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木の葉が、土の上へ落ちた。
乾いた葉が湿った地面に貼りつく。その小さな動きを目で追った瞬間、軒の上で何かが鳴った気がした。
柿崎が戸口へ顔を向ける。俺は咄嗟にその肩を掴み、小屋の奥へ引き倒した。直後、頭上で乾いた音が三つ重なり、今しがた柿崎の顔があった場所を抜けた鉄片が、壁板に突き立った。
手裏剣だろうか。薄い板を貫いた先端の周りから、細く光が差している。
「伏せていろ」
言い終えるより早く、屋根が抜けた。
腐りかけた板が割れ、枯葉と土埃が降り注ぐ。その中を落ちてくる黒い人影を見据え、俺は柿崎から手を離すと、刀を抜きながら身体を開いた。
胸元を掠めた刃が、そのまま床板を裂いた。飛び散った木片が当たる。屋根の穴から射し込む光の中で、黒い人影がゆっくりと顔を上げた。
「……段蔵か?」
深く被った外套に口元は隠れていたが、覗いている目には見覚えがあった。
加藤段蔵。かつて俺に仕えていた、
段蔵は俺の顔を見ても、驚きも戸惑いも見せなかった。床へ降りた足がすぐに動き、袖の陰から短い刃が覗く。
間合いにはまだ余裕がある。そう思った矢先に、低く踏み込んできた段蔵の刃が肩口へ迫っていた。
俺は刀の鎬で受け、脇へ流した。
重い。人間の力ではない。
鋼の擦れる音とともに指が痺れ、足が埃の積もった床を滑る。踏ん張りきれずに柱へ背中をぶつけた俺をよそに、段蔵は身を翻す。その向こうでは、柿崎が起き上がろうとしていた。
俺は飛び込むようにして二人の間へ割り込み、刀を横に払った。段蔵は刃が届く寸前に跳び、壁を蹴って戸口へ抜ける。壁板が軋む音を背に聞きながら、俺も外へ追い出た。
湿った土へ足を下ろした途端、頬に熱が走った。
耳の脇を何かが抜け、背後の柱に鉄片が突き立つ。頬を伝ったものが顎から落ちたが、確かめる余裕はなかった。俺は刀を構え直し、川音を背に立つ段蔵を見据えた。
「挨拶もなしか」
段蔵は肩一つ上下させず、俺の手元と足元を順に見ていた。木立を抜ける風が外套の端を揺らしても、その身体は微動だにしない。
「我が主君を騙る曲者と、お見受けいたします」
「騙りではないが、言っても聞かんだろう」
「御屋形様の命により、御命頂戴仕る」
丁寧な物言いも、声も、俺の知る段蔵と変わらなかった。
仕事を頼めば、実行可能ならただ「承知」と答え、不可能なら簡潔に理由を述べる。言い訳も余計なお世辞もなく、どんな時にも調子を崩さない。まさに機械みたいなやつだった。
だが今は、その声で俺を殺すと言っている。まったく、召喚されてから碌な再会がない。
背後で床が軋み、柿崎が戸口へ出てきた。手には、床に転がっていた薪を握っている。端の焦げた、手頃な太さの木材だった。
柿崎が俺の斜め後ろで足を止めると、段蔵の目がそちらへ動いた。俺は切っ先を僅かに上げ、二人の間を塞ぐ。
その刀の下へ、段蔵が踏み込んできた。
「不味っ!?」
段蔵の斬撃を受けた途端、肘から肩まで衝撃が走った。押し返すだけの力はなく、俺の刀が外へ開かれる。その隙間へ、段蔵のもう片方の刃が滑り込んだ。
胸へ届く寸前、横から薪が突き出された。
柿崎だった。俺の脇へ踏み込んだ柿崎は、薪の両端を握り、俺の胸元へ迫る刃に斜めから押し当てた。刃が木肌に食い込み、そのまま段蔵の腕ごと俺の身体から遠ざけるように押し流した。
結果、逸れた刃が俺の袖を掠め脇へ抜けていく。柿崎はその動きを見届けるより早く、薪を手元へ引き戻していた。
今度は薪の端を段蔵の顔へ向け、後ろの端を掌で押す。踏み込みとともに突き出された薪が、槍のように段蔵の顎へ迫った。
