数日にわたって、俺は町人に扮し、市から農村まで歩き回った。
かつて政を執っていた頃も、机に届く訴えだけでは分からないことがあった。自ら足を運び、話を聞くのは珍しくもなかったが、今は少々勝手が違う。
俺の顔を知る者に見られれば、ただの不審者では済まない。御屋形様が二人いると騒ぎになれば、あちらの晴景は必ず俺を探し始めるだろう。かといって、この国の書付すら手元にない以上、人の口を頼らずに内情を知る術もない。
だから、一人の相手に根掘り葉掘り尋ねることは避けた。場所を変え、尋ね方を変え、少しずつ情報を拾っていく。同じ出来事でも、城下の町人と徴発を受けた村人とでは、見えているものが違う。聞き集めた話を照らし合わせれば、目立たずに確かめられることもある。
そうして集まった話には、いくつか共通するところがあった。
平三の死後、
あと揚北衆の動きがめっちゃ不穏らしい。まあ、だろうねって感じ。あいつら主君を主君とすら思ってないから。平三が当主やってた頃からそう。でもあいつらのそういうところ、実は嫌いじゃない。やっぱ戦国において強さは正義だからね。
――それから、兵の様子が妙だという。
傷を負っても何事もなかったように動き、何日も眠らず番を続ける者がいる。戦場では人間離れした力を振るうくせに、戦が終わると、虚ろな目でその場に座り込む。
俺も一人、この目で見た。
荷を満載した車が溝にはまった時のことだ。その兵は、周りの者が手を貸す間もなく、一人で車体を持ち上げた。鎧の下から漂う力には覚えがあった。春日山の空に滞る、あの黒い霧状の気配と同じものだ。
人外じみた膂力に、不自然なほど太く、濃い命の線。生きて動いてはいるが、ただ使い潰されるために立たされている――そんな死兵に見えた。
聞き込みを重ねると、そうした兵の話は決まって春日山城へ行き着いた。城へ入るまでは壮健なだけだった者が、下りてくる頃には、動きも眼差しも別物になっているという。どうやら、あの死兵は城の中で
眠らず働き、並の兵をはるかに凌ぐ。戦力として数えるなら、たしかに強力だ。だが、怪しげな力を注ぎ込み、壊れるまで働かせていては、いずれ国を支える者がいなくなる。こんなやり方で国が長く持つはずもない。
とはいえ、国が弱っているからといって、晴景を倒しやすいわけではなかった。
城にはあの死兵がいる。あれに対抗するには、死兵一人あたり健常な兵を四人は要する。となればそれなりにまとまった数が必要になるわけだが、その兵や兵糧を今の越後のどこから集めればいいのか。
そして大前提として、兵を集めて旗を立てるところまで辿り着けるかどうかも怪しい。御屋形様は集会を固く禁じている。家臣を集めようと動いた時点で目をつけられ、支度が整うより先に粛清が始まるだろう。
そのうえ、俺自身が晴景なのも具合が悪い。顔を隠したままでは、誰がこちらを信じるものか。かといって顔を晒せば、御屋形様がもう一人現れたことになる。味方を募るどころか、何が起きるか分かったものではない。
故に、家臣を集めて旗を立て、正面から城を攻める案は早々に捨てた。
さて、それじゃあどうするか。単騎で春日山城へ乗り込むか?
