天正二年、某日。
振り返ってみれば、俺は合計で九か月も岐阜に滞在していたことになる。その間、三郎は朝倉や浅井、三好をはじめ、さらには武田とまで争っていた。
当然、織田家に息をつく暇などあるはずもない。正直なところ、滞在の途中で何度も思った。
――俺、ここにいる意味ある?
もっとも、こうなること自体は予想できていた。これから天下静謐へ本格的に乗り出そうという織田家が、暇であるはずもない。むしろ今は、旧来の秩序を押し退け、新たな形へと組み替えていくための過渡期だ。忙しくならないほうがおかしいのだ。
三郎が岐阜を留守にしている間、俺は一応、表向きには人質(笑)兼外交顧問という立場に収まっていた。とはいえ、これといって日々こなすべき仕事があるわけでもない。評定に顔を出すこともあれば、織田家臣たちに意見を求められることもある。時折三郎が暇を見つけては、鷹狩や相撲をとったりもした。だが、それ以外はかなり自由に過ごさせてもらっていた。
ところが当の三郎は、それで一向に構わなかったらしい。曰く、「愛しい男が居城で待っておると思うと、俄然やる気出る。というか死にかけなら療養せい」とのこと。なんというか、いろいろと最悪である。
だったら岐阜にまで呼びつけたり、鷹狩や相撲に誘うなって話なんだが、それはそれということらしい。まぁ寿命は尽き欠けていようと肉体は元気というあべこべな状態だったので、春日山城から岐阜城を往来するのはさほど苦ではなかった。あと鷹狩や相撲にいたっては、俺自身めちゃくちゃ楽しんだので、実は文句を言えない立場だったりする。
ただ、それ以上に不可解なことが一つあった。どういうわけか三郎は、俺が転生者であることに気づいていた。
彼女が規格外であることは身に染みて知っている。だから「そこまで分かるものか」と多少呆れはしても、三郎がそれを察していたという事実そのものは、そこまで驚くことでもなかった。そもそも色々口を滑らした自覚あるし。
問題はその先である。三郎は来世の約束まで取りつけようとしてきた。困った女である。ちなみに俺は、「縁があればね」と返事を濁してしまった。
今世では応えられない。しかし、自分にできる範囲で、と言ってしまった手前、完全に突き放すこともできなかったのだ。
うん。改めて考えると、俺も大概だな。なかなかのクソ野郎だと思う。きっぱり断れなかったのは、少なからず浮ついていたということなのだろうか。本当に情けない。弁明の余地もない。
ただ何というか、そのささやかな願いすら断ったら何が起こるのか、俺には想像もつかなかった。いや、想像がつかないからこそ、危機感を覚えたのかもしれない。断ってはいけない、と。それはほとんど天啓めいた閃きだった。
そんなわけで、俺自身「ないわー」と思うほどの玉虫色の返事になってしまったのだが、本人は大変満足していた。いいのかそれで。いや、俺としては助かるんだが。
閑話休題。
そういうわけで、やることがなくて暇だった俺は、いろいろ好きにさせてもらった。例えば
中でも、明智十兵衛くんとは随分と良い関係を築けたように思う。彼は公方様と三郎の間に挟まれ、傍から見ていても気の毒なくらい苦労していた。そのうえ、出世頭の藤吉郎くんともあまり折り合いが良くないらしく、どうにも肩身が狭そうだった。
だからまあ、お節介を承知で何かと声をかけた。最初のうちは露骨に警戒されたものだが、火縄銃の話をきっかけに少しずつ打ち解けていき、最後にはそれなりに腹を割って話せる仲になった。
ただ、三郎をやや盲信気味なのは今でも少し怖い。もっとも見方を変えれば、愚直なまでに主君を理解しようと努め続ける姿勢は得難いものなのだと思う。あとは盲目的な部分を改善できれば非常に優秀な人物なのだが、さて。
そうだな、柴田殿とも妙に気が合った。あの人はもう、見事なくらい武人気質である。言葉によって親しくなったというより、肉体言語で分かり合ったと言ったほうが近い。稽古という名目で矛を交えれば、大抵のことは通じる。これも平三との稽古の賜物だろう。
ただ公方様の件に関しては、もう打つ手なしって感じ。
織田三郎信長によって幕府再興がなされ、畿内における平定がなされた。これは公然の事実であり、当然のことながら幕府における三郎の発言力は強まった。
