二人の守り人   作:last cinders

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厄介な同居人?との午後

 

 

昼休みの休憩スペースは、事務所の中でいちばん普通の場所だった。

 

芸能事務所という看板の内側にありながら、そこには華やかさよりも生活の匂いがあった。電子レンジの低い唸り、誰かが置き忘れた割り箸、給湯器の横に並んだインスタントコーヒー、

蔵庫に貼られた「名前を書いてください」の注意書き。テーブルの端では若手スタッフがスマートフォンを見ながら弁当を食べ、窓際では衣装担当らしい女性が眠そうな顔でカップスープを混ぜている。

 

久住遥真は、その中の空いている席に座り、おにぎり二つと味噌汁を並べた。

 

『ちゃんと二つ買ったね』

 

頭の中で、瀬戸篤志が小さく言った。

 

「黙って食事を見守れ」

 

『見守るって言い方、なんかいいね』

 

「今のは皮肉だ」

 

『ですよね』

 

久住は味噌汁のふたを開け、湯気の立つ紙カップを少し遠ざけた。朝から起きたことを考えれば食欲が消えていてもおかしくなかったが、不思議と胃は動いていた。

むしろ、頭の中に他人がいるという異常事態を処理し続けたせいで、午前中だけで普段より疲れている。

 

『久住さん、午後も会議?』

 

「書類確認と文言調整、それから備品発注の承認がある」

 

『文言調整って、イベントの案内文とか?』

 

「そうだ」

 

『そういうの、めちゃくちゃ大事だよ。曖昧だと現地で揉めるから』

 

「君は昼休み中でも仕事の話をしたいのか」

 

『あ、ごめん』

 

「完全に禁止はしない。ただ、昼休みは休む時間だ。」

 

『久住さん、休むの上手い?』

 

久住はおにぎりの包装を開けながら、少しだけ眉を寄せた。

 

「人に聞く前に、自分の失敗例を思い出せ」

 

『思い出した結果、聞いてます』

 

「上手くはないが、最低限は守っている」

 

『最低限かあ』

 

「君よりは上だ」

 

『それはそう』

 

篤志は、そこで笑ったようだった。

 

声が聞こえるわけではない。いや、聞こえてはいるのだが、それは鼓膜を震わせる音ではなく、思考の隣に生まれる気配のようなものだった。

久住はまだ、その感覚に慣れていない。けれど午前中よりは、わずかに扱えるようになってきていた。

 

最初は、篤志の反応がすべてひどい雑音に近かった。

外だ、人が多い、芸能事務所だ、メールが多い。驚きの一つひとつが久住の集中を乱し、自分の頭の中に他人の生活音が流れ込んできたようで、かなり不快だった。

だが、昼を迎える頃には、少し違ってきた。

チューニングが整った、とでもいうのだろうか

篤志は黙ろうとしているが、黙るのが得意ではないだけだ。

 

どうやら多少味覚も共有するようで『遠くで鮭おにぎりの味がする~』と陽気な篤志の独り言が聞こえる。

 

「まったく、少し考えを変えたそばから……」

 

『?』

 

損なやり取りをしながら、おにぎりを一つ食べ終えたところで、隣のテーブルにいたスタッフが立ち上がり、少しよろけた。

久住は反射的に視線を向けたが、本人は何事もなかったようにトレーを持ち直し、そのまま流し台の方へ歩いていく。

 

『今の人、大丈夫かな』

 

篤志が言った。

 

『顔色、ちょっと悪くなかった?』

 

「昨日遅くまで現場対応をしていたスタッフだ。疲れてはいるだろうが、本人が申告していない以上、今ここで追いかけて声をかけるのは過剰だろう」

 

『そっか』

 

「一応、午後の打ち合わせで様子を見る」

 

『見るんだ』

 

「見るだけだ」

 

『久住さん、そういうところ、ちゃんとしてるよね』

 

「評価は不要だ」

 

『はい』

 

久住は二つ目のおにぎりを食べながら、今のやり取りを頭の隅に置き紙カップを持ち上げ、味噌汁を飲み干した。

 

「瀬戸、くぎを刺しておく」

 

『はい』

 

「心配することと、介入することは別だ」

 

『介入?』

 

「気づくのは悪くない。だが、気づいた瞬間に相手へ踏み込めばいいわけではない。こういったフォーマルな仕事場では特にそうだ」

 

『はい』

 

