越後の軍神、その兄でございます。   作:元ジャミトフの狗

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もし明日、世界が滅ぶとしても、俺は今日、黒色火薬をつくるわ。

 春暖の候、越後の山々にも、ようやく雪解けの兆しが見え始めた頃と存じます。長尾弾正左衛門尉殿には、いよいよ御壮健にてお過ごしの由、何よりとお喜び申し上げます。

 

 さて、以前お目にかかった折、再び生きて相まみえようと約したことを、私は今も忘れておりません。その約定を果たすためにも、まずは私がこれまで何を成してきたか、御報せ申し上げようと思います。

 

 先年、駿河の今川義元が大軍を率い、尾張へ攻め入ってまいりました。敵は我らを遥かに上回る兵を擁し、正面より挑めば、勝ち目は薄いと思われました。

 

 されど、天は我らを見放してはおりませんでした。折しも激しい雨が降り、敵陣の動きが乱れたのです。私はその機を逃さず、二千ばかりの手勢を率いて、義元の本陣へ突撃いたしました。

 途中からは馬を降り、自ら太刀を取って戦いました。雨の中、刃と刃とがぶつかり、まるで火花が散るような激戦となりました。

 敵もまた海道一の弓取りと呼ばれた者。容易に崩れる相手ではありませんでしたが、ついにはその首を取ることが叶いました。

 

 桶狭間におけるこの勝利は、私の生涯における一大飛躍の端緒となるでしょう。

 

 これによって私は、尾張の武士たちから、ただ家督を継いだ者ではなく、戦場に立って兵を導く者として認められるようになりました。

 名声を得たというより、ようやく彼らの信を勝ち取ったと申すべきでしょうか。

 

 その後、私は美濃へ兵を進めました。幾度かの戦を経て、ようやくこれを平定することが叶いました。義父である斎藤道三公を討った者たちを退け、その仇を報じることができたこと、誠に喜ばしく思っております。

 美濃の武士たちも、今のところはよく我が命に従っております。国の統制も思いのほか順調に進んでおりますゆえ、どうか御心配には及びませぬ。

 

 尾張と美濃を治めた今、私は新たに「天下布武」の志を掲げることといたしました。武をもって天下を脅かすという意味ではありません。

 乱れた世を鎮め、誰もが明日を恐れずに生きられる国を築く。そのために必要な力を、私が振るおうという覚悟にございます。

 

 道は未だ遠く、敵も多くおります。されど、桶狭間の折と同じく、進むべき時に怯むつもりはありません。いずれ再びお会いした折には、鉄砲のこと、火薬のこと、そして互いが歩んできた道について、ゆるりと語り合いたく存じます。

 

 その時まで、どうか御身を大切になされますよう。

 まずは近況の御報せまで。

 

 

織田弾正忠信長

 長尾弾正左衛門尉晴景殿

 

 

 

 読み終えた書状を、そっと机の上へ置く。いや、誰が書いたんだ、この手紙。

 え? あの、無礼に手足が生えたような織田弾正忠殿が、これほど馬鹿丁寧な書状を送ってきたと? まっさかあ。

 手紙から受ける印象と、実際の人となりが異なることなど、往々にしてある。あるにはあるが、ここまで違うと少し引く。こっわ。

 

「……これ、どう返事すればいいんだ?」

 

 書かれているのは、桶狭間から美濃平定に至るまでの近況報告である。ならば、こちらもそれに倣い、越後で起きたことを当たり障りなく書いて返せばよい。

 本来なら、それで済む話だ。だが、相手はあの織田信長である。本当に何の変哲もない、ごく普通の近況報告を送ってくるような女だろうか。

 もしかすると、この文面には何かしらの含みがあるのではないか。近況を尋ねるふりをして、こちらの兵力や内情を探ろうとしているとか。あるいは、あえて丁寧な書状を送りつけ、俺がどう出るかを試しているとか。

 

「下手な返事をして、不興を買ったら面倒だもんなあ」

 

 考える。ひたすら考える。そして散々悩んだ末、俺はあえて頭の悪いことを書いて送ることにした。

 尾張のうつけと呼ばれるほど奇抜な女である。下手に腹を探り合うよりも、多少ふざけた返事をした方が、かえって受けがよいかもしれない。少なくとも、退屈はさせずに済むだろう。

