越後の軍神、その兄でございます。   作:元ジャミトフの狗

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やりやがった!! マジかよあの弟(妹)ッ やりやがったッ!!

 

 平三が家督を継いでから、数年。

 

 越後はついに一つにまとまった。それだけではない。隣国から救援を求められれば兵を出し、信濃へ、関東へと戦場を広げていく。

 その威勢はもはや越後一国に留まらず、甲斐や関東にまで及ぶようになっていた。そして、平三の戦功と名声は、遠く京の都にも届き始めていた。

 

 やがて平三は天皇に拝謁し、正式な綸旨を賜るに至る。無論、その裏では俺も幾らか手を回した。だが何より大きかったのは、平三自身の存在である。

 

 公平無私を絵に描いたようなその振る舞いは、公家や寺社の人間たちにことのほか好まれた。長く付き合えば奇矯さも見えてくるのだろうが、初めて相対する者にとっては違うらしい。俗世から半歩離れたような神秘的な佇まいは、権威に近しい者ほど深く心を掴んだ。

 

 賜った綸旨の文面は、「住国ならびに隣国において治罰を加うべし」というものだった。

 

 これは実に大きい。

 

 隣国から救援を求められた際にも、大義名分を掲げて兵を動かせる。地侍たちをまとめるにも都合がよく、越後長尾家の権威は目に見えて高まった。

 

 そうして京から越後へ戻っておよそ1年後。

 

 武田晴信が再び信濃へ兵を挙げた。当然のように信濃衆から救援要請が届き、我ら越後長尾家も出陣することとなる。平三は意気揚々と「いってきまーす」と兵をあげた。

 

 因みに俺はお留守番。一応俺、隠居してるからね。政務もすでに大熊や宇佐美、直江などの重臣に引き継いでいるし。なので毎日、春日山城で平三に向けた手紙を書いています。

 

 あと最近は時間に余裕があるので、人脈作りや諜報に励みつつ、前世の知識を元に科学遊びしている。

 木灰や獣脂で石鹸つくったり、黒色火薬に必要な硝石を作ろうと試みたり。石鹸に関してはそれっぽいの作れたけど、火薬はてんでダメ。数か月、糞と尿を土に埋めたくらいでは硝石はできなかった。もう少し時間をかけなきゃダメかも。

 あとはそうだな。プラチナがあればオストワルト法で硝酸ができるんだけど、そのプラチナがない。佐渡島掘ったら少しくらいでないかな。ちょっと今度視察してみるか。いやでも仮に白金を手に入れたとして、技術的にできるかなぁ。ガラス細工なんて南蛮渡来のものしか知らないし。やっぱ無理かなぁ。地道に糞と尿で頑張らないとダメか。

 

 閑話休題。

 

 はるばる甲斐から大軍を率いてきた晴信は、不思議なほど動かなかった。

 川中島で一度こそ刃を交えたものの、その後は両軍とも陣を構えたまま睨み合いを続けるばかりだった。戦よりも膠着の方がはるかに長く、そのまま季節だけが移ろっていく。

 

 気がつけば、七か月。

 

 今にして思えば、第一次川中島で平三が暴れすぎたのが原因だったのかもしれない。武田勢は長尾平三景虎という存在そのものを、ひどく警戒するようになっていた。

 晴信ほどの名将が一人の武将を恐れるとは考えにくい。だが、七か月もの間ほとんど軍を動かさなかった事実を見るに、真正面から殴り合いたくはなかったのは間違いない。

 

 もっとも、互いに睨み合うだけでは兵糧も軍資金も減っていく一方である。それは我らも武田方も変わらないだろう。益なき消耗を続けていては、いずれ共倒れになるだけだった。

 

 そこで和睦への道筋を探るべく、仲介役を立てることとなる。白羽の矢を立てたのは、駿河の今川義元を支える名僧・太原雪斎だった。

 

 武田と今川は古くから誼を通じている。雪斎が間に立てば、武田も耳を貸すだろうと踏んだ。

 

 果たして、その見立てに狂いはなかった。武田方もまた、長き在陣で兵糧も軍資金も尽きかけ、戦を続ける余力を失いつつあったのである。

 こうして雪斎の仲介のもと和睦が成立し、第二次川中島の戦いはひとまず幕を閉じた。

 

