づいたらここにいた』

 

久住は水道の蛇口を閉めた。

 

冷静でいようとするには、材料が悪すぎる。

いっそ笑えてきた。

感触もある程度共有しているのか。

 

……笑えて来た、という感情が遅れてやってきていることに、なお苦笑いが走る。

 

久住は机に戻り、ノートを開いた。

普段は会議メモに使っている無地のノートだ。

 

手にペンを持ち、サラサラと動かした。

 

『え、何してるの?』

 

「状況整理」

 

『状況整理で済む? これ』

 

「済まないが、そこから始めないとなにも始まらないだろうが」

 

久住は日付を書いた。

 

その下に、箇条書きで記録する。

 

一、起床直後、頭内に自分以外の声を認識。

二、声は瀬戸篤志と名乗る。

三、本人の申告では死亡後、意識が移動したとのこと。

四、身体の主導権は現時点で久住遥真にある。

 

『久住、遥真さん?』

 

「俺の名前だ」

 

『あ、どうも。瀬戸篤志です』

 

「挨拶の順番が遅い」

 

『すみません。死後初対面なもので』

 

冗談を言う余裕がある。

あるいは、混乱で軽口が出ている。

 

声の調子は若い男。

慌てているが、攻撃性は薄い。

少なくとも現時点でこちらに危害を加える意図は感じない。

 

「確認する。君は俺の身体を動かせるのか」

 

『わからない。動かそうとはしてない』

 

「なぜ」

 

『怖いから』

 

「何が」

 

『他人の身体を勝手に動かすの、普通に怖くない?』

 

久住は言葉を失った。

たしかに、そりゃそうだ。

 

「では試そうか。右手を動かしてみろ」

 

『いやいやいや、怖いって言ってるでしょ』

 

「動かせるかどうかの確認だ。俺は止めない。右手の人差し指だけでいい」

 

『本当に?』

 

「本当に」

 

『じゃあ……えっと、動け、右手の人差し指』

 

何も起きなかった。

 

久住は自分の右手を見る。

指は机の上で静止している。

 

『動いてない?』

 

「動いていない」

 

『よかった……のか?』

 

「次。俺が意図して動かす」

 

久住は右手の人差し指を曲げた。

問題なく動く。

 

「抵抗できるか」

 

『抵抗ってどうやるの?』

 

「俺が指を曲げる。君は曲げないように念じろ」

 

『念じろって、そんな非科学的な』

 

「現時点で十分非科学的だ」

 

『それはそう』

 

久住は再び指を曲げた。

 

ほんの一瞬だけ、筋肉が遅れた。

 

気のせいと言える程度。

だが、完全なゼロではない。

 

久住はノートに書く。

 

五、瀬戸篤志による身体操作は現状不可。

六、ただし、強い意識集中により、ごく軽微な干渉の可能性あり。

 

『え、今ちょっと何かあった?』

 

「遅れた」

 

『ごめん!』

 

「謝罪は不要。現象の記録だ」

 

『久住さん、冷静すぎない?』

 

「冷静なわけないだろうが」

 

『え?』

 

「必死に冷静な自分を装っているだけだ」

 

そう言ってから、久住は自分の手が少し震えていることに気づいた。

 

当然だった。

 

頭の中に他人がいる。

 

しかもその相手は、自分は死んだと言っている。

 

普通なら錯乱してもおかしくない。

病院に行くべきかもしれない。

 

……しかし、今すぐ救急車を呼ぶほどの身体症状はない。

 

久住は深く息を吸った。

 

「次に、君の記憶を確認する」

 

『俺の?』

 

「正体不明の声を、本人申告だけで人格と認定するのは危険だ。幻聴の可能性もある。だが、俺が知らない情報を君が持っているなら、独立した意識である可能性が上がる」

 

『えっと……何を言えばいい?』

 

「君の住所、職業、最後に覚えている日常」

 

篤志は少し詰まりながら話し始めた。

 

