二人の守り人   作:last cinders

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5話目までアイドル出てこないアイマス作品ってなんだ...


客席の外側

 

 

イベント当日の朝、久住遥真は目覚ましが鳴る前に起きた。

 

それはいつものことだったが、今日は布団の中で予定をなぞるより先に、頭の奥から小さな声がした。

 

『おはようございます。確認事項、今日は多そうです』

 

久住は目を開け、天井を見た。

 

「朝一番の挨拶がそれか」

 

『すみません。緊張してます』

 

「おはよう、瀬戸」

 

『おはよう、久住さん』

 

篤志の声は、一週間前より少しだけ落ち着いていた。知らない天井に狼狽し、朝の通勤路のすべてに反応していた男は、いまでは起床直後にその日の業務量を予測する程度には久住の生活へ入り込んでいる。

 

それが良いことなのか悪いことなのか、久住にはまだ判断がつかない。

 

ただ、少なくとも今日は、篤志がいることを単なる異常として片づけている余裕はなかった。

 

週末のミニイベント当日。

 

ショッピングモールの一階中央広場に仮設ステージを組み、所属アイドル数名が出演する。内容はトークと短いパフォーマンス、物販、抽選での特典お渡し。大きなライブではない。だが、未成年の出演者が含まれ、来場者が自由に出入りする商業施設で行われ、さらに他ブランドからのゲストも一名遅れて合流する予定になっている以上、裏方にとっては十分に神経を使う現場だった。

 

久住は朝食を取りながら、進行表の最新版を確認した。

 

『久住さん、今日は俺、どう動けばいい?』

 

「君は動けない」

 

『そういう正論ではなく』

 

「役割は昨日と同じだ。俺は全体と責任範囲を見る。君は、客席側の導線、案内文の受け取り方、物販、時間の違和感、俺が見落としそうな細部を確認事項として出せ。断定はしない」

 

『了解。補助線として、確認事項を出します』

 

「それでいい」

 

『あと、俺が前のめりになりそうだったら止めてください』

 

久住は箸を止めた。

 

「自分で言えるようになったのは進歩だ」

 

『褒められた?』

 

「事実確認だ」

 

『久住さんの事実確認、最近ちょっと褒めに聞こえる』

 

「解釈を盛るな」

 

そう言いながら、久住は味噌汁を飲み終えた。

 

現場入りは九時だった。

 

ショッピングモールは開店前で、普段なら買い物客が行き交う通路に、スタッフ用の台車や折り畳み椅子、音響機材のケースが並んでいる。中央広場ではステージの最終確認が行われ、照明担当が脚立の上で角度を見ていた。物販ブースではテーブルクロスが張られ、商品見本の配置を確認するスタッフが、手元のリストと段ボール箱を何度も見比べている。

 

『うわ……現場だ』

 

篤志が、息を呑むように言った。

 

「感動は後にしろ」

 

『はい。でも、客として来てたら絶対見えないところだ』

 

「客に見せないための裏側だ」

 

『そっか』

 

久住は関係者入口で受付を済ませ、現場責任者に挨拶をしてから、すぐに確認へ入った。まず控室。出演者用二部屋、スタッフ用一部屋、そして前日に急遽確保したプレゼント保管用の鍵付き備品庫。保管場所には受付番号のついた箱、不可物返却用の袋、記録用紙、筆記具がそろっている。

 

『久住さん、一度だけ。備品庫の鍵、誰が持つことになってる?』

 

「現場責任者と受付リーダー」

 

『受付にいる人が一人で移動すると、窓口空かない?』

 

久住は受付配置表を見る。

 

受付リーダーは常時窓口付近にいる想定だが、鍵を取りに動くタイミングまでは書かれていない。

 

「有用だ」

 

久住は受付リーダーに確認し、鍵の受け渡しは受付裏に立つ補助スタッフ経由で行うことにした。鍵管理表に一行追記し、備品庫の開閉は二名確認とする。

 

