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晴信が各地で無双する一方、斎藤龍興を下した織田信長は、足利義昭公を拠点である岐阜へ迎え入れた。ちなみに信長は小牧山城から稲葉山城――改め岐阜城に居城を移していた。意外と信長は中国に憧れてるようだ。
さて、義昭公の上洛供奉を請け負った信長は、自ら軍勢を率いて入洛した。そして摂津、河内、大和を次々と平定していった。
さらに、前将軍・足利義輝公を暗殺した――とも噂される三好三人衆の一人、岩成友通が籠もる勝竜寺城を攻略。その武威を恐れた三好方は、まともに刃を交えることもなく畿内から退いたという。
こうして畿内を安定させたのち、信長はようやく義昭公を京へ帰還させた。
そして義昭公は、第十五代征夷大将軍に就任した。その折には大層感謝されたと、信長は手紙の中で誇らしげに教えてくれた。文面からも、満更ではない様子がありありと伝わってくる。
ただどうにも俺には将軍からの感謝よりも、大和を治める松永久秀なる武将から譲り受けた茶器のほうを喜んでいるように見えた。主に文字数が違った。
幕府の機能を立て直そうとした信長は、真っ先にいくつかの規定を設け、実際に裁判制度まで復活させた。おそらく信長は判例を無視し、正式な手続きも踏まずに恣意的な裁定を繰り返せば、幕府が再び機能不全に陥ると考えたのだろう。
実際、畿内では領地問題や犯罪は日常茶飯事であった。そも将軍を暗殺しようとする輩が現れるのだ。花の都などという形容は、遠い過去の話である。
ただそれにしても、動きが早すぎる気はする。
あくまで俺の推測に過ぎないが、信長の目的は幕府そのものを再興することではなく、やはり自らの領国をさらに広げることにあるのではないだろうか。だからこそ、自らが京を離れている間の秩序を、将軍個人の力量に委ねようとはしなかった。
あらかじめ法を定め、仕組みを整え、その規則によって政を動かそうとした。義昭公を信頼し、京の政を託したというよりも、当座の秩序を保つため将軍として担ぎ上げたに過ぎない。そんな印象を、俺はどうしても拭えずにいた。
聞くところによれば、足利義昭公は長く僧籍にあり、還俗した後に公方となった方だという。武においては無論、政においても、先代将軍である足利義輝公と比べれば、いささか不得手と言わざるを得ないだろう。
俺自身、義昭公とは書状を通じてしか言葉を交わしたことがない。それでも、その文面からは、戦乱の世を自らの力で切り抜けてきた武将らしい強さを、あまり感じることができなかった。
「……だからこそ、あえて岐阜へ戻ったのではないか?」
「おうおう、滅多なことを口にするでない。誰かに聞かれでもしたら、どうするつもりじゃ」
そう言って、目の前の女は着物の襟元を大きく崩し、だらしなく身を横たえた。腰まで届く黒髪を無造作に流した、目を見張るほどの美女。
織田弾正忠信長である。相変わらず、見事なまでのうつけ仕草だった。
「構うものか。お前のことだ。どうせ厳重に人払いをしているに決まっている」
「嬉しいのう。限りなく」
「ぬかせ。公方様をあえて危地に置くとは、何たる無礼だ」
「それこそ戯言よ。お主とて、今の幕府がそのままでは使い物にならぬことくらい、分かっておるだろうに」
「だから、公方様を京に残して孤立させたと?」
「おうよ」
そうなのだ。信長は一度、用があると義昭公を京に残したまま、岐阜へ引き揚げている。
すると案の定、織田の跳梁を許せなかった三好方は、すでに織田の傀儡となりつつあった公方様の御所を襲撃した。権威を尊ぶ立場を取る俺からすれば、将軍を直接襲うなど到底理解できるものではない。
もっとも、その襲撃は、明智光秀という武将によって防がれたという。
――そう。
その名が気になって、経歴を調べさせたところ、もとは美濃の斎藤道三に仕えていたらしい。だが道三が息子と争ったことで一族は離散し、光秀は越前へ逃れて朝倉義景に仕えた。その後、義景の推挙を受けて足利義昭公に仕えることとなったのだとか。
主家を転々としながら、そのたびに仕官をかなえている。よほど運に恵まれているのか、あるいはそれだけの才を備えているのか。おそらくは、後者なのだろう。
閑話休題。
ともかく、三好方の襲撃を受けた義昭公は、身をもって痛感したはずだ。織田信長の力なくして、自分は京で生き残ることすらできないのだと。
「それで、公方様が弱ったところに手を差し伸べ、二条の地に新たな御所を造営したわけか」
「うむうむ。おかげで、立派な居所ができたわ」
「資材はともかく、金は出したからな。声を掛けてくれて、どうもありがとう」