いや、魔術師ってなんだよ。俺、別に魔術も妖術も使えないが。
召喚時にインストールされた知識によれば、魔術とは紀元前から続く技術体系の一つらしい。平三を見ていると、世の中にはそういう神秘的な代物もあるのだろうな、と薄々感じてはいた。だが本当にあると知るのと、自分がその使い手に数えられるのとでは話が違う。
では、なぜ俺がキャスターなのか。どうやら、火薬の製法と蓄音機にまつわる逸話が評価された結果らしい。
なるほど、確かに当時の基準として見れば、土から火薬を作り上げる様は魔術のようなものだったのかもしれない。納得できなくもないか。
そして、キャスターのクラスは自ら陣地を築き、拠点を構えて敵を迎え撃つのが得意だという。だが、今の越後で堂々と人や物を集めれば、支度が整うより先に兵が来る。腰を据える場所を確保するところから難儀するのだ。
いやぁ、見事に強みを潰されてるわぁ。
仕方がない。単騎で春日山城を攻めよう。うん、それがいい。
もちろん、城門を蹴破って突っ込むつもりはない。兵を一人残らず倒す必要もない。入り込む道と、御屋形様のもとへ辿り着く手立てさえ見つかればいい。城の内側をある程度知っているのだから、やりようはある。
となれば、まずは下調べである。
城に詰める兵の数と、番の交代。警戒の厚い場所、薄い場所。抜け道になりそうな箇所はないか。そもそも、城の構えが俺の知るものから変わっていないかも確かめねばならない。
そして、辿り着いた先で御屋形様を確実にぶち殺すための武器。そこまで揃えて、ようやく勝負になる。
泥臭い工作に諜報。こういう仕事は、段蔵によく任せていたものだ。
もっとも、当主になる前の若い時分には、配下に草の者などいなかった。他家との交渉も、揉め事の調停も、自分の足で出向いてこなした。相手の言葉を聞き、腹の内を探り、土地の様子を見て回る。
そうして身につけたものは、後に市の賑わいや民の暮らしを知るうえでも役に立った。だから情報収集の作法には心得がある。
ただ今は兵も銭も城もない。あるのは身体一つと、人前に晒せない顔だけである。老人だった頃に比べれば随分と動ける身体にはなったが、ほかの条件は何もかも悪い。ここまでひどい出直しは、さすがに初めてだった。
「……先が思いやられるなぁ」
小声で呟き、俺は歩き出した。さて、どこから手をつけたものか。そう考えた矢先、市のほうで鐘が鳴った。
一度では終わらない。間を置いて、また鳴る。城下でああいう鳴らし方をするのは、何か火急の通達がある時だ。
市へ戻る人の流れに紛れ、俺も広場へ向かった。普段は荷車が往来する場所である。そこには縄が張られ、集まった町人を押しとどめるように、十人ほどの兵が立っていた。
縄の内側には、大袈裟な台が置かれている。その前へ引き出された男を見て、足が止まった。
――柿崎景家だった。
俺の生きた越後では、三分一原で刃を交え、その後に味方となってくれた男だ。あの激闘の末、差し出された槍を今でも覚えている。平三にも、長く仕えてくれた忠臣である。
あとすごく強い。めっちゃ強い。それでいて内政・外交手腕にも優れている。ぶっちゃけサーヴァントとして呼ばれたら、俺より強いとすら思う。
聞き込みの中で、柿崎の名は何度か耳にしていた。もとは晴景に仕えていたが、景虎の死後、粛清に異を唱えて役目を解かれた領地も大部分を没収されたという。それでも自分の蔵から米を出して、生活に窮する領民のもとへ運んでいたらしい。
その噂の続きを、こんな形で知ることになるとは。
頬は、俺の記憶にあるものより少し痩せていた。額には見覚えのない傷もある。それでも、兵に肩を押されてなお背筋を曲げない姿は、俺の知る柿崎と同じである。問題は柿崎に対する扱いが罪人に対するそれだということ。
正面に立つ役人が紙を広げ、書状を読み上げる。
「柿崎和泉守。主君の命に背き、取り立てるべき兵糧を私して村々へ流した。重ねて御屋形様を誹謗し、家中を惑わした。その罪、軽からず」
柿崎が顔を上げた。
「私した米ではない。あれは柿崎の蔵にあった米だ。飢えた民へ渡したことを罪と呼ぶなら、出どころを正しく書くがいい」
