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当初こそ渋い顔をしていた平三だったが、三度にわたる説得の末、ついに当主の座を引き受けてくれた。
養子も迎えられず、娘にも先立たれ、浮世に疲れて出家した上杉定実が、その後見人を務めてくれることになったのも大きい。本当に感謝してもしきれない。
もっとも、平三が当主となるにあたって提示してきた条件は、なかなかに癖が強かった。
一つ。春日山城で一緒に暮らすこと。
一つ。可能な限り毎日会い、稽古をつけること。
一つ。会えない日は必ず手紙を送ること。
一つ。平三が政務に慣れるまで、最低でも三年間は晴景が実権を握ること。
最後以外、どう考えても私事である。しかも、いくつかは実現できるかどうか怪しい。とはいえ、一応はすべて承諾した。
可愛い弟――正確には妹であるのだが――の願いくらいは叶えてやりたい。それが兄という生き物である。
「ところで兄上。これからは兄上のことを何とお呼びすればよろしいでしょう。やはり父上ですかね」
「好きに呼んでくれ。何ならご隠居様でも構わんぞ」
「うーん。それは少々、兄上が老け込んで可哀そうな感じです。やはり兄上がよろしいかと」
「余計なお世話だ」
「でも父上も捨てがたいですねぇ」
「……好きにしてくれ」
そんな他愛もないやり取りを交わした。平三が当主となっても、俺とあいつの関係が変わるわけではなかった。むしろ後衛に徹することが出来る分、仕事の効率は格段に良くなるだろう。
さて、平三への家督相続を決めた以上、次は家臣たちを納得させなければならない。
上条との戦以来、変わらぬ忠節を尽くしてくれている柿崎。越後長尾家の重臣たる大熊。そして栃尾城で平三を支え続けてきた本条。この辺りは問題ないだろう。
俺が頭を下げれば、ようやくまとまりつつある越後の国衆たちも、その過半は平三を認めてくれるはずだ。もっとも、それは俺の顔が利くからではない。平三自身が戦場で打ち立ててきた武名あってのことだった。
問題は別にある。
上田長尾家当主、長尾政景。越後長尾家の分家筋にあたる男だ。そして、なぜか俺に心酔している。正直なところ、そこまで慕われる理由に心当たりはない。強いて挙げるなら、一度一騎打ちで真正面から殴り合って勝ったことくらいだろうか。
だが、それでここまで傾倒されるものだろうか。柿崎の件といい、越後衆というのはどうにも血の気が多い。どうやらこの国では、言葉を尽くすより拳を交えた方が信頼を得られるらしかった。
となれば、長尾政景が家督相続に異を唱えるのは目に見えていた。
平三ではなく晴景様のご嫡子が継ぐべきだ――などと言い出しかねない。あの男をどう説得したものか。俺は早くも頭痛を覚えていた。
「あんまりこういうのは好きではないのだが、綾を送るかぁ」
妹の綾を嫁がせる。婚姻によって家同士を結び付けるのは戦国の常だ。だが、根が現代人の俺にとっては、どうにも割り切れないものがある。娘や妹を政の道具として扱うことに、少なからず抵抗を覚えてしまうのだ。
それでも、今回ばかりは悪くない手だと思えた。
綾は俺を除けば、越後長尾家の中で唯一、平三と真っ向から向き合ってきた人間である。仏の教えに篤く帰依し、その人柄も穏やかで誠実だ。政景にとっても、きっと悪い相手ではないだろう。
そして何より、宗家の娘を分家へ嫁がせるというのは、信頼の証でもある。上田長尾家を身内として遇する。その意思表示としては、これ以上なく分かりやすい。
これで政景が納得してくれれば話は早いのだが。さて、あの男が素直に頷いてくれるだろうか。
俺はそんなことを考えながら、小さく息を吐いた。
「……加えて、北条と武田の動きが気がかりだな」
家中の問題だけなら、まだ何とかなる。だが、世の中はこちらの都合など待ってはくれない。
甲斐では武田信虎を追放した武田晴信が家督を継ぎ、その勢いのまま信濃への侵攻を進めていた。
信濃は越後の隣国だ。もし晴信が信濃を統一すれば、その次に目を向ける先は限られる。越後との衝突は、もはや避けられまい。今のところ最大の脅威と言ってよかった。
そして、もう一つ。
武蔵では北条氏康が上杉憲政を盟主とする山内上杉家を打ち破った。敗れた憲政は居城のある上野へ戻ったと聞くが、情勢を見る限り立て直しは難しいだろう。このままでは山内上杉家は滅ぶ。
そして山内上杉家を滅ぼすべく、北条は間違いなく上野へ兵を進める。関東に覇を唱える氏康が、足踏みをする筈がない。
