二人の守り人 作:last cinders
翌日の静けさ
会議はそこで終わった。
久住は資料を受け取り、頭を下げ、会議室を出る。
廊下に出た瞬間、体の力が少し抜けた。
篤志はまだ声を出さない。
久住は廊下の端まで歩き、人の少ない非常階段前で足を止めた。
「瀬戸」
返事はない。
「瀬戸篤志」
それでも返事はなかった。
だが、いないわけではない。
むしろ、いる。
存在感は強すぎるほどだ。
久住の胸の奥で、言葉にならないまま震えている。
久住は低く言った。
「君の"担当"だった子か」
沈黙。
そして、長い長い沈黙のあと、篤志の声がようやく戻った。
『……はい』
その一言は、ひどく掠れていた。
身体のない声なのに、喉が潰れたようだった。
『柳瀬美由紀ちゃんです』
初めて、篤志がその名前を呼んだ。
滑らかな呼び方は、彼がその名前を前世で頻繁に口にしたことがあったからだろう。
久住は目を閉じた。
名前を出した瞬間、篤志の中で何かが決定的に開いたのがわかった。
今まで「好きなゲームのキャラクター」「"担当"していた子」とぼかされていた存在が、目の前の資料と結びつき、現実になってしまった。
いや、久住にとっては最初から現実だ。
だが、篤志にとっては違う。
画面の向こうにいたはずの少女が、職場の資料にいる。
文字でしか知らなかった子が、来週、目の前に現れる。
声が聞けないまま死んだ男が、その声のある世界へ来てしまった。
そして、もう一つ。
久住は彼女の副担当プロデューサーになる。
篤志がファンとして名乗っていた言葉を、久住が現実の責任として背負うことになる。
『久住さん』
「何だ」
『ここ、何なんですか』
久住はすぐには答えられなかった。
『俺、ゲームの中にいるんですか。いや、久住さんにとってはゲームじゃないですよね。わかってます。わかってるけど、でも、じゃあ何なんですか。美由紀ちゃんがいて、事務所があって、俺、そこにいて、久住さんがプロデューサーになって』
篤志の声が少しずつ乱れていく。混乱が加速していく。
『俺が、ずっと勝手に名乗ってた言葉を、久住さんが仕事で背負うんですか』
そして、収束。
久住は壁に背を預けた。
「まず、黙れ」
『はい』
篤志は黙った。
久住はその沈黙を確認してから、言葉を続けた。
「事実を整理する」
『……はい』
「一つ。柳瀬美由紀は、この世界に実在する。少なくとも俺の職場では、所属アイドルとして扱われている」
『はい』
「二つ。君は生前、彼女をゲームのキャラクターとして認識し、応援していた」
『はい』
「三つ。君は現在、俺の中にいる」
『はい』
「四つ。俺は来月から、彼女の副担当プロデューサーになる」
『はい』
「五つ。以上の理由は不明」
『最後』
「不明なものを無理に埋めるな」
篤志は、短く息を吐くような気配を見せた。
『久住さん、こういうとき本当に久住さんですね』
「どういう意味だ」
『助かります』
久住は返事をしなかった。
自分も、助かりたいくらいだった。
だが、この状況で自分まで動揺すれば、収拾がつかなくなる。久住にとって、柳瀬美由紀は初めて本格的に関わる若年アイドルであり、仕事として支えるべき相手だ。
そこに篤志の巨大な未練が重なる。
だからこそ、線を引かなければならない。
「瀬戸」
『はい』
「重要なことを言う」
『はい』
「君が名乗っていた"プロデューサー"と、俺がこれから背負うプロデューサーは、同じ言葉でも別物だ」
篤志が止まった。
久住は容赦しなかった。
「君にとっての"プロデューサー"は、応援の名前だった。
祈りや愛着や、待ち続けることの名前だったのかもしれない。
だが、俺にとってこれからのプロデューサーは仕事で、責任で、未成年の人生に関わる立場だ」
篤志は何も言わない。
「仕事を選ぶ。断る。休ませる。挑戦させる。記録を残す。保護者や学校や現場と調整する。
本人がまだ言葉にできない魅力を、本人より先に決めつけないように見続ける。それが俺の側のプロデューサーだ」