「口を慎め」
「慎むべきは、帳面を書き換えるそこもとの手のほうだろう。そもなぜこの場に御屋形様がおらぬ。拙者に非があるのであれば、主君自ら問い質せばよろしい」
役人の顔がこわばった。
町人たちは誰も頷かなかった。俯く者、唇を引き結ぶ者。柿崎の言葉に応じれば、次に縄の内へ引き出されるのは自分かもしれない。そんな恐れが、人々を黙らせていた。
俺は兵を数えた。
正面に四人。台の左右に二人ずつ。残る二人は、群衆の背後に回っている。
そのうち三人が、以前見た死兵と同じ黒い気配を纏っていた。力は人並み外れている。だが、その身体を走る命の線は、あまりにも太く、濃いので分かりやすい。強さに見合う命を持たされているわけではないのだ。下手に殴り倒せば、そのまま命まで途切れかねない。
ここで力に訴えるべきか。
兵を倒して柿崎を救えても、周りには町人がいる。騒ぎを起こさずに済むなら、そのほうがいい。
まずは沙汰を聞き、どこへ移されるかを見届ける。護送路を探り、夜を待って番の薄いところを――。
そこまで考えた時、人垣の向こうから、抜き身の刀を提げた侍が現れた。侍は柿崎の背後へ回り、役人の顔を見た。その位置と、刀の用途を悟る。
――ここで斬り捨てるつもりか。
夜を待つどころではなかった。柿崎を見捨て、後から悔いるくらいなら、今ここで動く。俺が人垣の端へ足をずらす間に、役人が柿崎へ顔を寄せた。
「最後の機会だ。米を隠したのは、景虎に与した旧臣どもの差し金だった。そう申せ。さすれば、家に残る者の命だけは助けてやる」
柿崎の頬が、わずかに動いた。
「御舎弟様を引き合いに出すな」
短い一言だった。その声に込められた怒りだけは、俺にもよく分かった。
「やれ」
役人が合図した。
兵が柿崎の肩を押さえ、低い台の上に膝をつかせる。切腹すら許すつもりはないらしい。作法のかけらもない暴挙である。
処刑人が、刀を振りかぶった刹那――
「待って!」
群衆の中から、子供が飛び出した。
俺が召喚された日に団子をくれた、茶店の子だった。細い身体で兵の間を抜けようとして、襟首を掴まれる。その叫び声に、処刑人の手が止まった。
「その人は悪くない! 俺たちにお米をくれたんだ!」
兵が拳を振り上げる。子供が身を竦めた。
一方俺は、柿崎へ届く道筋を整えていた。だが、その前に守らねばならないものがある。
笠を脱ぎ、兵の顔へ投げつけた。
男が反射的に顔を背ける。その間に縄を跨ぎ、子供との間へ身体を入れた。振り下ろされた拳を手首で捕まえる。
兵は、自分の腕が止まったことを理解できない顔をした。
「子供相手に、それはないだろう」
掴んだ腕の下に、太い命の線と黒い気配が見えた。こいつもか。
サーヴァントである俺が力任せに殴れば、それだけで死にかねない。死兵の膂力は非常に優れているが、耐久力は据え置きだ。
したがって俺は手首を返し、肘を押さえて身体ごと向きを変えさせる。すると兵の膝が折れた。子供を掴んでいた手が緩む。
俺はそのまま男を地面へ押し伏せた。
「逃げろ」
子供は目を丸くしたまま頷き、人垣へ駆け戻った。伸びてきた老婆の手が、その腕を掴むのを見届けて、次の手を考える。
「柿崎を下げ、その者を捕らえよ!」
役人の声と、刀の抜かれる音が重なった。
左右から二人。腰の刀を鞘ごと引き抜き、一人目の刃を外へ流す。まともに受け止めはしない。刃が脇を通り過ぎたところで肩を押し、その身体を二人目との間に割り込ませた。
しかし二人目は構わず踏み込んできた。
速い。だが、踏み込む足に身体が追いついていない。力に任せて動いているせいで、膝が嫌な曲がり方をしている。
ぶつかりそうになった味方を避け、刀がこちらへ伸びてくる。俺はその外へ回り、振り下ろされた腕を取った。
引く力はわずかでよかった。前へ出すぎた身体は自分の勢いを支えきれず、膝から崩れた。頭を打たぬよう腕を引き留め、ゆっくり肩を地につかせる。そして喉元へ鞘の先を突きつけた。
「動くな。死にたいわけじゃないだろう」
返事はない。目の焦点も合っていなかった。
