同盟の議を終え、些か派手な祝賀の宴も佳境に入った頃。織田信長から、俺と二人きりで話がしたいと、人払いを済ませた茶室へ招かれた。
しゃっ、しゃっ、と。
彼女は自ら茶を点てている。茶筅が茶碗の底を撫でる乾いた音だけが、狭い茶室に規則正しく響いていた。
茶の湯、侘茶、あるいは茶道といったほうがなじみ深いか。
もとをただせば、中国から伝来した日本の喫茶文化である。伝来した当初は貴重な薬として一部の上流階級で飲まれていたのだとか。また現代日本でも名高い三代目将軍の足利義満は室町幕府の御用達として宇治茶を特別に保護し、今となっては公家のみならず武家や豪商の間でも浸透している。
かくいう俺も飲んだ経験がある。上洛した折には、公家衆との付き合いで詩会へ顔を出すこともあったし、その席で茶を振る舞われることも珍しくなかったのだ。
だから茶碗の扱い方だとか、飲み終えた後にどう振る舞うだとか、そういった初歩的な作法なら一応心得ている。というか父に死ぬほど叩き込まれた。
だが、こうして喫茶そのものを目的として席を設けられたのは、これが初めてだった。
なんというか、妙に落ち着かない。宴席ならば、酒を飲みながら好きに話せばいい。詩会ならば、歌や漢詩という分かりやすい主題がある。ところが、この場にはそれがない。
あるのは俺と、三郎信長のみ。しかも奴は、先ほどからほとんど口を開かず、ただ黙々と茶を点てている。
静謐。まさに、そんな言葉がよく似合う空間だった。
外の宴の喧騒さえ、ここまでは届かない。聞こえるのは茶筅の音と、ときおり衣が擦れる微かな音ばかり。
やがて、その音も止んだ。三郎は茶碗の中を一瞥すると、出来栄えを確かめるように小さく頷く。それから茶碗を俺の前へ差し出した。
「お点前、頂戴いたす」
茶碗を受け取る。作法通りに軽く回し、口をつけた。
――苦い。
まず最初に浮かんだ感想は、それだった。だが、こうして意識のすべてを味へ向けて飲んでみると、前世で口にしていたお茶とはまるで違う。
舌の上に濃い苦味が残り、その奥から、じわりと深い旨味が追いかけてくる。なるほど。そこでようやく、これが相当に上等な茶なのだと理解した。
「結構なお点前で」
「じゃろう?」
三郎は得意げに笑った。俺は手元の茶碗を眺めながら、続ける。
「あまり茶に対する見識は深くないんだが、これが良い茶だということくらいは分かる。この茶器も、相当な名物なんだろう?」
「ほう。意外じゃな。茶湯は好まぬか?」
「そういうわけじゃない。ただ、嗜みの域を出ていないだけ。何より高いし」
「金ならいくらでもあろうに」
「お前の趣味を否定するつもりはないが、俺としては茶器に銭を使うよりも土を弄っているほうが楽しくてなぁ」
「百姓染みたことを言うのう」
それはどうだろう。俺が土を弄るのは、あくまで趣味である。時には土だけでなく、糞やら尿やらまで嬉々として弄っているわけだが、それも結局は俺が好きでやっていることに過ぎない。
一方で、民は生きるために土地を耕している。自分や家族が食っていくために鍬を振るい、雨を待ち、凶作に怯えながら一年を過ごす。
同じ「土を弄る」でも、意味合いはまるで違う。そう考えると、一緒にするのは何だか彼らに失礼な気もした。
「……いや。百姓というより、ただの土いじり大好きおじさんだな」
「大して変わらんではないか。むしろなんか更に妙な感じになったぞ」
「そうかな」
「うむ。すごく変ぞ」
「……そういうお前こそ、随分と茶器の蒐集に嵌っているようだ。あまり良い噂は聞かないぞ」
「わっはっは。何を言うかと思えば、それは天下静謐のための必要経費というヤツよ」
三郎が上京した折、彼女は堺の商人たちから、名物と称される上等な茶器を大量に買い付けている。もっとも、それは対等な商取引と呼ぶには少々無理があった。背後には織田家の武力があり、商人たちに実質的な拒否権などないのだから。