 ――もっとも、平三にとってはまるで不完全燃焼だったようだ。

 

「晴信は本当に腰抜けです。あれで名将気取りとは、片腹痛いにも程があります」

 

 などと、平三が珍しく愚痴をこぼしていた。ここまで平三が露骨に感情を表へ出すのは滅多にない。

 それだけに、俺は少なからず驚いたことを覚えている。よほど武田晴信との戦を楽しみにしていたのだろう。ただ戦を心待ちにするという感覚だけは、どうにも俺には理解できなかった。

 

 ともあれ、ようやく戦は一段落した。これでしばらくは穏やかな日々が戻るかと思ったのも束の間、今度は越後国衆同士の諍いが再燃した。

 

 領地の境界が約定と違う。戦に勝っても恩賞が少なく、兵を養う銭が工面できない。そうした不満が、あちこちで一斉に噴き出したのである。

 

 もっとも、これは無理からぬ話だった。平三の武威と人柄に心酔した長尾家の重臣たちはともかく、末端の地侍に至るまで完全に統制が行き届いていたわけではない。

 しかも毎年のように隣国への救援で兵を出しながら、自分たちには目に見える利益がほとんどないのだ。これで不満が募らないはずがなかった。

 

 それでも平三は、不慣れながらも調停に臨み、一つひとつ問題を片づけていったらしい。だが、諍いは一つ収めれば、また別の場所で火を噴く。ようやく解決したと思った揉め事を、後になって蒸し返す者まで現れる始末だった。

 次から次へと持ち込まれる国衆同士の争いに、さすがの平三も心底うんざりしてしまったのだろう。その気持ちはよく分かる。俺もかつて、散々同じ目に遭ってきたのだから。

 

 ――問題だったのは、その結果である。

 

 平三が出奔した。理由を書き残した文には、こうあった。

 

『皆、私の言うことを聞かなすぎです。つい先日まで信濃や関東で力を合わせて戦っていたというのに、少し平和になればまた諍いばかり。私はとてもめんど……悲しいです。大変なことがあれば、いつでも助けます。銭がなければ可能な限り配慮もしましょう。ですが、他者から奪うことばかり考えていては、国は弱くなり、毘沙門天もお怒りになるでしょう。そういうわけなので、私は引退します。それでは』

 

「それでは、じゃねぇよ」

 

 思わず頭を抱えた。何を勝手に引退している。せめて一言、俺に打ち明けてくれればよかったのに。

 

 いや、そうではない。平三が誰にも頼れず、一人で抱え込むまで追い詰められていたことに気づけなかった。その責任は、兄である俺にあった。

 

 この置き手紙を持ってきたのは、直江実綱、長尾政景、そして大熊朝秀の三人の重臣だった。

 

 どうやら平三はふらりと春日山城を抜け出したらしく、その行方は誰にも分からないという。家臣たちも総出で捜しているものの、未だ足取りは掴めていない。

 仮に居場所を突き止めたとしても、今度はどう説き伏せて春日山へ連れ戻せばよいのか見当もつかない。

 

 そこで、隠居した俺に力を貸してほしい――というわけだった。

 

「分かった。この件は俺が預かろう。国衆の方は任せても構わぬか」

「お任せくだされ。御当主様がお姿を晦まされた今だからこそ、国衆どもも軽々しくは動けませぬ。この機を逃さず、必ずや収めてみせます」

 

 大熊は迷うことなく一歩前へ出た。長尾家譜代の家臣が家中の中枢を占めるようになった今、大熊の立場は以前ほど盤石ではない。

 それでも、この男は一度として忠節を違えなかった。どれほど時勢が変わろうと、長尾家のために力を尽くす。そういう男だからこそ、安心して背中を預けられる。

 

「大義である。では大熊、俺は平三を迎えに行く。国のことは任せた」

「御意に」

 

 

 

 ★

 

 

 

 秋風が野を渡っていた。稲穂は黄金色に色づき、戦続きだった越後にもようやく実りの季節が訪れている。

 それでも、人の世だけは実らない。争いは絶えず、平三はとうとう春日山の城を去った。

 