「何をしている! 立て!」
役人が怒鳴る。
その指示に従うべく、兵は起き上がろうとした。喉に鞘が食い込んでも構わず身体を押し上げてくる。このままでは喉を潰してしまう。
この死兵も越後の人間である以上、必要以上に傷つけたくない。となれば、俺のほうが手を引くしかなかった。
「……厄介だな」
強くされたというより、止まれなくされている。
考えている暇はなかった。横から刃が走る。身を引くと、切っ先が胸元の布を掠めた。
先ほど押し退けた兵が、体勢を立て直していた。さらに、その後ろからもう一人迫りくる。
足を止めれば囲まれる。
斬りかかってきた男の懐へ踏み込み、刀を振るう腕を鞘で押し上げる。その肩越しに、次の兵が刀を構えているのが見えた。
掴んだ袖を引き、二人の位置を重ねる。後ろの兵が味方を斬るまいと刃を止めた隙に、俺は脇を抜けた。
背後で怒号が上がる。追ってくる足音。人垣からは悲鳴が響いた。
「下がれ! 巻き込まれるぞ!」
町人たちへ叫び、台へ向かって駆ける。
行く手を塞いだ兵が、腰を落として刀を突き出してきた。切っ先を鞘で逸らし、そのまま腕を押さえる。踏み込んだ勢いで脇へ押し退けると、男は踏みとどまろうと数歩よろめいた。
倒れたかどうかは見届けなかった。もう台は目の前にあり、用があるのはそちらだ。
柿崎は両脇から腕を掴まれ、奥へ連れていかれようとしていた。
俺は台へ飛び乗った。足元で板が軋み、柿崎が振り返る。その背後で、処刑人が刀を構え直した。俺へ向けて刃が振り下ろされる。その前へ、柿崎が身を捩って割り込もうとした。
両腕はまだ縛られている。助けに来たのが長尾晴景だと、露ほども思ってはいないだろう。それでも、自分のために飛び込んできた者が斬られるのを、黙って見てはいられなかったらしい。
まったく、見上げた武士だ。だから大好きなんだ。
「柿崎、動くな」
声に反応して、柿崎の動きが止まる。判断が早くて助かる。
俺はそこで初めて刀を抜いた。
振り下ろされる刃を斜めに受け、身体の外へ滑らせる。処刑人の腕が流れたところへ踏み込み、肩を押し込んだ。男が台の端へよろめく。
柿崎を掴んでいた兵が手を離し、刀へ指を掛けた。その腕を鞘で押さえ、柄を抜かせぬまま突き放す。
もう一人が怯んだ一瞬の隙に、柿崎の背後へ回って縄に刃を入れる。
「賊だ! 囲め!」
役人の声が、広場に響いた。
「誰が賊だっての」
思わず言い返してしまった。それがまずかった。
声につられた兵の一人が、俺の顔をまじまじと見た。笠は子供を守るために投げた。そのうえ、斬り合う間に口元の手拭いまでずり落ちている。
「御屋形、様……?」
その一声で、兵たちの動きが乱れた。
刀を下げかける者もいれば、かえって切っ先をこちらへ向ける者もいる。主君なのか、同じ顔をした賊なのか。互いの顔を窺うばかりで、誰も踏み込んでこない。
迷ってくれるなら、ありがたい。俺は柿崎の背を押した。
「走れるか」
「拙者の足を案じる暇があるなら、ご自身の顔を隠されよ」
妙に落ち着いた返事だった。もっとも、今さら笠を探しに戻るわけにもいかない。
「ごもっとも。説教は後で聞く」
台の縁へ下がり、片側を支える脚を斬り払う。足元が傾くより早く、柿崎の肩を抱いて川側へ跳んだ。
背後で板が大きく軋んだ。追って台へ踏み込もうとした兵が足を止め、後ろから来た者とぶつかる。
「逃がすな!」
着地した柿崎は、俺が支えるまでもなく走り出した。なるほど、足を案じる必要はなかったらしい。
刀を鞘へ戻し、手拭いを引き上げながら後を追う。川へ下りる手前で柿崎の袖を引き、建物の間へ折れた。
幼いころから見てきた路地だ。逃げるのはたやすい。張り出した軒を避け、積まれた薪の脇をすり抜ける。背後から足音と怒鳴り声が追ってきた。
角を二つ曲がり、川沿いへ抜ける。そしてすぐに蔵の裏へ入った。柿崎は何も聞かずについてくる。追手の姿が見えなくなったところで、ようやく逃げる足の速度を緩めた。川音に紛れるほどの声で、隣へ話しかける。
「すまんな」
「何に対して謝っておられる」
「ずいぶん強引な助け方になってしまった」