『……はい』
「だから、君の未練をそこに混ぜてはいけない」
声は小さかった。
だが、逃げてはいなかった。
久住は続けた。
「柳瀬美由紀は、君の救いではない」
篤志の気配が震えた。
「彼女はアイドルで、未成年で、俺たちが仕事として支える相手だ。
君が生前どれほど応援していたとしても、彼女に君の未練を背負わせることは許さない」
『はい』
「君が感動するのは止められない。混乱するのも当然だろう。だが、それを彼女へ向けるな。
彼女を見て、自分が救われようとするな。彼女の一挙手一投足を、君の物語の回収にするな」
『……はい』
「君が一番欲しかった場所だからこそ、間違えるな」
その言葉のあと、長い沈黙が落ちた。
やがて篤志が、ひどく小さな声で言った。
『わかってます』
「本当にか」
『わかってるつもりです。でも、たぶん、ずっと一番欲しかった場所です』
久住は何も言わなかった。
篤志は続ける。
『"担当プロデューサー"って言葉を、俺は勝手に使ってました。ゲームの中で、ファン同士で、そういうものだと思って。
もちろん、本当に仕事してるわけじゃないのはわかってた。でも、気持ちだけは本物だと思ってました』
「それを否定するつもりはない」
『でも、ここでは違うんですよね』
「違う」
『久住さんが背負うやつは、俺が欲しがってた言葉より、ずっと重い』
「そうだ」
『……悔しいな』
篤志の声が、ほんの少しだけ笑った。
泣きながら笑うような声だった。
『久住さんがプロデューサーになるの、嬉しいのに。俺じゃないのが、悔しいです』
久住は、そこだけは否定しなかった。
「そう思うのは自由だ」
『いいんですか』
「思うだけならな」
『はい』
「だが、その悔しさで彼女を見るな」
『はい』
「俺を見る分には構わない」
『久住さんを見る?』
「俺が仕事を間違えそうなら指摘しろ。君の未練ではなく、補助線として」
篤志は息を呑んだようだった。
『補助線』
「君は俺の代わりにプロデューサーにはなれない。だが、俺が見落とす角度を提示することはできる。それは今までと同じだ」
『美由紀ちゃん相手でも?』
「むしろ、相手が柳瀬だからこそ制限する。君は必ず前のめりになる。だから、発言は確認事項のみ。感情反応が強すぎるときは黙れ。俺が必要だと判断したときだけ聞く」
『わかりました』
「本当にわかっているか」
『わかってない部分もあります』
久住は少しだけ目を細めた。
篤志は続ける。
『正直、全然わかってないです。ここが何なのかも、美由紀ちゃんに会えるってどういうことなのかも、久住さんがプロデューサーになるってことが俺にどう刺さるのかも。でも、久住さんが言ってることはわかります』
「何がわかる」
『美由紀ちゃんに背負わせちゃいけない』
久住は黙った。
『俺が死ぬ前に聞きたかった声とか、待ってた時間とか、応援してたこととか、プロデューサーって言葉に勝手に込めてたものとか、そういうのは俺の事情で、美由紀ちゃんの仕事じゃない。美由紀ちゃんは、俺を救うためにいるんじゃない』
声は震えていた。
だが、一つずつ言葉にしていた。
『でも』
「何だ」
『会えたら、たぶん、俺は壊れます』
久住は目を伏せた。
それは誇張ではないと感じた。
『声を聞いたら、たぶん何も言えなくなると思います。久住さんの邪魔になるかもしれません。だから、先に言っておきます。俺、頑張りますけど、無理だったら止めてください』
「止める」
『お願いします』
「君が邪魔になるなら、会話を切る。意識を引かせる方法があるかはわからないが、できる限り下げさせる」
『はい』
「それから、来週の顔合わせまでに訓練する」
『訓練』
「感情反応の抑制。視線の制御。発言の制限。彼女のプロフィール確認時に過剰反応しない練習。
プロデュース課の資料を読むとき、君の欲しかった"担当P"と俺の職責を混同しない練習」
『死後OJT、第二章だ』
「冗談を言えるなら少しは戻ったな」
『戻ってないけど、久住さんと話すために戻してます』