一応、相応の対価は支払われたようだが、それで納得できるかどうかはまた別の話である。少なくとも、この一件によって、堺の商人たちが三郎に対して好意的な感情を抱いたとは考えにくい。
「……あんまり無体を重ねてると、いずれ手痛い代償を払うことになるぞ」
「言われずとも絞り方は心得ておるわ」
物騒な言い草である。まぁ何かしら考えがあるのなら、特に俺から言うことは無いけども。ただ、それにしても――
「お前は本当に趣味が多いな」
「放蕩者は好まぬか?」
「どうだろう。少なくとも得難い教養だとは思うよ」
教養があるというのは、それだけで外交上の武器になる。歌やら詩を諳んじれば公家との話し合いはスムーズに進むし、茶を知っていれば商人や文化人とも席を同じくできる。武芸に通じているのなら、武士の心を掴むのも容易い。
そして三郎信長の場合、その一つひとつが妙に本格的なのだ。
剣や槍、弓といった武芸に始まり、相撲、水練、鷹狩り。かと思えば、茶の湯を嗜み、刀剣や名物を集め、芸能にも一家言ある。外で身体を動かす遊びから、座して楽しむ趣味まで。
実に節操がない。勿論、悪い意味ではなく。
織田三郎信長という人物は、それほどまでに多岐にわたる物事へ関心を向け、それを自分のものにしている。まさしく教養の人だった。聞くところによれば、尾張や美濃では相撲の催しや鷹狩りなども盛んに開いているらしい。結構なことである。
大きな催しを開けば、人が集まる。人が集まれば、飯を食う。酒を飲む。宿を使う。物を買う。そうなれば、当然ながら銭も大きく動く。
当たり前の話ではあるが、経済力を持つ者が自国の中で盛大に金を使えば、それだけ領内の商いも潤う。三郎の強みは、案外こういうところなのかもしれない。殊更に難しい理屈を並べずとも、人が集まり、物が動き、銭が巡れば国が富むという経済感を、当たり前のものとして持っている。
その一方で、古くから続いているというだけで残されてきた、意味の薄いしきたりや慣例には容赦がない。
必要なら残す。不要なら捨てる。
相手が由緒正しい家だろうと、寺社だろうと、そんなものは関係ない。だからこそ、人は三郎をうつけと呼び、時には鬼と呼ぶのだろう。今まで、さぞ生きづらかったに違いない。
だが俺が思うに、三郎は伝統そのものを嫌っているわけではないのだろう。宗教を憎んでいるわけでもなければ、何でもかんでも効率だけで切り捨てるような人間でもない。
こいつが心底嫌っているのは、おそらく――権威を笠に着て、本来果たすべき役目を忘れた者たちなのだ。
でなければ、こんなにも手間がかかり、作法に縛られ、しかも銭も食う茶の湯など好むはずがない。効率だけを求めるなら、茶など湯に入れて、そのまま飲み込めばいいのだから。
「教養か。お主はそう考えるか」
「当然。唐土では万物斉同という道教の思想がある。この世にあるすべてのものは、根源的な視点から見ればすべて等しく、価値に違いはないのだと。だから知識や経験に貴賤はなく、だからこそ全てに価値がある。俺はそう解釈している」
「ほほう? わしは相撲や鷹狩りも大いに好むところじゃが」
「いいんじゃない? 俺も運動は嫌いじゃない」
というより、今となっては身体を動かさない日のほうが落ち着かない。
何しろ毎日のように、戦国最強の妹を相手に真剣で稽古を重ねているのだ。最初の頃こそ鍛錬という意識が強かったものの、長年続けているうちに、いつしかそれが当たり前になってしまった。
もはや好き嫌いで続けているという感覚すらない。朝起きて飯を食い、夜になれば眠るのと同じように、身体を動かすことそのものが、すっかり日々の暮らしの一部になっていた。
「……そうか。ならば六郎、鷹狩りには興味あるか?」
「あるにはある」
鷹狩り。名前だけを聞けば鷹を狩るようにも思えるが、実際には鷹を使って獲物を仕留める狩猟である。
