越後の軍神、その兄でございます。   作:元ジャミトフの狗

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たくさん感想が来て本当にうれしいです。
やはり皆さんお虎さんが好きなんだなって(泣

今後の執筆の励みにもなりますので、もしよろしければ、引き続きお気軽に感想をお寄せいただけますと幸いです。


やることが…やることが多い…!

 平三は、俺と入れ替わるようにして上洛することになった。そしてそのことに難色を示したのは、やはりというべきか平三本人だった。

 

「え? 兄上と一緒ではないのですか?」

「そうしてやりたいところだが、お前が留守の間、越後を誰が守る。武田は来るぞ。必ず」

上田の長尾(長尾政景)さんか大熊に任せればよいではありませんか」

「六郎も大熊も確かに優秀だ。だが、それでも万全を期したい」

 

 俺は平三へ向き直った。そして頭を下げて、平に願い出る。

 

「どうか俺に留守居を任せてくれないか。それとも俺を信じられないか?」

「む。そういう言い方はずるいです」

「頼む」

 

 平三はしばらく不満そうに唇を尖らせていたが、やがて諦めたように息を吐いた。

 

「……分かりました。その代わりと申しては何ですが、一つ聞いてもよろしいですか?」

「ん?」

「京でどこぞの女子と関わりを持たれましたか?」

「女子? なんでまた」

「匂いです。兄上から女の匂いがしまする」

「ヒェ」

 

 いやいや、怖すぎだろ。匂いで人の交友関係がわかるのかよ。でも京で女性と接する機会なんて、まったくなかったぞ。しいて言うのなら、茶会の席でどこぞの公家の奥方だ。あとせいぜいが織田の――

 

「――ああ。織田弾正忠殿と会ったか」

「織田?」

「尾張を治める武将だ。お前と同じく女の身でありながら、一国を背負おうと励んでいた。だから少しばかり話をした」

「……やはり、兄上は言い方がいちいちずるい」

 

 平三はじとりと俺を睨んだ。何が気に入らないのかは、何となく分かる。だが、どう答えても機嫌を損ねそうだったので、俺は聞かなかったことにした。

 

 平三が二度目の上洛へ発つ前、そんなやり取りがあった。

 

 そして案の定、平三が京にいる間に武田晴信――最近信玄と戒名したらしい――は北信濃の城をいくつか落とし、そのまま北国街道を越えて越後へ侵攻してきた。

 もっとも、この動きは予測していた。越後の守りは長尾政景に任せ、俺は別働隊を率いて逆に信濃の武田領へ攻め入った。

 

「なめんなよ、この野郎」

 

 平三のいない越後など恐るるに足らず。そう思ったのだろう。がはは、その驕り、見事にぶち壊してやろうではないか。まさか隠居した俺自ら兵を動かすとは思うまい!

 

 ――などと意気込んでいた俺が甘かった。

 

 こちらの動きを読んでいたらしく、真田幸隆なる武将が進路上で待ち構えていたのである。

 

「やるなあ。智謀じゃ俺の負けか」

 

 相手の方が一枚上手だった。ならば仕方がない。

 

「じゃあ、力押しでいくか」

 

 そういうわけで、武田勢と一戦交えることになった。

 真田幸隆の指揮は実に厄介だった。こちらの進路を読み、足場の悪い場所へ誘い込み、兵の動きを細かく阻んでくる。

 今にして思えば、真田といえば大河ドラマでも有名な真田幸村がいるではないか。有名武将の祖先と思わしき者が弱いわけがない。

 

 だが、こちらとて越後の兵を率いている。兵数では劣っていたものの、二倍程度の差ならば正面から押し返せる。それが越後の兵士というものだ。

 多少の損害は出したが、最後は力ずくで武田勢を退かせた。その後も周辺の城や砦をいくつか落とし、武田に与する信濃の諸勢力を十分に掻き回す。

 

 これで陽動としての役目は果たしただろう。俺はそう判断して武田本隊が引き返してくる前に、軍をまとめて信濃から撤退した。

 武田の追撃を警戒しながら山道を抜け、どうにか越後へ帰り着く。

 

 さすがに骨が折れた。

 

 春日山城へ戻った頃には兵も馬もすっかり疲れ果てていたが、こちらが信濃を荒らしたおかげで越後へ侵入していた武田勢も引き返したという。狙いどおりである。

 いやあ、俺もまだまだ捨てたものではないな。もちろん兵士たちも強かったけどね、指揮官が優秀だったからこそと、ちょっと己惚れてもいいじゃん?