段蔵が上体を反らす。俺も刀を返し、逃れようとする段蔵の胸元を斬り払った。刃は外套を裂いただけだったが、段蔵は大きく退き、二人まとめて視界に収める位置まで離れた。
「助かった」
「借りを返したまで」
柿崎は短く返し、深く割れ目の入った薪を握り直した。粗末な得物にもかかわらず、その腰の据わり方にはまるで隙がない。
確かにこの男なら、薪一本でも並の兵くらいは叩き伏せる。ぶっちゃけ、二人でかかれば段蔵にも勝てるだろう。今の一合だけでも、そう思えるだけの働きを見せてくれた。
ただし、それは段蔵がまともに戦いに付き合ってくれた場合に限る話だ。距離を取って足止めに徹されれば、決着までにどれほどかかるか分からない。その間に城から兵が来る恐れもある。
何より、あの子と婆様はどうなる。
「柿崎。先にこの場を離れてくれ」
「何を仰る。ここで二人で仕留めた方が早かろう」
「童と婆様を頼む。お前まで残っては、誰が二人を逃がす」
柿崎の眉が動いた。薪を握る手には力が籠もったままだったが、すぐには言い返してこない。
段蔵の足先が僅かに向きを変えた。当然だが、段蔵は相談が終わるまで待ってくれるほど優しい相手ではない。
「頼れる者がいると言ったな。そこへ行け。今すぐ」
「しかし――」
「俺がこの顔で村へ駆け込んでみろ。助けを求める前に逃げられるぞ」
段蔵の足元で枯葉が散った。
俺の脇を抜け、段蔵は柿崎に迫ろうとする。確かにまともな得物がない柿崎を狙うのは定石だ。しかし、だからこそ読みやすい。
俺は強く踏み出し、その行く手に刀を差し入れた。段蔵が刃で受け止め、そのまま鍔迫り合いになった。
「東へ一里ほど行った山に、屋根の落ちた社がある。用が済んだら、そこで落ち合おう」
刃を押し合いながら告げると、段蔵の目が俺の足元へ落ちた。
「承知」
柿崎の返事と同時に、段蔵の身体が沈んだ。足払いが来る。俺は跳んで躱し、そのまま刀を斬り下ろしたが、段蔵は素早く退き、切っ先だけが土を抉った。
喋りながら戦うものではないな。いや、本当に。マルチタスクは苦手なんだよ。
刀を引き戻して構え直すと、段蔵はすぐには攻めてこなかった。俺の肩越しに柿崎を見ている。振り返った隙を狙われぬよう、正面を向いたまま言った。
「子の刻までに俺が現れなければ、待つことはない」
「勝手に死なれては困るぞ」
「はん、誰にものを言ってやがる」
わざと口の端を吊り上げた。家臣の前だと思うと、どうしても見栄を張ってしまう。
柿崎はそれ以上何も言わず、小屋へ戻った。床板を踏む音に続いて、裏手の藪が擦れる。段蔵はその音を聞くなり片手を上げ、外套から覗く指先を柿崎の逃げた方へ向けた。
何らかの絡繰か。まるで、その指から銃弾でも飛び出しそうな仕草だった。
沙汰を確かめるより先に斬り込む。首を狙った横薙ぎを、段蔵が退いて避ける。俺は振り抜いた勢いのまま足を継ぎ、肩からその胸元へ突っ込んだ。段蔵の身体は捉えられなかったが、柿崎へ向けられていた手は、こちらへ戻っていた。
藪の向こうで足音が遠ざかっていく。一度決めれば迷わない。実にありがたい。
「悪いな段蔵。お前の相手は俺だ」
返事の代わりに、段蔵の刃が首元へ走った。
俺は上体を反らして躱したが、それより先に横薙ぎ蹴りが飛んでくる。段蔵の足が脇腹に食い込み、腹の奥から息が押し出される。
足が地面から離れ、小屋の壁と木立が斜めに流れた。俺は咄嗟に地面へ手をついたものの、湿った土に掌が滑ったため、無理に支えず肩を丸めて勢いを殺さずに転がった。
すぐ脇に、段蔵の刃が突き立つ。
俺がさらに転がると、今しがた頭のあった場所へ二撃目が落ちる。跳ねた土を頬に受けながら片膝をつき、どうにか刀を立てた時には、段蔵は地面から刀剣を抜いていた。
その目が、川下へ続く道を捉えている。
俺は身体を起こし、柿崎の逃げた道を塞いだ。段蔵がこちらへ向き直り、また低く踏み込んでくる。迫る刃を鎬で受け流すと、黒い袖が左へ抜けた。