篤志は小さく息を吐いた。

 

『今日、一個目』

 

「数えるな」

 

『数えない方がいい?』

 

「数えると役に立とうとして探し始める。探すな。気づけ」

 

『難しいなあ』

 

「練習中だ」

 

『はい』

 

物販ブースでは、昨日問題になったランダムブロマイドの追加納品がまだ届いていなかった。初回販売分は机下の箱に仕分けられており、一会計三点までの購入制限を告知するPOPも印刷されている。

 

ただ、久住がPOPを見たとき、篤志の気配が少し強くなった。

 

「何だ」

 

『一度だけ。購入制限のPOP、物販列の先頭にしかない。ファン側からすると、並び始める前に知りたいかも』

 

久住は列形成予定の通路を見る。

 

確かに、物販ブース前のPOPは列に入ってからでなければ見えない。購入制限を見て買う数を決める来場者もいるだろうし、同行者と相談する者もいる。列に入った後で知れば、そこで足が止まる可能性がある。

 

「列形成位置にも掲示する」

 

『確認事項、採用?』

 

「採用」

 

『やった。小さく喜びます』

 

「それは許可する」

 

『許可制なんだ』

 

久住は物販担当へ、購入制限と追加納品予定について、列最後尾付近にも掲示するよう依頼した。さらに、列整理スタッフが口頭でも「追加納品後に午後分を販売予定」と案内できるよう、短い文言を共有する。

 

十時を過ぎると、モールが開店し、通路に客が入り始めた。

 

まだイベント開始まで時間はあるが、ステージの前には早くも数人が足を止めている。買い物ついでの家族連れ、明らかにイベント目当ての若い男性、買い物袋を持った年配客、子どもの手を引く母親。客席というより、通路が少しずつイベントへ形を変えていく時間だった。

 

篤志はその光景を、静かに見ていた。

 

『俺、あっち側だったんだよな』

 

「そうだな」

 

『列に並んで、案内文読んで、スタッフさんの指示聞いて、見えないところで何が起きてるか知らないまま、まだかなって思ってた』

 

「知らなくていい部分もある」

 

『うん。でも、知らないまま文句言ってた部分もある』

 

「それも前に話した。困ったことを困ったと言うのは悪ではない」

 

『わかってる。でも、今日はちょっと違って見える』

 

久住は返事をしなかった。

 

篤志の言葉には、感傷が混じっていたが、邪魔になるほどではなかった。彼は客席側だった自分を否定しているのではなく、客席の外側に立つ感覚を、どうにか自分の中へしまおうとしている。

 

十時四十五分。

 

最初の出演者たちが控室に入った。

 

久住は廊下の端で、現場マネージャーと確認をしていたため、彼女たちの顔を長く見ることはなかった。衣装の袖口、笑い声、スタッフへ頭を下げる背中、控室の扉が閉まる音。それだけだ。

 

それでも篤志は、少し緊張した。

 

『アイドル、いるんだな』

 

「いる。仕事だからな」

 

『うん。見ないようにする』

 

「見てはいけないわけではない。だが、見るためにここにいるわけでもない」

 

『わかってる』

 

その返事は、一週間前よりずっと信用できた。

 

十一時。

 

ランダムブロマイドの追加納品が到着した。

 

予定時刻通りではあるが、検品、仕分け、在庫反映を考えればまだ余裕はない。物販担当が箱を開け、数を数え、商品種別を確認する。久住は直接手を出さず、進行上の影響だけを見ていた。

 

『久住さん、一度だけ。確認事項』

 

「言え」

 

『追加分、午後販売に回すなら、今ここで全部開けちゃうと午前分と混ざらない?』

 

久住は物販担当の手元を見た。

 

箱は開いているが、まだ中身を机上へ広げてはいない。午前販売分と午後販売分を混ぜてしまうと、購入制限を分けた意味が薄れる。

 