 

 そうして返書を送り出してから、二週間後。思わぬことが起きた。

 

「申し上げます!」

 

 慌ただしく広間へ入ってきた門兵が、俺の前で膝をつく。その顔には、困惑がありありと浮かんでいた。

 

「どうした。何かあったか」

「はっ。城門に、歩き巫女を名乗る女が参っております」

「歩き巫女?」

 

 旅をしながら各地で祈祷や口寄せを行う女たちである。越後にもいないわけではないが、わざわざ春日山城を訪ねてくるとは珍しい。

 

「祈祷でも頼まれたのか」

「いえ、それが……」

 

 門兵はひどく言いづらそうに口ごもった。

 

「構わん。申せ」

「その者、殿にこうお伝えすれば分かると」

「何と」

「――『うつけが薬を求めに参った』と」

 

 思考が止まった。うつけ。薬。

 そんな馬鹿げた言葉を合言葉として使う者に、心当たりは一人しかいない。

 

「……まさか」

 

 俺が信長へ送った返書には、越後の近況とともに、こんな一文を添えていた。

 

 ――尾張のうつけ殿には、頭に効く良き薬が必要かと存じます。御所望ならば、越後にて御用意いたしましょう。

 

 我ながら、実に頭の悪い返事である。それを読んだ信長が怒るか、笑うか。せいぜい奇妙な返書が届く程度だと思っていた。まさか本人が薬を受け取りに来るなど、誰が予想できようか。

 

「その歩き巫女は、どのような女だ」

「は。背は高く、長い黒髪をしておりました。顔立ちは、その……たいそう美しく」

「目の色は」

「血のように赤うございました」

 

 間違いない。あの女だ。

 

「供は何人いる」

「巫女が一人と、荷を担いだ者が数名ほど。いずれも旅装ではございますが……」

「只者には見えない、と」

「はっ」

 

 おそらく残りの巫女も荷運びも、全員が織田の手の者だろう。

 尾張と越後の間には、決して短くない道のりがある。だというのにわずかな供だけを連れて正体を隠し、春日山までやって来たと。

 

 何をしているんだ、あの女は。

 

「ご隠居様、いかがいたしましょう」

 

 門兵が恐る恐る尋ねる。本来なら、素性の知れぬ者を城内へ通すなどあり得ない。だが、門前で待たせておくわけにもいかなかった。

 下手に騒ぎになり、その正体が知れ渡れば、尾張にも越後にも面倒が降りかかる。

 

「通せ」

「よろしいのですか?」

「ああ。ただし、決して大事にしてくれるな。あの者の正体を詮索することも許さん」

「はっ」

「それと、客間を一つ空けろ。人払いもしておけ」

 

 門兵は命を受けると、なおも釈然としない顔のまま退出していった。俺は深く息を吐き、机の上に残していた信長の書状へ目を向ける。

 

「……本当に来る奴があるかよ」

 

 丁寧な手紙を寄越したかと思えば、今度は歩き巫女に化けて春日山へ押しかけてくる。こういう訳の分からない行動力こそが、織田信長という人間を天下に押し上げたのかもしれない。

 

 

 

 しばらくして客間に現れたのは、巫女装束に身を包んだ織田信長だった。

 

 長い黒髪を背へ流し、白衣と緋袴を見事に着こなしている。黙っていれば、どこからどう見ても旅の巫女である。

 

「どうも。よく来たな。その服、似合っているぞ」

「うむ、苦しゅうない。尾張のうつけが、薬をもらいに参ったぞ」

「戯れで書いただけなんだが、あれ」

「知っておる。ゆえに、わしも戯れではるばる越後まで参った」

「それはそれは、恐れ多いことで」

 

 何が恐れ多いのか、自分でもよく分からない。

 信長は勝手知ったる様子で腰を下ろすと、供の者が運んできた包みを脇へ置いた。どうやら本当に、ただ顔を見に来ただけではないらしい。

 

「それで、尾張の様子はどうなんだ」

「変わらず忙しいのう」

 

