越後の軍神、その兄でございます。   作:元ジャミトフの狗

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感想、評価、お気に入り登録、本当にありがとうございます!

「どっちも!」が多くてうれしい反面、物語的にはひとまずお虎さんから。
感想がいっぱい来て返信がおいつかないー!(嬉しい悲鳴

今後の執筆の励みにもなりますので、もしよろしければ、これからも引き続きお気軽に感想をお寄せいただけますと幸いです! もう毎日投稿のモチベです!


だれを愛そうが、どんなに汚れようが、かまわぬ。最後にこのお虎さんの横におればよい!!

 関東では、上杉・北条・武田の三大勢力が、各地の国衆を巻き込みながら争う――いわば「関東三国志」とでも呼ぶべき構図が出来上がっていた。

 

 もっとも、三者が互いに争っているわけではない。北条と武田は同盟を結んでいる。ゆえに上杉方は、相模の北条と甲斐の武田、その両方へ常に目を配らねばならなかった。

 ただ、四度目の川中島で信濃における武田の勢力を大きく削いだためか、晴信は平三との正面衝突を露骨に避けるようになった。

 それは北条も同じである。関東国衆の救援要請を受けて平三が越後から兵を率いて現れると、北条勢はまともに戦おうとはせず、さっさと小田原まで引き下がる。そして平三が越後へ戻れば、またじわじわと侵攻を再開する。

 

 まるで潮の満ち引きである。平三が来れば退き、去れば押し寄せる。

 武田も北条も、平三を討ち取ろうとはしない。ただ、あいつがいない場所と時を選び、少しずつ領地を削ろうとしていた。

 もはや上杉輝虎との野戦に応じようとする者など、関東には誰一人としていなかったのである。

 

「つまらないですねえ」

 

 春日山城下にある上杉屋敷。縁側に腰を下ろした平三は、夜空に浮かぶ月を眺めながら、盃の酒をあおった。

 

 これまで平三が関東へ出兵した回数は、八度に及ぶ。その戦いの大半は城攻めであった。だが、結局のところ、平三は一度として敗れていない。

 もっとも、下総の臼井城には随分と苦戦したらしい。攻城戦では少なくない損害を出し、平三自身も珍しく手を焼いたと聞いている。それでも最後には、()()()()()()()()()()

 

 負け知らずとは、まさにこのことだろう。平三が自ら指揮を執った戦で、敗北したことはただの一度もない。

 本人は、「城攻めはつまらない上に、あまり得意ではないんですよねえ」などとぼやいているが、関東で繰り返される戦のほとんどは、その城攻めである。そして、それでも負けていない。得意ではないとは、いったい何を基準に言っているのだろうか。

 

 いやはや、本当にとてつもない妹である。その結果、武田は信濃への大規模な侵攻を控えるようになり、北条もまた上野へ深く踏み込むことを避けるようになった。

 どちらも、平三と正面から戦えばただでは済まないと、骨身に染みて理解したのだろう。こうして、少なくとも関東一円と信濃には、ひとまずの静謐が訪れた。幾度となく戦場へ赴き、武田と北条を退けて平穏をもたらしたその武威を称え、巷ではいつしか平三を「軍神」と呼ぶ者まで現れるようになっていた。

 

 そして迎えた、永禄十年。三月になっても、どの国からも救援を求める使者は現れなかった。

 

 平三が当主となって以来、初めてのことである。信濃も、関東も、ひとまずは静かだった。

 だからこそ今夜は、戦支度にも早馬にも煩わされることなく、こうして何の憂いもなく月見酒に興じることができたのである。

 

「はあ、おいし」

 

 平三は満足げに呟くと、枡の酒をぐいとあおった。続けて、縁に盛られた塩を一舐め。実に粋な飲み方である。酒の甘みも引き立つし、本人が気に入るのも分からなくはない。

 

 ただ、健康面から見れば感心できなかった。酒に塩。高血圧や脳卒中へ一直線ではなかろうか。せめて、飲んだ酒と同じくらいの水は口にしてほしいものだ。

 

「それ、あまりやりすぎるなよ」

「こればかりは、兄上のお言葉といえど聞けませぬなあ」

「早死にするからやめてほしい」

「うーん」

 

 平三は枡を手にしたまま、しばし考え込む。

 

「では代わりに、何か肴を作ってください」

「なんでそうなるかなぁ」

 

 もはや恒例のやり取りだった。俺が酒の飲み方をたしなめると、平三は決まっておつまみを要求してくる。こいつ、完全に俺へ甘えきっている。

 そして俺も俺で、口では文句を言いながら、ついつい凝ったものを用意してしまうのだから始末が悪い。たぶん、甘やかしているのは俺の方なのだろう。

 

