日本国召喚~帰還艦隊~   作:シェリダン

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プロローグ「帰還……?」

■ フィルアデス大陸北東——トーパの地 昭和二十年八月

 

海岸が、人で埋まっていた。

 

エルフ、獣人、矮人(ドワーフ)、そして人間。二年前ならば剣を向け合っていたかもしれない種族が、今は肩を寄せ合い、ある者は涙をぬぐい、ある者は子供を肩車にして、一斉に腕を振っていた。

 

「またね——!!」

 

「さようなら——!!」

 

声が重なり、波になり、沖へと届く。

 

加賀型航空母艦「土佐」の艦橋から、笠井 隆賢(かさい りゅうけん)中将はその光景を眺めていた。自分の隣では、艦長の南 幸太郎(みなみ こうたろう)大佐が白手袋を外すことも忘れ、目を細めている。

 

甲板には飛行機乗りたちが整列し、岸壁に向かって無言で手を振っていた。その中の何人かが、はっきりと肩を震わせている。二十歳そこそこの搭乗員が人目も憚らず泣いているのを見て、笠井は咎める気にはなれなかった。

 

周囲には「紀伊」「生駒」をはじめとする戦艦、軽巡洋艦、駆逐艦——異界方面艦隊の十九隻が定位置に並び、それぞれの甲板でも同じ光景が繰り広げられていた。

 

「……二年か」

 

独り言のつもりで呟くと、南がすぐ隣で小さく頷いた。

 

「長い戦いでした。この世界に来てからというもの、ろくに息をつく間もなく……」

 

二年前——昭和十八年三月。太平洋上で巨大な次元の渦に呑み込まれ、気がつけばまったく見知らぬ海域に再出現した。右も左もわからぬうちに、魔王ノスグーラ率いる魔物の軍勢が人類を席巻しているという現実を突きつけられた。

 

島の守備隊でもなく、連合艦隊の一翼でもなく、この世界の人々にとってはただの闖入者に過ぎなかった彼らが、「種族間連合」と呼ばれる烏合の衆と足並みを揃えるまでには、数え切れないほどの軋轢と、いくつかの取り返しのつかない失敗があった。

 

だが終わった。

 

魔王軍はグラメウス大陸へと押し戻され、大陸に続く細い地峡の中央部には、陸軍第〇軍の工兵隊が大半の資材をつぎ込んで築いた城壁が聳えている。完全な勝利ではない。ノスグーラはまだ生きている。されど、この世界の人々が自らの手で未来を切り開ける土台は、整えた。

 

「太陽神のお告げ通り、か……」

 

笠井は口の中だけで言った。

 

遠い将来、子孫らに多大なる恵みもたらされん。

 

東京の宮中で賜った言葉の意味が、今ようやく、少しだけわかる気がした。

 

「司令、そろそろ出発の時刻です」

 

参謀の声に促され、笠井は艦橋内に向き直った。海岸の声はまだ続いている。名残惜しい気持ちを振り切るように、彼は静かに口を開いた。

 

「さあ、家に向かおう」

 

命令ではなく、独語のような一言だった。しかしそれが艦橋全体に静かに伝わり、艦橋内の将校たちがそれぞれ姿勢を正した。

 

異界方面艦隊の十九隻は、この世界に来た時と同じように、洋上に口を開けた巨大な渦へと向かっていった——そして、消えた。

 

 

■ ××××年××月——日本東方、約五百浬(かいり)

 

虚無から光へ。

 

目の前に海があった。

 

どこまでも青い、見慣れた太平洋の色だ。笠井は肺いっぱいに潮風を吸い込み、甲板を踏みしめる靴の感触を確かめた。渦の通過中は奇妙な浮遊感と耳鳴りが続いていたが、それも今は消えている。

 

「本土はありますか」

 

「確認します」

 

観測機が西へ向けて射出された。洋上には白い太陽が照っている。いつのまにか空が高く澄んでいるのに気づいた。確かに夏から少し経ったような風だった。

 

