猿千代――俺の息子が死んだ。
その後を追うように、妻も死んだ。
父が死に、弟が死に、そして妻と息子まで逝った。
皆、死んでいく。越後の内乱はようやく収まりつつあるというのに、長尾家にはどうにも死の気配がまとわりついていた。
「……なんと無様なことか」
吐き出した言葉は、自嘲とも嘆きともつかなかった。
もともと猿千代は病弱だった。流行り病を患ったと聞いた時から、嫌な予感はあった。しかしその予感は最悪の形で現実となる。
そして妻は、猿千代の死に耐えられなかった。息子を失った悲しみは心を蝕み、身体を蝕み、みるみるうちに彼女から生気を奪っていった。数か月後、その後を追うように妻もまた世を去った。
俺には、人の死が見える。
死期の近い者には、まるで誰かが悪戯書きをしたような黒い染みが浮かび上がる。妻の顔に刻まれたその「死の落書き」が、日を追うごとに濃くなっていく様を見続けるのは、少々堪えた。
消してやることもできず、見ないふりをすることもできない。ただ、それが完成していくのを眺めることしかできなかったのだから。
「……ほんと、嫌になるな」
ぽつりと呟く。
そして何より愚かなのは、妻と子の死を悼みながら、その一方で長尾家の後継を誰にするか考えている己だった。
涙を流すより先に、家の行く末を案じる。随分と武家の論理に染まったものだ。あるいは、それだけ多くの死を見過ぎたのかもしれない。
「分かっちゃいたが、地獄に落ちるな」
そう呟き、静かに目を閉じる。だが、瞼の裏に浮かぶのは妻の面影でも猿千代の笑顔でもなかった。長尾家の行く末である。
まったく、我ながら救いようがない。
俺も今年で三十七になる。父・為景が五十半ばで世を去ったことを思えば、今から新たな世継ぎをもうけたとしても、無事に家督を譲り終えるまで生きていられる保証はない。
ならば、次を考えねばならなかった。
表向きは弟となっている長尾平三景虎。先の黒田和泉守討伐以来、その名は越後中に知れ渡っている。或いは、俺を退けて当主の座に就くことを望む者が少なからずいるくらいには。
人心を取りまとめ政を執るのは晴景。戦場で武名を轟かせるのは景虎。いつしか、そのように語られるようになった。長尾家の威勢を思えば喜ぶべきことなのだろう。
だが、後継を考える身としては素直に喜べない。
今から首尾よく世継ぎを得られたとしても、その頃には平三は越後を代表する武将となっているはずだ。そしてその子が成長する頃には、家中は二つに割れるかもしれない。つまりは嫡流派と景虎派である。
無論、平三自身は争いを望むまい。あれは権勢に執着する性分ではない。まして俺の子と争うなど、本心から嫌がるはずだ。
だが、人の世は当人の意思だけでは回らない。景虎を担ぎ上げる者は必ず現れる。勝手に旗印にする者が現れる。そして気づけば、避けたかった争いが始まる。
「……なら、いっそのこと平三に家督を譲るか」
ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。だが、すぐに首を振る。
問題は正統性だ。武家の家督は、まず嫡男が継ぐ。それが道理であり、家中を納得させるための拠り所でもある。たとえ景虎がいかに才覚に優れようと、嫡男ではない以上、そのまま後継に据えるのは容易ではない。
だからこそ世の武家は養子を用いる。実子でなくとも、養子となれば家督を継ぐ大義名分が立つ。遠い昔のことだが、足利将軍家ですら実弟を養子に迎え、後継とした例があった。
これを我が越後長尾家に当てはめるのなら――
「兄上」
不意に声がかかった。我に返ると、いつの間にか平三が傍らに立っていた。え、こわ。いつからいたの。
「いたのか」
「はい。兄上が心配でしたので」
「そうか。苦労をかけるな」
「……で、兄上は何をご案じなさっていたのですか」
平三は穏やかに微笑んでいる。そういう顔もできるようになったんだな。昔は笑っているようで薄ら寒い表情をしていたが、成長したものだ。そう思うと、自然と口元が緩む。
「おや、何やら嬉しそうなご様子ですね」
「ああ。安心して任せられるなと思ってさ」
「……何の話ですか」
「長尾家当主の座だ。お前に譲っていいと、そう思っている」
「御断り申し上げます」
「え?」