俺がこうして織田弾正忠殿と対面しているのも、元をたどればこの一件が理由だった。
少し前、信長から「公方様の御所を建てるゆえ、金を出せ」と言われたので、言われるがまま出資したのである。
越後は周辺諸国も含めておおむね平定されており、武田も相変わらず、こちらの塩を盛大に買ってくれている。懐事情は大変潤っていた。
何より断る理由がない。公方様のために馳走するは武士の本懐である。
そして先頃、御所が完成したとの報せが届いたため、平三に代わって俺が視察に訪れた、という次第だった。まあ平三を寄越したところで、「へえ、立派ですね。それでは」くらいで帰ってしまうのが目に見えている。こういうのは俺が適任だった。
「なーに、礼には及ばん。わしもそろそろ、正式に協定を結びたいと思っておったからのう。お主とな」
「俺と? 平三ではなく?」
「ああ、そうじゃとも」
信長は寝そべったまま、目を細めた。
「わしが手を結びたいのは、関東管領・上杉輝虎ではない。お主じゃ」
「一応話を聞こうか」
「いやね。お主も知っていたとは思うが、畿内はわしが想像していた以上に終わっておった」
「……」
否定する言葉は出なかった。あれほど志を抱いておられた義輝様でさえ、あのような無念の最期を遂げられたのだ。そして俺を含め、天下の過半を占める大名や国衆にとって、今や幕府など、大義名分を与えてくれる便利な存在でしかない。
だが、それでは朝廷と何ら変わらない。権威はあれど、従わせるだけの力はない。名目ばかりが残り、その実を失っている。
力なき棟梁が征夷大将軍を名乗るには、この時代はあまりにも乱れすぎていた。――いや、それだけ世が乱れたからこそ、将軍は力を失ったと見るべきなのかもしれないが。
「お主が世を嘆き、わしへ例の製法書を寄越した理由も、よう分かる」
信長は、どこか愉快そうにいっそう目を細める。
「この入り組んだ権力の構造は、一度すべて均してしまわねばならぬ」
俺は、肯定も否定もしなかった。少なくとも表向き、俺は幕府に恭順する立場にある。将軍家を無用だと断じることなど、できるはずもない。
「将軍には天下を静謐へ導く気概が足りず。仏僧どもは教えに背き、酒色に溺れておる」
信長の声音から、先ほどまでの軽さが消えた。細められた赤い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「お主なら分かろう? これよりわしが成すことは、世間から見れば悪逆非道の限りとなろう」
その言葉には、気負いも悲壮さもなかった。己の罪を告白しているのではない。ただ、これから起こる事実を述べている。そんな口調だった。
「寺を焼くこともあろう。古き権威を踏みにじることもあろう。従わぬ者を、家ごと滅ぼすこともあろう。されど、そこまでせねば、この国は終わる」
信長は淡々と言葉を重ねる。それは覚悟の誓いですらなかった。信長にとっては、すでに選択の余地など残されていないのだろう。
「いつか、伴天連どもが攻めてくるやもしれぬ。あるいは、伴天連とはまた異なる何者かもしれぬ」
不意に、信長は遠いものを見るように視線を上げた。
「まあ、それ自体は何でもよい。問題は、そやつらが鉄砲を――あるいは、それを遥かに凌ぐ兵器を携えてくるということじゃ」
それが何年後になるのか。何十年後か。あるいは、何百年後になるのか。そんなことは分からない。
「だが、その時――」
信長は、ゆっくりと俺へ視線を戻した。
「果たして
問いかけでありながら、答えを求めているようには聞こえなかった。おそらく信長の中では、すでに答えが出ている。
今のままでは、できない。だからこそ、己がすべてを壊し、作り直す。そう言っているのだ。
「なら織田は我らに何を求める」
「
「……は?」
思わず聞き返した。
「そもそもお主らは領国を広げることに、さほど興味があるまい」
「ああ」
「もう貰うものは貰っておる。硝石の製法しかり、此度の二条御所築城においても、多額の銭を出してもらった」
「分からないな」
何かを求めるからこその同盟ではないのか。訝しむ俺を見て、信長はわずかに肩をすくめた。
「……お主らは強すぎるのじゃ。使いづらくて仕方がない」
随分な言い草である。
「仮にわしから上杉輝虎に兵を出せと願い出たところで、素直に従うはずもなかろう。強いて言えば武田を抑えてくれればありがたいが、先の越後の動きを見るにそれも強くは望めまい」
「悪いな」
「まったくじゃ」
信長は楽しげに笑った。彼女の言う通り、そもそも織田が同盟を求めようが、我ら越後衆が徳川のように兵を出すことは難しいだろう。