「午後分の箱を別管理にする」

 

物販担当へ伝えると、担当者はすぐ頷いた。

 

「助かります、午後販売分はこっちの青テープで分けます」

 

『青テープ』

 

「視認性のためだ」

 

『現場って、こういう小さい工夫で回るんだね』

 

「そういうものだ」

 

十一時半、物販が始まった。

 

列は想定よりやや長いが、購入制限の事前掲示と口頭案内が効いたのか、極端な混乱はない。もちろん、不満そうな顔はある。三点までか、と言う声も聞こえる。だが、午後販売があることが共有されているため、列が止まるほどの揉め事にはなっていなかった。

 

篤志は、それをじっと見ていた。

 

『文句が出ても、止まらないなら成功?』

 

「完全な無風を目指すな。混雑現場では、許容できる不満と事故につながる不満を分ける」

 

『許容できる不満』

 

「全員を満足させることはできない。だが、怒りが行動不能や危険に変わらないようにすることはできる」

 

『難しい』

 

「難しい」

 

『でも、久住さん、そういうのずっとやってるんだね』

 

「ずっとというほど長くはない」

 

『俺から見ると、すごい』

 

「感想は後でいい」

 

『はい』

 

十二時過ぎ、控室前の廊下で長谷川が水のペットボトルを配っていた。

 

数日前から疲労の色が出ていたスタッフだ。今日は顔色が悪すぎるわけではないが、動きは少し硬い。久住が視線を向けると、篤志も同じところを見ているのがわかった。

 

『久住さん』

 

「見ている」

 

『言う前に』

 

「何度も同じ兆候を見ているからな」

 

久住は長谷川に声をかけた。

 

「長谷川さん、午後のステージ前に十五分抜けられますか」

 

「え、でも今けっこう」

 

「水配布は別のスタッフに渡せます。午後の特典お渡し前に倒れられる方が困ります」

 

「……久住さん、言い方が本当に逃げ道ないですね」

 

「休憩してください」

 

長谷川は苦笑しながらも、水の箱を別スタッフへ引き継いだ。

 

篤志は何も言わなかった。

 

言わずに、ただ安心した。

 

久住はそれが少しわかった。

 

十二時四十分。

 

現場責任者のスマートフォンが鳴った。

 

藤田ことねの到着が遅れる、という連絡だった。

 

前の仕事が押したわけではない。移動中の道路混雑で、到着が予定より十五分ほど遅れる可能性があるという。

もともと彼女は、初星学園からのゲスト枠としてイベント後半に合流する予定だった。

出演時間までには余裕があるが、リハーサルと立ち位置確認を考えると厳しい。

 

制作進行が顔をしかめる。

 

「ことねさん、入りが十五分遅れます」

 

「オープニングの合同挨拶は?」

 

「そこには出ません。後半トークと一曲前の紹介からです。ただ、立ち位置確認が」

 

久住は進行表を開いた。

 

昨日想定した遅延パターンが、現実になった。

 

『久住さん』

 

「わかっている。昨日の組み替え案を使う」

 

『うん。あと、ことねさん?

 ゲストなら紹介の予備コメント長めにできる?』

 

「できる。司会台本に予備がある」

 

『紹介で場が持てるなら、焦ってすぐ出さなくていい。到着直後に息整える時間、必要だと思う』

 

久住は篤志の言葉を聞きながら、現場責任者へ伝えた。

 

「藤田さん到着後、すぐステージへは出さず、控室で水分補給と衣装確認を入れてください。司会の予備コメントで三分、前トークの質問を一つ増やしてさらに二分吸収できます」

 

「わかりました。立ち位置は?」

 

「藤田さんが必要な箇所だけ、到着後に確認します。それまでに他の出演者のマイク受け渡しと導線を先に済ませてください」

 

「了解です」

 

現場が動き出す。

 