斬り返そうとして、俺は途中で刀を止めた。
左から迫る段蔵の足が、小枝を踏んでいた。だというのに枝は撓まず、その下の枯葉も沈んでいない。
背筋が粟立ち、咄嗟に身体を右へ捻った。引き寄せた刀の柄に硬いものがぶつかり、手首に衝撃が走る。右肩のすぐ後ろで外套が翻った時には、左にいたはずの影は消えていた。
なんだ今のは。忍術というより手品の類だ。種も仕掛けも分からんが、見惚れていれば首が飛ぶ。
俺は近くの杉へ走り、その幹を盾にした。追ってきた刃が樹皮を削る間に反対側へ回り、低い枝の下を潜る。
太い幹を挟めば、少なくとも相手が回り込むまでの間は稼げる。そう思った矢先に、右側から手が飛んできた。
腕ではない。袖口から離れた手そのものが、細い線を引いて俺の背後の幹へ食い込んだ。まるでジオングのようだった。
頭上に張られた線が鳴り、段蔵の身体が地面を離れる。回り込む足音を待つ間もなく、段蔵はこちらに飛び込み、俺に刃を振るった。
俺は地面へ伏せた。頭上の枝がまとめて切り落とされ、顔のすぐ前に杉の葉が散る。身を捩って逃れた背中を、返された刃が掠めた。
「ろ、ロケットパンチだとぅ!?」
驚きがそのまま口から出た。
俺が身を起こして幹から離れると、段蔵は着地しながら手を引き戻していた。細い線が袖の奥へ消え、手首が収まった後には、ほとんど継ぎ目も見えなくなる。
段蔵が絡繰を操ることは知っていた。だが、袖の下に何が仕込まれているかまで、尋ねたことはない。草の者の手の内を、主君だからと無闇に暴こうとは思わなかった。
味方であるうちは、それでよかったのだ。俺を殺すために何ができるかなんて、確かめる必要はなかった。その代償を、今になって払わされるとは。
考えている間にも、段蔵は距離を詰めていた。刃が衣服を裂き、皮膚を滑る。俺は反射的に下がったが、踵が地表へ盛り上がった根に触れた。
踏みとどまれば、次の刃を避けられない。俺はそのまま後ろへ倒れ、顎の上を通り過ぎる刃を見届けながら足を振り上げた。
背中が地につくのとほとんど同時に、踵が段蔵の手首を捉えた。返ってきたのは、人の腕を蹴ったとは思えない硬い感触。いよいよ人間かどうか怪しかった。
段蔵は怯まず、蹴られた勢いに従って刃を引いた。俺が起き上がった時には、またこちらへ切っ先を向けている。
――速く鋭い。
段蔵の刃は、狙う場所へ最も短い道筋で届く。大振りも、無用な掛け声もない。こちらが刀を戻し、息をつこうとする僅かな隙へ、次の一撃が差し込まれる。
忍、水破、草の者と呼ばれる連中に命を狙われたことは、これまでにも何度かあった。だが、ここまでの使い手には出会ったことがない。
死んでから、かつての家臣の腕前を思い知るとは。生前に敵へ回さずに済んだ幸運を、今さらながら噛み締めた。
俺は続く斬撃に刀を合わせ、正面から止めずに横へ流した。それでも指が痺れ、柄が掌の中でずれる。握り直す間にまた次の刃が来て、傷ついた肩に響いた。
平三との稽古が、頭をよぎった。
『力で自分に勝る敵の攻勢を、馬鹿正直に真正面から受けてはなりませんよ。ただでさえ兄上はちょっと貧弱なんですから。あ、でも組み敷かれる兄上はそれはそれで趣が――』
あの子は笑いながら言っていたが、まことに正しかった。身に染みるまで教え込まれたことを、ここで忘れるわけにはいかない。
俺は川音を頼りに斜面を下り、杉の間を抜けた。幹を挟んで追撃を遮りながら向きを変えるたび、段蔵の刃が木肌を削り、細かな欠片が頬へ飛んでくる。
やがて木立の向こうが明るくなり、白い石の河原が見えた。
増水によって削られたであろう岸は、人の背より高い段差になっていた。その下に人影はない。俺は足を止めず、岸から跳び下りた。
