ふと、目が覚めた。
頭の奥がずきずきと痛む。それに妙な違和感を感じる。
身を起こすと、額から湿り気を帯びた手拭いが落ちた。
周囲を見渡す。ゆらゆらと揺れる炎が見えた。白いLEDの光ではない。油を燃やした柔らかいオレンジ色の炎、部屋全体を照らすには心許ない暗い光だ。行灯といえばいいのだろうか、これは。
「……ここは?」
声を出した瞬間、喉が詰まった。明らかに子供の声だった。自分のものではない。状況を把握するべく立ち上がろうとすると、障子が開く。そこには驚いた顔をしている着物の女が跪いていた。
「わ、若様! お目覚めになりましたか。熱は下がりましたか?」
「若様」
記憶がゆっくりと、しかし容赦なく蘇ってくる。
現代の日本。東京の会社で、残業と飲み会を繰り返す毎日。俺は容赦なく高騰する物価に苦しむ、平凡なサラリーマンだった。
あの日。信号待ちをしていた横断歩道に、制御を失った大型トラックが突っ込んできた。クラクションも、悲鳴も、すべてが遠のいて暗闇に落ちた。
大勢が死んだはずだ。なのに今、俺はここにいる。
障子。畳。行灯。着物。どれも時代劇の中でしか見たことのないものばかりだ。部屋を見回しても、現代文明の痕跡は一つも見当たらない。電灯はなく、コンセントもない。
俺は自分の手を見る。とても小さい。指は短く、肌には子供特有の張りがある。少なくとも三十代サラリーマンの手ではなかった。
それに、俺の手は何かラクガキがある。黒いような、赤いような、そんな不気味な線。見ていると、少し気分が悪くなる。
「若様、どこかお加減が悪いのですか?」
着物の女は心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。この女性にも薄っすらとラクガキが描かれている。
それに、若様。またその呼び方だ。どうやら俺はそれなりに身分のある家の生まれらしい。まるで心当たりがない。
「……俺の、名前は?」
試しに尋ねると、女は目を丸くした。
「道一丸様にございます」
道一丸。やはり聞き覚えのない名前だった。少なくとも
「殿! 若様がお目覚めになりました!」
廊下を走る足音が遠ざかっていく。残された俺は天井を見上げた。
道一丸。聞いたこともないはずの名だった。だが、その名を耳にした瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
雪深い山々。武装した男たち。馬のいななき。そして、山上に聳える春日山のお城。
断片的な情景が奔流のように脳裏を駆け抜ける。俺の記憶ではない。この体の持ち主が持っていた記憶だ。激しい頭痛に耐えながら、流れ込んでくる情報を必死に整理する。
ここは越後国。冬ともなれば雪が人の背丈ほどにも積もる、北国の大地。
そして父の名は――長尾為景。後に「越後の梟雄」と謳われる男である。そこでようやく、俺は理解した。
どうやら俺は戦国時代へ転生したらしい。
★
現代日本との違いは、すぐにわかった。
まず、時間を確認する術がない。スマホも腕時計もありはしない。外の光の加減と、遠くに聞こえる城下か寺の時報の鐘でしか、時間がわからない。
情報もすべてが口伝か書物。インターネットなら一瞬で調べられた歴史の事実も、ここでは誰かの記憶に頼るしかない。
トイレは屋外の簡易なもののみ。紙は貴重で、現代のウォシュレットや柔らかいトイレットペーパーの感触は夢のまた夢だ。
風呂は毎日入れるものではない。大きな木の桶に薪で沸かした湯を入れ、家族や家臣が順番に入る。石鹸はなく、湯垢が体に残る。しらみや蚤が日常的に体を這う。現代の毎日浴びていたシャワーと洗濯機の快適さは、想像もつかない贅沢だった。
食事は質素だった。朝は玄米の粥に味噌汁と漬物。魚や鶏が出る日もあるが、牛や馬は農耕・移動の手段で、食べ物ではない。食料の保存が難しいため、干物や梅干し、味噌が重宝される。現代のコンビニや外食の豊富さは、いまや遠い別世界の話だ。