報告が戻ってきたのは三十分後だった。

 

「陸地確認しました。……ただ」

 

通話口に出た観測員の声が、ほんの少し歯切れを失っていた。

 

「なんだ」

 

「建物の様子が……かなり変わっています。街の規模が、以前より格段に——」

 

「二年もあれば多少は変わる」笠井は遮った。「異界に入った位置からずれて帰ってきた可能性もある。米国本土でないことだけは確認しておけ」

 

しばらく沈黙があり、やがて「日本語の看板を確認しました」と報告が来た。艦橋に安堵の息が漏れる。

 

「横須賀へ向かう」

 

笠井の命令で艦隊は西へ針路をとった。

 

警戒態勢は緩めなかった。まだ戦時中のはずだ。米潜水艦が出没する海域でもある。当直将校に指示を出しながら、笠井は心のどこかで引っかかるものを感じていた——空が、やけに静かだった。敵機の気配がない。どころか、見張り員からは味方機の報告すら入ってこない。

 

一時間ほどが過ぎた頃、見張り員が声を上げた。

 

「右舷、小型艦艇接近——高速です!」

 

艦橋に緊張が走る。双眼鏡を手にした将校が白い艇体を捉えた。

 

「白塗りです。識別旗は……日章旗ではありませんが、日の丸様の意匠が——」

 

「軍艦旗か?」

 

「いえ、もっと小さく……見慣れない旗です」

 

やがてその白い艇から通話が入ってきた。暗号ではない。平文だった。

 

――こちらは日本国海上保安庁。当該船舶に告ぐ。所属および来航意図を明らかにされたい

 

日本語だった。しかし「海上保安庁」という言葉が、艦橋内の全員の頭上に疑問符を浮かべさせた。

 

南が顔を上げる。「……海上保安庁、とは?」

 

「海軍省と別に、海を担当する省庁でも設けたのか」笠井は眉根を寄せたまま考えた。「……まあ良い。秘匿する必要ももはやあるまい、答えろ」

 

通話手が「大日本帝国海軍、東遣艦隊及び陸軍第〇軍。横須賀鎮守府へ帰還中」と送信した。

 

返答まで、長い沈黙があった。

 

三十分以上だった。その間、白い艇はただ並走し、何も言ってこなかった。

 

やがて、声が戻ってきた。

 

——進路変更を求める。これ以上の領海侵入を控えられたい。繰り返す、これ以上の領海侵入を——

 

艦橋内に、妙な空気が流れた。

 

「……海軍の艦隊に、領海侵入しないよう言ってきた」

 

誰かが呟いた。笠井は腕を組み、白い艇を見つめた。百数十トンほどか——軍艦というよりは大型の巡視艇の風体だった。甲板にいる乗組員たちのこちらを見る目が、明らかに困惑と——何かもっと生々しい感情を帯びていた。

 

「無視して進みますか」南が言った。声に苛立ちが滲んでいた。「皆、早く帰りたがっています。それに暗号も使わず情報を出させた挙句——」

 

「待て」

 

笠井は南を手で制した。

 

相手はどう見ても臨戦態勢を取っていない。しかし明らかに困惑している。こちらの素性を知ったうえで、なお「帰れ」と言ってくる——それはどういうことか。

 

「これ以上押してなだれ込んでも、混乱が大きくなるだけだ。海軍省からすぐ連絡が来るだろう、しばらく待つ」

 

そう言い聞かせた矢先だった。

 

「右舷——大型艦多数!!」

 

見張りの声が艦橋に飛び込んできた。双眼鏡の林が一斉に右を向く。

 

水平線から艦影が現れつつあった。一隻ではない。何隻もある。しかしその艦形が——長く、低く、滑らかな線を持ち、見慣れた大日本帝国海軍の艦とはまったく異なる輪郭をしていた。砲塔らしきものの数は少ない。なのになぜか、その艦体のどこかが凄まじい圧を帯びているように感じた。