着地した足の下で砂利が崩れたが、その流れに逆らわず身体を捻る。追ってきた段蔵の刃が袖を裂き、すぐ脇の地面を抉った。
今度は、俺も逃げずに斬り返した。段蔵が腕を上げて受ける。その袖口から、一瞬、黒いものが流れ出した。
煙ではない。火薬の臭いもしなかった。だがその淀んだ色には見覚えがあった。春日山の空に漂い、城下の兵の鎧から漏れ出していたもの。それが段蔵の外套の内側にもまとわりつき、腕の動きに引かれて尾を引いている。
「お前もか、段蔵」
段蔵の腕が俺の刀を弾いた。俺が身を捻って距離を取ると、続けて放たれた蹴りが背後の石を砕く。
「なんて馬鹿力だっ!」
飛んできた破片に思わず目を細めた、その僅かな間に、段蔵の姿が三つに増えていた。水際に一人、崩れた岸の下に一人、そして俺の正面に一人。どの外套も川風に揺れ、同じ眼差しがこちらを捉えている。
「もはや何でもありだな」
さながら影分身の術だ。
先ほどは足元の枝を見て、段蔵の分身を見破った。川なら水の動き、河原なら砂利を踏む音が手掛かりになるはずだが、同じ見分け方が何度も通じるとは限らない。
実際、水際に立つ段蔵の足元には波紋があった。流れが足首で割れ、その下流へ細く尾を引いている。あれが本物なのか、それすら術で偽っているのか、すぐには判断できなかった。
俺は三人を視界に収めるよう下がる。すると踵の下で砂利が鳴った。
「――四人目かっ!」
振り向きざまに刀を払うと、刃は黒い影を横切った。手応えはない。そこで己の失策を悟る。
俺は空振りした刀を引き戻し、元の向きへ身体を返した。しかしすでに段蔵はこちらの間合いへ入っている。刀を構え直す余裕はなく、俺は左腕を差し込み、相手の肘を押さえて刃の向きを逸らした。
衝撃と同時に肩の傷が引き攣れ、視界が白くなる。歯を食いしばって痛みに堪えるも、その間に段蔵はもう片方の手を俺の胸へ向けていた。俺は思いっきり頭を下げる。
すると耳元で鋭い音が弾け、背後の岩肌が欠けた。痛覚すら感じるほどの耳鳴りを無視しながら、俺は突き出された指先を見た。
銃か。いや、火縄がない。どういう仕組みだ。感心している場合ではないのだが、大変興味がある。まじでこいつ、ロマンの塊みたいな身体をしてやがるのな。指から弾丸出たら、それはもう本当にジオングじゃん。
俺は押さえていた肘を突き放し、段蔵の胸元へ肩をぶつけて離れた。後方に踏み出した足が浅瀬へ入り、草履を通して冷たさが伝わってくる。
段蔵はすぐに追ってきた。
一度目の刃は外へ流し、二度目は刀を添えて躱す。だが、三度目には腕が戻りきらず、脇腹を浅く斬られた。痛い。衣服はズタズタ、体は裂傷だらけである。
俺は息を吐きながら浅瀬を斜めに渡り、段蔵の正面から逃れた。川底の石が足裏で動いたが、腰を落として踏み直す。ここで転べば、今度こそ起き上がれる保証はない。
段蔵が構え直した隙に、俺は川下へ目を走らせた。岸沿いにも、木々の間へ続く道にも、柿崎の姿はない。
十分に時間は稼いだはずだ。少なくとも、すぐに追いつかれる距離にはいないだろう。となれば、目的の一つは果たした。
左肩も脇腹も痛み、柄を握る指は痺れていた。それでも右腕は動くし、脚もまだ全然使える。俺は刀を構え直し、外套の奥の目を見据えた。
次は、自分が生きて戻る番である。
★
段蔵が、浅瀬を蹴った。
跳ねた水の向こうで肩が沈み、右肘から伸びた刃が俺の腹へ迫る。俺は半歩前へ出て、刃の腹に刀を添えた。力比べになる前に身体を開くと、段蔵の腕が脇を抜けていく。
俺はすれ違いざまに柄頭を肩へ打ち込んだ。硬い手応えとともに段蔵の上体が揺れたが、斬り返そうとした時には、もう反対の手が上がっている。
指先がこちらを向く寸前に刀を立て、その手首を外へ押しやった。
「危なっ!」