最大の違いは、戦争が日常であることだった。
父の城では、毎日のように斥候から報告が入る。「国衆が無断で兵を動かした」「どこそこの城の弓矢が不足している」「同盟の使者が来た」「一向衆がまた一揆をおこした」。夜は明かりを抑え、物々しい警戒が敷かれる日もある。
現代日本では戦争は教科書か、海外のニュースの中だった。街を歩けば安全が約束され、凡その人々が法律を守り、明日も今日と同じように会社に行けると信じられた。
しかしここでは、生きるために戦うことが前提として存在している。弱者は容赦なく切り捨てられるのだ。
教育も全く違う。現代の学校では、友達と遊び、テストを受けて、将来の夢を語る。ここでは、朝から剣術と槍術の稽古。夜は漢籍を読み、軍略や武士たるを叩き込まれる。読み書きができることは武士として当然で、農民の多くは文字すら知らない。
嫡子である俺の将来は、父の跡を継ぎ、領地を守り、戦で勝ち、必要なら政治的な結婚を強いられる。当然ながら、個人の自由は二の次だ。
病気のリスクも段違いだった。風邪をひいただけでも、命取りになりうる。医者は漢方を使うが、抗生物質も消毒の概念もない。傷が化膿すれば、簡単に死ぬ。疫病が流行れば、領地全体が壊滅する。平均寿命は短く、四十を越えたら十分長寿のほうだ。
自分が持つ未来の知識など、この時代ではほとんど役に立たない。せいぜい知っているのは、いずれ豊臣秀吉が天下を統一し、その後を徳川家康が継ぐことくらいだ。だが、それとて今の状況では大した意味を持たない。
そもそも、今が西暦何年なのかさえ分からないのだ。歴史の授業をもっと真面目に受けておけばよかった。まさかこんな形で後悔する日が来るとは思わなかった。
それにしても、ひどい時代だ。
あまりにも快適だった現代日本との落差は大きく、最初の数日は元の世界に帰りたいと切実に願ったものだ。
しかし人間というのは存外しぶといもので、どんな環境にも慣れてしまう。数年も経った今ではすっかり開き直ってなんとか生きている。
前世の最期は呆気なかった。だからせめて、今度の人生では天寿を全うしたい。それが何よりも難しい時代であることは百も承知だが、俺の生きる活力はそれだけだった。
「道一丸」
父の声が聞こえてきた。
長尾為景――それが父の名だ。
父、為景は越後国の守護代を務める有力者だ。現代の地名でいえば、おおよそ新潟県にあたる地域を治めている。
守護代というくらいだから、主君である守護に代わって軍事・行政を担う職である。もっとも父は単なる守護代ではなかった。守護職を任ぜられた越後上杉氏を打ち破り、実質的に越後一国を支配している。反乱や内乱を巧みに利用して勢力を広げるその手腕は、まさに下剋上を体現した戦国武将だった。
さて、そんな苛烈な経歴を持つ父だが、自らの子にも厳しかった。
父は俺が熱を出して寝込んだことをきっかけに、俺への教育を一段と厳しくした。
以前の道一丸は病弱で、稽古を休みがちだったらしい。家臣たちの間では「若様は体が弱いから」と、多少の配慮があったようだ。
しかし熱が下がり、目が覚めたあの日から、俺の体は嘘のように健康を取り戻していた。頭の奥の違和感は残るものの食欲は増し、夜もぐっすり眠れるようになった。手足にも力が入り、以前のようにすぐに疲れ果てることもなくなった。
父は、それを「俺の血が目覚めた」と喜んだらしい。
以来、俺の日常は現代の感覚では到底信じられないほど、暴力的な教育に支配されるようになった。
朝は雪の降る庭で剣術の稽古をし、家臣が本気で木刀を振り下ろしてくる。避け損ねれば、肩や腕に強烈な打撃が走る。痛みで顔をしかめて倒れれば、「早くお立ちになりなされ」とさらに追い打ちをかけられる。父自らが立ち会う日もあり、「もっと低く構えろ、足を止めるな」と容赦なく打ち込んでくる。
午後には馬術。まだ小さい体で大きな馬に跨がり、凍てつく風の中を駆けさせる。落ちればすぐに乗り直させられ、雪まみれのまま続けさせられる。