「今日は海老の昆布締めを用意してある」

「おほー。随分と準備がよいですねえ」

「実は俺も早く出したかったんだ。少し待っていろ」

 

 俺は縁側を離れ、台所へ向かった。

 

 昆布の間で寝かせておいた海老を取り出し、食べやすい大きさに切り分ける。器へ並べれば、透き通るような身にほんのりと昆布の色が移り、実に見栄えがよかった。

 うひょー。我ながら、うまそうである。

 

「待たせたな」

 

 器を手に戻ると、平三は待ちきれないとばかりに身を乗り出した。

 

「よい色合いですねえ」

「そうかそうか。分かるか」

「ええ。昆布の香りも移っております。もう食べても?」

「もちろん」

 

 平三は早速一切れをつまみ、口へ運んだ。ゆっくりと噛み締めた後、目尻がわずかに下がる。

 

「……おいしいです」

「そうか」

「海老の甘みに、昆布の旨味がよく合っております。酒にもぴったりですね」

「それはよかった」

 

 素直に喜ばれると、手間をかけた甲斐があったというものだ。平三はもう一切れ取ろうとしたところで、ふと箸を止めた。

 

「兄上もどうぞ」

「俺はいい。お前のために作ったんだから」

「駄目です。一人で食べても、さほどおいしくありませぬ」

「さっき、おいしいと言っていただろう」

「兄上と食べれば、もっとおいしくなります」

 

 そう言われてしまえば、断る理由もない。俺が箸を伸ばすと、平三は満足そうに頷いた。

 

「うん。よくできているな」

「自画自賛」

「誰も褒めてくれないからなー」

「では、私が褒めて差し上げましょう。兄上は料理上手で、気が利いて、妹思いの素晴らしい兄上です」

「急に褒めすぎだ。何が狙いだ」

「明日も何か作ってくださいな」

「仕方ないなぁ」

 

 平三は悪びれることもなく笑い、再び酒へ手を伸ばした。その前に、俺は用意しておいた水の椀を差し出す。

 

「まず、こっちを飲め」

「むー」

「のーめ。俺を一人にしないんだろう?」

「……仕方ありませんねぇ」

 

 不満そうにしながらも、平三は素直に水を口にした。それから俺たちは酒とおつまみを楽しんだ。時折、俺が海老を多めにとれば平三が文句を言い、俺が箸を伸ばせば、平三が無言でそれを横取りする。

 

 関東管領だの軍神だのと呼ばれていても、こうしている時の平三は、ただの食い意地の張った妹だった。そして俺もまた、越後の行く末を案じる隠居ではなく、妹の機嫌を取るだけの兄でいられた。

 こんな夜が、いつまでも続けばよい。月を見上げながら、俺は柄にもなくそんなことを思った。

 

「――兄上」

「ん?」

「私の世継ぎについて、そろそろ考えた方がよろしいかと存じます」

 

 あまりに唐突な話題に、伸ばしかけていた箸が止まる。

 

「……ああ。むしろ、遅すぎるくらいだな。すまん」

「いいえ」

 

 平三は盃の中へ視線を落とした。

 

「本当は、私が子種を仕込むことのできる体であれば、斯様なことに頭を悩ませずに済んだのでしょうが」

「それを言わないでくれ」

 

 思わず、言葉が強くなる。女の身である平三を、男として当主の座へ押し上げたのは俺だ。世継ぎを残せぬことが問題になるなど、最初から分かっていた。

 

 それでも、平三の武威が必要だった。越後をまとめ、武田と北条に抗し、長尾家を存続させるために。俺は妹の人生を、家の都合に合わせて捻じ曲げた。

 もし平和な世に生まれていたなら。平三などという男の仮名で呼ばれることもなく、甲冑に身を包んで戦場を駆け回ることもなかったのだろう。

 もっと女らしい名を与えられ、好きな装いをして、誰の目も気にせず笑うことができたかもしれない。

 

 それを奪ったのは、この時代か。父か。長尾家か。否だ。少なくとも、平三を当主に据えたのは俺自身だ。

 

「――糞野郎が。何をいまさら」

「兄上?」

「……何でもない」

 

 よくない思考だった。過ぎたことを悔やみ、自分を責めたところで、平三の置かれた立場が変わるわけではない。かちりと、頭を切り替える。

 

「上杉家の後継か。本来であれば、光哲殿(上杉憲政)にもお伺いを立てるべきなのだが」

「あの人、もう何事にもやる気がないではありませんか」

「そう言ってやるな。光哲殿も、これまで随分と苦労なされた。少しくらい息をついてもよかろう」

「ふーん」

 