武士にとっては単なる遊びではない。野山を駆けながら人を動かすため、合戦指揮の鍛錬にもなる。供回りの者たちと長時間行動する以上、家臣との交流にも向いているし、狩りにかこつけて領内を見て回ることもできる。
ただし、越後でやるとなると少々事情が違う。何しろ豪雪地帯だ。一年を通して好きな時に狩りへ出られるわけではないし、その限られた機会のために鷹を飼い、餌を与え、世話をする者まで抱え続けなければならない。
当然、銭がかかり、幸いなことに長尾家の懐そのものには余裕がある。だが俺としては、鷹を養うくらいなら、その銭を治水や開墾へ回したかった。無論、有力者が盛んに鷹狩りを催せば、それだけ領国に余裕があるという示威にもなる。対外的な意味がないわけではない。
それでも俺は、鷹狩りを行うことより土地そのものをどうにかする方を選んだ。だって越後って、新潟なのに米が名産じゃなかったんだもの。転生した当初は、本当にびっくりした。米どころ新潟という認識で生きてきた俺からすれば、かなりの衝撃である。
まあ、それはともかくとして。改めて考えてみると、戦国の世へ来てから、俺にはこれといった趣味がなかった。
和歌や芸能は嗜む程度にはわかる。だがどれも好きで覚えたものではない。結局のところ俺にとっては、畿内のお偉方や公家衆と話をするための技能であり、外交道具の一つでしかなかった。
ああ、でも酒は好きだ。平三に引っ張られて、前世より明らかに飲酒するようになった気がする。濁り酒うまし。
とはいえ、銘柄を集めたり酒蔵を巡ったりするほどの情熱があるわけでもない。やはりこれも、趣味というより嗜みの範疇だろう。
となると、化学遊びくらいか。あれだけは、明確に趣味と言っていい気がする。もっとも、周囲からの評判は散々だった。
土を掘り返しているうちはまだよかったが、糞や尿を集め始めた頃には、家臣に本気で耄碌したのではないかと心配された。あの時はさすがに傷ついた。
いや、俺だって好き好んで糞尿を弄っていたわけでは……ないこともないが、しかしその積み重ねが黒色火薬の安定生産や蓄音機に繋がったのだ。結果を出しているのだから、もう少し温かい目で見てほしい。
ちなみに平三は、お酒以外だと刀剣収集が趣味である。最近のお気に入りは、武田晴信から贈られたあの太刀だ。通称、御塩剣。
試しに扱わせてもらったことがあるが、刀を握って切れ味を確認しただけで怖ろしく思えたのは久々の経験だった。目の錯覚か、平三が振るうとビームも出る。
閑話休題。
「で、あるか。ならば今度、わしと共に鷹狩りに駆けぬか」
「いいの? 織田殿自ら点てた茶を頂くだけでも恐れ多いというのに」
「やめいやめい。お主とわしの仲ではないか」
憚ることなく笑みを浮かべる三郎。顔の作りが美人だからどうにも反応に困る。
距離感がいつもより近い。この場合でいう距離感というのは物理的な意味だけでなく、なんというべきか精神的なもの。この茶室という空間がそうさせるのか。それとも――
「……ああ、
「ん?」
三郎が不思議そうに首を傾げる。俺は手元の茶碗へ視線を落とした。先ほどまで、俺は単に三郎の趣味に付き合わされているだけだと思っていた。
だが、こうして二人きりで茶を飲み、言葉を交わしてみると、少し見え方が変わってくる。
狭い茶室。限られた人数しか入れず、亭主自らが茶を点て、客へ差し出す。同じ酒を酌み交わす宴とはまた違う。誰をここへ招き、誰が誰に茶を振る舞うのか。ただ茶をふるまうという行為そのものに、多くの意味を持たせられる。
「ああ、なるほど」
「何がじゃ?」
「いや。これは中々妙手なんじゃないかと思って」
「ほう。何を思案したか申してみよ」
「元より喫茶の文化は京や堺で盛んで、公家も商人も茶や名物に価値を見出している。そういう下地がこの地にある」
三郎は何も言わず、続きを促すようにこちらを見る。