都内の古いアパートに住んでいたこと。

昼は倉庫で働き、夜はコンビニで働いていたこと。

生活は楽ではなかったこと。

好きなゲームがあったこと。

そのゲームの中に、ずっと応援していたキャラクターがいたこと。

 

久住は、そこだけ少し引っかかった。

 

「ゲームのキャラクター?」

 

『うん。アイドルのゲーム。俺、その子の担当だった』

 

「担当?」

 

『ファンの呼び方みたいなもの。プロデューサー、って言うんだ。もちろん本当に仕事で担当してるわけじゃない。でも、気持ちとしては……担当だった』

 

「そのキャラクターに入れ込んでいた」

 

篤志はすぐに答えなかった。

 

『そうだね。入れ込んでた。たぶん、かなり』

 

「金銭的にも?」

 

『……うん』

 

「生活に支障が出るほど?」

 

沈黙が落ちた。

 

久住はそれ以上、追及しなかった。

今必要なのは糾弾ではなく、情報だ。

 

篤志は小さく続けた。

 

『その子に、まだ声がなかったんだ』

 

「声?」

 

『ゲーム内で、まだ声優さんがついてなかった。台詞は文字で出る。でも声はない。ずっと待ってた。いつか聞けるって思ってた』

 

久住はペン先を止めた。

 

篤志の声が、その瞬間だけ変わった。

 

混乱でも、軽口でもない。

もっと深い、悔恨に近い響き。

 

『でも、俺の方が先に終わった』

 

部屋が静かになった。

 

外では、動きだした電車が線路を駆け抜ける音が、遠く響いた。

 

久住はノートに書いた。

 

七、瀬戸篤志は生前の記憶がある。(アイドルゲームにはまっていた?)

 

そこまで書いて、久住はペンを置いた。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「君は今、自分がどこにいると思っている」

 

『久住さんの頭の中』

 

「なぜそうなったと思う」

 

『わからない。ただ、最後に変な声を聞いた気がする』

 

「変な声」

 

『人間じゃない感じの。神様とか、そういうのを雑に混ぜたみたいな。気の毒に、って言われた』

 

久住は眉間を押さえた。

この時点では、幻覚として処理する方がまだ現実的だ。

 

だが、そうすると説明できない点もあるのが厄介になる。

 

自分の知らない情報。

会話が成立すること。

こちらの思考と異なる感情の動き。

そして、右手に起きた微細な遅延。

 

「君をここに送った存在がいると?」

 

『いる、かもしれない。俺も信じ切れてないけど』

 

「目的は」

 

『わからない。ただ、気の毒にって言ってたから、俺の身を惜しんでくれたんだと思う』

 

「それで君の意識をここに送るかね?」

 

『そりゃそうか。単なる一般人の俺にそんなことしても意味無いもんな……。

 正直、何もわからないよ』

 

篤志の声が、初めてはっきり弱くなった。

 

『ごめん。俺、本当に何もわからないんだ。死んだと思ったら、知らない人の目で天井見てて。

 身体は動かないし、声は頭の中でしか出ないし。久住さんからしたら迷惑なのもわかってる。でも、どうしたらいいのか……』

 

久住は黙って聞いた。

 

頭の中に他人がいる。

 

その事実は、依然として異常だ。

迷惑かどうかで言えば、間違いなく迷惑だ。

仕事に支障が出る可能性もある。

精神状態への影響も読めない。

長期的に共存できる保証はない。

 

しかし、久住は人の混乱を、無駄に踏みつける趣味もなかった。

 

「まず、決めることがある」

 

『決めること?』

 

「この状態を暫定的にどう扱うかだ」

 

久住はノートの新しいページを開いた。

 

見出しを書く。

 

暫定ルール。

 

「一つ。身体の主導権は俺にある。君は勝手に干渉しない」

 

『はい』

 

「二つ。仕事中に不用意に話しかけない。緊急時を除く」

 

『緊急時って?』

 

「事故、重大な見落とし、俺の健康に関わる異常」

 

『健康……』

 