 平三は、いかにも面白くなさそうに鼻を鳴らした。なんだか、やけに当たりが強い。仮にも養父だろうに。

 

「話を戻そう。最終手段として、六郎(長尾政景)の倅を迎える手がある」

「上田の長尾さんの? たしか、最近生まれたのでしたか」

「最近って、お前……。今年で十になるぞ」

「おや? もうそのような歳でしたか」

「綾の子でもある。山内上杉家の血こそ引いておらんが、越後長尾家の一族には違いない。少なくとも、家中を納得させるには十分な血筋だろう」

 

 かつて平三と敵対していたこともあり、以前は上田長尾家の者というだけで顔をしかめる家臣もいた。だが、今ではそうしたわだかまりも、すっかり薄れている。

 時間と政略婚姻が、ようやく実を結んだということだろう。

 

「ああ姉上の。なるほど。それなら安心ですね」

「……そうだな」

 

 表向き、平三は生涯独身を貫いていることになっている。二十の頃から平三の容姿に変わりないが、それでも既に四十路に近い。

 それでも妻帯を禁ずる仏門の戒律を重んじ、私欲を捨てて毘沙門天へ身を捧げた武将。そんな像が、いつの間にか世間では出来上がっていた。むしろ、それこそが上杉輝虎の強さを支えていると信じる者すら多い。

 

 京の公家や僧侶たちからの覚えも悪くない。ならば、無理に婚姻を結ばせずとも、養子を迎えれば家は続く。理屈の上では、それで何の問題もない。

 

「では、兄上」

「ん?」

 

 

 

 

 

「私が子を宿す必要はありませんね」

 

 

 

 

 

 後頭部を金槌で殴られたような衝撃が走った。

 

 ――何を、驚いている。

 

 自分でそうなるよう、道を整えたのではないか。平三が女として生きずとも済むように。子を産まずとも、当主としてあり続けられるように。そうしたのは、俺だ。

 

 だというのに、その言葉を本人の口から聞かされた途端、胸の奥がひどく冷えた。

 

「……あ、ああ。そう、だな」

 

 どうにかそれだけ答える。頭が痛い。胸が締めつけられ、うまく息ができない。まるで、これまで見ないふりをしてきた己の罪を、目の前に突きつけられているようだった。

 

 平三は穏やかに微笑んでいる。心の底から安堵したとでもいうように。自ら子を宿さずとも上杉家は続く。そのことを、ただ目出度いと喜んでいる。

 

 そう考えるよう仕向けたのは、俺だ。別に、子を宿すことだけが女の幸せではない。遠い未来の日本では、性別に縛られず、誰もが自ら望む道を選べる世の中になっていた。むしろ、女は結婚して子を産むことこそ幸せなのだという価値観は、古臭いものとして扱われていたくらいだ。

 

 平三が子を望まないのなら、それを責める理由などどこにもない。当主として生きる道を選び、戦場に立ち、己の力で人生を切り開いた。その生き方を否定するつもりもなかった。

 

 ならば、なぜ。なぜ俺は、これほどまでに苦しい。

 

 ――違う。

 

 平三が子を産まないことが悲しいのではない。こいつが、自分には初めからその道など存在しなかったかのように語ることが苦しいのだ。

 

 望むか、望まないか。本来なら平三自身が選ぶべきだった。だが俺は、その選択肢を与えることすらせず、当主として生きる道だけを差し出した。

 そして平三は、それを己の望みであるかのように受け入れている。

 

 何の恨み言もなく。何の未練もなく。穏やかに笑いながら。その笑顔が、たまらなく痛かった。

 

「兄上?」

「……すまん。俺は、寝る」

 

 これ以上、平三の顔を見ていられなかった。立ち上がろうと縁側へ手をつく。だが、思うように力が入らない。

 視界がわずかに揺れ、足の裏が地に着いていないような感覚に襲われる。酒に酔ったわけではない。先ほどまで口にした量など、たかが知れている。

 

 あるとすれば。胸の奥に溜まった膿が、急に全身へ回ったのだろう。

 

「兄上、大丈夫ですか?」

「ああ。少し、気分が悪くなっただけだ」

 

 心配そうな声を背に受けながら、俺は自室へ向かおうとした。

 

 一歩。さらに、もう一歩。足元がおぼつかない。廊下へ上がる際には柱へ手をつき、どうにか体を支える有様だった。

 