夜は行灯の明かりの下で兵法書を学ぶ。『孫子』や『六韜』などの古典を暗記させられ、間違えれば跪かされて竹の鞭で背中を打たれる。時には父自らが問いを投げかけ、答えが気に入らぬと、俺の頰を平手で打つこともあった。
「道一丸。弱き者は滅びる。痛みに慣れろ。苦しみを恐れるな。それが、戦国の世を生き抜く唯一の道だ」
父の声は冷たい。だが、その奥には確かな期待があった。
毎日の鍛錬は苛烈を極めた。木刀で打たれ、転べば叱責される。泣こうものなら容赦なく立たされ、再び木刀を握らされる。幼子に課すにはあまりにも過酷な日々だった。普通の子供なら心を折られていても不思議ではない。
だが、俺は耐えた。前世の記憶を持つ精神のおかげか。病から立ち直った肉体のおかげか。それとも、二度目の人生という奇妙な巡り合わせが俺を変えていたのか。
理由は分からない。ただ一つ確かなのは、俺が折れなかったということだけだ。痛みは痛みとして感じる。打たれれば痛いし、叱責されれば腹も立つ。それでも逃げようとは思わなかった。
来る日も来る日も続く苛烈な鍛錬は、少しずつ俺の身体を鍛え、そして心を鍛えていった。まるで鉄を打って鍛えるように。
気づけば、家臣たちの見る目も変わり始めていた。
「若様は、熱を出されてから別人のようだな」
「そうじゃ。あの病弱だったお体が、今では朝から晩まで稽古に耐えておられる。気性も強くなった」
「長尾の血が、確かに目覚めたのかもしれぬな」
そんな囁きが、城内で聞かれるようになった。
為景もそれを聞き、稀に満足げな表情を見せる。稽古の合間に俺の頭を重く叩くような仕草をする。温かみは薄いが、そこにわずかな信頼が感じられた。
元服を終えてほどなく、道一丸から晴景と名前を改めた俺は初陣を迎えた。もっとも、相手は反抗的な国衆にすぎず、大戦と呼ぶには程遠い小競り合いだった。だが、人の命が己の命令ひとつに懸かっている――その事実だけは、何よりも鮮烈だった。
こうして俺は戦国の越後で、武士としての道を歩み始めていた。前世の平凡なサラリーマン生活とはまるで別世界の話だ。
それでも、この苛酷な毎日の中に、生きているという実感があった。
★
越後国は、内乱が絶え間なく続いていた。
それもそのはず、父は自らの主君である越後守護・上杉房能と戦い、ついにその身を自刃へと追い込んでしまったのだ。その上、房能の養子である上杉定実を傀儡として次代守護の座に擁立した。定実は名目だけの主君に過ぎず、実権は父の手にしっかりと握られていたのである。
そのような経緯で傀儡政権を築いた長尾家に、越後の国衆すべてが従うはずもなかった。
享禄三年。守護・定実の近親である上条定憲が兵を挙げる。俺が二十一歳になった頃のことだ。こうして始まった争いは、誰もが思う以上に長く続いた。
父・為景は巧みに策を巡らせ、征夷大将軍・足利義晴の後援を取り付けた。しかし、その義晴が近江から逐われると状況は一変する。最大の後ろ盾を失った父の威勢には陰りが見え始めた。
為景から離反する者が現れ、国衆同士で独自に盟約を結び、勝者が定まるまで様子見を決め込む者も増えていく。
越後は再び、先の見えぬ乱世へと沈み込んでいった。
この頃の俺、長尾晴景は父の補佐として各地を奔走していた。
主な役目は、小競り合いの絶えない国人衆との連絡や調停である。争いの火種があれば現地へ赴き、話し合いで収まるならそれでよし。それでも聞き入れぬ相手には、背後にいる長尾家の武威をそれとなく示して従わせた。
いささか狡猾なやり方ではある。だが、誰もが牙を研ぐ乱世においては、綺麗事だけでは国は治まらない。とはいえ、越後中を駆け回る身としてはたまったものではなかった。本当に骨の折れる仕事だった。
ただ、悪いことばかりではなかった。争乱の続く最中、俺に弟が生まれたのである。名は虎千代という。