 信長は用意された茶へ口をつける。

 

「今川義元を討った後、三河の松平元康――今は家康と名乗っておるが、あれと同盟を結んだ」

「松平家康と?」

「うむ。今川の束縛から離れ、三河をまとめようとしておる。敵に回すより、手を結んだ方がよかろう」

 

 なるほど。織田と徳川の同盟。前世において織田と徳川が敵対したという話は聞いたことはない。となれば、同盟はかなり長く続いたはずだ。

 

「あ、今川倒したのおめでとう」

「うん、ありがとう。で、居城を清洲から小牧山へ移した」

「小牧へ?」

「ああ。美濃を治めるには、清洲では少々遠いからの」

「よく家臣たちが同意したな」

 

 率直な疑問だった。信長の父・信秀は、生涯に何度も居城を移している。勝幡から那古野、さらに古渡、末森へ。

 勢力拡大に合わせた合理的な判断ではあったのだろうが、そのたびに家臣や城下の者たちは振り回されたはずだ。居城を移すとなれば、家臣だけでなく商人や職人、寺社まで動かさなければならない。そう簡単に歓迎される話ではない。

 

 俺の問いに、信長はにやりと笑った。

 

「最初は小牧山ではなく、さらに北の二ノ宮山へ城を築くと布告した」

「二ノ宮山?」

「丹羽郡のな。美濃に近うて、攻め込むには都合がよい。されど、清洲からは遠すぎる」

「……なるほど」

 

 何となく、話が見えてきた。

 

「当然、家臣どもは反対した。遠すぎる、地の利が悪い、家中を移すにも銭がかかるとな」

「それで?」

「皆の反対意見を十分に聞いたところで、わしは譲歩してやったのじゃ」

 

 信長は大仰に胸を張った。ついでと言わんばかりにめっちゃ足を崩す。別に構わんけど。

 

「二ノ宮山がそれほど嫌ならば、少し南の小牧山にしようとな」

「話のオチが見えるけど、それで?」

「面白いほど賛成したわ」

 

 本来の目的は、最初から小牧山への移転だったのだろう。だが、いきなり小牧へ移ると言えば、家臣たちは反対する。そこで、さらに条件の悪い二ノ宮山を先に示す。反対意見を言わせた上で小牧山へ変更すれば、家臣たちは自分たちの意見が通ったと思い込む。

 

「最初から、小牧山へ移るつもりだったのか」

「当たり前じゃろう」

 

 信長は何でもないことのように答えた。

 

「人は命じられたことには反発するが、自ら選んだと思えば素直に従う。二つのうち、ましな方を選ばせてやっただけじゃ」

「家臣には、自分たちが信長殿を説得したと思わせたわけか」

「うむ。皆、得意げな顔をしておったぞ」

「性格がお悪いことで」

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

 信長は愉快そうに笑った。

 

 強引に見えて、その実、人の心の動きをよく見ている。俺が根回しと調整を重ね、少しずつ人を動かしていくのに対し、信長は人が反発することまで計算に入れ、その反発すら己の望む方向へ利用してしまう。

 

 その上、金勘定にも長けている。戦とは、ただ兵をぶつけ合うものではない。兵糧を蓄え、銭を巡らせ、武器を揃え、相手よりも長く戦い続けられる仕組みを作るものだと弁えているのだ。

 

 まさしく、時代の常識を飛び越えていく風雲児とでもいうべきか。

 

 信長の目には、他の者には見えていないものが見えている。もっとも、その考えに至るまでの道筋を周囲に説明する気がまるでないものだから、傍から見れば奇行を繰り返すうつけ者にしか映らない。

 

 なるほど。尾張のうつけとは、存外よくできた呼び名である。

 

「しかし、そんな忙しい最中によくもまあ、こんな田舎まで遊びに来る暇があったな」

「いやあ、それがのう。竹千代と同盟を結んだことで、東の三河は気にせんでもよくなった。尾張も美濃も、今のところはすっかり落ち着いておってな。少々、暇を持て余しておったのじゃ」