一息たりとも間のない即答だった。
「私は兄上の槍です。兄上の下にあるからこそ、この力を正しく振るえます。兄上なき長尾家など、私には考えられませぬ」
その声には、妙に切実な響きがあった。
「そんなことはないだろう。現にお前は黒田和泉守を誅した。見事な働きだった」
「兄上が導いてくださったからです。長尾家を率い、越後を導くにふさわしいのは兄上です。私ではありません」
「そう言ってくれるのは嬉しい。だが俺ももう若くない。世継ぎも失った。先のことを考えるなら、お前が長尾家を継ぐのが最善だと思っている」
「何を仰います」
穏やかだった平三の表情が、わずかに曇った。
「兄上には、まだまだ生きていただかねばなりませぬ」
「無論、俺もそう簡単に死ぬつもりはないさ」
苦笑しながら肩を竦める。これは説得に骨が折れそうだ。
「だが父上も、猿千代も、あれほど急に逝った。人の命など分からぬものだ。俺とて、いつ――」
「兄上」
遮るように平三が声を発した。その声音に、思わず言葉が止まる。平三は俯いていた。膝の上で握られた拳が、わずかに震えている。
「お頼み申します。どうか……冗談でも、そのようなことは仰らないでください」
低く、押し殺した声だった。平三は俯いていた。その肩は微かに強張り、握り締めた拳には力がこもっている。
胸の奥が痛んだ。考えてみれば当然だった。父を失い、兄を失い、つい先日には甥までも失ったばかりである。そんな相手に己の死を口にするなど、あまりにも配慮が足りなかった。
「悪かった」
「……いえ。私こそ取り乱してしまい、申し訳ございません」
平三はそう言って頭を下げた。だが、互いに何を口にすればよいのか分からない。微妙な沈黙が、その場を支配した。
だが、このまま話を終わらせるわけにはいかなかった。今を逃せば、二度と切り出せなくなる気がした。俺は胸の内の躊躇を押し殺し、再び口を開く。
「家督の話だがな」
「……はい」
「家督を譲って隠居するといっても、実権はしばらく俺が握るつもりだ」
「……そんなの当たり前です」
「その折は、お前を養子にしようと思う」
平三の目がわずかに見開かれた。
「養子に……私を?」
「ああ」
「それは……」
一拍の沈黙。
「兄上の子になる、ということですか?」
平三は息を呑んだ。その表情に浮かんだのは驚愕だった。だが、それ以上に強かったのは喜びだ。普段の平三なら決して見せないほど、無防備な感情が一瞬だけ顔を覗かせた。
その面持ちはすぐに消えた。だが、俺は見逃さなかった。あの瞬間こそ、平三という人間の本質が垣間見えた気がしたのだ。
★
長尾六郎晴景の居城、春日山城を後にしたのは、その
景虎には、生まれつき人の心というものがよく分からなかった。怒りや悲しみ、喜びや愛情。そうした感情が存在することは知っている。人がどういう時に笑い、どういう時に泣くのかも理解している。
だが、それはあくまで知識としてだった。父・為景も、母・虎御前も、次兄・景康も、そんな景虎をどこか恐れていた。まるで得体の知れない物の怪でも見るように。
しかし、長兄の晴景だけは違った。景虎を恐れず、根気強く向き合ってくれた。
幼い頃のことだ。
景虎が何の気なしに、ただ邪魔だったから女中を斬ろうとしたことがある。すると握りこぶしをもって兄に止められた。なぜ殴られたのか分からなかった。なぜ人は人を殺してはならないのかも分からなかった。
だから尋ねた。ひとつ、またひとつ。答えを聞いても理解できず、さらに尋ねた。
今にして思えば呆れるほどの質問攻めだったが、晴景は最後まで付き合った。露骨に嫌そうな顔をしながらも、決して投げ出さなかった。
そして、その兄は同時にこうも語った。
――戦では人を殺す。
景虎には理解できなかった。人を殺してはならないのに、戦では殺してよいという。矛盾しているように思えた。
だが晴景は当然のことのように、もっともらしく言った。土地を守るため。田畑を守るため。人々を守るため。守るためにこそ、人は剣を振るうのだと。
景虎には、その違いが分からなかった。殺すことに理由を付ける意味も理解できなかった。殺すということは殺すという意味に他ならないのに。それでも兄が言うのなら、そういうものなのだろうと思うことにした。