生まれたばかりだというのに、その顔立ちは驚くほど整っていた。髪と肌が雪のように白く、睫毛は長い。まるで愛らしい姫君を見ているかのようだ。いや、というか――
「女子では?」
「ああ」
父は即座に頷いた。泣くどころか機嫌よく「きゃはは」と笑っている赤子を眺めながら、どこか疲れたような顔をしている。
「では、なぜ男子として扱うのですか?」
「……
忌々しそうに娘を見ながら、為景は告げる。父の言う「あれ」とは、虎千代の母親、虎御前のことだろうか。信心深い人だとは知っていたが、まさかそこまでとは。
もっとも一笑に付してしまうには、この時代は少々不思議が多い。前世の記憶と比べても、それは明らかだった。
戦国の人間は妙に頑丈で、そして強い。
例えば父・為景など、槍を振るえば若木の一本や二本は容易く叩き割る。食糧事情は前世の日本より遥かに劣るはずなのに、この時代の人々は信じられないほどの膂力を備えていた。
俺の眼も然り、神仏の加護だの、鬼神の血筋だのという話がまことしやかに語られるのも、あながち迷信だけではないのかもしれない。そう思わせるだけの現実が、確かに存在していた。
だからもし虎御前の言う通り、虎千代が毘沙門天の化身なのだとすれば――それは常人の及ばぬ神通力を宿していても不思議ではない。もっとも仏神の化身などという話は、さすがにこの時代であっても眉唾物ではあるのだが。
「だが、あの女子が尋常でないのは確かだ。生まれたその時から泣きもせず、けらけらと笑っておった。気味が悪い」
「実の娘に向ける言葉ではありません」
「本心だから仕方あるまい」
父は腕を組み、平然と言い放つ。
「俺は俺を偽れん。でなければ返り忠などせん」
「でしょうね。なら虎千代は俺が可愛がってやりましょう」
「勝手にしろ」
父は興味なさげに手を振った。
「いずれこやつは寺へ預ける」
「それはご随意に」
俺は、ずっとけらけらと笑い続けている虎千代へ視線を落とした。擁護しておいて何だが、確かに少々不気味ではある。
父の気持ちも、分からないではなかった。赤子なら「おぎゃあ」と泣いていてくれればいいものを、こいつときたら終始ご機嫌である。せめてもう少し赤子らしい愛嬌を見せてほしいものだ。
「ただ、その前に目下の問題を片づけねばなりません。上条がまたなにやら画策しているようです」
「言われずとも分かっておる。道一、お前にも働いてもらうぞ」
「望むところです」
越後の乱は、まだ終わりそうになかった。
読まなくてもいい雑設定。
・長尾晴景
本作の主人公。幼名は道一丸。戦国時代の下向上代表格の長尾為景の嫡男。
適応力の天才で、父の薫陶を受けて、完全に戦国時代に順応する。この世界線では結構強い武将になる。史実では病弱かつ偉大な父に比べると求心力に乏しい武将だった。
因みに現代日本からの転生者。正確に言えば、交通事故で死んだ拍子に精神がそのまま並行世界に転移して、本物道一丸に転生した形。ロアの転生と武蔵ちゃんの転移現象が天文学的な確率で同時に発生した。しかも転生先の本物道一丸の精神は半ば死んでいたため、完全な形で乗っ取りに成功する。更に更に一度の死で直死の魔眼(偽)にも目覚める。四季ロアが持ってたアレ。とんでもない確率だぁ。
・長尾為景
主人公の実父。下剋上を代表する武将の一人。越後の守護代(守護職から実際に土地の管理運営を任される役職)。上杉謙信の実父。
主君を殺し、関東管領(関東地方全域の政治や軍事を主導するめっちゃえらい役職)を破るなど、事実を並べると結構ヤバいことをやらかしてる人。でも幕府や朝廷とは関係が悪くないどことか、むしろ献金を欠かさなかったため覚えが良い。武力的にも政的にもめっちゃ有能な人。
元々病弱だった長男がいきなり健康になり、なんか覚醒したため、喜んで持ちうるすべてを暴力的な教育法で叩き込んだ。
なお虎千代のことは心底気味悪がる。たぶん常識の範疇を超えた様子が苦手なんだと思う。
・虎千代
後の上杉謙信。今は常に笑い続ける赤ん坊。ちょっとこわい。