柿崎は答えず、背後へ目を向けた。
俺も耳を澄ます。路地の向こうには、まだ兵の足音があった。だが、こちらの足音は川の流れに紛れている。
人家が途切れたところで川べりへ下り、上流へ向かった。やがて藪の奥に、古い炭焼き小屋が見えてくる。城下からさほど離れてはいないが、表道からは入口が見えない。
昔、弥六郎と遊びに来た場所だ。
そう思いかけて、足が鈍った。我が子とここへ来たのは、俺が生きた世界でのことだ。この時代には、まだ生まれてすらいない。生まれる余地もない。
小屋へ入り、戸口から外の様子を確かめる。追手が来る気配はなかった。そこでようやく、柿崎が俺から距離を取った。縛られていた腕をさすりながら、こちらをまっすぐに見据える。
「御屋形様」
呼ばれて、言葉に詰まった。
「そのお顔も、お声も、拙者の知る主君に相違ない。されど、あの方が拙者のために刀を抜くはずがない」
「ああ」
「ならば、何者でござるか」
実に柿崎らしい真っすぐな問いかけだった。回りくどい探りも、脅しもない。実に気持ちがいい。
とはいえ、俺は少し考えた。もっともらしい身の上をでっち上げたところで、この顔と声の説明はつかない。隠しても仕方がないと腹を決める。
「俺も長尾晴景だ。ただし、お前の知る晴景ではない」
柿崎の眉が寄った。
「戯れを」
「そう思うよな。俺も自分で言っていておかしいと思う」
笑える話ではない。それでも、ほかに言いようがなかった。
俺の知る越後では、平三は長く生きて国を治め、柿崎はその傍らで槍を振るった。俺自身も年を取り、家族に囲まれて死んだ。
だが、いきなりそんな話を聞かせても、ますます疑われるだけだろう。ましてサーヴァントが云々などと告げてしまえば狂人と見なされかねない。
だからまずは、俺とこの男を結びつけた出来事から話すことにした。
「三分一原で戦う前、お前は俺に言った。寝返ってほしくば、今ここで立ち合い、拙者を倒してみせよ、と」
柿崎が目を細めた。
「それは、そこもとの父君に告げた言葉である」
「え、そうなの」
衝撃の事実である。
俺が調略に出向かなければ、父があの無茶な要求を引き受けることになっていたのか。しかも、柿崎が長尾家に仕えているということは、勝ったのだろう。あの柿崎に。
当時の柿崎はまだ若かったとはいえ、その強さは身をもって知っている。父も武士として並外れていたが、まさか柿崎を打ち負かすほどとは思わなかった。
さすがは越後の梟雄というべきか。息子の俺が言うのもなんだが、とんでもない親父である。
もっとも、全盛期の柿崎が相手なら、さすがの父も分が悪いと思う。平三の次くらいにはバケモンだったからな、こいつ。
……いや、感心している場合ではなかった。
目の前の柿崎は、ますます訝しげな顔をしている。信じてもらうつもりで持ち出した話が、かえって話をややこしくしてしまった。
まあ、それは仕方がない。今は、話を聞いてくれるだけでも十分だ。
それに、俺の身の上を信じてもらうことは、後回しにできる。だが、広場で起きたことは別だった。
俺たちは逃げおおせた。だがその場に残した者たちは、どうなる。柿崎を庇って飛び出した子供と、その手を引いていった老婆の姿が浮かんだ。
「柿崎。先に頼みたいことがある」
「事の次第によっては、お引き受けいたしかねる」
「構わん。まずは聞いてくれ。あの子と、連れの婆様を逃がしてやりたい。俺たちを取り逃がした兵が、二人に何もしないとは限らん」
柿崎が、俺の顔を見直した。
「……あの幼子とは、縁がおありか」
「この間、団子を一つもらった。あと婆様には茶を飲ませてもらった」
「それだけで?」
「ああ。それだけだ。だが、あの子はお前を助けようとした。そのせいで何かあっては、助かった俺たちのほうが寝覚めが悪い。そうだろう?」
戸口へ目を向ける。追手の気配はまだない。
「本当は俺が連れ出せればいいんだが、この顔で茶屋へ戻れば、かえって兵を呼び寄せかねん。それに、春日山でやらねばならないことも残っている。二人を城下から逃がす手立てに、心当たりはないか」