 情けない。これでは、逃げ出しているのと何も変わらないではないか。いや、事実として俺は逃げている。それでも今は一人になりたかった。平三の前でこれ以上、自分の醜さを晒したくなかった。

 

「兄上」

「……平三。悪いが、今は――」

 

 言い終えるより先に、手首をつかまれた。細い指だった。だが、戦場で幾千もの兵を率い、幾千もの敵を屠ってきたその手は、俺を逃がすまいとするように、強く力を込めていた。

 

「兄上」

 

 振り返ることができない。今の俺は、まともではなかった。頭がおかしくなっている。冷静さなど、とうに遠い彼方へ消えていた。

 

 駄目だ。頭を切り替えられない。これまでなら、どれほど苦しくとも感情を押し込み、目の前の問題だけを考えることができた。

 

 父が死んだときも、息子が死んだときも、妻が死んだときも、弟が死んだときも家臣が死んだときも兵が義父が恩師が―――皆死んだときも。

 そうやって、何年も生きてきた。だが、今はできない。ここに来て、とうとう壊れてしまった。見ないふりをして積み重ねてきた澱が、内側から俺を蝕んでいる。もう、誤魔化しが利かなくなっていた。

 

「兄上。私、何かしてしまいましたか」

「ち、違――」

「お気に召さぬことをしてしまったのであれば、謝ります。至らぬところは直します。分からぬことも、きちんと学びまする」

「……平三?」

 

 我に返って、振り返る。平三は、ひどく怯えた顔をしていた。戦場では何万の敵を前にしても揺らがぬ女が、今はたった一人の兄を前に、行き場を失った子供のように立ち尽くしている。

 

「兄上、どうか、そのようなお顔をなさらないでください」

 

 手首をつかむ指が震えていた。

 

「お願いします。私は、兄上に嫌われてしまったら、生きていけませぬ」

「平三、俺は――」

「お願いします」

 

 言葉を重ねる暇すら与えず、平三は縋るように繰り返した。

 

「お願いします。兄上。どうか、私をお捨てにならないでください」

 

 それは、罪の証だった。俺が積み重ねてきたものが、目の前で形を成していた。

 

 平三を当主に据えた。戦場へ送り出した。その力を利用して、越後をまとめ、武田を退け、北条を押し戻した。俺は平三の強さを、あまりにも都合よく使いすぎた。あいつが俺の言葉ならば聞くことを知っていた。

 俺に褒められれば喜び、俺に必要とされれば、どれほど危険な戦場へも嬉々として赴くことを知っていた。知っていながら、止めなかった。

 

 利用した。平三が俺を慕う心を、忠誠へとすり替えた。俺に認められることを、生きる理由にしてしまった。そして今、こいつは俺に嫌われれば生きていけないと、心の底から信じている。

 

 何万の兵を率いる上杉輝虎が。軍神とまで呼ばれる女が。たった一人の兄に捨てられることを、何よりも恐れて震えている。

 

 そうさせたのは、俺だ。

 

「……違う」

 

 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。

 

「違うんだ、平三。お前は何も悪くない」

「では、なぜ……」

 

 平三の指は、なおも俺の手首をつかんでいた。その力が、ひどく弱々しく感じられた。

 

 先ほど平三は、自分が子を宿す必要がなくなったことを喜んでいた。それもまた、俺が作り上げた考えなのだろう。

 女としての生を望まぬように。妻となることも、母となることも、自分には初めから必要のないものだと信じるように。

 

 平三が本心から子を望まぬというのなら、それでよい。子を産むことだけが女の幸せではない。そんなことは分かっている。

 

 だが、こいつは本当に自分で選んだのか。選ぶ前から、俺が他の道を塞いでしまったのではないか。男として振る舞うことを求められ、当主として強くあることを求められ、俺の役に立つことを喜びとするよう育てられた。その果てに、子を宿さずに済むことを安堵している。

 

 それは果たして、平三の意思なのか。それとも、俺にとって都合のよい()()になるために、本人すら気づかぬまま捨てさせられた望みなのか。

 

 分からない。何一つ、分からなかった。ただ一つ言えるのは、俺は越後を守るなどという綺麗事のために妹の人生を使い潰したということ。

 戦えるところだけを残して。俺を慕う心だけを残して。それ以外を、必要のないものとして切り捨てさせた。

 

「……俺は」

 

 喉が震えた。

 

「俺は、お前に何をしてしまったんだろうな」

 

 外の景色を眺める。今夜はこんなにも月が綺麗なのに、俺の内側はその対極にあった。

 

「気づけば俺は、お前が俺なしでは生きられないようにしてしまった」

「そのようなことは――」

「あるんだ……あるんだよ」

 