 そんな具合に少しばかり悦に入っていたところへ、加藤段蔵が戻ってきた。

 

 草の者――忍者と言った方が分かりやすいか――として各地を探らせていた者である。多分女性だと思う。しかもすっごい美人さん。顔も体型も隠しているから詳しいことは分らないが。

 こいつが本当に優秀だった。敵地へ潜り込み、誰と誰が会っただの、どこへ文が送られただのと、こちらが欲しい情報だけをしっかり拾ってくる。忍者って、本当にいるんだなと感心したものだ。

 

 そして今回段蔵が持ち帰ったのは、武田と越中の神保氏が密かに通じているという知らせだった。

 

「武田晴信め。信濃だけでは飽き足らず、越中からも越後を揺さぶるつもりか」

 

 信濃から北上してくる武田に気を取られている隙に、西の神保まで動き出されてはたまらない。しかも、神保とは浅からぬ因縁がある。

 今から四十年ほど前、父・為景は越中守護から要請を受けて、当時の神保家当主を討ち取っている。代が替わったとはいえ、その恨みが綺麗さっぱり消えているとは思えなかった。

 

 その上、神保の背後には一向一揆がいる。放っておけば、南から武田、西から神保と一向一揆に挟まれる構図が出来上がりかねない。

 とはいえ、確たる大義名分もないまま、こちらから神保へ攻め込むわけにもいかなかった。まして、信濃から帰ったばかりの兵を休ませもせず、そのまま越中へ差し向けるなど論外である。

 

 警戒は必要だ。だが今はまだこちらから動く時ではない。俺は父の代から懇意にしている越中の椎名氏へ、急ぎ使者を送ることにした。

 

「神保の動きには十分注意するように。兵を集める気配や、武田との連絡があれば、些細なことでも知らせてほしい。事が起これば、必ず救援に向かう」

 

 使者にそう伝えるように言い含め、椎名方との連絡を密にするよう命じた。武田だけを見ていればよいわけではない。南には武田。西には神保、更にその向こうには一向一揆がいる。

 平三が京で権威を得ようとしている間、俺の役目は、あいつが帰ってこられる場所を守ることだ。打てる手は、打てるうちに。布石は、置けるだけ置いておくに限る。

 

 

 

 ★

 

 平三が京から戻ってきたのは、十月のことだった。

 

 その間、隣国である信濃と越中への監視を強めていたが、幸いにも目立った動きはなかった。ならば、空いた時間を遊ばせておく理由もない。

 俺は越後府内で発行する法度の雛形を作る傍ら、以前から仕込ませていた硝石の生産を本格化させていた。

 

 黒色火薬を大量に作る上で、最も厄介なのが硝石――硝酸カリウムの確保である。

 雨を避けられる暖かく風通しのよい場所に、土、糞、枯草などを積み上げ、定期的に尿をかける。それを何度も切り返し、内部まで空気を通してやる。すると、尿や糞に含まれる窒素が、土中の微生物によって少しずつ硝酸塩へと変わっていく。

 

 もっとも、今日仕込んで明日できるような代物ではない。硝酸カリウムができるまで、およそ一年ほど要する。故に同じ場所で一度に作るのではなく、仕込みの時期をずらした硝石床をいくつも用意し、順次採取できるようにしていた。

 頃合いを見て土を水で洗えば、そこに蓄えられた硝酸塩が溶け出す。その液を煮詰め、植物の灰から取った灰汁を加える。灰汁に含まれるカリウム分が、カルシウムと結びついた硝酸塩を硝酸カリウムへと変え、不要な成分は沈殿として底へ落ちる。

