「違う、俺は狂ってなんかいない! 俺は真実を知ってしまっただけなんだ!」
夕食を食べ終えナールと帰り道を歩いていると、突如として大声が響いた。気になって声のした方へ目を向けると、騎士と小奇麗な格好をした兵士たちに取り押さえられ運ばれていく男の姿があった。
血染みと汚れでぼろ雑巾のようになった衣服を身に纏った髭面の男は、周囲にいる者たちではない何かに怯えているようである。身を捩り、兵士たちの拘束から逃れようともがいている。
「お前達も気付くべきだ! 早くしないと大変なことになるんだぞ!」
「黙れ! こらっ、大人しくしろ!」
踵に金の拍車を付けた騎士が棍棒で男を殴り黙らせる。騒ぎを聞きつけて集まってきた者たちに何かを伝えようとしていた男の言葉はそこで途切れた。何かを聞かれてしまっては不都合なことでもあるのだろうか。
「お師匠様、お師匠様。あの騎士様……六角形を使った紋章を使っています。王様の許可がないと使えない六角形を、蜂の巣の一部を紋章に使っています」
ナールが騎士の衣服に刺繍された紋章を指差す。
ルテアの王が用いる紋章は蜂の巣であり、その蜂の巣を構成する部屋と同じ六角形は忠誠や功績を認められた貴族のみが紋章の一部に用いることを許された特別な意匠だ。それを身につけているということは、あの騎士が下級の者ではないことを意味している。
よくよく見れば、小奇麗な兵士たちもそれぞれの武具に異なる紋章を付けている。紋章を掲げた者ばかりで構成された戦闘集団。恐らく彼らは貴族街の警備を担う騎士団の団員と、その見習いたちなのだろう。
「あれは名門貴族のロタ家の紋章だな。でもって周りの奴らも見覚えのある紋章ばかりだ。あんな豪華な顔触れがこんな場所に揃うってことは、ただの捕り物ってわけじゃあないんだろうな……」
殴打された痛みで身体を丸めた男が、監獄のある場所とは別の方向へ連れて行かれるのを、俺は目で追っていく。何処に連れていくつもりなのかはわからないが、正式な裁きの場に連れていかれるわけではない。
「あれは何だったんでしょうか?」
「わからん。誰かの陰謀を暴こうとして罪をでっち上げられたのか、それとも何か見てはならないものを見てしまったのか。何にせよ、皆に知られると都合の悪いことを知ったんだろうさ」
もう行くぞと言ってナールの背中を軽く叩く。権力を持たない俺達には何も出来ないのだから、見続けても意味は無い。機嫌を損ねようものなら何をされるかわかったものではない。今はただ、男の語る大惨事が俺達に降りかからないことを祈るばかりだ。
貧民街の一角、魔族が多く住む住宅地に俺の家はある。表通りからは遠く、墓場と隣接したあばら家の平屋で部屋は1つ。広さこそ貧民街の家にしては広い方ではあるが、その外観は廃屋と見間違うような状態の一軒家だ。
この穴だらけの家に俺はナールと共に住んでいる。1つの部屋を布の敷居で3つに分け、それぞれを個室と共用の部屋としている。風呂も囲炉裏も無く、照明は籠められた魔力で光る魔石灯が2つあるだけなので常に薄暗い。片付けを行わない2人の所為で室内は散らかっており、俺の所為で酒と獣の臭いが立ち込めている。
この家には価値のある書物が多数あるが、泥棒が入ったことは一度も無い。法を破る勇気がある泥棒でも、流石に命は惜しいのだろうか。それともこんな家には価値のある物なんて何もないと思って、入ることさえ考えないのだろうか。
「お師匠様、お師匠様、"紅日誌"の下巻って何処にあるんでしょうか?」
「無いぞ。欲しけりゃ東のコムラにまで足を運べ」
「それって確か、東の果てにあるお師匠様の故郷の島国でしたっけ? 流石にそこまで行くのはナールには無理ですよ……うぅ、続きがすごく気になるのに……」
ナールは表紙に返り血が付いた本を抱きしめ、残念そうな表情をした。彼女が抱えている本は100年程前に貴族達の間で流行っていた小説で、戦乱の中でその多くが焼けてしまっているので今となっては入手困難な一品だ。夢を壊さないように敢えて言わなかったが、もしも極東の島国であるコムラに辿り着けたとしても、続きを読むことが出来るかは定かではないだろう。
落ち込む彼女を横目に戦利品として手に入れた本を開き、瓶に閉じ込めた鼠に見せていく。少々可哀そうではあるが、本の安全性を確認するために仕方ない。本に込められた呪いの犠牲になったのなら盛大に弔ってやろう。
「本自体に呪いは無さそうだな。いや、人が読む場合や文字を読める知性がある場合に効力が現れるかもしれないか……だが、頻繁に開く物にそこまでの物を仕込んでいるか?」
「危ないかもしれないのに読む気なんですか?」
「鑑定で見られて知った人間が多くなれば情報の価値が下がるし、危険物を知り合いに譲るのは気が引ける。それなら自前でやるしかないだろう? ほら、危ないから離れてろ」
弟子を彼女の自室へと押し込み、左半分の目だけで捲った頁を眺めていく。
幸いにも本には呪いの類は籠められていなかった。しかし、背表紙以外の部分は暗号化されており、一目で読める状態ではない。情報として売り込むにしても、これが解けていなければ本来の価格よりも低くしなければならない。
「文字は魔族の言葉で、換え字式の暗号と文字挿入の組み合わせか」
「お師匠様がナールに教えてくれた奴ですね! 確か、簡単な暗号でしたよね?」
「……はぁ。全部が同じ決まりならそうだ。だがこいつは……暗号化されてる全頁が違う決まりで書かれてる。それに、後半になればなるほど暗号が複雑になってやがるな」
ひょっこりとカーテンの隙間から顔を出してくる弟子に溜息を吐く。
最初の暗号は子供でも解ける物であったので、もしかしてと思って後半の頁でも同じ解読方法を使えるか試してみるが、それではまともな文章にはならなかった。鍵となるもの無しで、この詩的表現が詰まった文章を全て復号化するには、数年の時を要するかもしれない。
「うわぁ……見ているだけで頭が痛くなってきますね。どうするのですか?」
「3日で読めるところまで、地道に読み進めてみる。目標は10頁くらいだな」
ガラクタの中から拡大鏡と使い終わった契約書を取り出し、メモを取りながら解読作業を始める。せっかく苦労するのだから、それに見合ったものが出てくるといいのだが。