 平三の言葉を遮った。これ以上、俺を肯定してほしくなかった。そんなことをされたら、また俺は自分を許す理由にしてしまう。

 

「お前が俺を慕ってくれることに甘えた。俺の言うことなら何でも聞くと分かっていて、それを利用した。戦わせた。家を背負わせた」

 

 平三の顔が、わずかに強張る。

 

「それなのに俺は、お前が満足しているのだから構わないと、勝手に納得していた」

 

 馬鹿げている。平三が俺の望むように育ったことを見て、それを本人の幸せだと思い込んでいた。自分に都合のよい答えだけを拾い続けてきたのだ。

 

「今さらだ」

 

 笑おうとしたが、声にはならなかった。

 

「本当に、何もかも今さらだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 分からなかった。

 

 兄上が、なぜこれほどまでに苦しんでいるのか。

 

 浮世の理は、いつだって私には難解だった。人がなぜ笑うのか。なぜ怒るのか。なぜ、口では喜びながら、心の内では憎しみを抱くのか。幼い頃から、私にはよく分からなかった。

 

 だから、兄上の言葉を道しるべにした。兄上が正しいと言うものを正しいと信じ、兄上が悪いと言うものを悪いと覚えた。

 

 弱き者を助けよと教えられれば助けた。無闇に人を殺してはならぬと諭されれば、殺さぬよう努めた。戦えと言われれば戦い、退けと言われれば退いた。

 

 それでよかった。兄上に従ってさえいれば、私は人として正しく在ることができた。

 

 兄上は聡明な方だった。人望に厚く、慈悲深く、誰よりも越後のことを考えていた。隠居して久しい今でさえ、兄上を慕う家臣は多い。

 たとえ兄上と対立した者であっても、その多くは家の立場や、先代から続く因縁によって刃を向けざるを得なかっただけだ。しがらみさえなくなれば、誰もが兄上に従った。

 

 当然のことだった。兄上は、そういう方なのだから。

 

 だから私は、兄上に仕えることこそが己の役目だと信じていた。人の心を解せぬ私にも、戦うことはできた。

 敵を倒し、城を落とし、兄上の望むものを手に入れることができた。それが、私の存在する意味だった。

 

 兄上の役に立つ。

 兄上に褒めていただく。

 兄上の傍らにいる。

 

 それさえあれば、他には何もいらなかった。

 

 妻になることも。母になることも。女として生きることも。私には必要のないものだと思っていた。否。必要があるのかどうかさえ、考えたことがなかった。

 兄上が私を必要としてくださる。それだけで、すべて満たされていたから。

 

 だというのに、今の兄上は苦しんでいる。何かに憤り、何かを悔い、今にも壊れてしまいそうな顔をしている。

 そして、その原因が私にあることだけは分かった。

 

 私が、子を宿さずに済むと口にしたから。あの言葉で、兄上を傷つけた。

 

 何を誤ったのだろう。

 何を言えばよかった。

 分からない。何一つ、分からない。

 

 ただ、兄上が苦しんでいる。私のせいで。

 

 その顔を見ていると、幼い頃の記憶が蘇った。父上の顔。母上の顔。私を見るたび、得体の知れぬものを前にしたように強張っていた。

 笑えば怯えられた。黙っていれば気味悪がられた。言いつけに従えば、かえって恐れられた。何をしても駄目だった。

 

 どう振る舞えば人に好かれるのか、私には分からなかった。ただ一人、兄上だけが違った。兄上だけは、私を見て怯えなかった。

 私の頭を撫でてくださった。よくやったと褒めてくださった。間違えれば叱り、それでも見捨てず、次にどうすればよいのかを教えてくださった。

 

 兄上だけが、私を人として扱ってくださった。

 

 その兄上が今、父上や母上と同じ顔をしている。私を恐れている。私を悔いている。私という存在を、間違いだったと思っている。

 

 そう考えた途端、息ができなくなった。胸の奥が締めつけられ、手足から力が抜けていく。

 戦場で死ぬことは怖くない。首を刎ねられようと、槍で胸を貫かれようと、どうということはない。

 

 だが、兄上に嫌われることだけは耐えられなかった。おそらく、私の中に残された人らしい感情は、すべて兄上の周りにしか存在しない。

 喜びも、悲しみも、恐れも。兄上が笑えば嬉しい。兄上が苦しめば悲しい。兄上が離れていけば、それは何よりも恐ろしいことだ。

 

 それなのに、どうすればよいのか分からなかった。

 兄上に、私を嫌わないでほしい。

 捨てないでほしい。

 傍らに置いてほしい。

 