「だからといって、総大将が自ら来るか。普通」

「お主の顔を見たかったのよ」

「……はあ。ひと月近くも尾張を空けて、本当に大丈夫なのか?」

「影武者なら置いてきた」

「影武者?」

「妹の市じゃ。わしによう似た別嬪でのう。黙って座っておれば、まず気づかれまい」

「……そうかい」

 

 もう、何を言っても無駄な気がした。妹を影武者に仕立て、自分は歩き巫女に化けて越後まで遊びに来る。

 行動力があるという言葉では、到底片づけられない。呆れて物も言えなかった。やはりこいつは、いろいろな意味で大物すぎる。

 

「それで、越後はどうなのじゃ」

「こっちも相変わらずだよ。武田と戦って、北条と戦って、火薬を作っている。あと最近は亡命した上杉殿の慰安も手配したり」

「随分と楽しそうではないか」

「どこをどう聞いたら、そうなるんだ」

「退屈はしておらんじゃろう?」

「退屈する暇すらないとも言う」

「ならば同じことじゃ」

 

 違うと思う。だが、信長に説明したところで納得するとも思えなかった。

 

「ところで」

 

 信長は身を乗り出し、深紅の瞳を細めた。こいつも、黙っていれば本当に綺麗な顔をしている。

 

「お主の弟――たしか、上杉輝虎といったか。あれはおらぬのか」

 

 上杉輝虎。平三は二年ほど前、政虎から輝虎へと名を改めていた。

 政虎の「政」は、先代の関東管領である上杉憲政から賜った一字である。その後、時の将軍・足利義輝から新たに「輝」の字を拝領し、上杉輝虎を名乗ることとなった。

 

 主君や有力者から一字を賜り、それに合わせて諱を改めること自体は、この時代ではさほど珍しくない。ただし、政虎を名乗っていた期間は、わずか八か月ほどだった。

 足利将軍家との結びつきを強める上で必要な改名だったとはいえ、憲政からすれば、あまり面白くはなかっただろう。

 

 何しろ憲政は、北条氏康に何度も苦汁を舐めさせられてきた。領国を追われ、家臣に裏切られて息子を殺され、最後には上杉家の家督と関東管領職を、ほとんど赤の他人である平三へ譲ることになった。ところが、その平三が跡を継いだ途端、関東の諸将は次々と従い、北条を小田原まで追い詰め、将軍家からも目をかけられるようになった。

 

 自分が苦労しても成し遂げられなかったことを、後を継いだ者がとんとん拍子で片づけていく。これが面白いはずもない。不満を抱くなという方が無理な話だ。まして養子の諱に自分の文字が残らなければ、なおさらだ。

 

 そこで、憲政の鬱憤が爆発する前に、春日山城下へ御館と呼ばれる立派な屋敷を用意した。住まいだけではない。盛大な宴を催し、上杉家中や越後の諸将を集めて、先代関東管領として存分に立ててもらった。

 結構な銭が飛んでいった。だが、それで憲政の面目が保たれ、後顧の憂いが一つ減るのなら安いものである。

 

 閑話休題。

 

「あいにく、平三は下野で北条と戦っている」

「なんじゃ。では、お主は留守番か」

「おう。悪かったな」

「いやいや。されど聞くところによれば、お主自ら信濃へ出て、武田と戦ったそうではないか」

「ん? まあ」

 

 信長は俺の顔をしげしげと眺める。

 

「少々若作りな面をしておるが、お主ももうよい歳じゃろう。ようやるわ」

「今年で五十四だ」

「え、爺じゃん」

「……随分な言い草だな」

「いや、そうは見えんから驚いたのじゃ」

「まぁ健康には気を遣っているから」

 

 食事に気を配り、体を動かし、日々の鍛錬も欠かさない。戦国の世で長生きしようと思えば、できることは何でもしておくに限る。信長は感心したように顎へ手を添えた。

 

「……これは、わしも本気で薬をもらった方がよいかもしれんな」

「薬に頼るより、体と頭を使った方が長生きするぞ」

「ふむ」

 

 信長は妙に神妙な顔で頷いた。

 

「覚えておこうか」

「では、薬の話も出たことだし――ほれ」

 

