今回は整理回。複数の伝記片手に書いてるけど、そろそろ日本史ニワカなのがバレそう。
今後の執筆の励みにもなりますので、もしよろしければ、これからも引き続きお気軽に感想をお寄せいただけますと幸いです!
「兄上。たぶん、お子ができました」
ある春の日のこと。平三は、今日の夕餉を告げるような気軽さで、そんな重大事を口にした。
「……は?」
およそ一月前。あの月夜の晩、俺と平三は、その場の勢いに任せて一線を越えてしまった。
まずい。何もかもが、まずい。色々とアレな平三はともかく、還暦も間近になって何を初々しい恋愛に浮かれているのだ、俺は。
思い返した途端、猛烈に恥ずかしくなってきた。
いや、問題はそこではない。
それ以前に、実の兄妹で交わったことが、どう考えてもまずい。平三から報告を受けた俺の胸中には、喜びと恐怖と焦りが一度に押し寄せた。
子を授かったことは、もちろん嬉しい。
しかし、表向き男として生きる上杉輝虎が懐妊したとなれば、洒落では済まない。何よりも早急に手を打たねばならなかった。
中絶は論外。そして妊娠した以上、平三をこれまでのように戦場へ送り出すわけにはいかない。
「しばらく出兵は禁止だ」
「え。私は別に問題ありませんが」
「……お前様の頑丈さを心配しているんじゃねえのよ」
いや、正確には、平三のことも死ぬほど心配している。できることなら、しばらくは屋敷で安静にしていてほしい。見た目が二十代のころから変化がないから忘れそうになってしまうが、平三も四十路間際である。
まして妊娠の初め頃は、何かと不安定な時期だったはずだ。流産の恐れもある。無理をさせて、腹の子へ負担をかけるわけにはいかない。
いつ悪阻が始まるかも分からないし、戦場で突然具合を悪くしようものなら、秘密そのものが露見しかねない。
平三は退屈そうに頬を膨らませたが、
「腹の子のためだ」
そう言い聞かせると、さすがに渋々ながら頷いてくれた。
おそらく、この時ほど俺の頭が目まぐるしく働いたことはないだろう。
幸いなことに、これまで平三が東奔西走してくれたおかげで、越後に隣接する越中、信濃、上野は比較的平穏を保っている。
出羽については――まあ、放っておいてもよいだろう。あそこは相も変わらず国衆同士の争いに忙しい。
もっとも最近、最上のとこの小僧とは少しばかり親しくなった。歳の割に体が大きく、それ以上に利発そうな若武者だった。あれは将来、相当な大物になる気がする。
なので、ほんの少しだけ支援しておいた。なあに、ちょっとした心づけですよ。心づけ。それで信望が買えるなら安いものだ。
さらに追い風となったのは、目下もっとも警戒すべき武田が、信濃ではなく駿河へ目を向け始めていたことだった。
七年前、今川義元は織田信長に討ち取られた。以来、今川氏の勢力は目に見えて衰えている。その証拠に先日、義元の嫡子である今川氏真から、同盟を求める使者が駿河より訪れた。
武田と同盟を結んでいるにもかかわらず、である。武田が駿河へ食指を伸ばしているという噂は、どうやら氏真の耳にも届いているらしい。
さて、ここからが頭の使いどころだった。
一見すれば、武田包囲網を築くためにも、今川と手を結ぶのが良策に思える。しかし、上杉家には一つの方針がある。
侵略を目的とした戦は行わない。あくまでも、他国から救援を求められた時にのみ出兵する。まさに、綺麗事を地で行くような方針だった。
そして恐るべきことに、平三にはそれを貫き通せるだけの武力とカリスマがある。
だが仮に武田が駿河へ侵攻し、上杉が今川を救援しようとした場合、話は簡単ではない。越後から駿府へ、軍勢を直接送り込むことなどできない。いかに上杉軍が精強であろうと、駿府まで一息に飛んでいけるわけではないのだ。
今川を間接的に救うのであれば、信濃、あるいは甲斐へ攻め込んで、武田軍を駿河から引き戻すほかない。つまり、今川を守るために武田の領国へ侵攻することになる。そうなれば、これまで掲げてきた上杉家の方針を破らざるを得ない。
これは大問題だった。
そもそも上杉軍の統率は、常に平三の神懸かり的な武勇とカリスマ、そして揺るぎない大義名分によって支えられている。そのうち、大義名分だけがいささか弱くなるのだ。
救援を求められているのだから、別に問題はないのではないか。そう思われるかもしれない。だが、今川と正式に同盟を結ぶのであれば、両家は少なくとも建前の上では対等な関係となる。対等であるということは、それだけの力がなければならない。
