二人の守り人 作:last cinders
廊下は昼前の慌ただしさに入る少し前で、コピー機の音や電話の声が遠くから聞こえる。
昨日までの現場の喧騒と違い、事務所の空気は密閉されていて、規則正しい。
篤志が、少しだけ緊張した。
「瀬戸」
『はい』
「余計な反応を出すな」
『出てる?』
「少し」
『すみません。部長って聞くと、なんか』
「怒られる前提で身構えるな」
『労働者の習性で』
「笑えない」
『はい』
第三会議室の扉をノックする。
「久住です」
「入ってくれ」
室内には、部長の高坂と、もう一人、第三芸能部プロデュース課の課長である鷲尾がいた。
久住は少しだけ視線を動かした。
高坂は管理部門の上長で、久住の直属に近い。
鷲尾は第三芸能部プロデュース課の課長で、新人や若年アイドルのプロデュース方針、現場配置、仕事選定を束ねる部署の人間だ。
二人がそろっている時点で、単なる報告書の確認ではない。
『なんか、空気が変わった』
篤志が言った。
「黙っていろ」
『はい』
高坂が椅子を示した。
「座ってくれ」
「失礼します」
久住は椅子に座り、タブレットを膝の上に置いた。
鷲尾は、昨日のイベント報告書を印刷したものを机の上に置いていた。余白にはいくつか赤線が引かれている。
「昨日はお疲れさま」
鷲尾が言った。
「大きな事故なく終わったそうだな」
「はい。現場担当と物販担当の対応が早かったため、問題は抑えられました」
「君もかなり動いたと聞いている」
「必要な確認をしただけです」
高坂が少し笑った。
「久住はいつもそう言う」
久住は返答しなかった。
篤志が心の中で小さく言う。
『褒められてるのでは?』
「黙っていろ」
『はい』
鷲尾は報告書の数枚目をめくった。
「プレゼント受付の保管場所変更、物販購入制限の前日調整、出演者遅延の吸収。このあたり、久住くんが提案したと聞いた」
「状況を確認した上で、現場判断を補助しました」
「補助ね」
鷲尾はその言葉を繰り返した。
「現場で補助に回れる人間は多い。ただ、未成年や新人が絡む現場で、感情的にならずに導線と安全を見られる人間は、意外と少ない」
久住は、そこで用件の方向を半分ほど察した。
篤志も察しかけたのか、胸の奥でそわりとした。
鷲尾は続ける。
「プロデュース課というと、仕事を取る、企画を立てる、アイドルの魅力を売り出す、そういう面ばかり見られがちだ。もちろん、それは大事だ。だが、特に若い子を担当するときは、攻める判断より先に、見極める判断がいる」
「見極める判断、ですか」
「そうだ。今、何を見せるべきか。どこまで挑戦させるべきか。休ませるべきか。断るべきか。本人の魅力を出すことと、本人を消費することは違う。そこを間違えると、プロデュースはただの押しつけになる」
篤志の気配が、内側で揺れた。
久住もそれを感じた。
鷲尾の言葉は、久住に向けられている。
だが、同時に篤志にも刺さっている。
「率直に言う」
高坂が書類を一枚差し出した。
「来月一日付で、君を第三芸能部プロデュース課へ異動させたい」
会議室の空気が、一段静かになった。
久住は差し出された紙を見た。
辞令内示。
異動先、第三芸能部プロデュース課。
業務内容、若年アイドルのプロデュース補佐、現場帯同、仕事選定補助、レッスン・イベント方針の調整、育成方針策定補助。
篤志が完全に固まった。
声が出ていない。
ただ、意識だけが硬直している。
久住は、紙から目を離さずに言った。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
高坂は頷いた。
「一つは、日頃の仕事の仕方だ。契約、備品、レッスン室、送迎記録、案内文。君は細かいところを見落とさない。プロデューサーにも、そういう能力が必要だ」
「俺は企画職や営業職の経験がありません」
「それはこれから覚えればいい」
鷲尾は即答した。
「むしろ、最初から売り込むことばかり考える人間は危うい。アイドルを見る前に数字を見る。本人の歩幅を見る前に話題性を見る。そういうプロデュースは、短期的には派手でも長く続かない」
久住は黙って聞いていた。
「もう一つは、昨日のイベント対応だ。君は現場経験が多いわけではないが、事前準備から当日の修正まで、かなり安定していた。むしろ、昨日の案件は異動させるかどうかの試金石だったと言えるだろう。
ゲストのスケジュール遅れを吸収した手腕等は、プロデューサーとして欲しい技能だ。」
鷲尾が続ける。
篤志は、まだ言葉を発しない。
「君に期待しているのは、いきなり大きな企画を立てることじゃない」
鷲尾は言った。
「まずは、若年アイドルをきちんと見ることだ。本人の不安、得意なこと、無理をしているところ、まだ言葉にできていない魅力。
それを現場で拾い、先任プロデューサーと一緒に仕事へ変換していく」
「つまり、当面は副担当ですか」
「そうなる」
「先任プロデューサーの下で、補佐として入る形ですね」
「ああ。ただし、現場では君が直接判断する場面も出る。レッスン、イベント、打ち合わせ、移動。本人と話す機会も増えるだろう」
その言葉に、篤志の感情が一瞬だけ大きくなった。
本人と話す。
プロデュース課。
副担当。
プロデューサー。
その言葉の一つひとつが、篤志の中で何かを叩いている。
高坂が言った。