 俺は傍らに置いていた革袋を、信長の前へ差し出した。

 

「なんじゃ、これは」

「火薬」

「ほうほう」

 

 途端に信長の目つきが変わった。革袋の口を開き、指先で中身を掬い上げる。黒い粒を掌の上で転がしながら、角度を変えてじっくりと眺めていた。

 

「粒の大きさが、ちとばらついておるの」

「いいね。そこに気づくとは、さすが鉄砲好きだ」

「もっと褒めてもよいぞ」

「美人。賢い。強い」

「……おぬし、女子にはいつもその調子なのか?」

「何かおかしいか?」

「わしが言えたことではないが、お主は別の意味で背中を刺されそうな男じゃのう」

「いやいや。俺は結構人付き合いが上手な方だぞ」

「だからこそじゃ。分からんかぁ」

 

 何を言っているんだ、こいつは。もっとも、そんな軽口を交わしている間も、信長の視線は火薬から一度も離れていなかった。

 口では俺をからかいながら、目と指先では粒の形や硬さを確かめている。うわあ。並列思考が得意そうだなぁ、この女。

 

「それほど得意げに見せてくるということは、実際に撃てるのじゃろう?」

「もちろん。粒の大きさは今後の課題だな。といっても篩を試行錯誤的に良いものを作れば良いだけだが」

「ふむ」

「撃ってみるか?」

「よいのか?」

「いいとも」

 

 そうして城内の射場へ移り、信長に火縄銃を試させることになった。火薬と玉を込め、火皿に口薬を置き、燻る火縄を火挟みに据える。

 信長は手慣れたように、ほとんど迷うことなく鉄砲を構えた。狙いを定め、引金を絞る。轟音とともに白煙が噴き上がり、離れた場所に立てた板が大きく揺れた。

 

 信長は煙の向こうを見つめたまま、銃身を下ろす。

 

「思ったより悪くないの」

「硝石の純度については、堺で出回っているものより上だと自負している」

「純度とな?」

「余計なものが、どれだけ混じっていないかということだ」

 

 信長は首を傾げた。

 

「たとえば、鉄の質が悪ければ、どれだけ腕のよい鍛冶が打っても刀の切れ味は落ちるだろう。火薬も同じだ。硝石に余計なものが混じっていれば、燃え方が鈍くなったり、安定しなくなったりする」

「なるほど。硝石そのものの出来が、火薬の威力に関わるというわけか」

「そういうことだ」

 

 信長は再び革袋へ視線を落とした。その目は、珍しい玩具を与えられた子供のものではない。

 これをどう使えば戦が変わるのか。どれほどの数を揃えられるのか。そして、いかにして自らのものとするか。

 おそらく、そこまで考えている目だった。

 

「うむ。しかしこれ、そなたが作ったのか?」

「ああ。知りたい?」

「知りたい!」

「では、これをやろう」

 

 そう言って、俺は一冊の書物を差し出した。表紙に記した題は、『玉薬之調合作法』。有り体に言えば、黒色火薬の製法書である。

 信長はそれを受け取ると、表紙と俺の顔を交互に見比べた。

 

「……自分で言っておいてなんだが、お主阿呆なのか?」

「そう思うか? 織田弾正忠殿らしくもない」

「いや、分かる。お主がわしに何を求めておるのかはな」

 

 信長の声音から、先ほどまでの軽さが消えた。

 

「だが、お主はわしに何を見ておる?」

「天下布武」

 

 俺は迷わず答えた。信長の目が、わずかに見開かれる。やがて、その口元が大きく歪んだ。

 

「――うはは。分からん。分からんぞ、お主は。まるで分からん」

「それが、普段のお前だ」

「何?」

「これで少しは、家臣たちの気持ちもわかっただろう」

「……」

 

 信長は黙り込み、手元の書物へ視線を落とした。織田三郎信長。彼――いや、彼女の頭脳は、明らかに常人とは異なる作りをしている。方向性こそ違うが、どこか平三に似ていた。

 

 信長の特異さは、その恐るべき思考の速さにある。物事を見れば、必要な情報を拾い、瞬時に組み立て、最短の道筋で結論へたどり着く。

 