「……これは、悠々自適な隠居生活とはいかないかもしれんな」
思わず苦笑が漏れる。ふと、晩年の父の姿が脳裏をよぎった。
家督を譲った後は政務の表舞台から距離を置き、好きなように日々を過ごしていた。ああいう余生には少なからず憧れる。
だが――
「兄上! さあ、約束通り稽古いたしましょう!」
元気いっぱいの声とともに、平三が駆け込んでくる。
うん。少なくとも、当分は無理そうだった。
★
結局、長尾政景は平三の家督相続を最後まで認めなかった。
無論、こちらも黙って見ているつもりはない。正確には、俺が平三の背を押して兵を挙げさせた。
家督を継ぐ以上、その正当性は武をもって示さねばならない。こうして平三は兵を率い、政景と雌雄を決することとなった。
結果は圧勝だった。
武威の差をまざまざと見せつけられた政景は、ついに平三へ降る。こうして越後国内の反対勢力はことごとく平定され、平三は名実ともに越後国主となった。長きにわたり続いた越後の内乱も、これをもってようやく終結を迎えた。
我が父、長尾為景の悲願だった越後の統一が、ようやく成ったのだ。
しかしその余韻に浸る間もなく。今度は北信濃の国衆から救援要請が舞い込んできたのである。やはりというべきか、武田は凄まじい勢いで信濃への侵攻を進めていた。
もともと北信濃とは縁が深い。父・為景の代にも、現地の内紛を収めるため出兵したことがあるし、救援を求めてきた高梨政頼もまた父の代からの付き合いだ。見捨てるという選択肢はなかった。
そして何より、平三がやる気満々だった。救援の報せを聞くや否や、自ら兵を率いて北信濃へ出陣する。
「天魔の如き武田晴信の所業、もはや見過ごせぬ。この景虎が成敗いたす!」
そう高らかに言い放っていた。だが、どうにも怖い。目がまったく笑っていないのである。しかも声音ばかり勇ましく、言葉には不思議なくらい感情がこもっていない。
あれは正義感に燃えているというより、単純に強そうな相手を殴る口実を見つけて喜んでいる顔だった。
川中島で行われたこの戦は、長尾方がいくつかの城を攻略したものの、やがて膠着状態に陥った。決定打を欠いたまま局地戦の応酬が続き、最後は両軍ともに兵を退く。勝敗はつかず、いわば痛み分けであった。
だが武田の快進撃は止まった。目的は達したといえる。
その頃、俺は越後の春日山城で平三の帰還を待っていた。そして、ふと思う。
武田晴信。
川中島。
それと長尾景虎。
頭の中で、その三つの単語がゆっくりと結びついていく。
「……あれ?」
甲斐の武田晴信。後の武田信玄。
越後の長尾景虎。後の――
「あれ、もしかして平三が上杉謙信なのか?」
いや、違うだろう。自分で口にしておきながら、俺は首を振った。
確かに長尾家は代々、越後上杉家に仕えてきた。だが、平三は長尾家の三男だ。仮に平三が後世で上杉謙信と呼ばれる人物なのだとして、一体どういう経緯で「上杉」の姓を名乗ることになるというのか。どう考えても話が繋がらない。
そう結論づけ、一人で勝手に納得していたところへ、思いも寄らぬ客人が越後を訪れた。
関東管領・上杉憲政である。北条氏康との争いに敗れた憲政は、自ら越後へ赴き、我らに援軍を求めてきたのだ。
「業腹ではあるが、伊勢の力は強大だ。どうか越後長尾家の力をお貸しいただきたい」
とのことである。ちなみに、この「伊勢」とは北条を名乗る以前の氏康の姓だ。要するに憲政は、由緒ある家名を称してはいても所詮は伊勢風情――と言いたいのだろう。
心中は察するが、話がややこしくなるので普通に北条と言ってほしかった。少なくとも俺は、一瞬「伊勢って誰だっけ?」と真顔で考えてしまったのである。
さて、その話を川中島から帰陣した平三に伝えたところ――
「天魔の如き北条氏康の所業、もはや見過ごせぬ。この景虎が成敗いたす!」
と、高らかに言い放った。そしてそのまま「あははは!!」と高笑いしながら関東へ出兵していった。マジかよ。
つい先日まで武田と戦っていたばかりではなかったか。いや、本人だけならまだいい。
問題は家臣たちである。川中島での戦働きによって、彼らはすっかり平三に心酔してしまったらしい。
「御当主様に従うぞ!」
「関東を救うのだ!」
などと意気軒高に兵をまとめ、当然のように関東へついていく。マジかよ。越後統一を果たしたばかりだというのに、我が軍の機動力と行動力は異様に高かった。