それは物理的な距離の制約でもある。あるいは武田を抑えてくれという話であれば、ギリギリなんとかなるかもしれないが、それも
「されど、上杉と織田が手を結んでいる。その事実だけで、十分に益がある」
東国で武田と北条を牽制する上杉。畿内で勢力を拡大する織田。その両者が手を結んでいると知れれば、敵対する者どもは、否応なく背後を警戒せざるを得ない。
なるほど。確かに、理にかなっている部分はある。だが、それだけでは弱い。信長がわざわざ俺個人との協定とやらを求める理由には、まだ届いていなかった。
黙って続きを促すと、信長は満足そうに口元を弧に歪めた。
「よいのう。話が早い。そうじゃ。
「……俺?」
「長尾弾正左衛門尉晴景」
信長は、俺の名を一字ずつ確かめるように口にした。
「お主ら越後衆は強い。国衆を束ね、信濃へ進み、関東では武田と北条を相手に一歩も退かぬ。じゃが、その強さの泉源は、お主とお主の弟――上杉輝虎じゃ」
「…………」
「ようもまあ、頭が二つもありながら、国が割れずに回っておるものよ。普通ならば家中が二つに裂け、とうに血を流しておる」
感心しているのか、呆れているのか。おそらく、その両方なのだろう。ただ勘違いしてほしくないのは、俺は隠居しているということだ。あくまでも当主は平三である。
「されど逆に申せば、お主ら二人がまとめて死ねば、越後は途端に弱くなる」
あまりにも容赦のない物言いだった。だが、すぐに否定することはできなかった。
俺自身、その危うさには薄々気づいていたからだ。俺はともかくとして、平三が死ねば、越後は立ち行かなくなる。
忠義に厚い者たちばかりに囲まれていると、つい忘れそうになるが、そもそも越後の武士は血の気が多い。同じく血の気が多く、戦であれば誰にも後れを取らぬ平三ですら、国衆同士の諍いに嫌気が差し、すべてを投げ出して出奔しようとしたほどだ。
それほどまでに、この国の内訌は根深かった。俺と平三の双方が死ねば、越後は再び割れる。
今のうちに制度を整え、後継を定め、混乱を最小限に抑えることはできるだろう。だが、完全に防ぐことはできない。必ずどこかで綻びが起きる。
それほどまでに、今の越後は平三という一人の存在に支えられていた。
「お主、あと何年生きられる?」
信長は淡々と問う。
「十年か。二十年か」
一つひとつの言葉が、逃げ道を塞ぐように胸へ突き刺さる。
「……何が言いたい」
「わしは、越後を攻める」
「――っ!?」
背筋が強張った。無意識のうちに腰が浮き、信長との間合いを測っていた。その反応を眺めながら、信長はわざとらしく一拍置く。
「――やもしれぬ」
冗談めいた口調だった。だが、その一言を冗談として受け流せるほど、場の空気は緩んでいなかった。
何せ信長の目は少しも笑っていなかった。煌々と輝く赤い瞳は、今もなお俺を容赦なく射貫いていた。
「ただし、そのような日が来るとしても、お主と関東管領殿が世を去った後じゃ」
「…………」
「幸い、時はわしに味方しておる。困ったのう?」
「……ああ。実に困った話だ」
脅しであることを隠す気すらないらしい。だが、わざわざ俺へ告げたということは、まだ未来が決まったわけではない。
「もっとも、そんな話を俺に聞かせるということは、交渉の余地があるということでもある」
「うむ。やはり、お主は話が早い」
信長は満足したのか、わずかに肩の力を抜いた。
「ところで、長尾弾正左衛門尉殿」
「なんだ」
「弥六郎と呼んでもよいか?」
「それは倅に譲った名だ。別のにしてくれ」
「では、六郎でよかろう」
「……好きにしてくれ」
「おお。急に親しくなった気がするのう!」
先ほどまで越後侵攻をちらつかせていた女とは思えぬ気安さだった。
「お主も、わしを三郎と呼んでよいぞ」
「人を脅した直後によく言えるな」
「是非もないよね!」
「やかましい」
まともに相手をしていると、こちらの調子まで狂わされる。信長はひとしきり俺の反応を楽しんだ後、気分よさそうに持っていた扇子をこちらに向ける。どうやら沙汰を下すつもりらしい。
「六郎。お主、岐阜へ来い」
「……は?」
・長尾晴景
困惑。本話で六十歳前後。
・織田信長
勝負。本話で三十六歳前後。お虎=輝虎とは流石に気付いてない。
どっち?
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お虎さん
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ノッブ
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どっちも!