三郎の構想としては、まず大前提として将軍が天皇ないし朝廷に対する事柄を対処し、その将軍と幕府は京にて安泰で存在する。そして、この状態を織田の武力をもって維持する。
これが三郎の掲げる天下布武、天下静謐の基本的な枠組みだったのだろう。もっとも、それが成立するためにはもう一つ、大きな前提がある。即ち公方様自身が、己の実権を大きく制限された立場に甘んじるということだ。
しかしながら、公方様は野心の炎に焼かれてしまわれた。差し出された天下ではなく、自らがつかみ取る天下を望んだのである。だから三郎は朝倉と浅井、果ては武田と争うことになった。つまり形ばかりの役割とはいえ、外交顧問の任は果たせなかったことになる。
しかし武田に関しては上杉方でもできることもある。特に段蔵のおかげで公方様が武田と内密に通じていることは分かっていた。
ならほら、同盟国が襲われると分かっているんならね? ちょっと兵を信濃に配置させたりね? いやいや侵略だなんて人聞きが悪い。牽制、あるいは人道的支援っていうんですよ、これは。
実際に軍勢をけしかけた訳じゃなし。ただそういう動きを匂わせるだけで、晴信は勝手に深読みしてくれる。そうなれば武田の動きも多少は鈍くなるのだ。
さて。一方越後はどうだったかといえば、武田との小競り合いこそ続いたものの、国全体を揺るがすような大きな争いは起こらず、概ね平穏だった。そのおかげで、軍事だけに追われずに済んだ。
国防を整え、街道を繋ぎ、田畑を拓く。どれもすぐに成果が出る仕事ではない。ましてや、俺一人の代で完成するようなものでもなかった。
それでも、手の届くところには、できる限り手を尽くしたつもりだ。あとは次代の仕事だろう。
そう考えると、不思議と心残りは少ない。良い人生だったと思う。少なくとも、自分の不注意であっけなく死んだ前世と比べれば、よほど上首尾だった。
何もかも思いどおりになったわけではないし、失ったものだって多い。それでも、もう一度同じ人生を歩めと言われたなら、きっと俺は大筋で同じ道を選ぶだろう。
ただ一つ。己の人生を振り返るうえで、どうしても素直に胸を張れないことがある。
それは妹と関係を持ち、あまつさえ妻にまでしてしまったこと。これだけは、さすがに方々へ申し訳が立たなかった。倫理的にどうなのかと問われれば、もはや何も言い返せない。
だが、それでも後悔しているかと問われれば――答えは否である。我ながら、まったくもって度し難い。これではあの世で父上に殴られたとしても、文句は言えないな。
「……そろそろですか」
布団に横たわる俺の傍らで、平三がそっと手を握ってきた。相変わらず皺一つない綺麗な手だった。
対する俺の手は、とうに節くれ立ち、皮膚も薄くなっている。長い年月を過ごしてきたことが、そのまま刻み込まれたような手だ。
まして、平三の美貌は衰える気配を見せていない。むしろ歳月を重ねるごとに、若い頃とはまた違った艶やかさを増しているようにすら思える。同じだけの時を生きてきたはずなのに、こいつだけが歳月の外側にいるみたいだった。
まったく。いったい、どんな魔法を使っているのやら。
「ああ。お迎えは近いな」
そう答えると、平三の指にわずかに力が籠もった。
「弥六郎を頼む」
「はい」
「織田弾正忠殿とは、仲良くな」
「……はい」
「あと、平三」
「はい」
少しだけ息を整える。最後に言うことなんて、もっと気の利いたものがあるのかもしれない。けれど、結局。俺がこいつに伝えたいことなんて、一つしかなかった。
「大好きだぜ」
「――はい。私も、大好きです」
平三は少しだけ笑った。それが、本当にうれしかった。
「ですから、あとはお任せください」
「ああ」
その言葉を聞いた途端、不思議なくらい肩の力が抜けた。そうか。なら、もう大丈夫だ。
「安心した」
目を閉じる。視界がなくなると、代わりに身体の感覚だけがやけに鮮明になった。
指先の温もり。
呼吸の浅さ。
胸の奥で、ゆっくりと間隔を空けていく鼓動。
そして――。
ああ、心臓が止まる。思っていたより、ずっと静かだった。苦しさも、恐ろしさもない。むしろ、すべてが遠ざかっていくぶん、平三の声だけがはっきりと聞こえてきた。