篤志は、その指示の流れを追いながら言った。

 

『昨日の補助線、効いてる』

 

「そうだな」

 

『なんか、うれしい』

 

「浮かれるな」

 

『浮かれてるけど、邪魔しない程度にします』

 

「それならいい」

 

十三時五分。

 

藤田ことねが現着した。

 

関係者入口の方から、小走りに近い足音が聞こえた。久住が振り向くと、スタッフに案内されながら、一人の少女が廊下へ入ってくる。

薄い髪色が照明を拾い、息を整える前に顔だけはもう笑っていた。制服風の衣装に袖を通す前なのか、上着を片手に抱え、肩から提げたバッグが少し跳ねている。

 

「すみませんっ、藤田ことね、到着しました! 遅れた分、可愛さと働きで返します!」

 

廊下にいたスタッフが一瞬だけ止まり、それから少し笑った。

「いいねぇ」なんてヤジも聞こえる

 

ことねはその空気を逃さなかった。

 

「笑ってもらえてよかったぁ。えっと、控室はこっちで合ってますか?

 長谷川さん、ですよね?

 昨日お電話でお話した」

 

名前を憶えられていることに長谷川は驚く。

篤志が、頭の中でぽかんとした。

 

『すごい子来た』

 

「集中しろ」

 

『してる。してるけど、すごいよ、この子。

 遅れて来て、謝って、一拍で笑い取って、名前呼んで、空気を戻した』

 

「見ている場合ではない」

 

『はい』

 

久住はことねに近づき、必要最低限の説明をした。

 

「久住です。到着確認しました。

 まず控室で水分補給、その後、衣装小物の確認、立ち位置は必要箇所のみ見ます。」

 

ことねは目をぱちっと開き、それからにこっと笑った。

 

「久住さんですね、宜しくお願いします。大事なとこだけ確認ですね」

 

「体調に問題は?」

 

「息はちょっと上がってますけど、商品価値に問題はありません!」

 

「体調を聞いています」

 

「あ、はい。大丈夫です。水飲んだらすぐ整えます」

 

ことねは軽く頭を下げ、スタッフに連れられて控室へ入った。

 

その背中を見送りながら、篤志が小さく言った。

 

『久住さん、あの子、自己評価低いのか高いのかわからない』

 

「俺に聞くな。初対面だ」

 

『顔は自信あるけど、仕事の遅れはめちゃくちゃ気にしてる感じがした』

 

「観察はいいが、断定するな」

 

『確認事項?』

 

「本人の内面は確認事項にもしない。現場で必要なのは、今ステージに出せる状態かどうかだ」

 

『はい』

 

それでも篤志の指摘は、久住の中に残った。

 

ことねは明るい。

 

よく喋る。

場を軽くする。

お金や仕事を冗談に混ぜる。

自分の可愛さを武器として前に出す。

 

だが、その明るさの内側には、現着が遅れたことへの焦りと、ここで役に立たなければいけないという切迫感があった。

篤志がそこに反応したのは、おそらく偶然ではない。

自分を使って穴を埋めようとする人間の気配に、篤志は敏感だった。

 

十三時二十分。

 

ことねは控室から出てきた。

 

水分補給を終え、衣装を整え、髪も直されている。さっきまでの慌ただしさは残っているが、表情はすでにステージへ向いていた。

 

「藤田さん、立ち位置確認に入ります」

 

「はいっ」

 

「無理に一回で覚えようとしなくていいです。必要箇所を絞ります」

 

「久住さん、優しいようで圧があるタイプですね」

 

「時間がないだけです」

 

「それもそう!」

 

ことねはステージ袖へ向かい、制作進行から説明を受けた。

驚いたことに、彼女は導線説明を一度聞くと、すぐに自分の足で確認し、戻り位置を口に出して復唱した。

 