「そこへ、お前のような武家の実力者が熱を上げる。するとお前に近づきたい者は、こぞって茶を学び始める。良い茶器を求め、名物の由来を覚え、お前に気に入られるための教養として身につけようとするだろう」
「……」
「そして、お前が誰かを茶席へ招くという行為そのものが、やがて一つの褒美になる」
銭でもない。
領地でもない。
官位でもない。
織田信長が、自ら茶を振る舞う。
ただそれだけのことに、人が価値を見出すようになる。
あの男は茶席に招かれた。あの者には名物が下された。
そんな噂が広まれば、誰もがそこに信長の寵愛を読み取る。招かれた者は誇り、招かれなかった者は次こそ自分がと励むだろう。
茶席や名物で報いることができるなら、そのたびに領地を切り分けずに済む。安上がりと言ってしまえば身も蓋もないが、領地には限りがあるのだ。
……しかし、この感覚には覚えがある。
偉い相手の趣味に付き合い、話を合わせるために勉強し、誘いが来るのを心待ちにする。接待ゴルフみたいなものか。
いや、あれは接待する側が気を揉むものだったか。こちらは誘われることそのものが褒美なのだから、少し違う気もする。まあ、いい。本質的には遠からずではあるだろう。
「しかも、茶席ならば大勢の家臣を交えず、相手と直接話ができる。表向きは趣味の席だから、堅苦しい評定よりも腹を割らせやすい」
そこまで口にして、俺は茶碗を置いた。
「三郎。お前は新しい外交の形を作ろうとしているのか」
俺が述べると、三郎は何も答えずただ口元をゆっくりと歪めた。その反応からして、俺の推測は全くの的外れではなかったということを理解する。
「――わはは! いやあ、六郎。やはりお主を呼んで正解じゃったわ」
「なんだ、藪から棒に」
三郎は愉快そうに肩を揺らす。褒められているのか、それともまた試されているのか。こいつの場合、その二つが大抵同時にやってくるから困る。
「わしがまだ形にもしておらぬものを、お主は勝手に言葉にしてくれる。よいのう。以心伝心とは、まさにこのことじゃ」
「そうか」
「……素っ気ないのう」
「あんまり俺を試してくれるなよ。いつも期待に応えられるわけじゃないんだからな」
「そこが堪らぬのよ。特に一番外してほしくないところは、絶対に外さぬその奥ゆかしさが」
今度は俺が黙る番だった。三郎の声から、先ほどまでの戯れた調子がわずかに薄れている。
「さて。改めて礼を言わねばならぬな。同盟の件、よう纏めてくれた。正直なところ、色んな意味で無理かなーと思っておったわ」
「……お前、本当に」
思わず額を押さえる。こちらがどれだけ越後家中を説得したと思っているのか。大熊の顔など、今思い出すだけで胃が痛くなる。
「子の将来を脅されたとあっては、親は死力を尽くすものなんだよ」
「それほどに子は大事か?」
「当たり前だろう」
「わしには、どうにもその感覚が薄くてのう」
何気なく発せられた言葉に、俺は三郎の顔を見た。いつものように人をからかっているのかと思ったが、どうやら違う。視線を落とす三郎の横顔には、笑みらしい笑みがなかった。
子だから大切に思う。肉親だから、我が子だから、何を差し置いてでも守りたいと思う。俺にとっては、理由を考えるまでもない感情。猿千代を失った時もそうだったし、今、弥六郎を見ていてもそうだ。理屈を並べるより先に、そうしたいという気持ちが湧いてくる。
だが、三郎には、その感覚そのものがどこか遠い代物であるらしい。
――妙だな。
俺がこれまで耳にしてきた信長像とは、少しばかり噛み合わない。少なくとも俺の知る限り、三郎は決して身内に冷淡な人間ではなかった。
弟や一族が刃向かった際にも、一度は赦している。近しい者の死を悲しみ、側室を亡くした時には涙を見せたとも聞く。
無論、必要とあらば身内であろうと容赦なく切る女だ。冷酷であること自体は否定できない。だがこの乱世に生きる大名として見れば、むしろ身内には甘い部類と評してもよいくらいだった。