死んだ後もしばらく聴覚は残る、なんて与太話を前世で聞いたことがある。どうやら、あれは本当だったらしい。
俺を呼ぶ声が聞こえる。
何度も。何度も。兄上、と。
応えてやりたかった。大丈夫だと。泣くなと。俺は幸せだったと。けれど、身体はもう動かない。
口も。
指も。
目も。
何一つ、言うことを聞いてはくれなかった。
俺の身体は、文字どおりただの死体になっていた。意識だけが、ゆっくりと暗い底へ沈んでいく。
黒く、深く。何もかもが遠ざかっていく、その果てで――。
――兄上のおかげで私は、幸せでした。
最後に。そんな、最高の報酬が聞こえた。
――それなら、最期にもうひと頑張りしないとな。
沈みかけた意識を、引き戻す。
指一本動かすことさえできなかった身体に、残るものをすべて注ぎ込んだ。肉体からほどけかけた魂魄を繋ぎ止め、もう終わりだと告げる道理に、最後の無理を押し通す。
止まったはずの胸が、一度、大きく脈打った。
「あ、兄上……?」
身体を起こすと、すぐ傍らで平三が息を呑んだ。
よかった。声はまだ聞こえる。
だが目は、もう駄目らしい。瞼を開けたところで、明かり一つ戻ってはこなかった。
だが、それでも。
生命を捉えるこの瞳は、最後の最後で都合よく覚醒してくれた。
握られた手の先に、平三がいる。こちらへ身を寄せる気配も、息を詰めて俺を見つめていることも、今まで以上にはっきりと分かった。
生と死の境にいるせいだろうか。本来なら見てはいけないものまで視てしまっているようで、頭の奥は焼けるようだった。あとどれほど脳が保つのかも分からない。分からないが、寝ているだけで使い切るには惜しい時間だ。
「
立ち上がり、刀掛けへ向かう。
二振りのうち、一振りを差し出した。平三は受け取ったものの、抜こうとはしなかった。
「……何を、仰っているのです」
「今まで、人の律に付き合ってくれた礼だ。受け取れ。現人神のお前に送る、最後の恩賞だ」
わざと神の如く尊大に言ってみせる。我ながら偉そうな物言いだ。けれど、今さら撤回する気はなかった。
平三は、俺の願いを聞いてくれた。
その力を振るうばかりではなく、人の心に寄り添うことを選んでくれた。俺には当たり前に思えることが、こいつにはひどく遠回りだった日もあるだろう。それでも、平三は俺たちと
だがその一方で、俺は結局、平三の手を取っておきながら、こちらへ来いとばかり手を引いていた気がする。平三の業に理解は示せても、ついぞそれに付き合うことはなかった。
だから、一度くらい。俺のほうから、そちら側に行きたかった。
「……兄上は、もう」
「気にするな。どうせ死ぬ。なら楽しんだもの勝ちだろ」
刀の柄を握る。不思議と、手には馴染んだ。
積み上げてきた術理も、平三と打ち合った数えきれない日々も、この身体に残っている。明日のために力を惜しむ必要は、もうなかった。
――ならばきっと、今の俺は生涯で一番強い。
そう思えることが、少しおかしかった。ここまで来て、まだこいつにいいところを見せたいらしい。
平三は動かない。握った柄に力が籠もり、また緩む。そのためらいさえ、今の俺なら手に取るように視えた。
ならあともう一押し。
「――おいで。兄と稽古しよう」
生唾を飲む音。その後、しばらくして衣擦れの音がした。
「……手加減は、できませんよ」
「ああ。知ってる」
ようやく、鞘から刃が抜かれた。
庭へ下りると、足の裏に土の冷たさが伝わった。
平三は、いつもの間合いに立った。互いに手を伸ばしても決して届かず、けれど一度踏み込めば、容易く命に届く距離だった。
最初の一太刀を受けた瞬間、思わず笑みが漏れた。
――ああ、これだ。
ためらいのない刃だった。俺が受け損ねれば、それで終わる。続く俺の返しもまた、平三の命を狙っていた。
刃が触れ合い、離れる。響きが消えるより早く、次の一太刀が来る。
懐かしかった。幾度となく相対してきたはずなのに、まだ知らない平三がいた。俺の知る癖の、その先へ。覚えのある運びから、思いも寄らないところへ。
そのたびに俺も、俺が知っているだけの自分ではいられなくなった。
まだ届く。もう一歩、近づける。
前へ、前へ。進んでいく毎に、平三の立つ地平へ近づいていく。
ただ、それがうれしかった。
「――ああ、やはり兄上はお強いです」
刃の向こうから、声がした。