「ここで一歩引いて、紹介受けて、右手側のマイク、最後は中央寄り。ただし前の人と近すぎたら半歩後ろ。はい、いけます」

 

篤志が感心する。

 

『覚えるの早い』

 

「特技にするだけはあるな」

 

『あの子も、ちゃんと仕事の子(アイドル)なんだ』

 

「全員そうだ」

 

『うん。そうだね』

 

ステージ本番は、ほぼ予定通りに始まった。

 

厳密には二分押した。

だが、司会の予備コメントと開場前の案内のおかげで、客席に大きな不満は出なかった。

物販列は落ち着いており、プレゼント受付も保管場所の変更が効いて滞りなく処理されている。

長谷川は休憩後に戻り、顔色も少しよくなっていた。

 

久住はステージ袖の少し奥で、進行表を片手に動きを見ていた。

 

篤志は、その視界の奥で、初めてステージを客席の外側から見ていた。

 

明るい照明。

マイクを持つアイドルたち。

拍手。

司会の声。

観客の笑い。

通路の向こうで足を止める買い物客。

 

ことねがステージに出たとき、客席の空気が少し変わった。

 

「はーい、藤田ことねです!

 今日は呼んでいただけて嬉しいです!

 あ、そこのお父さんお母さん!今、お買い物袋たくさん持ってましたよね?

 その袋の中に、ほんのちょっとだけでいいので

 ……『ことねのファンになる権利』も一緒にお持ち帰りしていきませんかーっ?」

 

客席から笑いが起きる。

 

ことねはその笑いに、ぱっと表情を明るくした。

 

「ありがとうございます、いまの笑顔がファンになる権利のお代でーっす!」

 

篤志が、少し笑った。

 

『強いなあ』

 

「集中」

 

『してます。でも、すごい』

 

ことねはよく喋った。

 

しかし、ただ騒がしいわけではなかった。司会の振りを受け、客席の反応を拾い、共演者へ話を戻し、自分だけが前に出すぎないように調整している。自分の可愛さをネタにしながら、場全体の温度を上げていく。

 

遅れて到着した焦りを、ステージ上では見せない。

 

その代わり、少しでも場を良くしようとしている。

 

篤志がそれを感じ取ったのか、静かに言った。

 

『あの子、遅れた分を本当に返そうとしてる』

 

「そうだな」

 

『でも、返さなくていいところまで返そうとすると危ない』

 

「それは君にも言える」

 

『刺さる』

 

「刺すために言った」

 

『はい』

 

本番中、久住と篤志が大きく動く場面はなかった。

 

それが何よりだった。

 

イベント本番で裏方が目立つのは、たいてい何かが壊れたときだ。予定通り進み、客が楽しみ、出演者が安全に終え、スタッフが必要な場所で必要な対応をする。そうなれば、久住たちの仕事は客席から見えない。

 

篤志は、それを理解し始めていた。

 

拍手はステージへ向かう。

笑い声はアイドルへ届く。

客席の視線は、照明の下へ集まる。

 

その外側で、進行表を持つ久住に拍手は来ない。

篤志の補助線も、誰にも知られない。

 

それでも、プレゼント受付は混乱しなかった。

物販列は止まらなかった。

遅れて来たことねは、息を整えてステージに立てた。

長谷川は倒れなかった。

司会は予備コメントで時間を吸収できた。

 

それは、小さな成功だった。

 

 

イベント終了後、ことねは控室へ戻る途中、久住を見つけてぱっと手を合わせた。

 

「久住さん、ありがとうございました!現着後休ませていただいて本当に助かりました。そのまま入ってたら、たぶん最初の挨拶で息切れてたかも」

 

「無事に終わって何よりです」

 

「無事だけじゃなくて、ちゃんと可愛かったですよね?」

 

「それは俺の評価範囲外です」

 

「えー、そこは褒めるところですよ!」

 

そばにいたスタッフが笑った。

 