「意外といえば、意外だな」
「装うことは得手の内よ。でなければ男児であると公言せぬ」
「……ふーん。そういえばお前、どうやって跡継ぎというか、子をこさえたんだ」
「うーん」
三郎は顎に指を添え、わざとらしく考え込む素振りを見せた。そして次の瞬間、何やら悪戯を思いついた子供のような顔になる。
「秘密っ!」
「秘密にする意味ある?」
「大いにあるとも。良い女には秘密の一つや二つ、あったほうがよいじゃろう?」
「今しがた男を装うのは得意とか宣ってたわけだが?」
「……鋭いのか鈍いのか分らんな、おぬしは」
なぜか呆れたように、不機嫌そうな目つきでこちらを見てくる。なんで俺が責められるんだ。
しかし他所の家の跡継ぎ事情に対して、必要以上に首を突っ込むほど野暮でもない。ましてや織田家ともなれば、表に出せない事情の一つや二つあって当然だろう。その苦労は俺にもわかる。
俺は残っていた茶をひと口飲み、静かに茶碗を置いた。
「本題に戻ろう」
「うむ」
「お前は俺に何を求めてる。それが分からないことには、協力も何もない」
「外交顧問と申したじゃろう」
「俺の伝手を利用したいだけなら、岐阜に滞在する理由は薄い。いや、そもそも幕府に対する発言力も、今となっては上杉より織田のほうが大きいだろう。今更俺の助言や伝手が必要なようにも思えないな」
公方様を京へ戻し、将軍位へ押し上げたのは三郎だ。その後もあれこれと衝突を繰り返した結果、今や公方様は政治的にも軍事的にも織田家へ大きく依存している。言ってしまえば、三郎が盛大なDV彼氏ムーブをかました結果、公方様のほうが離れられなくなっているような状態だ。最低である。
それだけではない。
三郎は堺にも手を伸ばした。商人たちによって自治されてきた一大商都へ圧力をかけ、最終的には自らの影響下へ置いたことで、畿内の銭の流れにも食い込んでいる。さらに尾張や美濃をはじめ、自らの支配が及ぶ土地では関所の整理や撤廃を進め、人と物の流れそのものにまで手を入れ始めた。
道が開けば、人が動く。
人が動けば、物が動く。
物が動けば、銭が巡る。
単純な話ではあるが、それを実際にやろうとすれば、既得権を持つ連中が当然のように反発する。しかし三郎は、それを押し切るだけの力を持ち始めていた。
朝廷や公家衆も、それを理解している。失われた所領を取り戻したい者。寺社や武家との争いを有利に運びたい者。幕府へ何かを働きかけたい者。そうした連中が、公方様ではなく、その背後にいる三郎へ話を通そうとするようになっている。
つまり、今の織田家には、軍事力があり、銭もあって、畿内に対する影響力も有している。しかも、それらはこれからさらに大きくなっていくだろう。むしろ性急すぎて、何かトラブルが起きないか不安になるくらいだ。
だからこそ、分からない。三郎が俺に何を欲しているのか。そこだけが、まだ見えてこない。
上杉と織田の同盟には確かな利がある。だがそれだけにしては、俺個人へ向ける執着が強すぎる。
三郎は少しだけ黙った後、不意に言った。
「お主、もう先が長くないじゃろう」
「――はて?」
我ながら、よくもまあ白々しい声が出たものだ。うまく取り繕えただろうか。
「隠さんでもよい」
三郎は茶碗へ手を伸ばしながら、淡々と言葉を続ける。
「わしが無理を強いたとはいえ、これまで堅実に国を治めてきたお主が、ここへ来て博打じみた同盟に踏み切った。それで確信したわ」
「あ、そう。それで分かっちゃうもん?」
「うむ」
即答だった。参ったな。
俺の目は、人の命を可視化する。言ってしまえば、一目見ればその人物の寿命がわかるのだ。それは何も他人に限った話ではない。もちろん、自分自身も例外ではなかった。
今の俺は、全身がほとんど真っ黒に染まっている。死を間近にした者と、ほとんど変わらない。いや、見た目だけなら、とうに死んでいてもおかしくないほどだった。