「惚れ直したか」
「ええ」
すぐに返事があった。
「何度でも」
参ったな。そんなことを言われたら、もう少し頑張りたくなるじゃないか。
俺の刃を払い、平三が踏み込んでくる。そこには俺に対する気遣いなど、欠片もなかった。すべてを委ねられている。受け止めることも、返すことも、できるのだと信じられていた。
それに応えたくて、刀を振るった。
こいつはいつも、こんなふうに俺を待っていたのだろうか。俺が何か一つを覚えるたびに。昨日までできなかったことを、できるようになるたびに。
同じところへ来るのを、こんなにも喜んでくれていたのだろうか。
今になって分かることが、まだあった。それが少し、悔しかった。
もっと早く知りたかった。知って、また明日も、お前と刀を交えたかった。
幾合目かも忘れた頃。
ふいに、平三の輪郭が遠のいた。
時間切れだと気づくのに、些か時間を要した。否、とっくのとうに、俺に与えられた時間はなかったのだ。だから奇跡は、もう起こらない。
俺の瞳は完全に潰れていた。或いは、視覚を処理する部分の脳が焼き切れたか。
なんにせよ、俺はもう視覚代わりにしていた平三の命を捉えきれなくなっていた。足元の土も、柄を握る指も、ひとつずつ頼りなくなる。頭の奥を焼いていた熱さえ、いつの間にか薄れていた。
ああ、ここまでか。
最後の一太刀を振るおうとして、腕が上がらなかった。
平三の刃が止まる。ほんの少し前まで俺の命を奪おうとしていたその手が、倒れる俺に伸ばされる。
刀の落ちる音がした。土に触れるより先に、身体が抱き留められた。
「兄上」
責めるような声ではなかった。けれど、その一言だけで、ずいぶん無理をさせたのだと分かった。
「……悪い。決着、つかなかったな」
平三は答えず、俺を抱く腕に力を込めた。互いの刃は、まだ命に届いていなかった。ただ、俺に残されていた時間が、尽きようとしていた。
背を支えられ、ゆっくりと地面へ座る。もう首を起こしていることも難しくて、平三の肩に額を預けた。
「楽しかったか」
どうしても、それだけは聞いておきたかった。
「……はい」
少し間を置いて、平三は言った。
「楽しかったです。とても」
よかった。それなら、無理をした甲斐もあった。
さっきは、良い人生だったと、そう思った。やるだけのことはやった。残していくものも託した。あとは静かに終わればいいのだと、本気で思っていた。
なのに、今はどうしようもなく命が惜しかった。死にたくなかった。
この肩の温もりも。耳元にある息遣いも。刀を置いたあとの、何でもない時間が、こんなにも惜しく愛おしい。
「もう一度、兄上と」
平三の言葉が、そこで途切れた。続きを待ったが、声にはならなかった。
「ああ」
返事だけした。俺もだよ、と続けたつもりだった。けれど、唇からは息が漏れただけだった。
それでも平三には通じたらしい。俺の手を取り、自分の手の中へ包んでくれた。先ほどまで刀を握っていた指が、ひとつずつ、俺の指に重なった。
もう、命の輪郭は視えなかった。それでも、平三がどこにいるかは分かる。
ここにいる。最後まで、俺のすぐ傍に。
「兄上」
呼び慣れた声がした。
「お慕いしております」
俺も。そう返して、いつものように笑った。
手を握り返そうとした。ほんのわずかでも、動いてくれたかどうか。
確かめる前に、胸の奥で最後の鼓動がほどけた。
平三の手は、最後まで温かかった。
主人公の死後、この世界は大きく二つの枝に分かれる。
一つは、晴景くんとの交流により、史実よりも幾分か信長に対する盲信度合いが緩和した十兵衛くんが、
もう一つは信長が完全な天下静謐を成し遂げたルート。その後、なんやかんやあって寿命も克服して数百年かけて地球の天下統一も成し遂げる。当然ながら剪定事象。
またどちらのルートであれ、上杉家はしっかり大勢力として生き残る。
どっち?
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お虎さん
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ノッブ
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どっちも!