「体調が悪そうな人を見たら、まず事実を見る。歩行は安定しているか、会話はできるか、本人が助けを求めているか、周囲に担当者がいるか。その上で必要なら声をかける。

 今朝の俺がそうだっただろう?」

 

『なるほど』

 

「君は、気づいたあとすぐ感情で走る傾向があるようだな」

 

『……あると思う』

 

「自覚があるならいい。以後気を付けるように」

 

篤志は少し黙った。

 

その沈黙は落ち込みではなく、言われたことを頭の中で並べ直しているような沈黙だった。

 

久住は空になった包装をまとめ、ゴミ箱へ捨てる。午後の業務に戻る前にコーヒーを買おうとして、ふと自販機の前で止まった。

 

『買わないの?』

 

「午前中に一杯飲んだ」

 

『えらい』

 

「君に褒められる筋合いはない」

 

久住は無言で水を買った。

 

篤志は、小さく、しかしかなり喜んだ。

 

この男は、他人が水を買っただけで喜ぶのかと、久住は思った。厄介というより、少し扱いに困る。

 

午後最初の仕事は、週末に予定されているミニイベントの案内文確認だった。

 

担当スタッフから共有された文書には、開催時刻、受付場所、集合列の作り方、撮影や録音の禁止、プレゼントの扱い、未成年来場者への注意などが並んでいる。久住の主担当ではないが、事務的な齟齬や現場導線の確認として目を通す必要があった。

 

『久住さん、一度だけ』

 

「言え」

 

『“スタッフの指示に従ってください”って何回もあるけど、どのスタッフかわかりにくいかも』

 

久住は文書を読み直した。

 

確かに、案内文の中で「スタッフ」という言葉が何度も出てくるが、受付スタッフ、誘導スタッフ、物販スタッフ、警備員の区別がない。小規模イベントなら何とかなるかもしれないが、来場者が多ければ混乱する可能性はある。

 

「続けろ」

 

『たぶん、ファン側って現場で“誰に聞けばいいか”がわかるだけでかなり安心するんだよね。

 受付のことは受付、列のことは誘導、プレゼントのことは受付横の窓口、とか。

 全部スタッフって言われると、結局その辺の人に聞くしかなくなる癖に、まともな回答が帰って来ないことがあって……』

 

「なるほど」

 

『あ、長かった?』

 

「今のは有用だ」

 

『おお』

 

「喜ぶな」

 

『小さく』

 

「それも今は要らない」

 

久住は文書にコメントを入れた。

 

「スタッフ」の表記を、機能ごとに分ける。

受付スタッフ、列整理スタッフ、物販スタッフ。

プレゼント受付は総合受付横の専用窓口に限定。

現地で迷った場合は、腕章をつけたスタッフへ声をかけるよう明記。

 

篤志はその修正をじっと見ていた。

 

午前中とは少し違う視線だった。最初は単に珍しがっていたが、今は自分の指摘がどのように業務文書へ変換されるのかを見ている。まるで、客席側の不安が運営側の言葉へ翻訳されていく過程を、初めて目撃しているようだった。

 

『こうやって直すんだ』

 

「そうだ、こうやって直す」

 

『ファン側で読んでるときは、文句言うだけだったな。ここわかりにくい、とか、もっと早く出してくれ、とか』

 

「文句が出ること自体は悪ではない。案内文は読む側が迷わないためにある。そこを整備するのは、俺の仕事の一つだ」

 

『久住さん、ファンの文句嫌いじゃないの?』

 

「理不尽なものは嫌いだ。だが、わかりにくいものをわかりにくいと言うのは、情報として有用だ」

 

篤志は黙った。

 

『そっか』

 

「何だ」

 

『いや、そういうふうに受け取る人もいるんだなって』

 

久住は文書の修正を続けながら、それ以上は聞かなかった。

 

篤志の中には、きっと客席側の記憶がある。

 

イベントの告知を待ち、物販の在庫を気にし、案内文を読み、現場で列に並び、スタッフの指示に従いながら、それでも時に不満を抱いた記憶がある。

 

久住はその一つひとつに深入りするつもりはなかったが、少なくともその記憶は、業務の邪魔にしかならないものではなさそうだった。

 

十四時を過ぎた頃、別部署のスタッフが久住の席へ来た。

 

「久住さん、これ確認お願いできますか。備品発注のリストなんですけど、今日中に承認回したくて」

 

「わかりました」

 

ファイルを受け取り、久住は内容を確認する。

マイク用電池、養生テープ、名札ケース、クリアファイル、予備のペンライト用ボタン電池、手指消毒液、簡易救急セット。

 