 けれど、そのようなことを願う資格が、私にあるのだろうか。

 

 兄上を苦しめているのは私だ。悪いのは私だ。私がもっと人の心を理解できていれば。兄上の望む言葉を口にできていれば。兄上を、このような顔にはさせなかった。

 ならば、兄上に私を嫌うななどと願うことは、あまりにも身勝手ではないか。

 

「……兄上」

 

 声が震えた。

 

 何を言えばよいのか、やはり分からなかった。

 

 謝るべきなのか。消えるべきなのか。それとも、何も言わずに兄上の手を離すべきなのか。

 

 けれど、指は動かなかった。手首をつかんだまま、離すことができなかった。離してしまえば、兄上はそのままどこかへ行ってしまう。そして二度と、私を見てくださらない。

 

 そんな気がした。

 

 

 

 

 

 ――お前が迷えば、俺が支える。だから俺が間違えば、お前が正してくれ。

 

 

 

 

 そのとき、ふと、遠い日の言葉が蘇った。

 

 いつかの林泉寺の縁側で、兄上が私にくださった言葉だった。それは、暗闇に差し込んだ一筋の光にも等しかった。

 なぜなら、その言葉はすなわち――兄上もまた、間違えることがあるという意味だったからだ。そして、きっと今がその時なのだ。

 

「あ、兄上」

 

 乱れた息を整えながら、もう一度呼びかける。そうだ。今の兄上は、何かを間違えている。一人で悩み、一人で抱え込み、ついには耐えきれず、自らを責め立てている。

 かつて国衆同士の諍いを収められず、挙句の果てにすべての責任を放り出して出奔しようとした、あの頃の私と同じように。

 

「言葉にしていただかねば、私には分かりませぬ」

 

 私は阿呆だ。いっそ白痴であった方が幸せだったのではないかと思うほど、私の頭は出来が悪い。だが、だからこそ。

 

「……私は、その、人情の機微に疎く、その上、察しも悪うございます」

 

 喉が詰まりそうになる。それでも、一つひとつ言葉を選んだ。

 

「控えめに申し上げても、出来の悪い妹です。そのことは、兄上もよくご存じでしょう?」

 

 今、私が感じていること。兄上が何を考えているのか。互いに言葉を交わし、どうしたいのか、どうしてほしいのかを確かめる。

 それは、兄上がこれまで誰に対しても、愚直なまでに続けてきたことだった。

 

「ですから、話し合いましょう」

 

 つかんだ手に、わずかに力を込める。

 

「たぶん今、私たちはすれ違っています。ですから、きちんと話し合いましょう」

 

 涙が溢れそうになった。ああ。私にも、このように人らしい振る舞いができるのだ。そう思うと、胸の奥にほんのわずかな安堵が生まれた。

 

「兄上は、私にどうしてほしいのですか」

 

 声はまだ震えていた。それでも、目を逸らさずに問いかける。

 

「私は今、とても不安です。おそらく私は、また何も考えずに口にした言葉で、兄上の御心を傷つけてしまったのでしょう。ですが、それは私の本意ではありません。何がいけなかったのか、いつものように教えてください」

 

 息継ぎを忘れるほど、必死に言葉を紡いだ。

 

「無論、教えていただいたことを、すべて完璧に直すことはできぬと思います。それでも、心がけることはできます」

 

 私は兄上のようにはなれない。人の心をすべて理解することなど、きっと生涯できないだろう。けれど、知ろうとすることはできる。兄上が何に傷つき、何を恐れ、何を望んでいるのか。

 

 それを尋ねることくらいなら、私にだってできる。

 

「ですから、兄上の心の内をお聞かせください」

 

 だから、どうか、私の知らぬところで一人きりにならないでほしい。そんな悲しいこと、しないでほしい。

 

「もしかすれば、そこまで気に病む必要のないことやもしれませんよ」

 

 さすがに、楽観的すぎるだろうか。それでも、少なくとも。私と兄上が、互いを憎み合うような結末にはならない。だって私は――

 

 

 

 

 それから、私たちは長いこと話し合った。

 

 兄上の考えていることを。私がこれまで考えてきたことを。互いに言葉を尽くし、胸の内を一つずつ明かしていった。

 

 それでもやはり、私は兄上の苦悩を十分には理解できなかった。どうやら兄上は、私が子を宿さずに済むことへ安堵した、そのこと自体を悲しんでいるらしい。

 私が男として生きている以上、子を宿せば対外的に大きな問題となる。その現実を差し引いてもなお、私が母となる道を初めから不要なものとして切り捨てていることが、兄上には耐え難かったのだという。