 あとは沈殿を濾し取り、液をさらに煮詰めて冷やせば、粗い硝石の結晶が得られる。当然、そのままでは不純物が多い。

 何度か水に溶かして結晶させ直し、火薬に使えるところまで純度を上げなければならなかった。手間も時間もかかる。だが、一度仕組みを整えてしまえば、毎年一定量の硝石を得られる。

 

 そうして精製した硝酸カリウムに硫黄と木炭を適切な割合で混ぜれば、黒色火薬ができるわけだ。いやあ、ここまで来るのに本当に時間がかかった。

 前世のうろ覚えの知識を頼りに、材料を変え、割合を探り、失敗するたび原因を調べ直す。その末に、どうにか実用に耐えるところまで形にしたのだ。我ながら、よくやったものである。

 

「……兄上。この黒い粉は何ですか?」

 

 いつの間に現れたのか。京から戻ったばかりの平三が、背後から俺の肩に顎を乗せ、卓上の火薬を覗き込んでいた。

 

「火薬」

「はて?」

「玉薬とも言う」

「ふーむ?」

 

 平三は分かったような、分かっていないような顔で首を傾げる。

 

「種子島、あるいは鉄砲って知ってるか?」

「ああ! 確か晴信が使っていましたね」

「そうだ。少し見ていろ」

 

 俺は堺から買い付けた鉄砲を手に取った。まずは火縄を確かめる。

 縄の先端には、赤い火が静かに食いついていた。息を吹きかければ、白い煙とともに赤熱した部分が鮮やかさを増す。

 

「それは燃えているのですか?」

「炎を上げずに燻っている。こいつで火薬に火をつけるんだ」

 

 俺は鉄砲の銃口を上へ向け、胴薬入れから一発分の火薬を筒の中へ注いだ。続いて鉛の玉を銃口へ落とし、その上から紙を丸めたものを詰める。

 銃床の下に収められていた細長い棒――朔杖を引き抜き、銃口から差し込んだ。奥まで押し込み、火薬と弾が銃身の底へ収まるよう、二度、三度と突き固める。

 

「こうして筒の奥へ火薬と玉を込める」

「随分と手間がかかるのですね」

「しかも一発撃つたびに、これをやり直すからな」

 

 朔杖を元の場所へ戻し、今度は銃身の脇にある小さな蓋を開く。

 

「ここが火皿だ」

 

 くぼみに、先ほどより細かくした火薬を少量落とす。

 

「筒の中の火薬? とやらとは別に、こちらにも入れるのですか?」

「ああ。こちらは火を筒の中へ伝えるためのものだ」

 

 火皿の奥には、銃身内部へ通じる小さな穴が開いている。火皿の火薬が燃えれば、そこから火が入り、筒の奥に込めた火薬へ燃え移るという仕組みだった。

 口薬を入れ終えた俺は、湿気や火の粉が入り込まぬよう、いったん火蓋を閉じる。それから火挟みを起こし、燻っている火縄の先を挟み込んだ。

 

「これで準備が整った」

「もう撃てるのですか?」

「ああ」

 

 屋外へ移り、離れた場所に立てておいた板へ銃口を向ける。左手で銃身を支え、台尻を肩へ当てた。

 火縄の先が十分に赤く燻っていることを確かめ、火蓋を親指で押し開く。灰色の口薬が露わになった。

 

「平三、少し離れていろ」

「兄上の後ろにおります」

「耳を塞いでおけ。驚くぞ」

「はい」

 

 狙いを定める。前目当と先目当を板へ重ね、息を止めた。引金へ指をかけ、ゆっくりと絞る。からくりが動き、火挟みが倒れた。

 赤く燻る火縄の先が、火皿の口薬へ触れる。ぱっ、と目の前で火花が弾けた。

 

 その直後。

 

 轟音とともに銃身が跳ね、肩へ鈍い衝撃が伝わった。白煙が一気に噴き上がり、硫黄の臭いが辺りに広がる。少し遅れて、離れた板が後ろへ倒れた。

 

「――とまあ、こういうものだ」

「なるほど。恐ろしい武器ですね」

「お前でもそう思うか」

「はい。私ならば見てから躱すこともできましょう。ですが、並の足軽に同じことはできません。それに、見たところ鎧兜を貫くだけの威力もある」

 