何より、家格だけを見れば今川家は別格の名門だ。足利将軍家の一門に連なる家柄であり、守護代から身を起こした越後長尾家とは、比べるべくもない。
もっとも現在の平三は山内上杉家を継ぎ、関東管領の職にある。一方の今川氏は、駿河と遠江の守護を務め、かつては三河にまで勢力を伸ばしていた大名だ。役職と現在の勢力まで含めれば、上杉が引けを取るとは思わない。
実は形式の上では、むしろ平三の方が上なのかもしれない。まあ、そのあたりは今はどうでもよい。
問題は、これまで上杉へ救援を求めてきた者たちと、今川氏とでは事情がまるで違うことだった。これまで助けを求めてきたのは、自力では領地を守れず、敵に奪われるほかなかった国衆たちである。
一方の今川氏は、名門であり、守護であり、義元の代には名君とまで称された。だが同時に、遠江や三河へ積極的に勢力を広げた侵略者でもある。
遠江については、かつて失った守護職と領国を実力で取り戻したという見方もできるため、単純に侵略と言い切るのは難しい。それでも、これまで上杉が救ってきた者たちと同列には扱えなかった。
さて、困った。今川と手を結べば武田を牽制できる。しかし武田が駿河へ攻め込めば、今川を救うために、こちらから甲斐や信濃へ攻め入らねばならない。
そもそも、今川はこれまで奪う側だった。その上、北条や武田といった、他国を切り取ることに躊躇のない者たちとも同盟を結んでいる。
ああ、いや。北条は領地こそ奪うが、治める民には心底から善政を敷いている。武田と一緒くたにするのは、さすがに気の毒か。ともあれ、こうして考えてみると、今川と同盟を結ぶことが本当に上杉のためになるのか、甚だ疑わしい。
要するに、今川の言い分はこうだ。
「三河や尾張へ勢力を広げるため、これまでは武田と手を結んでおりました。しかし義元が死んでから、どうにもあちらが怪しい。ゆえに上杉殿、駿河が攻められた折は背後から武田を討ってくだされ」
随分と都合のよい話である。これを上杉がそのまま呑み込めるか。答えは否だ。何より――今川は、自ら武田へ駿河侵攻の口実を与えかねない動きをしてしまっている。
「今川治部大輔殿には、こうお伝えいただきたい」
使者へ向き直り、言葉を選ぶ。
かつて二度目の川中島の折、和睦を取り持つため、太原雪斎殿には骨を折っていただいた恩がある。無論、その際には相応の銭も支払っている。
その上、仲介した和議を武田に破られ、今川の面目まで潰されたというのに、結局これといった対応をしなかったことには、思うところがないでもない。
とはいえ、雪斎殿の恩まで忘れるつもりはなかった。同盟を結ぶことはできずとも、忠告の一つくらいはしておくべきだろう。
「なぜ、武田へ大義名分を与えるような真似をなされたのか、と」
使者の表情がわずかに強張った。
「今川、武田、北条の三家は、いまだ盟約を結んでいるはず。それにもかかわらず、越後へ密かに使者を寄越すことは、三国同盟の約に背く振る舞いと受け取られかねませぬ」
一度、言葉を切る。
「いささか、軽挙でございましたな」
そう。武田晴信は、ずっと待っていたはずなのだ。約定を破ることに躊躇のない男ではあるが、だからといって大義名分を軽んじているわけではない。
むしろ逆だ。兵を挙げるたび、その戦を正当化する名目を、誰より貪欲に探している。ああ、この手口は覚えがある。父だ。父・為景に通ずるものを感じる。
晴信の立場から考えてみれば、話は簡単だった。信濃への侵攻は、平三に阻まれて思うように進まない。一方、その南では、隣国をまとめ上げていた今川義元が討ち死にした。ならば次は、駿河へ目を向ければよい。手に入る港は、何も越後や越中である必要はない。
しかも今川は、同盟相手である武田を警戒し、敵対する上杉へ近づこうとしている。それを知れば、晴信はこう考えるだろう。
――先に盟約を破ったのは今川である。ならば、こちらが駿河へ攻め込んでも差し支えあるまい。
今川が助けを求めて伸ばした手は、皮肉にも武田へ刃を抜く理由を与えかねなかった。そして、そうした武田の動きを予想できず、あまつさえ防諜の策を講じぬ今川はやはり斜陽だ。我らが矜持を捨ててまで救援に向かったとて、呆気なく切り崩されて終わるだろう。
★
それから、さらに一月ほどが過ぎた頃。甲斐と三河へ放っていた草の者たちが、相次いで越後へ戻ってきた。