柿崎はしばらく黙っていた。やがて居住まいを正すと、静かに口を開いた。
「近くの村に、頼れる者がおります。そこへ知らせれば、二人を匿う手立てもつきましょう」
「助かる。ただ、その者にも無理はさせたくない。家に匿うのが危ういなら、別の土地へ送り出すだけでもいい」
「承知した」
「この場を出たら、まずそちらへ向かおう。夜を待っていては遅いかもしれん」
柿崎はすぐには答えなかった。
「どうした」
「……ご自身も追われる身でありながら、先に民を案じられるのですな」
「俺たちは、まだ自分の足で逃げられる。だがあの二人はそうもいかんだろう」
柿崎がわずかに目を伏せた。
遠くで、また鐘が鳴った。俺の顔を見た兵が、城へ報せるだろう。そうなれば捜索はさらに厳しくなる。この小屋にも長居はできない。
「では、その件を終えた後は、どうなさるおつもりか」
鐘の余韻が消えるのを待って、柿崎が問うた。
「越後を、暗君の手から取り戻す」
「いかにして」
「長尾晴景を討つ」
自分の名を口にすると、奇妙な気分になった。同じ名と顔を持つ男を、自分の手で殺そうというのだ。
だが、あの晴景が越後を壊し続けるのなら、止めねばならない。むしろ、道を誤った己をこの手で止められるのなら、それは僥倖なのかもしれない。
柿崎はしばらく俺を見ていた。やがて、ゆっくりと膝をつく。
「拙者には、まだ判断がつきませぬ。そこもとが何者なのかも、何を成し得るのかも」
「正直でいい。それでこそ越後の一番槍よ」
「……知ったようなことを。では、正直ついでに申し上げる。そもそも拙者を助けたこと自体、いささか余計なお世話でござった」
まあ、そうだろうな。
柿崎が兵を挙げたという噂は聞かなかった。大した抵抗もせず、城下へ連行されたのかもしれない。あの広場でも、自分の命を惜しむ言葉は一つも口にしなかった。
抗えば、家臣も領民も巻き添えになる。それを避けるために、御屋形様の命に従ったのだろう。己の命で済むのならと、覚悟はとうに決めていたに違いない。
それでも、否、だからこそ見捨てられるものか。
「うるさい。お前ほどの男を、こんなつまらないことで殺されてたまるか」
柿崎が目を見開いた。
言ってから、少々なれなれしかったかと思う。この男にとって、俺はまだ得体の知れない相手なのだ。それなのに口をついて出る言葉は、昔のままだった。
だが、取り消す気はない。柿崎は何か言いかけ、結局やめてしまった。しばらく視線を落としていたが、やがて口元をわずかに緩める。
「……勝手なお人だ」
今さら気づいたのか、と返しかけて、口を閉じた。
小屋の外に、気配がある。
追手は振り切ったはずだ。だが、それとは別に、こちらの様子を窺う者がいる。川音に紛れるほどかすかな衣擦れが、一度だけ聞こえた。
広場でも、用水沿いでも、似た気配を感じた気がする。近づこうとすれば遠のき、振り返れば消えていた。兵のように辺りを探し回るでもなく、こちらを見失わぬよう距離だけを保っている。
俺は戸口へ目を向けた。柿崎もつられてそちらを見たが、まだ何も察していないらしい。
「どうなされた」
「いや。誰かが、俺たちの後をつけている」
声を落とした、その時だった。
屋根の端に引っかかっていた木の葉が、一枚、滑り落ちた。
風は吹いていなかった。
・柿崎景家
この世界では、三分一原の戦いに際して長尾為景の調略(という名の決闘)を受け、上条方から長尾方へ寝返ったとされる。為景の隠居後は晴景に仕えたものの、領国支配が安定しなかったことから、次第に景虎の擁立を支持するようになった。
ところが、晴景が突如として景虎を誅殺。景虎派に属していた景家も、所領の大半を没収される。その後、飢饉に苦しむ領民を救うべく自家の蔵を開いて米を分け与えたが、今度はそれを口実に捕らえられてしまった。理不尽。
どっち?
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お虎さん
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ノッブ
-
どっちも!