篤志が、少しそわそわした。

 

「何だ」

 

『いや、備品ってこういうのなんだなって』

 

「そうだ」

 

『ペンライトの電池まで事務所で用意するんだ』

 

「イベント内容による。イベント中にペンライトを利用するなら、用意しておくものだ」

 

『へえ……』

 

「感心するのはいいが、作業中だぞ」

 

『はーい』

 

久住は数量を追っていく。

 

名札ケースの数が少し多い。だが予備を含めれば不自然ではない。養生テープは妥当。手指消毒液も会場規模から見て問題ない。簡易救急セットは期限確認が必要。

 

そのとき、篤志が言った。

 

『久住さん、一度だけ』

 

「言え」

 

『ボタン電池、型番これで合ってる?

 ペンライト用って書いてあるけど、俺が知ってるやつと違う気がする』

 

久住はリストを見る。

 

型番までは記憶にない。

 

「根拠は」

 

『俺、グッズのペンライト何本か持ってたから。

 全部同じじゃないけど、これは小型ライトとかキーホルダー用で、イベント用ペンライトは別のこと多かった気がする』

 

「確証は?」

 

『ない』

 

「なら、確認事項として返す」

 

久住は備品担当へ、ペンライトの機種と対応電池の確認を依頼した。

 

十五分後、返信が来る。

篤志の指摘通り、型番が違っていた。

 

担当スタッフが慌てた様子で席まで戻ってくる。

 

「すみません、助かりました。前回の小型ライトの発注リストを流用してました」

 

「機種ごとの備品表を分けた方がよさそうですね」

 

「ですね、作ります」

 

スタッフが戻っていくと、篤志が心の中で明らかに浮かれた。

 

『今のは、けっこう役に立ったのでは』

 

「役に立った」

 

『やった』

 

「特に、確証がないことを断定しなかったのがよかった」

 

『そこ?』

 

「そこだ。君の記憶は有用な場合があるが、常に正しいとは限らない。だから“違う”ではなく“確認した方がいい”として扱うべきだ」

 

『なるほど……俺の記憶は不確かだから、確認事項として出す』

 

「そうだ」

 

『OJTみたいだ』

 

「君は新入社員ではない」

 

『中途でもないよね。死後入社?』

 

「縁起でもない言葉を作るな」

 

『すみません』

 

久住は思わず眉間を押さえた。

 

周囲から見れば、単に疲れた社員に見えただろう。

実際、疲れてはいた。篤志の相手をしながら通常業務をこなすのは、思った以上に神経を使う。

 

だが、最初の朝に比べると、会話の形は明らかに変わってきている。

 

篤志はただ騒いでいるだけではない。

久住もただ黙らせているだけではない。

 

情報を受け取り、根拠を聞き、必要なら業務に変換する。

篤志はその流れを少しずつ覚え、久住はその扱い方を少しずつ覚えている。

 

厄介さの種類が、朝とは違ってきた。

耳を傾けなければ良いだけのノイズと、聞く価値がある情報が流れる可能性のあるラジオのようだ

 

十五時半、廊下で昼に見かけたスタッフとすれ違った。

 

顔色はまだ少し悪い。手には資料の束を抱えている。歩けてはいるが、目の焦点が疲れている。

 

篤志が、息を詰めるような気配を見せた。

 

『久住さん』

 

「一度だけ、か」

 

『一度だけ。昼にふらついてた人、まだ顔色悪い』

 

久住は歩く速度を落とし、そのスタッフの様子を見る。本人は資料を落としそうになり、持ち直したところで小さく咳をした。

 

久住は立ち止まった。

 

「長谷川さん」

 

呼ばれたスタッフが振り向く。

 

「あ、久住さん。お疲れさまです」

 

「お疲れさまです。顔色が悪いように見えますが、体調は大丈夫ですか」

 

長谷川は一瞬だけ笑って誤魔化そうとしたが、その表情が途中で崩れた。

 

「すみません、ちょっと寝不足で。でも、今日中にこれだけ回さないと」

 

「資料、どちらへ?」

 

「第三会議室です」

 

「俺が持っていきます。長谷川さんは十分でよいので休憩してください」

 

「いや、でも」

 

「昨日も遅くまで現場でしたよね。ここで倒れられる方が困りますよ」

 

久住の言い方は硬かったが、長谷川には効いたらしい。彼女は苦笑して、資料を久住へ渡した。

 

「すみません、ありがとうございます。十分だけ小休止いただきますね」

 