「でも、ありがとうございます。久住さん。

 次も現場で会ったら、ことねのことよろしくお願いしますね。あ、次のお仕事も大歓迎です!」

 

「機会があれば」

 

「その言い方、大人のやつだ」

 

そう言って、ことねは控室へ戻っていった。

 

篤志は、しばらく黙っていた。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「どうした」

 

『いや、アイドルって、すごいなって』

 

「今さらか」

 

『うん。今さら。客席から見てたときもすごいと思ってたけど、裏から見ると違う。ステージに出るまでに、こんなに整えることがあって、それでも本人は笑って出ていくんだなって』

 

久住は進行表を閉じた。

 

『俺、見る場所が変わったんだな』

 

「そうだな」

 

『まだ慣れない』

 

「慣れなくていい。慣れすぎると雑になる」

 

『久住さんらしい』

 

「褒めていないぞ」

 

『知ってる』

 

撤収は本番より忙しい。

 

ステージ機材の片づけ、物販在庫の集計、プレゼント受付記録の確認、忘れ物対応、モール側への報告、出演者の退出確認。久住は最後まで動き、篤志は必要なときだけ短く声を出した。

 

『一度だけ。青テープの午後分、在庫表に反映されてないかも』

 

「確認する」

 

『一度だけ。プレゼント不可物の返却袋、受付裏に一つ残ってる』

 

「担当へ渡す」

 

『一度だけ。長谷川さん、今度はちゃんと座ってる』

 

「それは報告不要だ」

 

『でもよかった』

 

「そうだな」

 

全てが終わり、久住が事務所へ戻る頃には、外はすでに暗かった。

 

電車の窓に映る自分の顔は疲れていた。だが、悪い疲れではない。大きな事故なく現場を終えた後の、芯の残った疲労だった。

 

篤志もまた、静かに疲れているようだった。

 

『久住さん』

 

「何だ」

 

『今日、俺、役に立った?』

 

久住は少しだけ考えた。

 

この一週間、何度か同じような問いを聞いた。篤志は役に立ちたがる。役に立てたかどうかを確認したがる。それは危うさでもあるが、今日の問いは少し違っていた。

 

称賛を求めるというより、自分の置き場所を確かめる声だった。

 

「役に立った」

 

『そっか』

 

「ただし、今日一番よかったのは、必要なとき以外は黙っていたことだ」

 

篤志が意外そうにした。

 

『そこ?』

 

「そこだ。君は、見たいものがあったはずだ。ステージも、アイドルも、客席も。だが、見るために前に出なかった」

 

『……うん』

 

「それは、俺たちの視点において、一番必要なことだ」

 

篤志は黙った。

 

電車がトンネルへ入り、窓の外が一瞬暗くなる。

 

その暗さの中で、篤志の声が小さく響いた。

 

『俺、前は見ることしかできなかったんだ。画面の向こうを見て、イベントを見て、ランキングを見て、告知を見て、ずっと見てた。

 でも今日は、見るためじゃなくて、見えないところにいるために我慢した』

 

「そうだな」

 

『それも、応援なのかな』

 

久住はすぐには答えなかった。

 

彼は応援の専門家ではない。篤志が使っていた"担当"という言葉の重さも、まだ本当にはわからない。

 

だが、今日の現場で見たものなら答えられる。

 

「少なくとも、仕事ではある」

 

『仕事かあ』

 

「そして仕事は、誰かを支える方法の一つだ」

 

篤志は、少しだけ笑った。

 

『久住さん、そういう言い方するよね』

 

「不満か」

 

『いや。好き』

 

「やめろ」

 

『はい』

 

家に帰ると、久住は靴を脱ぐ前に短く息を吐いた。

 

『ただいま』

 

篤志が言った。

 

「ただいま」

 

久住も言った。

 

その自然さに、少しだけ自分で驚いた。

 