 

そして上空。

 

轟音が空気を割いた。それは航空機の音には違いなかったが、まったくエンジンの音が違う。レシプロではない——どこにも爆音のザラつきがない、鋼鉄が大気を引き裂く高い叫びだった。

 

「……あれは、」

 

南が絶句している。

 

笠井は双眼鏡を目に当て、その艦艇の艦尾を見た。翻っているのは日章旗——いや、それに似ているが見慣れない旗だ。艦体には文字が書かれている。

 

JS ——

 

「あれが日本の艦だとしたら、」

 

参謀の一人が震える声で言った。

 

「我々は、一体……どこへ帰ってきたんですか」

 

笠井はゆっくりと双眼鏡を下ろし、そのまま、しばらく動かなかった。

 

甲板の下、格納庫では搭乗員たちがまだ故郷の話をしているのが聞こえそうだった。あの子はもう字を書けるようになっただろうか。父の農地は無事だろうか。妻は——

 

「全艦、現状位置で停止。戦闘配置は解け、だが警戒だけは厳にしろ」

 

声は、静かだった。

 

「我々はどこかへ帰ってきた。それは間違いない。だが……」

 

笠井は再び、水平線に目を向けた。

 

太陽は西に傾き始めていた。その光の中で、見慣れぬ艦影が、ゆっくりと近づいてくる。

 

「……一体どこなんだここは…」

 

誰も答えなかった。答えられる者が、この艦橋にはいなかった。

 

プロローグ「騒乱の官邸」

 

 

■ 中央暦1639年2月25日 東京・首相官邸 総理執務室

 

扉が開くたびに人が増えた。

 

転移から一ヶ月余り——連日の徹夜が続いた官邸に、ようやく少しだけ落ち着きが戻りつつあった。二月十八日の実務者協議でクワ・トイネ公国、クイラ王国との資源輸入の目途が立ち、食料問題の見通しだけは何とか立てられた。廊下を駆け回るスタッフの顔から、最初の数日間に漂っていた「国家が消滅するかもしれない」という剥き出しの恐怖は薄れていた。

 

だが今日、それが戻ってきた。

 

「海上保安庁から続報です」

 

秘書官が資料を手に執務室へ駆け込んできたのは昼前のことだった。報告を聞いた総理の顔色が変わり、省庁の担当者が次々と呼び集められ、気がつけば執務室は人で埋まっていた。

 

「状況を整理する」

 

総理が手で静止を求め、室内が静まった。

 

「首都東京から東、約三百キロの地点に正体不明の艦隊が出現。進路は横須賀。規模は?」

 

防衛大臣が手元の資料に目を落とした。

 

「現時点で確認されているのは20隻前後。そのうち大型艦が複数——空母らしき艦影が少なくとも二隻、戦艦型も二隻と見られます。」

 

「空母……」誰かが呟いた。

 

「不審武装艦隊に対し、横須賀の第一護衛隊群が現着、海上保安庁巡視船と合同で監視態勢に入っています。百里の飛行隊も対艦装備で現場空域にて警戒中です。」

 

「艦隊の動きは」

 

「海保の退去指示の後、横須賀への進行は止まっています。ただし、領海外へ出る気配もありません」

 

国交大臣が引き取った。「付かず離れず、という状況です」

 

総理は腕を組んだ。「膠着だな。——正体は分かったか。"東遣艦隊"、"第〇軍"という名乗りの意味は」

 

防衛大臣が、後ろに立つ防衛省担当官たちへ視線を飛ばした。担当官たちは揃って首を振る。

 

「……目下、旧軍関連資料を中心に照合中ですが、該当する艦隊の記録は今のところ見当たりません」

 

官房長官が補足する。「官邸でも確認しておりますが、同様です」

 

「見当たらない」総理が繰り返した。声が低くなった。「戦艦に空母がいると言っておきながら、記録にない艦隊が存在できるのか」

 

