旅舎都市リッセル。アルバルドから東へ進み、帝国領に近づいた場所にあるこの街は、アルバルドには到底及ばないものの、豊かな都市である。陸路で三大国を行き来する者たちが必ずと言っていいほど通過することもあり、表通りには宿屋や酒場が、裏通りには娼館が立ち並んでいる。脅威となる外敵が存在しないためか、この街には外壁がなく、人も馬車も自由に出入りできる。魔神教徒が大砲を持ち込もうとしても、誰も気づかなさそうだ。
「この街にお母さんが居るのですね……」
隣を歩く弟子は、不安と期待が入り混じった表情で周囲を見渡しながら呟いた。
もしかすると、母親は本当に自分を待たせていただけなのかもしれない。何か事情があって迎えに来られず、その間に自分が居なくなってしまっただけなのかもしれない。そんな幼さゆえの都合の良い想像と、聡明であるがゆえにそれを否定する思考が、彼女の中で鬩ぎ合っている。そんな具合なのだろう。
「ここまで来てなんだが、会いに行かないという選択肢もあるんだぞ?」
「大丈夫です。ナールは、ナールは大丈夫です。あっ――」
弟子は不意に立ち止まり、手にしていた羊皮紙を落とした。彼女の視線の先へ目を向けると、停まった馬車に、典麗な白狼の獣人が乗っているのが見えた。まとめられた後ろ髪は絹糸の束のようで、色白の肌は真珠のように滑らかだ。ぴんと立った耳と太い尻尾も、毛並みの美しさが際立っている。
"白銀の娼姫"という異名も頷ける美しさだ。伝説の娼婦シャアラは、恐らく彼女で間違いないだろう。
「お母――」
「おかあさま、おまたせしました!」
ナールが声をかけようとしたその瞬間、本を抱えた白百合のような少女が、弟子の母親の乗る馬車へと乗り込んだ。彼女は、少し前にベーリンの屋敷で見かけたリッセル卿の娘アンナだった。その一言が、弟子に残酷な現実を突きつけた。都合の良い想像など、所詮は叶わぬ願いに過ぎなかったのだ。
幸せそうな親子を暫し見つめていた弟子は、声一つ上げずに俯くと、血が滲むほどに手の平を握りしめた。辛い現実を受け止め、怒りや悲しみの入り混じった複雑な感情を、必死に呑み込もうとしているようだった。
「ケケけっ! "石棺の一族"ヲ我ラが御神の贄に! 月の女神が如キ白髪を血濡レニせヨ! 肉ヲ引き裂き恥辱を与エよ!」
間の悪いことに、俺達がこの街を去るより早く、武装した魚面の集団が路地裏や屋根の上から現れ、暴れ始めた。どうやら連中の目的は、ナールの母親と異父妹を亡き者にすることらしい。
護衛や使用人たちは魔神教徒から親子を守ろうとするが、多勢に無勢だった。彼らは一人、また一人と圧倒され、首や腹を斬り裂かれていく。供の者が殺されるたびにアンナが大きな悲鳴を上げるが、周囲の者たちは自分や身内の命を守るので精一杯だ。他人である彼女たちを助けようとする者は一人もいない。
ついに親子の眼前に魚面が迫り、血濡れの山刀が振り上げられる。咄嗟にシャアラがアンナに覆いかぶさるが、それで事態が解決するわけではない。このまま誰も助けず、何も起こらなければ、二人の頭は椰子の実のように叩き割られてしまう。
「誰かっ! 誰か助けてください!」
「っ――!!」
助けを求めるアンナの声を聞いたナールは、俯いていた顔を上げ、母親と異父妹のもとへ駆け出した。腰に差していた剣を抜くと、山刀を振りかぶる魚面の手首を一太刀で斬り飛ばし、返す刀で喉笛を切り裂く。
不意の襲撃に魚面たちが驚き、戸惑っていることに気づくと、ナールは師がそうしていたように獣のごとく襲いかかり、刃を振るい続けた。
彼女は瞬く間に十を超える死体を作り出した。血と脂で小さな身体も聖なる剣も汚し、その姿はさながら、仕留めた獲物の腹に顔を押し込み、内臓を喰らう狼のようだった。
「た、助けて頂き有難うございます。貴方は一体何方なのですか?」
「ナールは……ナールは傭兵見習いのナール、偶然通りすがっただけの旅の者です。お師匠様を待たせていますので、申し訳ありませんがこれで失礼致します」
名を問われた弟子は、母から与えられた名ではなく、師から与えられた名を名乗り、彼女達に背を向けてこちらへ戻ってきた。その顔は憂いに満ちており、罅の入った陶器のように、不用意に触れれば壊れてしまいそうだった。