夕食を取る気力はあまりなかったが、久住はコンビニで買った弁当と味噌汁を用意した。篤志は「おにぎり一個だけじゃない」と小さく確認し、久住に「監視するな」と返されて黙った。

 

食後、久住はノートを開いた。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

イベント当日。

大きな事故なし。

瀬戸篤志、現場補助として複数の確認事項を提示。

プレゼント保管導線、物販掲示、追加納品管理、出演者到着遅延対応、撤収時の在庫確認に貢献。

特筆、ステージや出演者への感情反応はあったが、業務を妨げるほど前に出なかった。

評価、厄介な同居人から、業務上の補助線へ移行しつつある。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

篤志はそれを読んで、静かに言った。

 

『補助線、ちゃんと引けた?』

 

「引けた」

 

『邪魔じゃなかった?』

 

「邪魔な瞬間もあった」

 

『正直』

 

「だが、今日は助かった」

 

篤志は長く黙った。

 

その沈黙は、もう不安ではなかった。

 

久住はノートを閉じる。

 

「瀬戸」

 

『はい』

 

「今日、藤田さんを見て何を考えた」

 

『ことねさん?』

 

「そうだ」

 

『知らない子だったけど、すごい子だと思った。遅れて焦ってるのに、現場の空気を戻して、ステージではちゃんと笑ってた。

 自分の可愛さを武器にしてるけど、それだけじゃなくて、たぶん仕事を逃したくない気持ちが強い子なんだと思った』

 

「断定は」

 

『しない。そう見えた、まで』

 

「よろしい」

 

『あと』

 

「何だ」

 

『声があるんだなって思った』

 

久住は黙った。

 

篤志も、少し黙った。

 

『ステージに立つ子が声を出して、お客さんが笑って、名前を呼ばれて、そこにいるんだってわかるの、やっぱり、すごいことなんだなって』

 

久住は、篤志の未練の中心に触れた気がした。

 

画面の向こうにいた、好きなゲームのキャラクター。

まだ声を聞けなかった子。

その名前を、篤志はまだ久住に言っていない。

 

久住も聞いていない。

 

今はまだ、その必要はないと思った。

 

「今日は寝ろ」

 

『うん』

 

「感傷は明日以降にしろ」

 

『久住さん、感傷に業務期限つけるのやめて』

 

「無期限にすると君は沈む」

 

『それはそう』

 

夜、布団に入ると、篤志の気配は疲れていたが、どこか整っていた。

 

イベント当日は終わった。

補助線は、いくつか役に立った。

ステージは無事に閉じ、拍手は出演者へ届き、裏方の名前は客席に知られないまま消えた。

 

それでよかった。

 

久住は目を閉じる。

 

篤志が、小さく言った。

 

『久住さん』

 

「何だ」

 

『今日、客席の外側にいられてよかった』

 

「そうか」

 

『うん。まだ、見るだけで苦しくなることもあるけど。でも、見る場所が変わったなら、俺も変われるかもしれない』

 

久住は返事をしなかった。

 

代わりに、少しだけ呼吸を深くした。

 

厄介な同居人。

業務上の補助線。

客席の外側に立つ、死んだ男。

 

そのどれもが、瀬戸篤志を表すにはまだ足りなかった。

 

だが今日、久住は一つだけ確信した。

 

この男は、ただ自分の中に紛れ込んだ異物ではない。

使い方を間違えれば危うく、放っておけば前のめりになり、感情の扱いには注意がいる。

それでも、適切な距離と役割があれば、誰かを支える側に立てる。

 

「おやすみ、瀬戸」

 

『おやすみ、久住さん』

 

眠りに落ちる直前、久住は明日の予定を思い出した。

 

イベント報告。

物販集計の確認。

モール側への礼状。

そして、上司への簡単な振り返り。

 

今まで久住にはなかった視座での、イベント運営への干渉と課題の解決

それが、現場における上司から、どう見えるか、というのを、久住は考えていなかった

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