御館様――上杉定実が養子を迎えることは、ついに叶わなかった。
その事実は、俺を別の意味で頭を抱えさせることになった。
これ、もしかしてとんでもなくまずいことになったのではないかと。
なぜなら――上杉謙信が生まれなくなる可能性が出てきたからだ。
俺は日本史に詳しいわけではない。だが、謙信が越後――現代でいう新潟県出身の戦国武将であることくらいは知っている。しかも戦国最強の名をほしいままにした男だ。
もっとも俺は謙信がどのような経緯で生まれ、上杉家を継いだのかまでは知らない。だが、上杉と名乗っている以上、越後上杉家と何らかの血縁、あるいは極めて近しい立場にあったはずだ。少なくとも俺は、そう思い込んでいた。
だからこそ、俺はこれまで越後上杉家の権威回復に心を砕いてきた。無論、国衆との融和を進めるためでもある。だが本音を言えば、それは理由の一つに過ぎない。
最大の目的は、来るべき上杉謙信に恩を売ることだった。そして、その庇護の下で越後長尾家を存続させる。あの軍神に目を掛けられているのと、そうでないのとでは、将来の難易度がまるで違う。
だから俺は必死に働いてきたのだ。
しかし定実公に後継ができないとなれば、上杉謙信そのものが生まれなくなるのではないか。そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。
願わくば、関東の山内上杉家か扇谷上杉家のどこかに、未来の上杉謙信がいてくれればいいのだが。
……いや、さすがに扇谷上杉家はないか。
あちらはどうにも落ち目だ。軍神になるような人物が生まれるには、少々運に見放されすぎている気がする。もし本当に謙信が生まれなくなるのだとしたら――俺の人生設計は、根本から組み直しである。
問題はまだあった。
この事態を領地拡大の好機と見たのか、それとも先行きへの不安に駆られたのか、越後各地の豪族たちが再び蜂起したのである。
さて、ここで満を持して、立派に成長した我が妹――虎千代こと平三の出番だ。俺は平三を栃尾城へ下向させ、その才覚を存分に発揮させた。
後日届いた手紙には、「舐めてかかってきた反抗勢力を叩き潰しました」と実に楽しげな文面が躍っていた。おお、乱世乱世。
一応、「やりすぎるなよ」とだけ返信しておいた。
その間、俺は甲斐武田家や関東の情勢を探りつつ、諸勢力との外交にも力を注いでいた。目的はただ一つ。俺の知る歴史と、この時代の現実を照らし合わせるためである。
「この武田晴信ってやつが、後の武田信玄だろうなぁ」
手元の書状を眺めながら、思わず独りごちる。
「だって山本勘助が侍大将やってるし」
歴史に詳しくなくとも、武田信玄と山本勘助くらいなら知っている。両者ともに大河ドラマか何かで一度は耳にしたことがある有名人だ。
そして駿河・遠江では、今川義元が勢いを振るっていた。この人物もまた有名である。
後に桶狭間で織田信長に討たれる大名――という認識だった。だが実際の勢力図を見る限り、とてもそんな末路を辿る人物には思えなかった。
だって織田氏は尾張の一地方勢力に過ぎない。しかも家中は分裂状態だという。ぶっちゃけ、今の越後と大差ない。
一方の今川家はどうだ。駿河と遠江を完全に掌握し、三河にまで強い影響力を及ぼしている。誰がどう見ても大大名だった。正直なところ、こんな化け物じみた勢力が、尾張の一豪族に敗れるとは到底思えない。
「乱世こっわ。それで最終的に農民出身の足軽が天下取るんだろ。そんなん分かるわけないだろ」
歴史というのは結果を知っているから理解できるのであって、その渦中に放り込まれればただただ理不尽である。
おそらく、織田やら豊臣やらが覇権を握るのは、まだ遠い未来の話なのだろう。だが、だからこそ思う。せめて息子が生き残れるだけの道筋は残してやりたい。
そう、俺には息子がいる。
出家した主君・上杉定実の孫にあたる俺の嫡子で、名を猿千代という。
今は亡き父・為景がまとめた政略結婚の末に生まれた子だ。とはいえ、夫婦仲は思いのほか悪くなかった。少なくとも、家同士の都合だけで結ばれた冷え切った関係ではなかったのである。
ただ息子の猿千代はどうにも病気がちで、体は強くない。そのことを妻は深く案じており、やや過保護のきらいがあった。元服も近いが、あの様子では初陣はもう少し先になるだろう。