ナールの声を聞いたシャアラは、彼女が何者であるかに気付き、声をかけようとした。しかし、遅れてやってきた衛兵に囲まれたため、その声は遮られてしまう。
届かなかったその声は、我が子を呼び止めようとしたものだったのか。それとも、許しを請うものだったのか。
「……お師匠様、お師匠様のお母さんはどのような方だったのですか?」
街道から逸れた河原で行水と洗濯を済ませたナールの髪を、乾かしながら梳いてやっていると、不意に弟子が俺の母親について尋ねてきた。
「わからん。生きている以上、産んだ奴は居たんだろうが、顔も声も知らん」
「わからない? わからないくらい幼い時に捨てられたってことですか?」
「あぁ、多分そういう事なんだろうさ。なんせ物心がついた時には一人きり。合戦で死んだ馬の死骸を野犬と奪い合ったり、陣中から出た残飯を漁って飢えを凌いだり、日銭を体で稼ぐ孤児だったからな……」
弟子の頭皮を按摩しながら、一世紀以上前の記憶を引っ張り出す。思い出せる最も古い記憶は、蛆の湧いた死体の道を踏み越え、蟻が集った柿を口に放り込んだ時のものだ。口の中を蟻に噛まれた痛みと、潰れた蟻の酸味。腐りかけた柿の甘さと柔らかな果肉の感触は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「ナールと少しだけ似ているのですね」
「あぁ、少しだけな……。ほら、梳いてやるから尻尾を動かすな」
弟子の太い尻尾に櫛を通していく。敏感な尻尾を梳かされるのが余程心地良いのか、櫛を動かす度に彼女は目を細め、体を震わせた。
「出来たぞ。残った根元は自分で整えろ」
「何故です? お師匠様がやってくれないのですか?」
「お前なぁ……尻尾の根元に何があるか分かって言ってるのか? まったく……何を言われても、どうお願いされても、それだけはやらないからな!」
弟子に櫛を押し付け、風下に腰を下ろして煙管と火口箱を取り出す。数秒後、ようやくこちらの言葉の意味を理解し、自分が何を無意識に口走ったのかに気付いたナールは、真っ赤になって発条仕掛けの玩具のように震え出した。
休憩と一服を終え、本来の目的地へ向けて歩き出した頃には、陽が沈み始め、空には橙と青の濃淡が広がっていた。安全な場所を旅していたり、大人数で旅をしていたりするなら、野営の準備を始める時間帯だ。
「夜を越す準備をしなくてよいのですか?」
「普段ならそうしたかもしれないが、今は皆が魔神教徒にかかりきりで、野盗が好き勝手に暴れ回れる状況だ。危険だから野営はしない」
「ではどうするのですか? 到着するまで歩き続けるのですか?」
「夜の間は俺が寝ているお前を担いで歩き、朝はお前の見張りのもとで俺が眠る。そうすれば睡眠時間を削らずに済むし、無警戒になる時間も無くせるだろう?」
「おぉ! 確かにそれなら! ですが……お疲れなのではないのですか?」
普段よりも猫背が酷くなっていることに気付いた弟子が、こちらの顔を覗き込む。どうやら、歩き回り戦い続けた疲れが出ていることに気付かれてしまったらしい。
「この程度なら問題にもならん。ほら、心配している暇があるなら、一秒でも早く眠りについて、俺が休んでいる間の見張りに備えろ」
背負っていた背嚢を下ろし、膝を曲げて彼女が背中に乗れるようにする。
こちらがあまり弱みを見せたがらないことを知っている彼女は、それ以上踏み込まず、俺の背中に乗って首に手を回すと目を閉じた。彼女も同じように疲れていたらしく、数分も経たないうちに寝息を立て始めた。
「<進む我らは何処へ行く。遠き故郷よ嗚呼懐かしや>」
時間の経過を測り、歩行速度を一定に保つための「傭兵の歌」を口ずさみながら、暗闇の中を歩いていく。声を出すのは危険だが、不安を払拭するにはそうするほかない。本当なら煙草を吸いながら歩きたいところだが、そうすれば遠目からでも見つかってしまう。だから、陰気で古臭いこの歌を口ずさむしかないのだ。
「<酒宴の終わりの鐘が鳴る。一人、また一人と闇へ消え、最後は一人ただ歩く……>」