「……まったく」

 

 苦笑とも溜息ともつかぬ息が漏れる。あいつは人を嫌って出て行ったわけではない。人を理解できない自分に、嫌気が差したのだ。だから、探す場所は最初から決まっていた。

 

 春日山の林泉寺。迷えば、あいつは必ずここへ帰ってくる。山門をくぐると、寺男が俺の姿に気づき、静かに一礼した。

 

「ご住職より、お待ちしておりましたと」

 

 それだけ告げると、僧は余計なことは何も聞かず、境内の奥へと歩き出す。

 庭へ続く回廊を抜けると、色づき始めた木々の向こうに、一人の人影が見えた。縁側に腰を下ろし、庭を眺めるその後ろ姿は見慣れたものだった。

 

「おや。見つかってしまいましたか」

 

 こちらを見て小さく微笑むその顔は、どこか儚い。無理に笑っているわけではないのだろう。それでも、その表情には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。

 

「よくここだと分かりましたね」

「もしお前が俺の言葉を覚えているのなら、きっとここへ来ると思っていた」

「……然様ですか」

 

 幼い頃、俺は平三をこの寺へ預けた。人の道を学べと。分からぬことがあれば、天室光育殿の教えを請えと。

 だからこそ、迷いを抱えた平三が最後に辿り着く場所は、ここしかないと思った。

 

「……兄上は、私を連れ戻しに参ったのですか?」

「ああ。そうだ」

 

 俺がそう答えると、平三は庭へ視線を戻した。風に揺れる木々を眺めながら、どこか他人事のように小さく息を吐く。

 

「兄上」

「なんだ」

「やはり、当主に相応しいのは兄上だと思うのです」

 

 静かな声だった。悲しんでいるわけでも、拗ねているわけでもない。ただ事実を述べるような声音で、平三はそう言った。

 

「私は、兄上の真似事しかできませぬ」

 

 平三は膝の上で両手を重ねる。

 

「人は弱い。ゆえに助け合わねばならぬ。弱きを助け、悪を退け、諸氏を守る。それが義であると、兄上は私に教えてくださいましたね」

「ああ」

「林泉寺でも、仏の教えを学びました。故に慈悲も、忍耐も、和合も、知識としては覚えております」

 

 そこまで言って、平三はほんのわずかに目を伏せた。

 

「ですが、私には()()が分かりませぬ」

 

 風が庭を渡る。色づき始めた葉が一枚、音もなく地へ落ちた。

 

「何故、人は争うのでしょう。何故、昨日まで肩を並べて戦っていた者たちが、ふとした折に互いの田畑や境を奪い合うのでしょう。何故、困っているときだけ手を取り合い、落ち着けばまた憎み合うのでしょう」

「……」

「私には分かりませぬ」

 

 平三の声に、責める響きはなかった。怒りもない。だからこそ、その言葉はひどく空虚に聞こえた。

 

「兄上ならば分かるのでしょう?」

「……俺だってすべてを理解しているわけじゃない」

「それでも、兄上は人に向き合えまする。()()()()()

 

 平三はこちらを見た。その瞳は澄んでいた。澄みすぎていて、底が見えなかった。きっとその目が、父上や虎御前殿を恐れさせたのだろう。

 

「私は兄上ならどうするかを考えて動いてきました。困る者がいれば助ける。争う者がいれば諫める。銭に窮する者がいれば配慮する。悪しき者がいれば罰する」

「……十分やっているじゃないか」

「いいえ」

 

 平三はゆるく首を振る。

 

「それは、兄上の真似事に過ぎませぬ。兄上ならばそうするだろうと考え、その範をなぞっているだけです。そこに真心はありませぬ」

「平三」

「だから、人はついてこないのでしょう」

 

 平三は淡く微笑んだ。その笑みはあまりに薄く、今にも溶けて消えてしまいそうだった。

 

「戦働きであらば、私は役に立つでしょう。敵を討ち、城を落とし、勝利を持ち帰ることは容易い。ですが、国を治めることはできませぬ。人の心を解さぬ者が、人の上に立つなど、やはり初めから無理があったのです」