 そして何より――と、平三は言葉を継いだ。

 

「音が凄まじい。斯様な轟音を浴びせられれば、兵はたちまち身が竦み、動けなくなるでしょう」

「その通りだ。加えて、槍や弓ほど習熟に刻を要さない」

「支度に手間がかかる欠点も、数を揃え、交代で撃たせれば問題にはならない」

 

 平三は種子島を見つめたまま、淡々と言い放った。

 

「これは、戦の有り様を変えます。まこと、卑怯極まりない武器にございますね」

「……お前なら、そう言うと思った。だが俺はこの種子島を、本格的に取り入れるべきだと考えている」

「同意いたします」

 

 意外――というほどでもなかった。

 平三は戦に関して、どこまでも現実的だ。火縄銃の恐ろしさも、その利点も、一目で理解したのだろう。そして、この新たな武器に適応できなかった者が、いかなる末路を迎えるのかまで。

 

「気は進みませぬが、専用の組を設けるべきでしょう。となれば兄上、この件は私にお任せいただけますか」

「いいのか?」

「はい。戦は私の領分にございます。金勘定までお任せいただけるのであれば、必要な数を揃えてみせましょう」

「――ああ。頼りになるな」

 

 本当に、頼りになる。なんかちょっと泣きそう。

 

「しかし兄上。糞や尿を集めて、いったい何をなさっているのかと思えば……まさか、このような物を作っておられたとは」

 

 平三は感心したように黒色火薬を見つめる。

 

「兄上は、いつも先のことを見据えておられるのですね」

「あ、あはは。まあな」

 

 まさか、未来の知識を存分に利用しているなどとは言えない。とはいえ、別にオストワルト法のような二十世紀の技術を持ち込んでいるわけでもない。これくらいならば、歴史に対する些細な反則ということで許してもらいたい。

 あと家中の者からは「またご隠居様が面妖なことをなされてる」だなんて噂されてちょっとだけ傷ついてたので、平三の心からの賞賛が染み入る。硝酸だけに。

 

「さて、話が終わったところで。兄上」

 

 平三がこちらへ向き直る。

 

「稽古をいたしましょう」

「そこだけは、ほんっとうに変わらんな。お前は……」

 

 

 ★

 

 

 それからというもの、越後を取り巻く情勢は目まぐるしく動いた。

 

 平三の主導で鉄砲組が新設され、火薬と鉄砲の運用も少しずつ形になっていった。その一方で、不穏な動きを見せた越中の神保を俺が叩き潰し、その間に平三は関東へ出兵。北条勢を追い立て、ついには小田原城まで迫ったという。

 

 もっとも、堅牢無比を誇る小田原城を攻めあぐねた末、なぜか城門の前で酒盛りを始めたらしい。古来から続く、籠城する敵に対する挑発である。

 当然、城内の北条勢も黙って見ていたわけではない。矢を射かけ、鉄砲まで撃ち放ったという。

 ところが、そのことごとくが外れた。本人は降り注ぐ矢弾など気にも留めず、悠々と酒を飲み続けていたらしい。後世には、毘沙門天の加護によって一発たりとも当たらなかった、などと語られるのだろう。何をしているんだ、あいつは。危ないことはあんまりしないでほしい。

 

 ともあれ、戦に政にと、息をつく暇もない日々が続いた。

 

 その中でも、最も大きな出来事は平三の改名だろう。長尾景虎は、関東管領・上杉憲政から上杉家の家督と関東管領職を譲り受け、その一字を賜って上杉政虎と名を改めた。こうして平三は、名実ともに関東管領となったのである。

 もはや長尾を名乗らなくなったことには、少しばかり寂しさも覚えた。だが、これも戦国の習いだ。長尾の名を捨てることで、平三は関東管領としての権威と、関東へ兵を出す大義を手に入れたのだから、喜ぶべきことなのだろう。

 

 関東管領就任後、平三は北条の再侵攻に備え、しばらく鎌倉に滞在することになった。ところが、今度は甲斐の武田が北信濃へ兵を進めようとしているとの報せが届いた。

 

 北条の次は武田である。本当に休ませる気がないな、この時代。

 