かつて寺の住職に、「強き者は弱き者を助け、諸氏を悪から守るが義なり」と説かれたことがある。ならばそうしよう、と景虎は素直に従った。試しに山の麓の里を荒らしていた野党を探し出し、一人残らず皆殺しにした。
結果、里人たちからは恐れられた。住職からは、「命をむやみに殺めるものではない」とひどく叱られた。
景虎には何が悪かったのか分からなかった。悪を滅ぼし、弱き者を守った。教えられた通りにしたはずだった。
だが、その時、兄上だけは違った。「よくやった」と褒めてくれたのだ。
そして同時に、「悪は根絶やしにしたいが、そうすると皆いなくなっちゃうから程々にするように」とも諫められた。
なるほど、と景虎は納得した。だからそれ以来、虎千代だった景虎は皆殺しをしないようにしている。
景虎にとって晴景とは、それほど大きな存在だった。兄上の口から発せられる言葉こそが、この世で最も信用できる道理だった。
分からぬことを無理に理解する必要はない。ただ学び、その通りに振る舞えばよい。晴景はそう教えてくれた。
景虎にとって、その言葉は実に明瞭だった。分かりやすいというのは素晴らしいことだ。この世には訳の分からぬしがらみばかりが溢れている。
正しいはずの道理と正しいはずの道理がぶつかり合い、人はそれを理屈で捏ね回しては迷い続ける。
だが兄上の言葉は違う。進むべき道を指し示してくれる。だから景虎は、それに従えばよかった。
兄上が手綱を握っていれば、長尾平三景虎は誤ることはない。
何より、
「……なぜ、隠居などと」
景虎の口から、思わずそんな呟きが漏れた。
兄上が家督を譲り、隠居する。それだけは考えていなかった。そんなことをされたら、自分はもう止まれなくなる。
政も軍も一手に握り、全てを力でねじ伏せる。無自覚の内に話し合いよりも武力を選び、敵も味方も剣で従わせる――そんな暴君に成り果てるかもしれない。
兄の存在こそが歯止めだった。景虎自身、それをよく理解している。だが同時に、その決断が合理的であることも認めざるを得なかった。
晴景はすでに四十に近い。明日、病に伏してそのまま帰らぬ人となったとしても、決して不自然ではない年齢だ。
ならば、今のうちに家督を譲る。若く、武勇に優れ、人望もある景虎へ。それは国の将来を考えれば理にかなった選択だった。
少なくとも景虎が知識として知っているだけの、上面だけの常識と照らし合わせればそうなる。
それに――その話は、ひどく魅力的でもあった。
「私が、兄上の子に……」
思わず口にした言葉に、自ら胸が高鳴る。晴景が家督を譲るにあたり、弟である景虎を養子に迎える。それは奇妙でありながら、どこか甘美な響きを持っていた。
嫡男を失い、妻を失い、傷つき疲れ果てた晴景の子となる。ただの弟ではない。より深く、より固い絆で結ばれた存在となり、これまで以上に兄の傍にいることができる。
それは景虎にとって、家督相続などよりも心を揺さぶる話だった。そして、ふと考える。もし兄上との間に子を儲けることができれば――
「――うん、これ以上はいけませんね」
景虎は慌てて思考を打ち切った。理由はよく分からないが、兄弟の間で子を成すのは悪いことらしい。
ならば考えてはならない。考えてはならないのだが、胸の内に灯った熱はそう簡単には消えてくれなかった。
「ふう」
景虎は小さく息を吐く。どうにも落ち着かない。ならば、道すがら山賊でも狩るとしよう。賊を討つのは義にかなう行いだ。胸の熱を鎮めるには、ちょうどよい。無論、皆殺しにはしない。
そう結論づけると、景虎は足取りも軽く街道を進んでいった。
・長尾晴景
息子の後を追うように、正妻も亡くした。その喪失の中で、自分はどうすべきか、何が長尾家にとって最善なのかを考え続けている。
家督を譲るには、晴景はまだ若い。だが、後継は定まっておらず、このままでは嫡流が断絶する可能性が高い。
ならば、いっそのこと早期のうちに平三に継がせるのが最善である。足利将軍家でも実弟に家督を継がせた例はあり、安芸国の毛利家でも似たような問題に対して同様の対処をしている。
前例がある。理屈も通る。ならば、それでいい。晴景はそう自分に言い聞かせた。
・長尾景虎
兄上の子になる。それは、とても良いことです。
でも政務は無理。絶対やだ。破綻するのは目に見えている。