「ご隠居様。段蔵にございます」
「よくぞ戻った。して、どうだった?」
声のした方へ目を向けると、いつの間に入り込んだのか、加藤段蔵が平伏していた。
「やはり、徳川は武田と通じておりました。ご明察にございます」
「世辞はよい。それならば、徳川は遠江を、武田は駿河を切り取る腹と見てよさそうだな」
「おそらくは」
事態は、すでに動き始めている。相変わらず、歴史の進む速度がおかしい。老体でこのスピード感についていくのは大変だ。
近年の武田は、雪深い田舎に手こずるお山の大将などと陰口を叩かれているらしいが、さて、駿河へ矛先を変えればどうなることか。お手並み拝見である。
「それと、武田家について、もう一つ」
「申せ」
「武田家嫡子、武田太郎義信殿が自害なされたとのこと」
「……マジ?」
「マジにございます」
「あれか。今川と手を切るためか?」
「理由までは判然といたしませぬ。ただ、謀叛を企てたとも、今川と構えることに強く反対したとも」
「……そうか」
思わず、息を吐く。
「ご苦労だった。銭は弾む」
「は。ありがたき幸せ」
段蔵は深々と頭を下げ――次の瞬間には、姿を消していた。え、消えた? いや、足が速いとか、身のこなしが軽いとか、そういう次元ではない。どうなっているんだ、あいつ。
いや、今は段蔵の忍術に驚いている場合ではなかった。
武田太郎義信は、甲相駿三国同盟の折、今川義元の娘を妻に迎えている。その義信が自害したとなれば、武田と今川の間をつないでいた太い縁が、一つ断ち切られたも同然だ。
となれば、いよいよ晴信は駿河へ兵を向けるつもりなのだろう。
「……実の息子を、自害させるか」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、静かな座敷へ落ちた。晴信にとっては、これもまた大望のための決断なのかもしれない。
だが、たとえ国のためであろうと、家のためであろうと。俺には到底、真似のできない決断だった。
「兄上には、できませんもんね。そういうことは」
「ん、平三……いや、お虎か」
声に振り返れば、女物の着物をまとった平三――改め、お虎が部屋へ入ってくるところだった。
あれから本当に、色々とあった。悩んで、迷って、何度も頭を抱えた末に、俺はお虎を継室として迎えることにした。
上杉輝虎が子を設けないことは周知の事実だ。したがって前当主の晴景が世継ぎを用意する。そしてその子を輝虎が養子にする。実の子を養子にするというのもおかしな話だが、道筋としてはそんなところか。
そして表向き、上杉輝虎は現在、修行のために某所の寺へ籠もっていることになっている。つまり平三は一人二役を演じてもらうことになる。すまん。
流石に無理あるかなと思ったら、案の定一部の重臣たちは事情を察していたらしい。特に柿崎と大熊、それに
「釈迦に説法かとは存じますが、この時期が最も肝要ですぞ」
などと、聞いてもいない助言まで始める始末である。
というかお前たち、お虎が女であることを以前から知っていたのな。それでも平三を当主として認め、命を預け、今日まで付き従ってくれていたということになる。その事実が、どれほどありがたかったことか。
俺が平伏せんばかりの勢いで謝罪と感謝を述べると、彼らは揃って理解を示してくれた。でもその一方で「正直、見ているこちらが随分とやきもきいたしました」とも口を揃えて言われた。うう、すまん。すまんなあ、本当に。
兎に角、そういうこともあって、俺は現在当主代理として執務を取り仕切っていた。そしてそれは、従来と何ら変わりがなかった。
本当に、驚くべきことだ。俺が思っていた以上に、越後は一枚岩だったのだ。
「それで、兄上はどうするんですか」
「武田のことか?」
「はい」
「実のところ、織田殿から手紙が来ていてな」
手紙を要約すると――
『なんか信玄がわしに、お主の弟と和約したいと斡旋を依頼してきよった。でも十中八九擬態だから気にしなくてええよ。あと大丈夫だとは思うけど、武田は越中の一向一揆を越後にけしかけようとしとる。気をつけてな。追伸:継室との子ができたとか。おめでとう』
――というものだった。
ちなみに織田信長とは、今も書状を介して密にやり取りを続けている。おそらく晴信も、その関係を察した上で、信長に仲介を頼んだのだろう。