「だから出奔したのか」

「はい」

 

 悪びれるでもなく、平三は頷いた。

 

「兄上が再び立たれれば、家中はまとまります。国衆も従いましょう。私よりも、兄上の方が当主に相応しい」

「お前は本気でそう思っているのか」

「はい」

「阿呆」

 

 思わず口から出た。平三が少しだけ目を瞬かせる。

 

「阿呆、とは」

「阿呆だから阿呆と言った」

 

 俺は平三から目を逸らし、庭へ視線を向けた。見事な庭だ。枝ぶりも、石の配置も、隅々までよく整えられている。

 だが、そんなものを眺めたところで、腹の底に燻るものは少しも収まらなかった。

 

「真似事で結構じゃないか」

「……兄上?」

「俺だって最初は模倣から始めた。父の知行を見様見真似でな。そうやって少しずつ己の形を作っていく。お前だけが特別に劣っているわけじゃない」

「ですが、私には心がありませぬ」

「……前から思っていたんだが、本当にそうか?」

 

 俺は平三を見た。

 

「真心のない奴が、国衆の諍いに疲れて寺に逃げ込むだろうか」

「それは……」

「本当にどうでもいいなら、斬れば済む。従わぬ者を討ち、逆らう者を潰し、力で黙らせればいい。お前にはそれができる」

 

 平三は何も言わなかった。

 

「だが、そうしなかった。面倒だと言いながら、悲しいと言い直した。銭がなければ工面するとまで書いた。大変なことがあれば助けるとも言った」

 

 俺は小さく息を吐く。

 

「なぁ。お前は本当に、欠片ほども人の心が分からないのか?」

 

 問いかけながら、俺は自分の腹の底にあるものの正体をようやく悟った。

 俺は苛立っていたのだ。平三にではない。人の心が分からぬと知りながら、平三を当主に据えた自分に。

 

 平三がどこか人離れしていることなど、誰よりも俺が知っていた。それでも俺は、平三を越後の頂に立たせた。その武威が必要だったからだ。その名声が、越後をまとめるために不可欠だったからだ。

 女の身でありながら男として育てられ、化生だ何だと畏れられ、それでも兄の言葉を律儀に守ろうとするあいつを、俺は長尾家のために使()()()

 

 戦国の世である以上、才ある者を遊ばせておく余裕などない。

 そんなことは分かっている。分かってはいるが――だからといって、自分のなしたことが正当化されるわけではなかった。

 

 平三の義理堅さを利用し、その優しさに甘え、越後の安泰ばかりを考えた。そのくせ、平三が何に苦しんでいるのか気づけなかった。

 人が分からぬことに、平三自身がこれほど苦しんでいたことに。分からぬなりに寄り添おうとしていたことに。何度も躓きながら、それでも可能な限り人を斬らず、奪わず、助けようとしていたことに。

 

「平三」

 

 名を呼ぶと、平三は静かにこちらを見た。その目は、いつも通りだった。だが今は、その奥にかすかな揺らぎがあるように思えた。

 

「お前は、人の心をすべて理解しているわけじゃないのかもしれない」

「……はい」

「だがな。人を傷つけて平気な奴は、人を分からぬことに悩んだりしない」

 

 平三の瞳が、わずかに揺れる。

 

「誰かを想わぬ奴は、斯様に心を痛めないのだ」

「……」

「お前は分からぬなりに、ずっと考えてきたのだろう。どうすれば助けられるか。どうすれば争わずに済むか。どうすれば、義に背かずにいられるか」

 

 俺は息を吐いた。言葉にするたび、自分の罪を数えているような気分になった。それでも、これは言わねばならなかった。

 

「それを俺は、心がないとは呼ばん」

「兄上……」

「お前は十分すぎるほど義理堅くて、十分すぎるほど優しい」

 

 平三は目を見開いた。まるで、思いもしなかった言葉を聞いたように。

 

「私が、優しい……?」

「ああ」

「……私が?」

「何度でも言ってやる。お前は優しい」

 

 平三は何かを言おうとして、けれど言葉を失ったように唇を閉ざした。その横顔は、戦場で鬼神と恐れられる者のものではなかった。

 ただ、初めて欲しかったものを差し出された子供のように、頼りなく、そしてどこか眩しそうに眼を細める。

 