一方、越後に残された俺は、日課となった平三への手紙をしたためながら、次の一手について考えていた。
平三は「弱きを助け、民を悪から守る」という教えを、驚くほど律儀に守っている。それは教えの本質を理解した結果というより、教わった規範を愚直になぞっているだけなのかもしれない。
だが、それでもなお、妹の行いは義にかなっていた。困窮する者のために兵を動かし、理不尽を見れば見過ごさない。
少なくとも、その姿に心を動かされた者が大勢いることだけは間違いない。ならば俺も、その手助けをするべきだろう。
平三が武を振るうのなら、俺はその道を整える。
その第一歩が上洛だった。
信濃や関東での戦いを有利に進めるためにも、京都の公家や幕府、周辺の有力者との繋がりを築いておく必要がある。あわよくば天皇に拝謁し、関東や信濃の争乱を鎮めるための綸旨を賜ることができればなお良い。
武だけでは世は治まらない。だからこそ、平三に足りないものを俺が補うのだ。
★
「あーにーうーえー」
平三が関東から帰陣してから数日後。上洛のため、俺と平三、そして五十名ほどの供回りを連れて海路を進んでいる最中だった。潮風に混じって聞こえてきた間延びした声に、俺は思わず苦笑する。
「どうした、平三」
「なんで上洛なんてするんですかー」
「お前の振るう暴力に名目を添えるためだ」
そう言って肩をすくめる。
上洛の目的は、突き詰めれば大義名分の確保にある。どれほど強大な軍勢を率いようと、ただ力で従わせるだけでは限界がある。人を動かし、国を治めるには、「なぜ戦うのか」という理由が必要だった。
そのための京であり、そのための将軍である。天皇を戴く都へ軍を進め、室町将軍を保護する立場となる。それだけで長尾の掲げる旗には重みが生まれる。平三が剣を振るうなら、俺はその剣に理屈を与える。
言ってしまえば、それが此度の上洛の目的だった。
「大体、三年は政務を手伝えと言い出したのはお前の方だろう」
「……ふむ。そう言えばそうでしたね」
平三は素直に頷いた。だが、そのまま黙り込んでしまう。どうしたのかと顔を向けると、平三はふいと視線を逸らした。
「なんだ。いい歳をして、そんな可愛らしい仕草をしおってからに」
「……お虎としては、兄上と稽古する機会が減るのでつまらないのです。適当に城を落として、さっさと関東から戻ってきたというのに」
「適当にと言うな。落とされた方はたまったものじゃないぞ」
思わず苦笑が漏れる。
「とはいえ、ご苦労だったな。たまにはこうして船の上で杯を傾けるのも悪くないだろう?」
「それはそれです」
即答だった。どうやら酒と兄との稽古は別勘定らしい。
潮風に雪のような白髪をなびかせ、不満げに唇を尖らせながら杯を傾けるその姿を眺めていると、関東や信濃で武名を轟かせた猛将と同一人物とは、とても思えなかった。
――いや、こいつの場合、中身は昔からあまり変わっていないのかもしれない。
それはそれとして、お虎とは何だ。二十五にもなって可愛い子ぶるんじゃない。
「でも、よく上洛できましたね」
「ん?」
「上洛して人脈を築くにも、相応に官途を得るにも、そもそもこうして船に乗って上洛するのにも、面倒な手続きや大量の銭が必要なんでしょう? それくらい、私にも分かります」
「まあな」
平三の言に首肯する。
「京で何かを成そうと思えば、結局は銭と伝手が物を言う。特に今の朝廷も幕府も懐事情は厳しいだろう」
「やっぱり」
「だからこそ、事前の根回しが大事なんだよ」
平三は戦場ならば無類の才を発揮する。だが、京の都で必要なのは槍でも太刀でもない。人脈と礼法、そして金である。そのあたりは、俺の仕事だった。
越後は青苧の産地として知られ、日本海交易の要衝でもある。港から上がる収益に加え、金山銀山も抱えているのだからなおさらだ。正直なところ、金回りはかなり良い。京で顔を売るにせよ、人を動かすにせよ、先立つものに不足はなかった。
人脈についても心配はいらない。父・為景の遺産を遠慮なく使わせてもらう。主君を討ち、関東管領を自刃に追い込み、守護家を意のままに操った男だ。中央からすれば危険人物もいいところだろう。
もっとも、為景は朝廷と幕府への献金だけは欠かさなかった。おかげで越後長尾家は、あれだけ好き放題やったにもかかわらず、朝廷や幕府から妙に覚えがめでたい。
世の中、やはり銭は大事である。
「それに、俺が言い出さなくとも宇佐美か大熊あたりが取り仕切っただろう」
「ですかね」
「ああ。正直なところ、俺がいなくとも長尾家は回る」
