「ベーリン様、アンナ様とシャアラ様が国外へ向かわれました。馬車での移動ですので、何事もなければ夕刻には御自宅に真夜中には帝国に辿り着けるかと」
「それで間に合うといいんだがな……。ところでエリー、お前は何故逃げなかったんだ? 暇は出したんだし、他の使用人みたいに逃げても構わなかったんだぞ?」
「私まで居なくなってしまったら、このお屋敷を守る者も、貴方様のお世話をする者も居なくなってしまうではありませんか。湯沸かしで火事を起こしてしまうような貴方様を一人になんて出来ませんよ」
微笑みながら背伸びをしたエリーが歪んだ兜に触れる。彼女の体温と震え、そして冗談めかした口調で隠そうとしている不安と恐怖が、面頬越しに伝わってくる。
「必ず帰ってくる。その時には――」
「その時のことは、その時に教えてください。私は楽しみに待っておりますので」
エリーは人差し指を面頬に押し当て、想いを伝えようとした主人の言葉を遮った。帰ってきてから伝えてほしい。そしてその言葉を受け止めるつもりがある。そういうことなのだろう。
不意に視界がぼやけ、愛しい人の顔が血濡れた石畳へと変わっていく。どうやら今の今まで見えていた光景は、魔神教徒との戦闘で受けた傷によって死に瀕した自分が走馬灯のように思い出していた記憶だったらしい。
「エリー……俺は……お前を……」
愛しい人の名を呼び、曇り空へと手を伸ばす。視界が黒く染まっていく中、最後に見えたのは大きな帽子を被った茶髪の魔女がこちらへ手を差し伸べる姿だった。
「さぁ、君の願いを言ってごらんよ!」
帝国領へと続く山道、"山賊道"の入り口に辿り着いた俺達は、金箔で覆われた彫刻で彩られルテア王家の所有物であることを示す紋章が刻まれた壮麗な馬車と月教徒の神殿騎士を乗せた幾台もの馬車に出くわした。不穏な情勢でなければ、王族が旅行を兼ねた巡礼にでも向かっているかのように見えただろう。
「ふぁ……おはようございます、お師匠様。あー……馬車がいっぱいですねぇ」
「王族と月教徒は何かにつけて難癖を付けてくるから、あまりじろじろ見るなよ。こっちは何もしてなくても悪目立ちするんだからな」
「おい貴様ら! そこで何をしている!」
早朝になって目を覚ました弟子にそう言い聞かせ、俺達は首を垂れて足早に立ち去ろうとした。しかし、彼らは俺達を放っておいてはくれなかった。神殿騎士達は剣を抜いて俺達を取り囲み、いつでも突き殺せるように切っ先を向けてきた。
「おいおい、またかよ……。ナール、向こうが仕掛けてくるまでは絶対に剣を抜くなよ。権力者の護衛とやり合うことになるのは流石にまずい」
「はい! 了解です!」
弟子が背中から降り、俺の背後に回る。互いに死角が生まれないよう立ち回るためだ。小さな彼女ではあるが、背中を守られているという安心感は凄まじい。まるで大きな壁を背にしているかのように目の前の相手に集中できる。
俺達と周囲の神殿騎士達が睨み合いを始めて数分が経った頃、包囲の一角が左右に割れ、一筋の道が出来上がった。その先から、神々しい法衣を纏った薄茶色の髪の女が、顔立ちの良い少年達を伴ってゆったりと歩いてくる。世間からは「月の巫女」と呼ばれている妙齢の女だ。
彼女の雰囲気や外見は清貧を重んじる月教の宗教画に描かれる聖人そのものだ。しかし、その本性は他の多くの司祭と同様、決して神聖なものではない。飲酒や美食を好み、孤児院で見つけた容姿端麗な少年達を神殿騎士として自らの護衛にしたり、身の回りの世話役として囲ったりしている。そうして権威を高めるための政争に明け暮れる、生臭巫女なのだ。
「あらあら、騒がしいから何かと思えばそこにいるのは"疫病"さんではありませんか。勇者様が居なくなってからは落ちぶれて、酒浸りになっていたはずの貴方が小さな女の子を連れてこのような所で何をしているのですか? まさか、小さな女の子を誘拐なさっているのですか?」
糸目に柔和な笑顔を浮かべ、穏やかで優しい口調で話す彼女は、彼女を知らぬ者をも魅了する包容力を放っていた。一皮剥けば野望と加虐趣味が詰まっているとは思えないほど、外面だけはその称号に相応しい風格を纏っている。
「あの馬車にお乗りの方々を亡き者にするよう雇われ、子供を盾にしてでも仕事をやり遂げようと、ここに現れた……とかなのでしょうか?」