 あまりにも速すぎるのだ。信長の中では、最初から最後まで理屈がつながっている。だが、周囲の者には、その道中が見えない。だから突如として奇抜な命令を下し、常識外れの行動へ走ったように映る。傍から見れば、うつけ者にしか見えないのも無理はなかった。

 

 黒色火薬についても同じだ。硝石の純度が燃焼へ及ぼす影響。粒の大きさによって燃え方が変わること。そして、それを安定して量産できた時、戦場がどのように変わるのか。

 俺が一度説明しただけで、信長はそのすべてを理解した。新しい概念に臆することもなければ、己の常識に合わぬと退けることもない。使えると判断したなら、何のためらいもなく受け入れ、その先まで考える。

 

 だからこそ、この書物を渡した。こいつならば、俺が何年もかけて形にしたものを、さらに先へ進めることができる。そして、おそらくは――天下を取るために使う。

 

「――憎たらしいのう。お主は、本当に」

「それで、どうする。引き受けてくれるか」

 

 信長は手元の書物を見下ろしたまま、低く言った。

 

「甲斐の武田を牽制しつつ、足利将軍を奉じて上洛。天下を静謐にせよ、と?」

「ああ」

「わしは、いまだ美濃の平定すら完全には終えておらぬのだぞ」

「おや。手紙には、すでに治めたと書いてあったが」

「嘘ではない。されど、多少の見栄くらい張るに決まっておろうが」

 

 まあ、そうだろうな。少なくとも、美濃では斎藤龍興がいまだ健在である。信長が優勢とはいえ、名実ともに平定したと呼ぶには、まだ早い。

 

 だが、それも時間の問題だろう。

 

 信長には、鉄砲を揃えられるだけの経済力がある。尾張は商いが盛んで、銭も人も集まる。堺から鉄砲を買い付けようと思えば、他国より遥かに多くの数を揃えられるはずだ。

 問題は、その運用に必要な玉薬である。鉄砲は買えば終わりではない。撃つたびに火薬と弾を消費する。硝石を他国から買い続ける限り、戦えば戦うほど銭が流れ出ていく。

 

 だが、火薬を自前で作れるようになれば話は変わる。玉薬に費やしていた銭を、さらに鉄砲を買い増すために回せる。鉄砲が増えれば戦に勝ち、領地が増えれば、さらに多くの鉄砲を揃えられる。

 銭が武器を生み、武器が領地を生み、領地がまた銭を生む。信長ならば、この循環を最大限に利用するだろう。

 だからこそ、この製法書には価値がある。単に火薬の作り方を教えるのではない。織田家が今後積み上げる軍事力の、その根元を一つ支えてやるのだ。

 

 これは、相当に大きな貸しになる。

 

「で、どうするよ。織田弾正忠三郎信長」

 

 名を呼ぶと、信長はゆっくりと顔を上げた。

 

「……わしに、できると申すか」

 

 初めて、その声にわずかな迷いが混じった。

 

「できると思わなければ、こんな話はしない」

「お主の弟はどうなのじゃ。関東管領なのであろう?」

「平三は強い」

 

 それは疑いようがない。戦場に立てば、あいつほど頼りになる者はいない。関東管領としての権威もあり、越後の将兵を束ねる力もある。

 

「だが、あいつは天下に興味がない」

「ほう」

「俺が頼めば、きっと何でもよきに計らおうとするだろう。だが平三には、天下に立って何を成したいという、明確な望みがない」

 

 平三が求めているのは、天下ではない。俺の傍で、俺の言葉に従い、自らが義と信じるものを守ることだ。

 それで十分だと、あいつは本気で思っている。だが、天下を取る者は、それでは駄目なのだ。自ら世の形を思い描き、そのために国を動かし、人を従え、憎まれることすら引き受けなければならない。

 

 俺は信長を真っ直ぐに見据えた。

 

「だが、お前は違うんだろう?」

 

 信長は答えなかった。ただ、その深紅の瞳の奥で、何かが静かに燃え上がるのが見えた。

 