それでも身体は動く。飯も食える。酒も飲める。こうして三郎と茶を飲み、くだらない話をして笑うこともできる。
その理由は分かっている。
平三だ。あいつは、本当の意味で神通力を有している。ただし、その力とて無限ではない。平三と身体を重ねるたび、俺の命はわずかに継ぎ足される。
そしてその分だけ、平三の命が削られている。それを知ってしまった以上、素直に喜べるはずもなかった。
俺が生き延びるために、平三の命を食らう。そんなものは俺の望みではない。
「はは。もし明日にでも死んだら、許してくれ」
「……笑えんわ」
そうだね。笑えない。
「冗談だよ。まだ大丈夫。ただ長くても、あと三年くらいか」
三郎の顔から、完全に笑みが消えた。平三の力を借り続ければ、あと六年ほどは持つかもしれない。だが、それを当てにしないのであれば、三年。
恐らくそれが限界だ。逆に言えば、平三がいなければ、俺の寿命などとっくの昔に尽きていたのだろう。身体と心は元気だ。それなのに、命だけが先に底をつこうとしている。なんとも不思議な気分だった。
――だからこそ、なすべきことはなさねばならない。
特に俺が死んだ後、越後と織田が敵対するような事態だけは避けたい。平三が存命の間ならば、まだいい。あいつならば、たとえ織田が相手であろうと容易には屈しないだろう。
ではその先は? 平三までいなくなった後はどうなる。俺には知る術もない。しかし少なくとも、今のまま織田が勢力を伸ばし続けるのであれば、越後が単独で抗するのは極めて厳しい。
ならば俺が生きているうちに、少し強引な手を使ってでも、友好的な関係を築いておくべきだ。幸いなことに、同盟の条件そのものは破格と言っていい。俺一人が毎年三月ほど岐阜へ出向く程度で、将来の火種を一つ潰せるのなら安いものだ。
「それならよかったわ」
「なんだ、俺に死んでほしかったか」
「うはは。逆じゃ、逆」
俺の戯言に三郎は笑ったが、その声にはいつもの軽さがなかった。
「本当は、お主に泰平の世を見届けてほしかったんじゃがのう。さすがのわしでも、三年以内は無理っ! ……だが、お主の子であれば話は別じゃろう」
「なんだ。弥六郎のことを気遣ってくれるのか」
思わず聞き返した。三郎が俺の子をどう見ているのか。それは以前から、少しばかり気になっていたことでもある。
「どこの馬の骨とも知れん女が産んだ子など、どうでもよいわ」
「おい。それは問題発言だぞ」
「……言葉の綾よ。少なくとも、わしが生きておる間に織田から越後へ攻め入ることはなかろうて」
「信じたいね」
「それは守る。誓って、必ず」
「そうかい」
短く答えた。ありがたい言葉ではある。ただ、これは俺が三郎を信じるか否か、というだけの話ではない。
俺は三郎という人間を、大変好ましく思っている。話していて面白い。常人では思いもつかぬことを平然と口にするし、こいつが思い描いている未来にも興味がある。
だが、それとこれとは別だ。俺は同時に、織田信長という大名を、この国で最も警戒すべき存在の一人だとも認識している。
どれほど親しかろうと。どれほど互いの胸の内を理解していようと。それだけを頼りに、国と国との行く末を委ねるわけにはいかない。
誠に不本意ではあるが、俺と三郎の間で交わされた口約束に、永続する力などないのだ。
三郎本人が約束を守るつもりでも、三郎が死んだ後はどうなる。勿論それは、こちらとて同じこと。俺がいなくなった後、弥六郎やその次の代まで、今と同じ関係が続く保証などどこにもない。
だから、俺にできることは願うことではない。願いが潰えても国が滅びぬよう、形を残すことだ。
盟約を重ねる。
交易を深める。
人を行き来させる。
互いに矛を向けるよりも、手を結んでいたほうが得だと、次の代、そのまた次の代にまで思わせ続ける。そうやって、互いの関係そのものに重みを持たせていくしかない。