そんなことを考えていた時だった。
「御当主様! 火急の知らせにございます!」
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いた。襖が勢いよく開かれ、家臣が転がり込むように平伏する。
「なんだ」
「黒田和泉守が謀反! 御舎弟様を討ち取り、居城黒滝城に籠城! 徹底抗戦の構えとのこと!」
「――は?」
間の抜けた声が漏れた。今、何と言った。黒田和泉守が謀反。弟が殺されたと。
つい先ほどまで息子の将来を案じていた思考が、容赦なく現実へと引き戻される。
「殺されたのは景康か」
「……然様にございます」
「そうか」
短く息を吐き、立ち上がった。
「兵を集めよ。和泉守を誅する」
「はっ!」
家臣が駆け去る。
下剋上か。あるいは、別の思惑でもあるのか。理由などどうでもよかった。弟を殺された以上、俺自身が兵を率いて討つしかない。
舐められれば殺される。殺されないために殺す。それが戦国の理だった。
長尾景康。
武勇に秀でた男ではなかった。だが文を好み、人の心を思いやる優しい男だった。
兄弟同士でさえ家督を争い、血を流すことが珍しくない乱世にあって、景康は一度たりとも俺へ刃を向けなかった。当たり前のように兄を支え、当たり前のように家に尽くしてくれた。
そんな弟だった。
「……仇は取ろう」
静かな声が漏れる。それで景康が帰ってくるわけではない。何の手向けにもならないだろう。
それでも――兄として、果たさねばならない。
俺はただちに春日山の常備軍を招集した。目指すは、黒田和泉守が籠もる黒滝城。
さらに栃尾城からも援軍を要請した。ほどなくして平三が兵を率いて合流し、こちらの兵力は敵方を大きく上回った。どちらが有利であるかは明白だった。
黒滝城は険しい山腹に築かれた古い山城である。築城の古さは否めず、防御施設も時代遅れだった。
しかし侮れる城ではないのも事実だ。
城内には豊かな湧水があり、水の心配がない。また黒滝城は周囲を急斜面に囲まれており、攻めるには骨が折れる地形に築かれている。そのため兵糧さえ尽きなければ、長期の籠城にも十分耐えうる。和泉守もその利を頼みに立て籠もったのだろう。
陣が整い始めた頃、一人の武者が本陣へ姿を現した。まだ若いながらも、鋭い眼光と引き締まった面差しを持つ武者。
長尾平三景虎――俺の妹である。平三は陣幕の前で膝をつくと、深々と頭を垂れた。
「兄上。ただいま参上いたしました」
「よく来てくれた。話は聞いているな」
「はい。景康兄上が殺されたと」
その一言に、陣中の空気が重く沈んだ。腹違いではあるが、長尾景康は平三の兄だった。
もっとも景康は生前、平三を少々苦手にしていた節があった。幼い頃から剣の稽古では容赦なく叩きのめされ、そのたびに肩を落としていた姿を思い出す。
そんな微笑ましい光景すら、今はもう見ることも叶わない。
「黒田和泉守は父上と昵懇の間柄であり、その縁によって御館様に仕える身となった者だ。だが、我が弟を討ちながら、弁明の使者ひとり寄越さぬというのであれば――もはや是非もない」
陣幕の内に沈黙が落ちる。誰も異を唱えなかった。黒田和泉守の運命は決まったも同然だった。
軍配を握る手に力がこもる。久しく忘れていた怒りが、腹の底で燻っていた。討つ理由などそれで十分だった。
そのときだった。
「御当主様!」
陣幕の外から慌ただしい声が響く。
「何事だ」
「上杉様より急ぎの書状が届いております!」
「御館様から?」
差し出された書状を受け取り、封を切る。読み進めるうちに、思わず眉がひそめられた。
――黒田和泉守を殺すな。
要旨を一言で表せば、それだけだった。どうやら黒田は御館様――上杉定実のもとへ泣きついたらしい。
書状によれば、我が弟景康は謀反を企て、そのため黒田和泉守を調略しようとしたという。しかし黒田和泉守はそれに応じず、逆に弟を斬り殺した。
事情がどうあれ、長尾家次男を手に掛けた事実は消えない。その責を負うため、自らは出家し、越後国外へ退去する。その条件で助命を願い出たのだという。
書状を持つ手に、自然と力が入った。
弟が謀反を企てた?
ありえない。断じて、ありえない。あいつはそういう男ではなかった。家を割り、家に牙を剥くような愚か者ではない。だからこそ長尾家は安泰だったのだ。
それを――謀反人だと?