「お師匠様はそんな事をしようとなんて考えてません! お師匠様はナールと一緒に帝国へ行こうとしているだけです!」
師に向けられた、反応を窺うような挑発的な質問がよほど気に食わなかったのだろう。ナールは俺が反論するよりも早く、大声で否定した。弟子に尊敬されるのは嬉しいが、彼女が噛みついた相手は月教を信仰する地域で強大な権力を持ち、人々から畏敬される聖女だ。月教徒だらけのこの場所でわざわざ突っかかるべき相手ではない。
「貴様! 聖女様に何という態度を! 子供とはいえ許せぬぞ!」
「待ちなさい! そう……そうなのね。ごめんなさいね、ナールちゃん。最近は凄く物騒だから、お姉さん神経質になっちゃってるの。許してくれるかしら?」
"月の巫女"、ソニアは予想通り激昂した神殿騎士を制止し、ナールに視線を合わせて許しを請うた。弟子の言動から欲していた情報を得られたのだろうか。彼女は一連の動作に移る直前、ひっそりとほくそ笑んでいた。
それを目撃した弟子は、目の前の女が外面を取り繕っているだけの悪人だと気付いたらしい。顔の僅かな動きから聖女の本質の一端を垣間見た彼女は恐怖で身体を強張らせ、まるで全身が泥沼に沈んでしまったかのように動けなくなっている。
「ソニアよ、御主は何をしておるのだ。馳せ参じるのが遅れては、ここまで急いで来た意味が無いであろう」
色白で細身の少年が豪奢な馬車から降り立ち、ソニアに苦言を呈した。王家の紋章が刺繍された外套を纏う中性的な顔立ちの少年と、彼が被る宝冠には見覚えがあった。間違いない。あれは国王の孫にして、王位継承権第四位の王族、フーリ・ルテアその人だ。
王位継承権を持つような若者が、魔神教徒と自ら兵を率いて戦おうとすることには違和感を覚える。己の継承権を盤石なものにする意図があるのだろうか。ソニアや月教徒達が彼に付き従っているのも、彼を擁立して政において力を持つためなのかもしれない。
「不審な者を見つけたので問答を。ですが、ご安心ください。外見こそ珍妙な者達ではありますが、我が国に住むただの傭兵とその弟子でした」
「傭兵だと? ふむ、体躯は悪くない……いや十分に目立つ良き身体だ」
ソニアから説明を受けた赤毛の少年は、俺達を見て考え込んだ。彼が何を思案しているのかは容易に想像がつくが、それが正解であって欲しくはない。権力争いになど関わりたくないというのに、立場上断れない。もし当たっているのなら最悪だ。
「貴様ら、余に雇われぬか? もし余と共に悪逆非道の限りを尽くす魔神教徒の討伐へ赴くというなら、言い値の報酬を用意するぞ」
フーリはたった一組の傭兵と弟子に持ちかけるにしては破格の条件を提示した。何故彼がそこまでして俺達を雇おうとするのか、その真意は全くわからない。青天井の報酬を払って二人を雇うくらいなら、傭兵団を丸ごと雇った方が効率が良いだろうに。
「……小銀貨三十枚で、捨て駒になさらぬ限り師弟共々貴方様の兵となりましょう」
「おお、受けてくれるか! だが御主らはその条件で良いのか? 折角の青天井なのだから、同じ枚数を大銀貨で求めても良いのだぞ?」
「御心遣い感謝致します。ですが、私めは自分が提供出来る能力以上の報酬を要求しないと決めているのです。どうか御容赦を」
金は多く貰えるに越したことはないが、貰い過ぎるのもよろしくない。報酬というものはそれ即ち仕事に対する責任の重さでもあるのだから。
「それで構わぬと御主が言うなら、余は何も言わぬが……。まぁ良い、契約を書面にしてやるから付いてまいれ」
そう言うと、フーリは自分の馬車へと乗り込んだ。
彼の後を歩いて馬車の前まで辿り着くと、その豪華絢爛な内装が目に入った。座席は寝台として使っても体を痛めぬよう、柔らかい素材で覆われている。高めに作られた天井には、煌びやかな絵画が描かれていた。帝国の皇帝が乗る立派な馬車の内装を遠目に見たことがあるが、この馬車はそれ以上に豪奢かもしれない。
「よく読み、問題が無ければ血判を押せ」
「……確認致しました。これで師弟共々、貴方の手勢で御座います」
差し出された契約書に相違が無いことを確認し、牙で指に傷を付けて血判を押す。ナールには申し訳ないが、暫くの間、ご褒美はお預けになってしまう。この一件が片付いた後に改めて褒美を与える時は、何か付け加えてやらなければならんな。