銃声が川面を叩き、すぐ傍で水が噴き上がった。俺は冷たい飛沫を頬に受けながら段蔵の膝を蹴り、後ろへ離れた。段蔵も一歩退き、互いの刃が届かないところで足を止める。
俺たちは、川底まで見通せる浅い流れの中で向き合っていた。
俺が息を吐き、柄を握り直すと、段蔵が再び間合いを詰めてきた。一合目は刃を合わせて流し、二合目は身を引いて切っ先だけを通す。俺がその戻りを追って踏み込むと、段蔵は左手をこちらへ向けてきた。
「また、それかっ!」
顔を逸らすと同時に、刀の峰で手首を押し上げる。耳のすぐ脇で銃声が弾け、一瞬、川音さえ聞こえなくなる。その間にも、段蔵は右肘を引き、次の斬撃を繰り出そうとしていた。
銃撃でこちらを怯ませ、その隙に刃を突き込む。先ほども見た連係だった。
段蔵の速さに慣れたわけではない。刃を受けるたびに腕も肩も痛み、少し判断が遅れれば、そのまま押し切られるだろう。それでも、次に動く腕が分かっているなら、待ってやる必要はなかった。
俺は段蔵の左手首を押し上げていた刀を返し、右肘の内側へ斬りつけた。だが、刃は硬いものに阻まれ、途中で止まった。肉を斬った感触ではない。俺は構わず川底を踏み締め、腰を回すと、食い込んだ刃を力任せに引き切った。
甲高い音とともに、段蔵の右腕が肘から逆向きに折れ曲がった。
裂けた袖から細い金属片が飛び、水に落ちる。手首から先は、不自然な向きに垂れ下がっていた。
――これはもらったか。
そう思った途端、段蔵の左足が跳ね上がった。胸元へ迫る踵を後退することで逃れる。水に足を取られてよろめいたものの、追撃がなかったためどうにか踏みとどまることができた。
段蔵は壊れた右腕を下げたまま、こちらを見ていた。その肘からは、一滴の血も流れていない。
破れた袖の奥には白っぽい木肌が覗き、その内側に幾重もの金具が組まれていた。切れた細い線が垂れ、外れた軸が斜めに飛び出している。人の骨や筋とは似ても似つかないものが、つい先ほどまで、あの腕を動かしていたのだ。
俺は傷口から視線を上げ、段蔵の顔を見た。目元にも、頬にも、襟から覗く首筋にも、命の線がない。
生前からそうだった。傷病に縁のない、よほど丈夫な身体なのだろうと思った時期もあるし、忍びの術で隠しているのかと考えたこともある。何しろ、俺自身にもよく分からない目だ。見えない相手がいたところで、不思議ではなかった。
だから、尋ねなかった。仕事を任せれば果たしてくれたし、相談すれば答えが返ってきた。俺にとって、あるいは段蔵にとって、それで十分だったのだ。
「……そういうことか」
声にして、ようやく腑に落ちた。
身体に絡繰を仕込んでいるのではない。段蔵の身体そのものが、絡繰だったのだ。生物ではないのだから、俺の目に命の線が映るはずもなかった。
その時、垂れ下がっていた指が動いた。
壊れた肘の奥から黒いものが滲み出し、断ち切られた金具へ絡みついていく。外れていた軸が引き戻され、砕けた木の縁に黒い筋が走るにつれ、折れた腕がゆっくりと持ち上がった。
やがて袖の中で、かちり、と音がした。段蔵は右手を開き、閉じ、それから肘を曲げてみせた。エラーから立ち直ったロボットが、動作を確認しているようだった。
再びこちらへ向けられた腕には、俺が命懸けで作った傷が、もう残っていなかった。
「おいおいおいおい」
思わず、そんな声が漏れた。
腕一本を奪えば、攻め手を減らせる。さらに脚を潰して動けなくすれば、縛り上げることもできるだろう。そうして戦いを終わらせれば、まだ手の打ちようはある。そう思っていた。
だが、今の光景を見せられては、その見込みも捨てざるを得なかった。こちらが次の一撃を加えるまでに傷が直ってしまうのでは、手足を順に潰しても意味がない。そんなことを繰り返しているうちに、俺の方が力尽きる。