久住は、そこで少しだけ息を吐いた。
篤志は壊れかけている。
だが、完全には崩れていない。
一週間の同居と、イベント当日の裏方経験は、無駄ではなかった。もし最初の日にこの名前とこの辞令を突きつけられていたら、篤志は久住の中で叫び続け、久住もそれを制御できなかっただろう。
今は少なくとも、ルールがある。
役割がある。
補助線という言葉がある。
そして、一週間の間に培った、二人の間の信頼がある。
そして、プロデューサーという言葉の違いを、二人で確認できた。
「瀬戸」
『はい』
「今日の午後は、通常業務に戻る」
『はい』
「ただし、君は休め」
『でも』
「休め」
『……はい』
「彼女の資料は、今は読まない」
篤志が小さく揺れた。
『読みたいです』
「だろうな」
『すごく読みたいです』
「今読んだら、駄目だ」
『……はい。今は駄目です』
「読まない」
『読まない』
久住はプロフィール資料をファイルにしまった。
物理的には薄い紙束だ。
だが、そこに含まれている意味は、久住の一日を完全に変えてしまっていた。
自席へ戻る途中、篤志はほとんど黙っていた。
ただ一度だけ、小さく言った。
『久住さん』
「何だ」
『俺、ここに来てよかったって、今ちょっと思いそうになりました』
久住は足を止めなかった。
『でも、それを思うのは、まだ早いですよね』
「早い」
『はい』
「そして、その判断基準は君の幸福ではなく、彼女にとって安全かどうかだ」
『はい』
「君がここにいてよかったかどうかは、彼女を傷つけず、仕事を妨げず、君自身も壊れずにいられた後で考えろ」
篤志は、少しだけ笑ったようだった。
『久住さん、厳しいなあ』
「当然だ」
『でも、ありがたいです』
「礼は早い」
『それも言うと思った』
自席に戻ると、メールは増えていた。
イベント報告書への返信。
物販集計の確認。
モール側への礼状案。
引き継ぎに関する連絡。
そして、プロデュース課からの資料共有。
久住は椅子に座り、パソコンを開いた。
篤志は黙っている。
その沈黙は、朝の静けさとは違っていた。深く、重く、しかし必死に形を保っている。久住はそれを感じながら、通常業務へ戻った。
やることは変わらない。
確認し、記録し、返信し、整える。
世界が反転したような辞令を受けても、午後の仕事は待ってくれない。
久住は一通目のメールを開く。
『久住さん』
「休めと言った」
『一度だけ。業務じゃないです』
「なら後にしろ」
『はい』
篤志は黙った。
数分後、久住は短く言った。
「言え」
『……俺、美由紀ちゃんの声、聞けるんですかね』
久住は画面を見たまま、答えた。
「会えば、聞こえるだろう」
『そっか』
「だが、それは君のために発される声ではない」
『はい』
「彼女が仕事として挨拶する声だ」
『はい』
「それでも聞きたいか」
篤志の答えは、震えていた。
『聞きたいです』
久住は、それ以上何も言わなかった。
午後の事務所はいつも通り動いていた。
誰も、久住遥真の中で一人の男が泣きそうになりながら声を待っていることを知らない。
誰も、柳瀬美由紀という名前が、死んだ男の世界をどれほど揺らしたのかを知らない。
誰も、"プロデューサー"という一つの言葉が、二人の男の間でまったく違う重さを持っていることを知らない。
久住はメールに返信し、資料を保存し、引き継ぎ項目を作る。
瀬戸篤志は、久住の奥で黙っている。
静かに。
必死に。
来週、自分が壊れないために。
そして、画面の向こうでしか知らなかった少女の声が、現実に響く日を待っている。
辞令は、ただの紙だった。
けれどその紙は、久住遥真の仕事を変え、瀬戸篤志の死後を変え、そして柳瀬美由紀という一人のアイドルのそばへ、二人を静かに押し出していた。
"担当プロデューサー"だった男。
副担当プロデューサーになる男。
同じ言葉を、まったく違う重さで抱えた二人が、ひとりの少女をちゃんと見るための場所へ、もう後戻りできないところまで来ていた。