「まったく、前払いにしておいて正解だったな」
「お師匠様、御無事ですか? お酒、要りますか?」
「無事だ。酒は……あるだけ寄越せ。少しは酔わなきゃやってられん」
弟子が背嚢から取り出した酒瓶を受け取り、酒で口を漱いでから、歯の間に詰まった肉片を爪で穿り出す。口内の清掃を終えると、酒瓶の首を握り、天を仰ぐようにして酒を喉の奥へ流し込んだ。喉が焼けるような感触と、身体を巡る酔いが、煩わしい視線から少しだけ意識を逸らしてくれる。
「助けたのはお師匠様なのに、みんな冷たいのですね」
「素性の知れない怪物が大暴れしたんだ。怖がりもするだろうさ。さっ、これ以上こんな場所にいても何にもならん。さっさと国境を越えて享楽に耽りに行くぞ」
教団の物と思しき奇妙な像を棍棒で粉砕し、平然を装って村人達に背を向けた。少女と交わした契約は果たしたのだから、これ以上彼等に関わる意味は無い。これから先、この村が何かに襲われたとしても俺達には無関係だ。
曇天の空から小雨が降り始めた。雨粒が頬を濡らし、湿り気を取り戻した血液が流れ落ちて目に染みる。背中は重みに耐えかねてさらに曲がり、視線は下へ下へと落ちていく。仕方がない。あれは仕方がないことなのだから、耐えねばならないのだ。
「お師匠様、本当に大丈夫なのですか? 何処か痛いのではないのですか?」
「見ての通り傷は塞がって、もう痛みは無い。新しく生えた腕だって、ほら、元からついていたみたいに動くよう――。何だ? 歩き疲れたのか?」
「えぇ、疲れました! ですからお背中を貸してください!」
ナールはまだ汚れの落ち切っていない背中によじ登り、首に手を回してしがみついた。彼女は師匠の隠しきれない心の傷を感じ取り、それをどうにかして癒そうとしているのだろう。師匠想いの弟子め。可愛がり甲斐のある弟子め。
「……ナール」
「何ですか、お師匠様?」
「さっきの投石は見事だった。よく出来た褒美に、一つだけ我儘を聞いてやろう」
「本当ですか! でしたらでしたら、ナールはおっきなパンケーキが食べたいです! お師匠様の顔よりもおっきくて、砂糖と果物がふんだんに使われているのが食べたいです!」
何が欲しいか尋ねると、背中の彼女は尻尾を左右に大きく振りながら願いを口にした。その仕草も願いも子供らしく、そして可愛らしい。彼女と触れ合っていると、子供を溺愛する親がいる理由も何となく理解できてしまう。
「それならトロップに行けば食えるだろうが……それまで待てるか?」
「はい! ナールは待てます! いつまでだって待てますよ!」
弟子はそう言うと、自らの胸をとんと叩いてみせた。元気に満ち溢れた彼女の姿は太陽のように眩しく、俺を元気付け、先程受けた心の傷を忘れさせてくれた。
「おやおや、微笑ましいねぇ。まるで本当の親子のようじゃあないか」
その言葉とともに一陣の旋毛風が巻き起こり、俺達の目の前に女が現れた。尖った帽子を被り、黒装束に身を包んだ茶髪の女。いかにも魔女といった格好の見目麗しい彼女は、こちらの警戒心を薄れさせるような人の良さそうな笑みを浮かべ、かつり、かつりと足音を立てながら近づいてくる。
「"善意の魔女"!!」
「やぁ、久方振りだね狼君。前に君に会ったのは百年くらい前だったかな? 万物を変化させる力、"業"を操って君をその姿に変えてあげてから色々あったみたいだけど、元気そうで何よりだ! っとっとっと……そんなものを振り回しちゃ危ないじゃないか。恩人を殺す気かい?」
眼前の魔女が目を瞑った瞬間を狙い、棍棒を振るった。だが、彼女は吹き抜ける風のようにするりするりと躱してしまう。こちらは全力だというのに、向こうは遊んでいるかのようだった。腹立たしいことに、俺には彼女を殺せないのだろうと思わせるほどの実力差があった。
「何の用で来た。また俺に不幸の種を押し付けに来たのか?」
「人聞きが悪いなぁ。僕は善意で救いの手を差し伸べただけだってのにさ。別に心配しなくても、君に何かするつもりはないよ。用があるのは君じゃなくて、そっちの女の子だからね」
「ナールにですか?」
「そうさ。僕は君に渡したい物があるのだけど、受け取ってくれるかな?」
「無視しろ、ナール。こいつは"善意"で他人に物を与えるが、それが必ずしも良いものだとは限らん。大抵の場合、受け取った奴は取り返しのつかない事態に見舞われる。絶対に受け取るんじゃないぞ!」
背に乗せたナールに言い聞かせながら、魔女の横を通り抜ける。"善意の魔女"――良かれと思って行動し、そのたびに事件を巻き起こす女だ。関わればどんな目に遭うかわかったものではない。
「そういう事なので受け取れません。ごめんなさい」
「おやまぁ……だが、そうなると困ったね。"白銀の娼姫"、伝説の娼婦シャアラの首飾りと、その所在が書かれた羊皮紙。これらをどうしたものかなぁ?」
背後から、魔女が懐より取り出した首飾りの鎖を弄ぶ音が聞こえる。その言葉と音に反応したナールは振り返り、首飾りの方をじっと見つめた。恐らく、そういう事なのだろう。彼女の母親は随分と有名な人物だったらしい。
「お師匠様……」
ナールは自信なさげな小さな声で、歩き続ける俺を呼んだ。彼女が言いたい事は察しがつく。だが、果たしてそれは叶えてやっても良い類の望みなのだろうか。辛い真実を知ってしまい、立ち直れなくなるのではないだろうか。
いや、これはそれ以前の話だ。俺には師として彼女を導く資格はあっても、彼女の人生の選択を決める資格なんてない。ならば、首を縦に振るしかないじゃないか。
「呪われた品では無さそうだし、お前がしたいようにしろ」
「……はい、わかりました!」
ナールは俺の背中から飛び降りると、魔女の方へ駆け寄って行き、彼女から豪奢な首飾りと羊皮紙を受け取った。どうやら彼女には、母への愛情が今も残っているらしい。
「あぁそうそう、会いに行くなら早めに行った方が良いかもしれないよ。彼女が住んでいるリッセルの街には魔神教徒が沢山集まっていたから、近々何か起こるのかもしれないしね。じゃ、僕はこれで!」
「ま、待ってください! それってどういう――。消えてしまいました……」
魔女は伝える事だけ伝えると、瞬きする間に姿を消してしまった。自分勝手に行動し、後のことなど知ったことではない。現れてから今までの言動は、彼女の性質を如実に表していると言えるだろう。
「予定変更だ、ナール。越境する前にリッセルに寄るぞ」
「寄り道になってしまいますが、良いのですか?」
「……リッセルならここからそう遠くないし、俺好みの美味い蜂蜜酒が売っている。さっきの一件で切れた酒を補充するには丁度良い。ほら行くぞ、ナール。しっかり付いて来ないなら置いていくぞ?」
ナールの頭を髪が乱れるほどに撫で回し、リッセルに向かって歩き出す。弟子は大きな声で返事をすると、小さな足音を立てて後を追いかけてきた。こちらが彼女の為だけに寄り道を決めたと気づいているのだろう。弟子は俺に追いつくと、微笑みながら背中に飛び乗った。