「俺はね。こんな、戦ばかりの世の中が嫌いなんだ」

「……」

「皆が皆、己こそ正しいと道理を振りかざして、そのたびに民が死ぬ。ただ生きることさえ難しいのに、隣人すら頼りにできない。あまりにも寒い時代だと思わないか?」

「そこまで思うのなら、なぜ自分でやらぬ」

「やれるものなら、やりたかったさ」

 

 嘘ではない。

 

「ただな。ある程度まで力をつけると、嫌でも自分の底が見えてしまうんだ」

「……わしからすれば、お主も十分に大丈夫じゃがの」

「はは。褒め言葉として受け取っておこう。だが、俺にできるのは、せいぜい越後を平らげるところまでだ。それすら、平三の絶大な力を借りて、ようやくだった」

 

 本当に、口惜しい。

 

 こんな糞食らえな世の中を、一から作り変えてやる。この時代に生まれ直した幼い頃、何度そう思ったことか。

 

 だが、俺には足りないものが多すぎた。非情に徹しきることもできず、かといって情に厚いと胸を張れるほど、清廉でもない。圧倒的な武があるわけではないし、人を驚嘆させるほどの智謀があるわけでもない。少しばかり先を知っていることを鼻にかけ、賢しらに立ち回り、結局は何もかも中途半端な糞野郎になった。

 

 何より、俺はこの戦国の世に染まりすぎた。理想よりも現実を選び、救えるものだけを救い、手の届かぬ場所で苦しむ者からは目を背けている。目の前の越後を守るだけで精いっぱいだ。天下のすべてを背負う覚悟など、とうに失ってしまった。

 

「お主の言うことは、糞じゃ。いや、畜生の糞にすら劣る」

 

 信長は吐き捨てるように言った。

 

「結局、自分が成し遂げたかったことを、他人に押しつけておるだけではないか」

「そうだな」

「まったく、無礼な奴じゃ」

「否定はしない」

 

 信長はしばらく俺を睨んでいた。やがて、その口元がゆっくりと吊り上がる。

 

「だが、よい。気分がよい。これほど胸が躍るのは、久方ぶりじゃ」

 

 信長は手にした『玉薬之調合作法』へ目を落とし、ふいに何かへ思い至ったように笑った。

 

「ん? ああ、そうか。だからお主は、分かっておったのか」

「……何が?」

「お主に分からぬのなら、それでよい」

 

 何やら一人で納得している。悪い癖だぞ。

 

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり――か。ならば、この短き生のうちに、生きとし生ける者へ夢を見せてやるのも一興よ」

 

 信長は噛み締めるように呟いた。そして深紅の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。そこに先ほどまでの迷いはなかった。

 

「よし。任せよ。この織田弾正忠信長を時代が求むるのであれば、すべて思うがままに動いてみせようぞ!」

 

 信長は胸を張り、晴れやかに宣言した。




・長尾晴景
 今回の阿呆。大変価値のある火薬の製造法を他国に流す暗君。でも薬を渡すという約束は守った。

・織田信長
 今回の被害者。なぜか脳を焼かれる。たぶん世界に色がついた。あと晴景君が未来から来た事をなんとなく察する。

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▼アイデアが浮かんだので供給します。▼型月アーサー王伝説とブリタニア列王史、史実歴史なんかを足して割ったような世界線です。プーサーではありません。▼さて質問。我々の生きる世界に神秘は全く存在しない。それはなぜか?▼※本編は完結しました。▼


総合評価:13741/評価:8.85/連載:79話/更新日時:2026年07月14日(火) 22:22 小説情報

紙芝居をしただけなのに(作者:何処にでもある)(原作:Fate/)

 昔々、蛮族の集団で悠々自適に過ごす為の芸が巡り巡って無辜の怪物になった男がおったそうな。▼ その者腕っこきはからっきし、童話を紙芝居で読むのだけは上手く、ペラ回し一本で英霊に立ち向かわざる得なくなって途方に暮れたそうな。▼ この者の本名を亀男、英霊としての名前をカルメン。▼ 無辜の怪物で周囲から理想のタイプの女に見える、しがない一般サーヴァントである。


総合評価:5945/評価:7.87/完結:27話/更新日時:2026年07月01日(水) 23:00 小説情報


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