「……ことあるごとにそうやって身を引こうとするの、好きではないです」
平三は俺をじっと見つめる。その声音に変化はない。だが、わずかに伏せられた瞳だけが、隠しきれない寂しさを滲ませていた。
「そういうつもりじゃなかったんだが、すまん」
素直に謝ると、平三はそれ以上追及してこなかった。とはいえ、いずれは一人でやれるようになってもらわねば困る。普通に考えれば、先に死ぬのは俺の方なのだから。
それからしばし、言葉が途切れた。気まずいというほどではない。だが、どこか重たい沈黙だった。平三は昔から、俺の死というものに人一倍敏感だった。まるでそれを考えること自体を忌むかのように。
長尾家のことだけを考えるなら、俺の役目はほとんど終わっている。家中をまとめ上げ、平三に家督を継がせる。その道筋もようやく整った。
だが、平三自身のこととなると話は別だ。あいつの精神は未だにどこか人離れしている。本人も自覚しているように、彼女は人の心というものを理解しきれていない節があった。
それがいつかどのような形で実を結ぶのか――あるいは何をもたらすのか。兄としても、保護者としても、最後まで見届ける責任があるだろう。まして、俺は一応養父となったのだから。
そう考えると、まだまだ死ぬわけにはいかない。どうやら長生きする理由は、思った以上に多いらしかった。
「兄上」
「ん?」
「やはり私は、父の言う通り化生のようなものなのでしょうね」
不意に、平三がそんなことを口にした。
「私は人というものを解せませぬ。林泉寺で仏法を学び、人の道を説かれてもなお、なぜ兄上が斯様な私に情けをかけてくださるのか――それすら、てんで分からぬのです」
まるで先ほどまでの俺の思考を見透かしたかのような言葉だった。返す言葉を選んでいる俺に、淡く微笑みながら平三は言葉を続ける。
「良いのです。真の意味で理解できぬことは、この二十余年で受け入れました。故に兄上の導きがなければ、私はきっとどこかで道を違えていたでしょう。戦場以外に己の居場所を見出せぬ身です。人の心をつかむなど、もとより叶うはずもありませぬ」
その言葉に、俺は返事を失う。平三はしばらく空を見上げていたが、やがてゆっくりと右手を伸ばした。眩い陽光を掴もうとするように。
「ただ――」
細められた瞳に映る空は、どこまでも青かった。
「兄上と過ごすひとときだけは、雲ひとつない空のように心が晴れるのです。斯様な私にも、まだ人の心らしきものが残っていたのだと――そう思えまする」
その表情は、まさに言葉通りだった。柔らかく。
穏やかで。
何の飾りもない。
戦場で鬼神のごとく振る舞う者と同一人物とは思えないほど、無防備な顔だった。
「……」
そんな顔を向けられて、俺はどうにも調子が狂う。何か言おうとしても言葉が出てこず、ただ視線を逸らすことしかできなかった。まったく。
こういうところだけは、本当にずるい奴である。
「しかし急にどうしたんだ」
「思ったことは口にせねば伝わらぬ。そう天室光育和尚が説いておりました」
「……なんだよ。しっかり学んでるじゃないか」
・長尾晴景
家督を譲り、隠居してからもめっちゃ働いている。でも戦国時代の隠居って、場合によっては当主よりも実権を握っている場合があるし、こんなもんである。自分にできることをする、それが晴景の動力源だった。本話終了時点で44歳。
因みに史実の晴景は景虎が1度目の上洛をしたあたりで死去している。
・綾御前
後の仙桃院。長尾政景の正室。晴景の妹。原作FGOにおいては、長尾家で唯一景虎に真正面から向き合い、その人外染みた気質を心の底から憐れんだ人。晴景とは波長が合うようで、滅法仲が良い。景虎が口を尖らせるくらい。
武士の娘が政略の道具として扱われることに、なんら気負いがない。むしろ負い目を感じている兄に喝を入れるくらい。女傑。
・長尾景虎
甲斐の武田や関東の北条と殴り合う。強い。さすが後の戦国最強。
最近の悩みは、兄が人生ログアウトを匂わせすぎて、ちょっと辛いこと。どうにかできないものか。
・武田晴信
甲斐の最強。単純な武力だけではなく、外交力、情報戦、領国経営などすべての能力値が高水準。多分この時代における総合力はNo.1。しかも家臣が皆強い。でも実は長尾景虎と戦う前に、村上義清に負けている。すごいぞ村上。戦国時代、マジで群雄割拠。
・北条氏康
相模の虎。どんなに過小評価したとしても関東最強な時点で、やばい。強い。この人FGOに実装されないかなぁ。