「はい」

 

久住は資料を受け取り、第三会議室へ向かう。

 

篤志は黙っていた。

 

妙に静かだった。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「結果論だが、今のは介入してよかっただろう」

 

『……よかった』

 

「昼の時点では見るだけにした。今は、同じ兆候が継続し、業務量も見えた。だから声をかけた」

 

『なるほど』

 

「覚えておけ」

 

『はい』

 

篤志の返事は、ひどく真面目だった。

 

久住は資料を届けたあと、自席へ戻りながら、胸の奥に残る篤志の気配を感じていた。

午前中、篤志は自分の不安をすぐ外へ出していた。

心配だ、怖い、大丈夫か、と感情が先に走っていた。

けれど今は、久住の判断を待ち、結果を見て、そこから学ぼうとしている。

 

久住にとって、それは小さくない変化だった。

 

相手が生きている人間なら、単に「飲み込みが早い」と評したかもしれない。

だが相手は頭の中にいる、死んだかもしれない男である。

飲み込みが早いから助かる、などと考える日が来るとは、今まで想像もしていなかった。

 

夕方に近づくにつれ、久住の疲労は濃くなっていった。

 

それは通常業務の疲れではなく、二重の意識に慣れないことによる疲れだった。

誰かと常に同席している。しかも相手の姿はなく、声は外ではなく内側に響く。

気を抜けば、どこまでが自分の思考で、どこからが篤志の反応なのか、輪郭が少し滲む。

 

『久住さん、疲れてる?』

 

「疲れている」

 

『俺のせい?』

 

「主因ではある」

 

『ですよね……』

 

「だが、君だけの責任ではない。未知の状況に適応している最中だから疲れる」

 

『それ、優しさ?』

 

「事実確認だ」

 

『久住さんの事実確認、たまに優しいよ』

 

「余計な解釈をするな」

 

久住は定時後に残る仕事を整理した。

 

今日中に必須のものは、予約表の修正共有、備品発注の差し戻し確認、タクシー利用申請の承認、イベント案内文のコメント戻し。すべて終わっている。返信待ちのものは明日でいい。

 

いつもなら、もう少しだけ明日の準備を進めてから退勤するところだった。

 

しかし今日は、頭の中の同居人がいる。

 

そして、その同居人が、さっきから何か言いたそうにしている。

 

「何だ」

 

『え?』

 

「言いたいことがあるなら言え」

 

『いや、その……帰れるなら、帰った方がいいんじゃないかなって』

 

久住は時計を見る。

 

十八時二十分。

 

定時は過ぎているが、極端に遅いわけではない。

 

「理由は」

 

『久住さん、今日ずっと普段と違う負荷かかってるし、俺もまだ上手く黙れないから、これ以上残ると明日に響くと思う』

 

「君に労務管理をされるのは不本意だ」

 

『わかってる。でも、今日に限っては本当にそう思う。自分がその主因なのが申しわけないけど』

 

篤志の言葉には、自己反省が混じっていた。

 

朝の篤志なら、単に「休んだ方がいい」と言っただろう。今は「自分が負荷になっている」と認識した上で、久住の退勤を勧めている。

 

それは、わずかだが久住の求める共同生活の発想だった。

 

久住はパソコンの画面を見つめる。

 

明日のためにできることはある。

だが、今日でなければならないことはない。

 

「……帰るとする」

 

『おお』

 

「喜ぶな」

 

『小さく喜びます』

 

「それも明日以降の検討事項だ」

 

『検討事項』

 

久住はパソコンをシャットダウンし、机の上を整えた。社員証をしまい、鞄を持つ。周囲に軽く挨拶をして、執務スペースを出る。

 

エレベーターを待つ間、篤志が静かにしているのを感じた。

 

疲れたのは久住だけではないのかもしれない。

 

篤志にも身体はないが、意識はある。

一日中、知らない職場で、他人の視界を通し、言いたいことを飲み込み、怒られ、修正され、少し役に立ち、また黙る。

それはそれで、疲れるだろう、と久住は思う。

 

ビルを出ると、夕方の空気が少し冷たかった。

 

朝と同じ道なのに、篤志の反応は違っていた。

外だ、人が多い、知らない世界だ、という驚きはもう少し薄くなり、その代わりに、今日一日の出来事を消化しようとする静かな気配がある。

 

駅へ向かう途中、篤志がぽつりと言った。

 

『久住さんの仕事、今日ちょっとだけわかった』

 

「半日でわかった気になるな」

 