「現場管理ではなく、プロデュースだ。もちろん、これまでの管理能力は活きる。ただ、責任の種類は変わる。
君が整えた導線の先で、その子がどんな仕事をして、どう見られ、何を積み重ねるのか。そこにも関わることになる」
久住は書類を見た。
プロデュース。
篤志が生前、ファンとして名乗っていた言葉。
久住にとっては、これから仕事として背負うかもしれない言葉。
同じ言葉が、まったく違う重さで、同じ身体の中に落ちてきた。
「担当するタレントは決まっていますか」
その質問に、鷲尾は手元のファイルを開いた。
「最初は複数名の補佐に入ってもらうが、主に一人、地方出身の若年アイドルを見てもらう予定だ。都内移動や現場導線にまだ不安があり、仕事の幅もこれから広げていく段階にある。
本人の持っているものを、安易な記号にせず、丁寧に拾える人間をつけたい」
久住は、そこで少しだけ姿勢を正した。
篤志の気配が、薄く、細く、緊張していく。
まるで、まだ何も知らないのに、何かに近づいていることだけを本能で察しているようだった。
鷲尾は一枚のプロフィール資料を久住へ差し出した。
「柳瀬美由紀。十四歳。北海道出身。今後、先任プロデューサーの下で、君には副担当として入ってもらう」
その名前が、会議室に落ちた。
一瞬、久住には何が起きたのかわからなかった。
いや、外側では何も起きていない。
高坂は書類を見ている。
鷲尾は説明を続けようとしている。
会議室の空調は低く鳴っている。
窓の外では、遠くで車が走っている。
ただ、久住の内側で、世界が壊れた。
瀬戸篤志の声が消えた。
消えたのではない。
言葉になる前の感情が、あまりに大きすぎて、声の形を失ったのだ。
驚き。
恐怖。
疑い。
歓喜。
混乱。
祈り。
後悔。
信じられないという叫び。
それらが一度に久住の胸の奥へ押し寄せ、呼吸のリズムを乱した。
久住は、机の下で指先に力を込めた。
「……柳瀬、美由紀」
名前を確認するように、声に出した。
その瞬間、篤志の感情がさらに揺れた。
久住はプロフィール資料へ目を落とす。
写真の少女は、画面の中でこちらをまっすぐ見て笑っていた。小柄で、明るく、どこかまだ都会の空気に慣れきっていないような柔らかさがある。
資料には、北海道出身、趣味、好きなもの、仕事上の留意事項が簡潔に記されている。
久住にとっては、これから副担当として関わる若年アイドルの一人。
だが、篤志にとっては違う。
久住は、ようやく理解した。
篤志が生前、好きなゲームの中で応援していたキャラクター。
まだ声を聞けなかった子。
名前を言わずに、ただ「担当だった」とだけ話していた相手。
それが、この柳瀬美由紀なのだ。
そして彼女は、ゲームの中の文字ではなく、久住の職場のプロフィール資料として、目の前に存在している。
『――』
篤志が何か言おうとした。
だが、声にならない。
久住は自分の呼吸を整えながら、外側の会話に戻った。
「副担当として、具体的にはどの範囲まで任されますか」
「最初は先任プロデューサー同席のもとで、現場帯同、打ち合わせ記録、レッスン後のヒアリング、仕事選定の資料作成補助だ」
鷲尾が答える。
「ただし、君には彼女の"生活実感"を拾ってほしいと思っている」
「生活実感」
「柳瀬は前向きで、よく頑張る。ただ、まだ自分の魅力を自分で整理しきれていない。
北海道出身、ぬいぐるみが好き、実家のこと、都会に慣れようとしていること。
そういう要素を、単なる売り文句として消費するのではなく、本人の言葉としてどう仕事にするかを考えたい。
こういうと、"プロデュース"に集約されてしまうかもしれないな」
単なる売り文句として消費するのではなく。
その言葉は、久住の内側にいる篤志へ向けられたもののように響いた。
篤志は、まだ何も言えない。
「受諾前に確認したい点があります」
久住は言った。
高坂が頷く。
「言ってくれ」
「現在の管理部門の担当業務の引き継ぎ期間は確保されますか」
「ああ。来月一日付だが、今月後半から段階的に引き継ぐ」
「プロデュース課での教育担当は」
「最初は鷲尾が見る。実務は先任プロデューサーにつける」
「未成年アイドルのプロデュースに関する規定、保護者対応、稼働時間、学校との調整、仕事選定の承認フローについて、事前に資料を確認したいです」
鷲尾は少し目を細め、それから頷いた。
「そう言うと思っていた。資料は今日中に渡す」
高坂が言った。
「久住、異動自体に懸念はあるか」
懸念。
久住は内側の嵐を抱えたまま、その言葉を考えた。
懸念ならある。
頭の中に死んだ男がいる。
その男は、これから自分が副担当としてつく少女を、前世で命を削るほど応援していたらしい。
その事実は、プロデュース課の誰にも言えない。
もちろん、部長にも言えない。
懸念しかない。
だが、外側の久住遥真として答えられる懸念は、別だった。
「プロデュース職の経験が不足している点は懸念です」
「そこはこちらで補う」
「であれば、辞令に従います」
高坂は頷いた。
「助かる」
鷲尾はファイルを閉じた。
「来週、柳瀬本人との顔合わせを予定する。
先任プロデューサーも同席するから、まずは挨拶だけだ」
顔合わせ。
柳瀬美由紀本人。
その言葉に、篤志の感情がまた大きく揺れた。
久住はそれを押し戻すように、机の上の資料を整えた。
「承知しました」