 

 やはり、よく分からなかった。私は子を欲しいと思ったことがない。妻になりたいとも、母になりたいとも考えたことがない。

 それは兄上に奪われた未来だったからではなく、ただ、それ以上に欲しいものがあったからだ。

 

 兄上の傍らにいること。

 兄上の役に立つこと。

 兄上と共に生きること。

 

 私にとっては、それだけで十分だった。けれど、その考え方そのものが、兄上を苦しめることにつながる。

 ならば、兄上が悲しまぬ答えとは何だろう。私が子を宿すことを拒まず、なおかつ、私自身も心から望むことのできる相手。

 

 そんなものは、考えるまでもなかった。

 

「ならば、私は――」

 

 兄上の手を握ったまま、私は一つだけ確かな思いを言葉にした。

 

「兄上のお子が欲しゅうございます」

 

 それが、私の真実だった。

 

 私には理解しきれぬ理の上で、兄上は私の幸せを考え、それが叶わぬことに苦しんでいた。ただ、私のためだけに思い悩んでいる。そのことが、私にとってどれほど嬉しいことか。兄上は分かってくださるだろうか。

 この戦国の世にあって、女である私の生き方を案じ、失われたかもしれぬ幸福に心を痛めてくれる。そのような人が、どれほど得難い存在なのか。きっと兄上は、少しも理解していない。

 

 ああ。やはり、私には兄上しかいないのだ。

 

「――ふぅ」

 

 小さく息を吐き、呆然としている兄上の肩へ手を添えた。そのまま、ゆっくりと座敷へ押し倒す。

 抵抗はなかった。兄上はされるがままに仰向けとなり、何が起きたのか理解できぬといった顔で、ただ私を見上げている。

 

 本当に愛おしい。そのような顔を、もっと見たいと思ってしまう。思えば私は、ずっと以前からこうしたかったのかもしれない。

 

 ただ、考えようとしなかった。考えなかったのではない。考えてはならぬことだと知っていたから、心の奥へ押し込み、存在しないものとして扱っていた。

 

 妹が兄を恋い慕うことは、世の禁忌。だから私は、この感情に名を与えなかった。

 兄上の傍らにいられればよい。兄上の役に立てればよい。そう言い聞かせ、自らの思いを別の形へすり替えてきた。

 

 けれど。

 

 それがもし、そんなことが許されるのなら――

 

「……へ、平三。俺は」

「それです」

「な、何がだ」

「平三、という呼び名です」

 

 兄上の顔を覗き込みながら、私は静かに問いかけた。

 

「兄上が頑なに私をそう呼び続けてきたのは、私を女子として意識しないためですか?」

「な、何を言って……」

 

 兄上は露骨に目を逸らした。その仕草だけで、胸の内に温かなものが広がっていく。

 

「存外、兄上にも可愛らしいところがおありなのですね」

「平三」

「また、その名でお呼びになる」

 

 兄上は、たしなめるように私の名を呼んだ。けれど、その声には力がない。私はそこで初めて、兄上もまた何かを恐れ、ずっと目を背け続けてきたのではないかと思った。

 ならば今度は、私が伝える番だ。

 

「兄上。お慕いしております」

 

 兄上の目を見つめ、胸の内に秘め続けてきた思いを口にする。

 

「ずっと以前から、私は兄上をお慕いしておりました」

「お、俺は……」

「幼き頃からです。二人で棒切れを振るっていた、あの頃から」

 

 思い返せば、どれほど長い歳月だっただろう。

 

「ずっと。ずぅっと。本当に永い間、私は兄上だけを見ておりました」

「待ってくれ。俺は、お前の兄で――」

「思ふには、忍ぶることぞ、負けにける。逢ふにしかへば、さもあらばあれ」

 

 その先を遮り、歌を口ずさむ。なぜ人は、許されぬ相手を恋い慕ってしまうのだろう。

 今の私には、在原業平の心が分かるような気がした。だって、これほどまでに溢れてしまう。長い年月をかけて胸の奥にせき止めてきた思いが、今や濁流となって押し寄せている。

 

 この流れを押し留めることなど、私にはもうできそうになかった。

 

「真に私の幸せを願ってくださるのであれば――」

 

 兄上の手を取り、両手で包み込む。

 

「どうか、私にお慈悲をおかけください」

 

 言ってしまったなぁ。口にしてから、胸の内でそう呟く。一度言葉にしてしまえば、もう以前の私たちには戻れないかもしれない。

 