『ちょっとだけ、って言ったよ』

 

「ならいい」

 

『表に出る人のために、見えないところで間違いを減らす仕事なんだね』

 

久住はすぐには答えなかった。

 

そのまとめは、正確すぎるわけではない。

けれど、間違いでもない。

 

「一部はそうだ」

 

『一部』

 

「他にもある。だが、今日見た範囲ではそうだ」

 

『そっか』

 

篤志は少し黙ったあと、続けた。

 

『生前の俺は、たぶん、そういうところ全然見えてなかった』

 

「客席側から見えないのは当然だ。むしろ、そうしている」

 

『でも、見えてないのに文句は言ってた』

 

「見えていなくても、困ったことを言う権利はある」

 

『久住さん、それ今日も言ってたね』

 

「同じことを何度も説明させるな」

 

『はい』

 

電車は朝ほどではないが混んでいた。久住はドア横に立ち、片手で手すりを掴む。窓には夜に向かう街の光が映り、そこに久住自身の顔が薄く重なっている。

 

篤志はその顔を、どこか申し訳なさそうに見ていた。

 

「見るな」

 

『見えてるから』

 

「言い方」

 

『すみません。えっと、意識しないようにする』

 

「それでいい」

 

『久住さん、今日、俺のこと邪魔だった?』

 

「邪魔だった」

 

『即答!?』

 

「嘘をつく理由がない」

 

『でも、役に立った?』

 

久住は窓の向こうを見た。

 

レッスン室の重複。

案内文の曖昧さ。

ボタン電池の型番。

長谷川さんの体調。

 

どれも、世界を変えるほどのことではない。

大きな成果でもない。

だが、放置すれば小さな不具合になったかもしれないものだ。

 

「役に立った場面もあった……と言わざるを得ん」

 

篤志は、しばらく何も言わなかった。

 

その沈黙の奥で、何かが緩む。

 

安堵なのか、喜びなのか、救われたような気持ちなのか、久住には判別できない。ただ、朝にあった不安定な騒がしさとは違う。もっと小さく、慎重な灯りのようなものだった。

 

『よかった』

 

「全面的に認めたわけではないぞ」

 

『うん』

 

「明日以降も、ルールは必要だ」

 

『うん』

 

「君はまだ厄介の区分に居る」

 

『それは、うん』

 

「だが」

 

久住はそこで言葉を止めた。

 

何を言おうとしたのか、自分でも少し迷った。

 

だが、篤志は黙って待っていた。

 

朝なら、待てなかっただろう。

「だが?」とすぐ聞き返していたはずだ。

 

その違いに気づいて、久住は少しだけ続きを言いやすくなった。

 

「厄介なだけではない」

 

篤志の気配が、静かに揺れた。

 

『……そっか』

 

「あくまで今日の時点での評価だ」

 

『うん』

 

「明日、悪化する可能性もある」

 

『そこまで言う?』

 

「言う」

 

『久住さんらしい』

 

「俺を理解した気になるな」

 

『はい』

 

家の最寄り駅に着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 

スーパーで簡単な食材を買い、アパートへ戻る。玄関の鍵を開けた瞬間、朝とは違う感覚があった。

 

朝は、ここから知らない一日が始まった。

 

今は、ここへ知らない同居人を連れて帰ってきたような気がする。

 

もちろん、篤志は物理的にはどこにもいない。それでも久住は、玄関に入ってからほんの少しだけ間を置いた。

 

『ただいま、って言っていいのかな』

 

篤志が小さく言った。

 

久住は靴を脱ぎながら答える。

 

「俺の部屋だ」

 

『うん』

 

「だが、君は現状ここ以外に戻る場所がないだろう」

 

『……うん』

 

「だから、言うだけなら構わない」

 

篤志はまた黙った。

 

数秒後、ひどく小さな声で言った。

 

『ただいま』

 

久住は部屋の明かりをつけた。

 

「おかえり、とは言わないぞ」

 

『えっ』

 

「そこまで同居を許可した覚えはないからな」

 

『今の流れで?』

 

「流れに期待するな」

 

『厳しいなあ』

 

そう言いながら、篤志の声は少し笑っていた。

 

久住は夕食を作った。

 

冷凍ご飯を温め、買ってきた惣菜を皿に移し、味噌汁を用意する。

篤志は料理の手際にいちいち反応しそうになっては黙り、

……たまに耐えきれずに『夕飯これだけ?』とか『味噌汁いいな』とつぶやき、久住に短く注意された。

 