 越後に残る俺の手勢は決して多くない。少なくとも武田晴信率いる本隊を正面から迎え撃てるほどの兵力では到底なかった。

 長尾政景をはじめとする諸将を集めれば、しばらく持ちこたえることはできるだろう。とはいえ、北信濃を守りその上で武田を押し返そうというのなら、どうしても平三の力が必要になる。

 せっかく関東管領として鎌倉へ入ったばかりではあるが、越後へ帰ってきてもらうしかなかった。

 

 俺が急ぎ文を送ると、平三は驚くほどの早さで帰ってきた。もう機動力がおかしい。

 

 そして再び川中島で長尾、否、上杉は武田と相まみえることとなる。これで四度目であった。

 ただし、今回はこれまでとは違った。睨み合いや小競り合いでは終わらず、ついに両軍の主力が正面からぶつかる決戦となったのである。

 俺は春日山城で留守居を務めていたため、戦場で何が起こったのかを直接見たわけではない。だが、帰還した者たちの報告を聞く限り、相当に凄まじい戦だったらしい。

 

 平三は自ら武田本陣へ斬り込み、敵陣を散々に掻き乱した。その戦いで討たれた武田方の将には、晴信の実弟である武田信繁、軍略を担った山本勘助をはじめ、名のある者が幾人も含まれていたという。

 

 そして平三は、武田晴信の片腕を直接切り落とした。敵の総大将に深手を負わせたのである。

 

 無論、越後方も無傷ではなかった。こちらも決して少なくない兵を失い、多くの将兵が傷ついた。それでも、武田が被った損害はそれを上回る。まして信繁ほどの武将を失った痛手は、兵の数だけでは測れまい。

 

 結果だけを見れば、この戦は越後方の大勝利と呼んで差し支えなかった。

 

 ……しかし本当に、あいつは武田本陣まで斬り込んだのか。いや、平三ならやるか。よく生きて帰ってきたものである。

 

「いやあ、ようやく晴信に痛い目を見せることができました」

「ほれ、動くな。お前も十分怪我をしているんだからな」

「これくらい、何ということもありませぬよ」

「何ということもない奴が、血まみれで帰ってくるか」

 

 平三を座らせ、俺は肩に残っていた小具足を外していく。

 部屋には俺たち二人しかいない。戸は閉め、近習も女中も遠ざけてあった。平三が女であることを知る者は、今もごくわずかだ。

 まして、その身を人前に晒すことなどできるはずもない。腕や顔の傷ならともかく、鎧の下に負った傷となれば、手当てを任せられる者は限られる。

 

 結局、こういう役目は俺に回ってくる。

 

「少し染みるぞ」

「兄上がしてくださるのなら、いくらでも」

「そういうことを軽々しく言うな」

 

 血に濡れた小袖を傷口に触れぬよう慎重に脱がせる。露わになった肌を見て、俺は思わず息を呑んだ。

 肩から胸元にかけて走る太刀傷。脇腹には浅くない裂傷があり、背にもいくつもの赤い筋が残っている。腕には矢が掠めた跡、肩には何故か火傷まであった。

 

 致命傷こそない。だが、どれもあと少し深ければ、無事では済まなかった傷ばかりだ。

 

 これまで平三は、幾度となく戦場へ出てきた。敵中へ一人で斬り込み、数え切れぬほどの敵を屠ってなお、まともな手傷を負って帰ったことなど一度もない。

 その平三が、これほどまでに斬られている。武田本陣までの道が、どれほど凄惨なものであったか。戦場を見ていない俺にも、それだけで十分に伝わった。

 

「……無茶をしたな」

「勝つために必要なことでございました」

「お前が死んだら、元も子もないだろうに」

「死にませぬよ。兄上を残しては」

 

 平三は当然のことのように言った。俺は言葉を返さず、湯で湿らせた布を傷口へ当てる。こびりついた血を拭うたび、平三の体がわずかに強張った。

 

「痛いなら痛いと言うんだぞ」

「痛くありませぬ」

「嘘をつけ」

「兄上の手つきは優しいので平気です」

「黙れ」

 