 それでも、おそらくこれが最も後悔の少ない選択だった。何も告げぬまま思いを葬り、兄上の傍らで生涯笑い続けるよりは、ずっとよい。

 

 たとえ拒まれるとしても。せめて一度くらいは、この思いが確かに存在したのだと、兄上に知ってほしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうか、私にお慈悲をおかけください」

 

 俺は、どうすればよいのか分からなかった。目の前にいる妹は、これまで見てきたどの瞬間よりも美しく、まばゆいほどの輝きを放っていた。

 

 そんな平三に、何と答えればよいのか。皆目、見当もつかなかった。

 

 お前は家族への情と男女の情を混同しているだけだ、とか。どうして、そこまで俺などを慕うのだ、とか。そもそも俺はもう還暦間際だ、とか。脳裏に浮かぶのは、そんな情けない言い訳ばかりだった。

 

 けれど、どれも口にはできない。結局、俺は何も答えられぬまま、ただ言いよどんだ。

 

 すると平三は、

 

「はぁ……」

 

 と、心底呆れたように息を吐いた。それでも、その眼差しには怒りも失望もなかった。ただ、困った者を見るような慈愛だけが満ちている。

 

 そして――。

 

「女がここまで頑張っているのですよ?」

 

 平三は、俺をまっすぐに見つめた。

 

「兄上も男なら、少しは頑張ってください」

 

 そんなことまで、言わせてしまった。その一言が、俺の中にかろうじて残されていた、なけなしの虚栄心をいたく刺激した。

 

「……もう、手のかかる妹だなんて言えないな」

「はい?」

「お前は、こんなにも立派になった」

 

 平三の顔を見つめながら、遠い昔を思い出す。

 

「本当に、立派になったよ」

 

 幼い頃の平三は、物事の善悪もよく分からず、俺に馬鹿げた問答を繰り返していた。暇さえあれば稽古をせがみ、棒切れを手にして俺の後を追い回す、ただの洟垂れだった。

 それが今や、越後を束ね、何万もの兵を率い、敵国から軍神とまで恐れられている。

 

 強くなった。賢くなった。人の心を分からぬと言いながら、誰よりも深く他者を思いやることのできる人になった。

 

 ましてや――。

 

「まさか、歌で口説かれることになるとはな」

「おかげさまで、教養だけは身につけておりますから」

「自分で詠んだ歌なら、なおよかったんだが」

「……それは、兄上がなさるべきでしょう」

 

 平三は不満そうに口を尖らせた。その仕草が。その声が。そのすべてが、何ものにも代え難く思えた。

 

「すまん」

 

 俺は一度、深く息を吸った。

 

「俺は今まで、玉無しだった」

「存じております」

「おい」

「違うのですか?」

「……違わないな」

 

 思わず苦笑が漏れた。こんな時でさえ、平三は平三だった。だからこそ、もう逃げることはできない。

 

「だから、一つだけ、お前に伝えなければならない」

「……ええ、どんな?」

 

 平三の表情から、わずかに笑みが消える。それは精一杯の強がりだったのだろう。

 

 俺はまっすぐに妹を見つめた。もう二度と、言葉を飲み込まないために。

 この先、どのような結末を迎えようとも、少なくとも今この瞬間だけは後悔を残さないために。

 

「平三――お前を、愛している」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこは虎千代ーとかお虎さんーとかじゃないんですね」

「今更呼び名は変えられないって」

「なんだかぐだぐだですねー」

「で、返事は?」

「もちろん。末永く、よろしくお願いしますね?」

 




・長尾晴景
 面倒くさい兄。あとヘタレ。
 愛する妹が、子を産むような事態にならなくて良かったと微笑む姿。それこそが、己の罪の証だった。
 この後、なんやかんやあって襲われました。
 本話で58歳前後。

・上杉輝虎
 面倒くさい兄を、それでも愛した妹。
 愛する兄が、ただ自分の幸せを願っていた。それこそが、己の幸せの証だった。
 この後、なんやかんやあって襲いました。
 本話で38歳前後。



Q:歩き巫女を人払いを済ませた客間に連れ込んだ兄上に関して、お虎さんはどう考えてるの?
A:お虎さんは男性が難儀な性を有していることを知っていますので何とも。ただちょっとモヤっとするだけ。あと本話のタイトルが答え。
 ただまさか相手が信長だったということは知らない。

Q:今回の話の後、肉体年齢的に大丈夫?
A:お虎さんはなんかすごい神秘で肉体年齢が20~30歳くらいの状態ってことにしておきます(暴論)。兄上は頑張った。

どっち?

  • お虎さん
  • ノッブ
  • どっちも!
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