直す暇も与えず、一撃で動かなくなるまで壊すしかない。結論を出すのは簡単だ。しかし、受け入れるのには少し時間が要った。
「段蔵。互いに十分消耗したことだし、ここで――」
「御屋形様の命により」
段蔵は淀みのない声で俺の言葉を遮り、修復された右腕を持ち上げた。
「御命頂戴仕る」
指先がこちらを向いた。俺が川底を蹴って横へ逃れるのと、銃声が響くのはほとんど同時だった。すぐ脇の水面が弾け、飛沫が追ってくる。
踏み出した拍子に脇腹の傷が開いた。濡れた衣の下へ広がる不快な生暖かさを感じながら、俺は足を止め、段蔵へ向き直った。
逃げ切れる相手ではない。見通しのよい河原でさえ、俺はたびたび刀を合わせなければ攻撃を凌げなかった。背を向けて走り続ければ、ほどなく追いつかれる。追いつかれずとも、背中を撃たれて終わるだろう。
「……やるしかない」
俺が倒れれば、次は柿崎である。あの社の場所も、段蔵には聞かれている。
段蔵が一歩近づくと、濡れた袖から水が滴った。修復された腕には傷の名残さえなく、その足取りにも迷いはない。
俺は刀を構え直しながら、かつて夜更けの縁側で、こいつの報告を聞いていたことを思い出した。
長い話になったので、酒でもどうかと勧めたことがある。段蔵は「仕事中ゆえ」と断り、俺も笑ってそれ以上は勧めなかった。用件が済めば静かに去っていく、いつもどおりの夜だった。
思い返しても、そんなことばかりだった。互いの身の上を語り合うでもなく、酒を酌み交わすでもない。俺が仕事を頼み、段蔵が応じる。草の者と、その主君という関係を、俺たちはほとんど踏み越えなかった。
それでも、俺はあいつに命を預けていた。段蔵もまた、俺の命令ひとつで、命を落としかねない場所へ赴いてくれた。
その忠義を、当然のものとして使い潰したくはなかった。任せるべき仕事を見極め、持ち帰った報せを活かす。あいつの働きを無駄にせず、主君としての務めを果たすことで、報いようとしていた。
目の前の段蔵は、その日々を知らない。俺に仕えた段蔵とは、生きてきた道が違う。頭では分かっている。それでも、俺は呼びかけてしまう。
「……悪いな、段蔵」
俺はその顔を見据え、刀の柄を握り直した。
もっとも、忍者の段蔵にとって森は格好の戦場だろう。勝つために、わざわざ敵の得意な場所へ戻らねばならない。難儀な話だが、ほかに勝ち筋がない以上、腹を括るしかなかった。
「お命、頂戴っ!!」
踏み込んできた段蔵の刃を外へ流し、返す刀で顔を狙う。段蔵が退いたところを追わずに身を翻すと、俺は浅瀬を駆け抜け、崩れた岸へ取りついた。
露出した根に左手をかけた途端、肩の奥に痛みが走った。それでも手を離さず、土へ足を食い込ませて身体を引き上げる。
すぐ下で石が鳴った。段蔵は追ってきている。
俺は振り返らずに根を跨ぎ、そのまま森へ駆け込んだ。
・加藤段蔵
鳶加藤の名で知られる絡繰忍者。主人公の世界線では、仕官しにきた段蔵を晴景が普通に採用したのが馴れ初め。こちらの微小特異点でも、段蔵が晴景の配下となる経緯は同じとする。
主人公の歩んできた世界において、晴景と段蔵の関係はまさにビジネスライク。ただ主人公晴景は段蔵を最も信頼する家臣の一人として自著に残しており、段蔵は段蔵で晴景に対し厚い忠義を誓っていた。晴景の死後、故郷に戻ったとされる説と晴景の墓守になった説が存在する。
どっち?
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お虎さん
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ノッブ
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どっちも!