「それが……」防衛大臣が言いにくそうに続ける。「艦艇の形状については、旧日本海軍の運用艦艇に酷似しているという現場からの報告があります」

 

「旧海軍に似ている。記録にない。武装している。横須賀に向かっていた」

 

国交大臣がカウンターを入れるように言った。

 

「それが偶然の一致という可能性はありますか。むしろ、私たちの転移に乗じて接近してきた未知の勢力と考えるのが自然ではないでしょうか」

 

賛同する空気が室内に広がりかけた。

 

「ただ」

 

防衛大臣が食い下がった。

 

「海保の指示で接近を止めた点が説明できません。敵対意図があるなら——」

 

「それも計算の内かもしれない」

 

「——」

 

「今は正体論議より対応です」

 

官房長官が割り込み、議論を流れに戻した。

 

「いずれにせよ、領海外への退去に応じない以上、対応の選択肢は限られます。まず停船命令。臨検に応じれば情報が得られます。応じない場合は警告射撃からの拿捕。そして最悪の場合は——」

 

「防衛出動か」

 

総理がぽつりと言った。

 

自衛隊が艦隊を攻撃する。その言葉が室内に沈んだ瞬間、執務室の温度が下がったような気がした。誰もすぐには口を開かなかった。

 

転移直後から最悪のシナリオとして想定してきた「武力衝突」——相手が異世界の国家ではなく、正体不明の武装艦隊という形で現実になりかけていた。

 

その静寂を、場違いな声が破った。

 

「えっ——!?」

 

全員が一斉に声のした方を向いた。部屋の隅、皇族の避難手配のために呼ばれていた宮内庁担当官が、後ろに控えていた部下から小さなメモを受け取り、顔色を失っていた。

 

「……どうした」

 

総理が問いただすと、担当官は自分が発した声の大きさにようやく気づいたように、すみませんと小さく頭を下げた。しかしメモを持つ手が微かに震えていた。

 

「あ、の……ただいま、参内されていた陛下に、出現した艦隊の概要をご報告申し上げたところ……」

 

「それで」

 

担当官は一瞬、咳払いをした。

 

「……東遣艦隊及び第〇軍という名称に、心当たりがおありだと」

 

室内が、完全に静止した。

 

誰も何も言わなかった。書類をめくる音も、足を動かす音も止まった。

 

総理だけが、担当官を真っ直ぐ見つめていた。

 

「……どういうことだ」

 

その言葉は、室内の全員の声を代わりに発したものだった。

 

担当官は一度だけ唇を湿らせ、手の中のメモを見た。

 

「詳細は、陛下より直接お聞きするしかない、と……そのようなお答えだったとのことです」

 

誰かが、長く息を吐いた。

 

窓の外では、霞が関の空が灰色に曇っていた。遠く東の方角、見えるはずもない洋上に、艦影が今も停泊しているはずだった。

 

プロローグ「帰ってきた場所」

 

 

■ 中央暦1639年2月26日 東京・防衛省 庁舎内会議室

 

何度目かの問答が終わり、担当官たちが退室した後、会議室には笠井と南だけが残された。

 

長テーブルの上には飲みかけのペットボトルと、積み上げられた資料の束。床暖房が効いているのか足元だけが妙に温かく、それがかえって体の重さを際立たせた。南は椅子の背もたれに深く沈み、天井を向いたまま動かない。

 

笠井は窓の外を見ていた。

 

東京の景色だった。それは間違いなかった。しかし見渡す限り、自分の知っているどの東京でもなかった。これほど高く、これほど密に、建物が天へ向かって伸びているとは——昨日、この建物に連れてこられた時、思わず足を止めてしまった自分を恥ずかしいとは思わなかった。南も、護衛の車の窓に額を押しつけていた。

 

「……随分と、聞かれましたね」

 

南がぽつりと言った。

 

「向こうも初めてのことだ、無理もあるまい」

 

「自分たちもですが」

 