胸の奥で、静かに何かが煮え立っていくのを感じた。
「どうするのですか?」
「……どうもこうもあるまい。御館様の命に背くわけにはいかぬ。皆の衆、引き上げだ」
その言葉を口にするだけで、胃の腑が焼けるようだった。拳を握り締める。爪が掌に食い込み、痛みが走る。それでも力を緩めることはできなかった。
こんな理屈が罷り通っていいはずがない。弟を殺し、虚言を弄する男が助命されるなど、到底納得できるものではなかった。
だが、主君の命に逆らうことはできない。ようやく改善できた越後上杉家との関係も、国衆たちとの信頼も、一瞬で崩れかねないからだ。
それは長尾家のためにならない。理屈では理解している。理解しているからこそ、なおさら腹立たしかった。
俺は血反吐を吐くような思いで踵を返した。黒滝城を振り返ることなく、その場を後にする。
「……兄上」
不意に、平三が歩み寄ってきた。
「良い。良いんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「兄上はどうして黒田何某を討たないのですか」
「何を言う」
「兄上がその気になれば、あんな奴すぐに蹴散らせたじゃないですか」
「……俺にも立場がある。御館様のご意向に背くことなどできるものか」
「でも拳から血が流れるほど悔しそうにしています」
「当たり前だろうが」
思わず吐き捨てる。弟を殺されて、憤らぬ兄はいない。
「なれば――」
平三は真っ直ぐに俺を見上げた。
「兄上のお気持ちも考えられぬ守護様に、どうして上に立つ資格があるのでしょうか」
息を呑んだ。それはあまりにも危うい言葉だった。
「平三」
思わず声を低くする。だが、それ以上の叱責は続かなかった。胸のどこかで、その言葉を否定しきれなかったからだ。
★
黒田和泉守秀忠は、長尾平三景虎に討ち取られた。
経緯はこうだ。黒田は越後国外へ退去したと見せかけ、その実、密かに黒滝城へ舞い戻っていたらしい。そして再び兵を集め、抗戦の支度を進めていた。
だが、その動きを誰よりも早く察知したのが我が妹平三だった。平三はただちに御館様へ注進し、討伐の許しを得るや否や軍勢を率いて黒滝城へ攻め寄せた。
結果は言うまでもない。黒滝城は落ち、黒田和泉守秀忠は討ち取られた。
数日後。俺の前に現れた平三は、一つの首桶を差し出した。
蓋を開ける。中に収まっていたのは、見紛うはずもない黒田の首だった。俺が言葉を失っていると、平三は満面の笑みを浮かべた。
「兄上に代わって、仇を討ちました」
その声音には誇らしさしかなかった。まるで兄に褒めてもらいたい幼子のように。
だが、その足元には一つの城を滅ぼし、一族郎党を討ち果たした戦の結果が積み重なっている。俺はしばし言葉を失った。
「……よくやった、平三」
ようやく絞り出した声に、平三の顔がぱっと明るくなる。
複雑な気持ちではあった。できることなら、弟の仇は俺自身の手で討ちたかった。
平三は愚鈍な俺に代わって黒田を討った。俺が果たせなかったことを成し遂げたのだ。しかも、ただ感情に任せて動いたわけではない。御館様の下知を得たうえで兵を動かし、黒田が再び牙を剥く前に討ち滅ぼしてみせた。
その手際は見事というほかなかった。ならば、その功を認めぬわけにはいかない。それを無下にするようでは、長尾家を率いる当主たる資格はあるまい。
「しかし平三。栃尾城の手勢だけで、よくぞあの黒滝城を落としたな」
「あんなもの、造作もありませんでしたよ。父上に重用されていた武将と聞いていただけに、少々がっかりしました。兄上のほうが十倍は強かったです」
「そ、そうか……」
それは何とも過分な評価だった。
もっとも、以前の稽古――平三に言わせれば稽古だが、俺からすればほとんどリンチである――を経験した後でそう言うのなら、黒田和泉守との戦はよほど一方的なものだったのだろう。
黒田には気の毒だが、相手が悪かったとしか言いようがない。いや、そうでもないな。卑怯者の妥当な末路だ。
「ところで兄上。できれば二人きりの時は、私のことを虎千代とお呼びください」
「何故だ」
「だって、そのほうが可愛らしいではありませんか」
「可愛らしいって、お前な……」
思わず呆れた声が漏れる。
まあ、そういう感性が育ったのは喜ばしいことなのかもしれない。少なくとも木剣を振り回しながら「きゃはは」と邪悪な笑みを浮かべていた頃よりは、よほど健全だ。
「御当主様」
不意に襖が開き、一人の家臣が平伏した。その様子を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感が走る。
「何だ」
「……猿千代様が、お亡くなりになられました」
読まなくていい雑設定
・長尾晴景
弟に戦いを任せることで、政務に専念できるようになった。諸国に関する情報収集、外交など政務を全面的に頑張っている。また父と同じく朝廷や幕府に対して献金をしているため、守護代の地位を何の問題もなく継承している。
弟と息子を立て続けに亡くした。死体は黒い線で塗りつぶされているため、晴景は何者であれ人の死相を見ることは叶わない。
・猿千代
あまりにも早すぎる死。それは戦国の常であった。
・長尾景康
越後長尾家次男。黒田に殺された。兄を越後の国主とさせるべく、奔走していた。
・黒田秀忠
上杉定実の家臣。景虎に誅された。景康を殺した理由は闇の中。
・上杉定実
深く、後悔している。
・長尾景虎
兄上。褒めてください。私を。
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