食卓につく頃には、久住もさすがに疲れていた。

 

頭の中の同居人と一日過ごした疲れ。

その同居人が思ったより役に立ったことへの戸惑い。

そして、厄介だと切り捨てるには、すでに少しだけ言葉を交わしすぎたことへの、名付けがたい感覚。

 

食事を終え、久住はノートを開いた。

 

朝、篤志の存在を整理するために使ったノートだ。

 

新しいページに、今日の記録を書く。

 

瀬戸篤志。

出社初日。

業務中の発話制限は、おおむね遵守。

資料の重複、案内文の曖昧さ、備品型番の相違、スタッフ体調不良に関する指摘あり。

指摘には有用性が認められるが、根拠の強弱を区別する訓練が必要。

感情反応は大きいが、注意への反発は少ない。

現状分類、厄介な同居人は継続。

 

そこまで書いて、久住はペンを止めた。

 

篤志が、何も言わずにその文章を見ている。

 

久住は少し考え、最後に一行だけ付け加えた。

 

ただし、共同生活の余地あり。

 

『久住さん』

 

「何だ」

 

『それ、消さない?』

 

「消さない」

 

『いいの?』

 

「記録だ」

 

『そっか』

 

篤志の声は、今にも泣きそうというほどではなかった。

けれど、静かに震えていた。

 

久住はノートを閉じた。

 

「勘違いするな。これは受け入れたという意味ではない」

 

『うん』

 

「明日も同じ評価とは限らない」

 

『うん』

 

「君が迷惑であることは変わらない」

 

『うん』

 

「だが、扱い方は少しわかった」

 

篤志は、しばらく黙ってから言った。

 

『俺も、久住さんの邪魔にならないやり方、少しわかった気がする』

 

「気がするだけで終わらせるな」

 

『はい』

 

夜、久住はいつもより早く布団に入った。

 

部屋の明かりを消すと、暗闇の中で篤志の気配が少し近くなる。視界に頼れないぶん、意識の距離がわかりやすくなるのかもしれない。

 

『久住さん』

 

「何だ」

 

『一度だけ、じゃなくていい?』

 

「業務外だ。用件による」

 

『今日、ありがとう』

 

「礼を言われることはしていない」

 

『話を聞いてくれたし、仕事場に連れていってくれたし、ルール作ってくれたし、昼ごはんも食べた』

 

「最後は俺の食事だ」

 

『でも、よかった』

 

久住は目を閉じたまま、返事をしなかった。

 

篤志は続ける。

 

『俺、朝は本当に怖かった。死んだと思ったら知らない人の中にいて、身体は動かないし、何もわからないし、迷惑なのもわかってたから。だから、厄介でも同居人って言われたの、ちょっと助かった』

 

「……そうか」

 

『うん』

 

「俺は助かっていない」

 

『はい』

 

「だが、今日一日で最悪の想定からは少し外れた」

 

『最悪の想定って?』

 

「説明すると眠れなくなる」

 

『やめておきます』

 

沈黙が落ちる。

 

それは朝のような、異物を抱えた緊張の沈黙ではなかった。完全に安心できるものでもない。だが、少なくとも同じ部屋で寝る前の沈黙に近かった。

 

久住はそのことを認めたくなくて、少しだけ寝返りを打った。

 

『久住さん』

 

「まだあるのか」

 

『おやすみって、言ってもいい?』

 

久住は目を閉じたまま、しばらく考えた。

 

朝なら、禁止していた。

昼なら、業務外の発言として制限していた。

夕方なら、余計な感情表現として処理していたかもしれない。

 

だが、一日の終わりにそれを禁じるのは、少し違う気がした。

 

「一度には数えない」

 

篤志が、驚いたように黙った。

 

それから、静かに言った。

 

『おやすみ、久住さん』

 

久住は暗闇の中で、短く息を吐いた。

 

「ああ、おやすみ、瀬戸」

 

その返事が、自分で思ったより自然に出たことに、久住は少しだけ驚いた。

 

厄介な同居人。

 

その分類は、まだ正しい。

 

けれど、そこに含まれる意味は、朝と夜で少し変わっていた。

 

迷惑で、うるさく、正体不明で、時々役に立ち、他人の食事を心配し、自分が邪魔であることに傷つく男。

 

それを何と呼ぶべきなのか、久住にはまだわからない。

 

ただ、眠りに落ちる直前、頭の中の気配が朝より少しだけ静かで、少しだけ近く、そして少しだけ孤独ではないことを、久住は否定しなかった。

 




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