「――ダメですね。兄上はいつも私が欲しい言葉をくれる」

「事実だ」

「だから。ああ、そんな様だから――」

 

 ぬるりと、影が揺れる。背中への衝撃。気づけば俺は平三に押し倒されていた。

 

「平三」

 

 名を呼ぶ。だが、平三は答えなかった。白い髪が肩から零れ落ち、俺の頬に触れる。

 

 俺を見下ろす瞳は、いつものように澄んでいる。だが、その奥底にある何かが、かすかに揺れていた。

 殺意ではない。怒りでもない。戦場で幾度も見てきた、研ぎ澄まされた静けさとも違う。

 

 俺の両手首を押さえる指には力がこもっていた。ともすれば、骨を軋ませるほどに。かと思えばふと緩み、また縋るように握り直される。

 逃がすまいとしているのか。傷つけまいとしているのか。そのどちらも選べず、ただ行き場を失った何かが、指先に現れているようだった。

 

 平三は強い。それは誰の目から見ても明らかだ。甲斐の武田を追い返し、関東では城を落として北条を相手取る姿勢を見せた。いまや越後の長尾景虎といえば、関東管領すら凌駕するほどの威勢を世に示している。

 

 だが今、俺の上に覆いかぶさる彼女は、ひどく頼りなかった。平三は俺を見下ろしたまま、何度か唇を開きかける。

 けれど言葉は出ない。代わりに、深く荒々しい吐息だけが落ちてくる。まるで、初めて手にしたものの扱いに戸惑う子供のようだった。

 

 戦場であれば、平三は決して迷わないだろう。敵を斬るにも、槍を振るうにも、そこにはいつだって揺るぎない殺意があった。だが、今その手にあるものは刃ではない。形を持たぬ、胸の奥から湧き上がる何かだった。

 

 胸に湧き上がった熱。喉に詰まった言葉。手放したくないと思う執着。

 

 そうしたものを、平三は知らない。知らないからこそ、ただ俺を押さえつけることしかできない。それが、妙に痛ましかった。

 

「平三」

 

 もう一度、名を呼ぶ。

 

 困惑しているのは、俺も同じだった。平三が俺に執着していることは、分かっていたつもりだった。他の者に見せる顔と、俺に向ける顔が違うことも知っていた。

 だが、その根底にあるものを、俺は今もなお理解しきれていなかった。

 

 ただ、何をすべきかだけは分かる。

 

 逃げてはいけない。妹の力を、その孤独を、その不器用な優しさを、長尾家のために利用してきたのは俺だ。ならば今さら、平三を恐れて逃げる資格などない。

 

「それ以上は、駄目だ」

 

 平三の動きが止まった。

 

「……兄上が、隙だらけなのがいけないのです」

「なら、どうしたい」

「分かり、ませぬ」

 

 その答えは、あまりに平三らしかった。

 

「ここは寺だぞ。男女が斯様な有様となっては、お前が帰依する毘沙門天もお怒りになろう」

「私を女性(にょしょう)とお認めになるのですか?」

「元より可愛い妹だと、前から言っていただろう」

「……むー」

 

 露骨に唇を尖らせる平三。本当に、面が良いのがいけない。そんな顔をされると、こちらまでつい口が滑る。

 

「……今は、それで勘弁してくれ」

 

 言ってから、内心で頭を抱えた。駄目だな。どうにも俺は、妹に甘い。平三は驚いたように目を瞬かせ、しばらく俺を見下ろしていた。

 

 このままでは話が妙な方向へ転がりかねない。俺は咳払いを一つして、強引に話を戻すことにした。

 

「……俺一人では越後を背負えなかった。お前一人でも、きっと苦しいのだろう。だから二人でやろう」

「二人で?」

「ああ。お前が迷えば、俺が支える。だから俺が間違えば、お前が正してくれ」

 

 平三はしばらく黙っていた。やがて、俺を押さえていた手から力が抜ける。

 

「兄上は、本当にずるい」

「すまん」

「そのように仰せられては、断れませぬ」

 