「君は過労で死んだ可能性が高い。健康に関しては信用しない」

 

『ぐうの音も出ない』

 

「三つ。俺はこの現象を記録する。必要に応じて医療機関の受診も検討する」

 

『受診したら、俺どうなるの?』

 

「わからない」

 

『ですよね』

 

「四つ。君が持つ情報は、必要な範囲で聞く。ただし、俺の生活と仕事に悪影響を与える話題は制限する」

 

『ゲームの話とか?』

 

「それも含む」

 

篤志は少し黙った。

 

『……わかった』

 

久住はその返事を聞いて、さらに書いた。

 

五つ。互いに嘘をつかない。

六つ。わからないことは、わからないと言う。

 

「以上だ」

 

『久住さん』

 

「何だ」

 

『この状況で、ルール作れるのすごいね』

 

「ルールがない方が怖い」

 

『それは、そうかもね』

 

久住はノートを閉じた。

 

時刻を見る。

アラームが鳴るまで、あと一分。

 

いつもなら、ここから一日が始まる。

 

今日はすでに、人生が一つ余分に増えている。

 

アラームが鳴った。

 

久住はそれを止めた。

 

『あの』

 

「何だ」

 

『俺、ここにいていいのかな』

 

久住はすぐには答えなかった。

 

いていい、とは言えない。

出ていけ、とも言えない。

そもそも出ていく方法がない。

 

「現時点では、君を排除する方法がない」

 

『うん』

 

「そして、君が俺に危害を加える能力も、今のところ確認されていない」

 

『うん』

 

「よって、暫定的に厄介な同居人として扱う」

 

『厄介な同居人』

 

「不服か」

 

『いや……変に優しくされるより安心するかも』

 

「そうか」

 

久住は立ち上がり、カーテンを開けた。

 

朝の光が部屋に入る。

 

何も変わらない東京の朝だった。

駅へ向かう人の足音。

遠くの車の音。

隣室の水道の音。

社会がいつも通り動き始める気配。

 

その中で、久住遥真だけが、頭の中に死んだ男を一人抱えていた。

 

『久住さん』

 

「今度は何だ」

 

『ありがとう。とりあえず、話を聞いてくれて』

 

久住は窓の外を見たまま答えた。

 

「礼は早い」

 

『え?』

 

「君が本当に俺の生活に支障を出さないか、まだ確認できていない」

 

篤志は少しだけ笑った。

 

『厳しいなあ』

 

「当然だ」

 

久住は洗面台へ向かった。

 

顔を洗い、歯を磨き、ネクタイを選ぶ。

その一つひとつの動作を、頭の中の誰かが少し遠慮がちに見ているのがわかった。

 

奇妙だった。

 

不快ではない、と言えば嘘になる。

だが、完全な恐怖だけでもなかった。

 

久住は鏡の前でネクタイを締める。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「今日一日、余計なことは言うな」

 

『わかった』

 

「ただし、本当に必要なことがあれば言え」

 

『その判断、難しくない?』

 

「難しい。だから間違えたら修正する」

 

篤志は少し黙ってから、答えた。

 

『了解。努力します』

 

久住は鏡の中の自分を見る。

 

表情はいつもより硬い。

だが、出勤できないほどではない。

 

彼は鞄を持ち、部屋を出た。

 

玄関の鍵を閉める。

 

その瞬間、頭の中の声が小さく呟いた。

 

『本当に、知らない世界だ』

 

久住は階段を下りながら言った。

 

「俺にとっては、昨日まで普通の世界だった」

 

『ごめん』

 

「謝るな。記録が増える」

 

『はい』

 

朝の街は、何事もなかったように動いていた。

 

久住遥真はその中を歩く。

 

死んだ男の声を頭に乗せて。

 

まだ名前も知らない未練を、胸の奥に同居させて。

 

この日から、久住の生活には一人分の余白ができた。

 

それが災厄なのか、病なのか、奇跡なのか。

 

判断するには、まだ材料が足りなかった。

 




こんなに濃く書かなくていいかも...?
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