 困った妹である。目の前にある体は、戦場で鬼神と恐れられる者のものとは思えないほど白く、均整が取れていた。

 鍛え抜かれてはいる。肩や腕にはしなやかな筋肉がつき、無駄な肉などほとんどない。それでいて、男のものとは明らかに異なる柔らかな輪郭が残っている。

 

 傷さえなければ、まるで名工が彫り上げた像のようだった。

 

 ――何を考えている、俺は。

 

 こいつは妹だ。こいつは妹である。俺が守るべき家族であり、傷ついて帰ってきた大馬鹿者だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 そう何度も胸中で唱えながら、視線を傷口だけに縫いつける。目を逸らせば、手当てができない。かといって余計なところへ目を向ければ、自分自身を殴りたくなる。

 

 ただ傷を見ろ。血を拭い、薬を塗り、布を巻け。今の俺は兄であり、それ以外の何者でもない。

 

「兄上」

「動くなと言っただろう」

「先ほどから、随分と怖い顔をなされております」

「誰のせいだと思っている」

「晴信でしょうか」

「お前だよ」

 

 薬を塗り終え、脇腹へ新しい布を巻く。胸元を隠すように幾重にも巻きつけてから、ようやく小さく息を吐いた。

 

「本当に、よく戻ってきたな」

 

 気づけば、そんな言葉が口から零れていた。平三は目を瞬かせた。先ほどまで得意げだった顔が、ほんの少しだけ幼くなる。

 

「――はい。ただいま戻りました、兄上」

「ああ。おかえり」

 

 そういって、最後の結び目を固く締める。

 

「……痛いです」

「痛くないんじゃなかったのか」

「今のは兄上が強く締めすぎたのです」

「それくらい我慢しろ。次から無茶をしないための戒めだ」

「それは無理な相談ですね」

「……もっと強く締めてやろうか」

「ふふ、兄上は意地悪です」

 

 そう言いながら、平三はどこか嬉しそうに笑った。まったく、懲りている様子がない。それでも、こうして生きて目の前にいる。

 

 今は、それだけで十分だった。

 




・長尾晴景
 本話時点で五十二歳前後。久しぶりに戦場へ出たものの、信濃、越中にて大暴れする。おそらく、妹との稽古が功を奏したのだろう。ぶっちゃけ二十代、三十代の頃より強い。実は真田幸隆とかいうビックネームに勝っている。しかし幸隆の本領は城攻めや謀略、本当に運が良かった。
 また、ちょっと妹に感化されて脳筋気味になっている。
 黒色火薬の安定生産を実現し、火縄銃の運用費用を大幅に削減することに成功した。

・上杉政虎
 本話時点で三十二歳前後。長尾景虎から名を改め、上杉政虎を名乗る。山内上杉家の当主から家督と関東管領職を譲られ、名実ともに関東の大義名分を背負うことになった。
 兄が戦場で活躍していて大変ホクホク顔。なーにが隠居だ、元気じゃん、という感じである。関東出兵中も兄に背中を守られているような心地で、本人としては本当にうれしかった。
 第四次川中島の戦いでは絶好調だったため、宿敵・晴信の右腕を斬り落とす。ついでと言わんばかりに、晴信の弟と軍師・山本勘助も討ち取った。
 戦の天才である政虎は、火縄銃の利点と欠点を即座に理解し、その運用を決意する。本来、政虎の趣味ではない。だが、そんな犬の糞ほどの価値もない矜持のせいで民を殺しては意味がない。

・武田信玄
 本話時点ではすでに出家しており、武田信玄を名乗っている。四十一歳前後。
 景虎が上洛している隙を突いて越後へ攻め入るが、手痛い目に遭う。その後、四度目となる川中島の戦いにおいて、遭遇戦のような形で決戦に臨むことになった。
 決して慢心していたわけではない。戦略、戦術、種子島、魔術。持ちうるすべてをもって、越後と戦った。
 だがその果てに、武勇に優れた弟と、知略に富んだ軍師――信頼する二人を同時に失い、自らも深い手傷を負って隻腕となる。

 何が足りない。

 あいつに、勝つには。





 ただそれはそれとして、ちゃっかり信濃の半分と上野を端を手に入れている。

どっち?

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