 そう言って、平三はようやく俺の上から身を退いた。すべてを納得した顔ではなかった。

 人の心が分からぬという悩みも、当主としての重圧も、国衆への失望も、俺の言葉一つで綺麗に消えるはずがない。

 

 それでも、平三は立ち上がった。ならば今は、それで十分だった。

 

「帰るぞ、平三」

「……はい」

 

 差し出した手を、平三はしばらく見つめていた。やがて、おずおずと指先を伸ばし、俺の手を取る。

 戦場で幾多の敵を討ち取ってきたとは思えぬほど、その手は傷一つなく綺麗だった。俺はその手を強く握り返す。

 

「次に逃げたくなったら、せめて俺にだけは文を寄越してくれ」

「逃げることは前提なのですか」

「お前はまた一人で抱え込むだろうからな」

「……一度やらかした手前、否定はできませぬが」

 

 林泉寺に預けられる前の幼い虎千代は、分からぬことがあるたび、こちらの都合などお構いなしに問いを浴びせてきたものだった。なぜ、どうして、それは何だと、馬鹿みたいに真っ直ぐに。

 

 それが今では、一丁前に俺の顔色を窺い、言葉を選ぼうとしている。そして選びきれず、飲み込んだものを胸の内で持て余し、勝手に爆ぜさせてしまった。

 

 不器用にもほどがある。だが、それは悪いことではないのだろう。平三は変わろうとしている。分からぬままでも、相手の気持ちに寄り添おうとしている。ならば、その変化は喜ぶべきものなのだ。

 たとえ今は、本人がその扱い方を知らず、こんな形でしか示せなかったとしても。

 

 よし、決めた。

 

「なあ、平三」

「なんでしょう」

「政、もう少しだけ俺が手伝っても良いだろうか」

「……よろしいのですか?」

「ああ。今さらお前を一人で放り出すのも忍びなくてな」

「ですが、兄上は隠居なされてから、もう七年も経っております」

 

 俺はその手を握り直す。

 

「いいんだ。もとより政など、初めから一人で背負えるものではない。分からぬことは俺か、家臣どもに聞くといい。間違えたなら正せばいい。少しずつでいいから覚えていくんだ。今まで通りに」

「――はい」

「お前は力で越後を守る。政の面倒は、しばらく俺が見る。そうしたら俺たちは無敵だろう」

 

 そう言うと、平三はようやく小さく息を吐いた。

 

「最近気づいたのですが、兄上は本当に私に甘いですね」

「兄とはそういうものだ」

「……では、もう少しだけ甘えまする」

「おう、甘えろ甘えろ」

 

 平三はやはり、困ったように笑う。だが、その表情からは先ほどまでの張り詰めたものが、ほんの少しだけ薄れていた。




読む必要のない雑設定。

・長尾晴景
 ちょっと本当の意味で隠居してた人。彼なりに配慮したつもりだったが、それが裏目に出てしまった。家臣に頼まれて景虎を連れ帰す。因みに春日山城から林泉寺まで徒歩で一時間ほど。出奔というよりもプチ家出。妹が大好き。
 これからは積極的に政務に励む。本話終了時で47歳前後。

・長尾景虎
 原作よりかなりマイルドになった人。重臣はともかく、越後全体で乱れ始めて自分が上に立つの向いてないのではと弱る。因みに晴景が迎えにこなかったら、そのまま高野山(林泉寺から徒歩で半日)に行こうとしてた。実はマジ家出になるところだった。兄上が大好き。
 これからは積極的に暴力で守る。本話終了時で27歳前後。

・大熊朝秀
 為景の代から仕える長尾家の重臣。越後の財政を担う一方で、武勇にも優れた非常に有能な武将。
 実は史実においては、景虎出奔事件の前後で武田晴信の調略を受けて、長尾家への謀反を画策していた人物でもある。これは栃尾城以来の景虎側近である本庄実乃との不仲だったことに端を発しているが、本作では致命的な決裂に至る前に晴景が取りなしているため、謀反は未然に防がれている。
 そうした経緯もあって、大熊は晴景を深く敬愛している。それこそ晴景が当主に返り咲く意向を示せば、まず間違いなく協力するくらいには。
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