その織田は近頃、ついに斎藤龍興を下し、美濃を平定した。これで上洛までの道筋は、おおむね整ったことになる。そして彼女は、天下の静謐を目指す己の立場を、いよいよ明確に打ち出し始めていた。
かねてより時の公方様、足利義昭公は、各地の大名へ上洛供奉を盛んに呼びかけている。無論、その求めは越後の長尾・上杉家にも届いていた。
どうやら公方様としては、上杉家に兵を率いて上洛してほしかったらしい。だが、こちらは随分と前から、その役目には織田家こそふさわしいと推挙していた。
いかんせん、越後は畿内から遠すぎる。まして関東管領の職にある平三は、まず関東の平定を優先せねばならない。この乱世にあって、関東と畿内の双方へ同時に手を伸ばすなど、物理的に不可能だった。
ならば、越後よりも畿内に近く、今まさに破竹の勢いで版図を広げている尾張の織田であれば、公方様の御意向にも十分沿えるでしょう。そう申し上げたわけだ。
まあ、それによって信長の掲げる天下布武に少しでも寄与できるのであれば、こちらとしても安いものである。
閑話休題。
「はて。一向一揆は確か」
「ああ。もう、それどころではないだろうからな」
神保氏はすでに叩き潰した。その背後で蠢いていた一向一揆も、度重なる敗北によって、勢力を大きく衰えさせている。
今度また下手な動きを見せれば、ただでは済まない。そのことくらいは、さすがに骨身に染みて理解しているだろう。
何しろ、彼らを打ち破ったのは軍神と恐れられる上杉輝虎ではない。とうに隠居したはずの、この俺である。軍神が出てくるまでもなく潰されたのだ。これで再び立ち上がれという方が、無理な話だろう。
「とはいえ警戒するに越したことはない。直江と柿崎に頼むか」
「それでよろしいかと」
「晴信が駿河へ攻め込むのは、もはや確定事項だ。問題は――」
「北条ですか?」
「ああ。以前、今川氏真が同盟を持ちかけてきたように、北条氏康もこちらへ接近してくるかもしれない」
「もしそうなれば、応じるのですか?」
「いやあ。北条が上野の半分でも押さえていたなら、話は違ったんだがな」
「私、結構頑張りましたからね」
「よくやった。本当に偉い。ものすごく偉い」
「えへん」
お虎は得意げに胸を張った。
実際、こいつが何度も関東へ出兵し、北条を押し返してくれたおかげで、上野の情勢は随分と安定している。今さら北条と手を組まねばならないほど、こちらは追い詰められていない。
それに、北条と同盟を結べば、佐竹や太田をはじめとする常陸の勢力が黙ってはいないだろう。特に太田は北条のガチアンチだ。あの交渉力を敵に回したくない。あと佐竹は普通に強い。
せっかく長い時間をかけて友好的な関係を築いてきたのだ。北条との関係を改善するためだけに、それらをふいにするのは憚られる。
つまり、結論を言えば――。
「何もしない」
武田とも、今川とも、北条とも新たな同盟は結ばない。援軍も出さない。
たとえば今川や北条が武田へ経済的な圧力を加えようとも、こちらは関与しない。逆に、武田が今川へ攻め込もうとも、やはり手は出さない。
少なくとも、向こうから明確な救援を求められ、その上で上杉が兵を出すに足る大義が整うまでは。こちらから進んで、三国の争いへ首を突っ込む必要はなかった。
そして何より――
「ん?」
俺が平三の顔を見ると、妹は不思議そうな顔をして首を傾げた。かわい。
・長尾晴景
脳みそフル回転した結果、何もしないという決断にいたる。何が正しいかは知らないが、今もっとも優先すべきは跡継ぎのことだ。
あと家臣一同に謝り倒した。皆はそれを許した。普通ではありえないことだ。本当に家臣に恵まれている。
正室の墓にも謝り倒している。あと義父である上杉定実の墓の前でも謝り倒している。
最近謝ってばかりいる。
・上杉輝虎
お虎として継室になる。で、輝虎は修行中ということになっている。
最近稽古ができなくて退屈だが、それはそれとしてお腹の子の命を感じて幸せに思う。あと毎日兄に会えるため、それもうれしい。
どっち?
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お虎さん
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ノッブ
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どっちも!