なんとも世知辛い話である。だが、それが外交というものだ。
ならばせめて、先立つ者として、その下地くらいは作っておきたい。
少々強引な手を使うことにはなったし、家中にも無理を強いてしまった。それでも、この選択そのものが間違いだったとは思わない。
だから、あとは見定めるだけ。
三郎が何を欲し、何を望み、そのために俺を岐阜へ置こうとしているのか。人払いまで済ませたこの茶席ほど、それを問い質すのに適した場所もないだろう。
「のう、六郎」
三郎が先に口火を切った。その瞬間、知らず身体に力が入る。下手をすれば、戦場で敵陣を前にした時よりも緊張していたかもしれない。
「わしは、お主を好ましく思うておる」
「……それは」
「ああ、勘違いする余地のないよう、先に言うておくぞ。これは友としてではない」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。あまりにも思考の埒外にある言葉だったからだ。
聞き間違えたのではないか。そんな考えすら浮かんだ。だが、聞き返すほど鈍く振る舞うことも、今さらできなかった。
「わしは一人の女人として、お主を好いておる」
あまりにもすんなりと。まるで、ずっと胸の内にあった答えを確かめるように。三郎はそう告げた。
「悪いが、俺には妻がいる」
俺もまた、ほとんど反射的にそう返していた。
「……世継ぎのためであろう。武家の習いじゃ。理解しておる」
「違う」
三郎の言葉を遮る。
「俺と妻は、本当の意味で愛し合っている」
「…………」
「始まりは家のためだったかもしれない。世継ぎを得るためという事情だって、もちろんあった」
けれど、それだけではない。
「俺は、あいつが好きだ。あいつも俺を想ってくれている」
口にしてから、胸の奥にひどく静かなものが広がった。何も迷う必要などなかった。
「だから、お前の気持ちには応えられない」
断る理由なら、いくらでも挙げられる。
俺と三郎、それぞれが背負っている国のこと。俺に残された寿命のこと。これから先の織田と上杉の関係。
だが、それらを全部取り払ったところで、答えは変わらない。
俺はすでに、愛しい者の心を頂いている。ならば、それを裏切ってまで他へ心を浮つかせることなど、できるはずもなかった。
「未練がましいようじゃがの。わし、結構本気じゃぞ」
「ああ。分かっている」
「うむ。ならよい」
「……すまない」
「謝るでない。余計惨めになるわ」
そう言いながら、三郎は困ったように笑った。それが、どうにも居たたまれなかった。
「ちと遅すぎたかのう。もっと早う手籠めにしてしまえばよかった」
「恐ろしいことを言う」
「戯言よ。聞き流せ」
三郎はそう言って、小さく息を吐いた。それから、今度は少しだけ言いにくそうに視線を落とす。
「……だが、そうじゃの」
「うん?」
「一つだけ、わしの願いを聞いてはくれぬか?」
「俺にできる範囲でなら」
三郎はしばし、俺の顔をじっと見つめていた。その瞳には、先ほどまでの寂しげな色とは別の、ほんのわずかな期待が浮かんでいる。
だが、それも一瞬だった。
やがて何かを思いついたように、その眼差しに悪戯めいた光が宿り、唇の端をわずかに持ち上げた。どこか儚く、それでいて妙に狡猾な笑みだった。
「もし何かの偶然で来世で出会えたら、その時はわしを選んでほしい」
・長尾晴景
信長と初対面の時は敬語だったけど、何度もやり取りして人となりを知るうちに言葉は砕け、親しい友人ように接するようになった。本人としては信長のことは決して嫌いではないし、なんか波長が合うため仲良くしたいと思っている。
・織田信長
玉砕。
わし天下人(予定)ぞ。それを負けヒロイン扱いとか、この贅沢者め。でも好き。
どっち?
-
お虎さん
-
ノッブ
-
どっちも!