それきり、また沈黙が落ちた。

 

聞き取りは昨日の夜から断続的に続いていた。どういう経緯で出現したか。どこから来たか。新世界での二年間に何をしたか。戦力の詳細は。

武器弾薬の残量は——質問の性質が途中から変わっていくのがよく分かった。最初の数時間は「脅威の確認」、その後は「情報収集」、そして今は明らかに「どう処遇するか」を判断するための材料集めになっている。

 

それ自体は仕方がないと笠井は思っていた。突然、武装した旧式艦隊が帝都近海に現れれば、どう扱うか迷うのは当然だ。

 

迷う方が、まだ普通だった。

 

「……陛下のご判断がなければ、どうなっていたか」

 

南が天井を見たまま言った。

 

笠井は答えなかったが、同じことを考えていた。

 

昨日、状況が動いたのは宮内庁からの連絡がきっかけだったという。東遣艦隊及び第〇軍——その名を告げられた今上陛下が、即座に心当たりを示された。

昭和天皇より口づてに伝えられた秘話、表向きは存在しない艦隊の記録が、ただ一つだけ皇統の中に残されていた。

 

武力衝突の可能性が消えたのはその直後だったと、担当官の一人が教えてくれた。

 

「記録が抹消されていたのは、我々が帰らなかったからではなく……行った先を、誰にも言えなかったからでしょうね」

 

南が続けた。

 

「…例え終戦直後に帰還しても、秘密裏に解体されて、口を封じられていたと…」

 

「ああ」

 

笠井は短く答えた。それ以上の言葉が出てこなかった。

 

「終わっていたんですね、戦争が」

 

南の声から感情が消えていた。

 

笠井もそこには触れなかった。昨日の聞き取りの中で、担当官から淡々と説明を受けた。昭和二十年八月十五日、玉音放送により終戦。その後の占領期、講和条約、高度経済成長、バブル——七十年以上の時間を、数時間の説明で受け取った。

 

消化できるはずがなかった。

 

頭では理解している。だが腸の奥の方で、何かがまだ受け入れを拒んでいる。ガダルカナルで死んだ者たちのことを思った。

ミッドウェーで沈んだ艦のことを思った。自分たちがこの異界で戦っている間、本土はどうなっていたのか——それをずっと気にしていたはずなのに、実際に答えを渡されると、どう扱えばいいのか分からなかった。

 

「日本に帰ってきた」

 

笠井は静かに言った。「それは確かだ」

 

「でも」

 

「でも——ここは地球でもない」

 

南は何も言わなかった。

 

転移から一ヶ月余りが経過した日本は、地球ではなく「新世界」と呼ばれる惑星の上にあった。担当官の説明はそこでさらに混乱した。

この星は地球より遥かに巨大で、魔法が存在し、竜が飛び、封建制度の国家が乱立している——正気かと思ったが、昨日窓から見えた空に翼竜が通り過ぎていくのを笠井自身が目撃した。新世界のことなら自分たちの方がよほど詳しい。それがかえって説明の意味を実感させた。

 

我々は、異界から異界へと時間を渡ったのだ。

 

「艦の連中は」南がふと言った。

 

「まだ沖にいますよね」

 

「そうだ」

 

将官クラスだけがこの庁舎に呼ばれており、陸海の大多数の要員は依然として洋上で待機したままだ。物見遊山のできる状況ではないが、昨日の東京の街並みを目の当たりにした彼らが今どんな顔をしているか——想像するとうまく笑えなかった。

 

「みんな、早く家に帰りたがっていたんですよね」

 

「……そうだな」

 

「家も、家族も、もう」

 

「南」

 

低い声で名を呼ぶと、南は口をつぐんだ。しばらく間があった。

 

「——すみません」

 

「謝るな」

 

笠井は窓から視線を外し、テーブルの上の資料の一点を見つめた。今この星に転移してきた日本と近隣国家との外交の経緯が書かれていた——内容を正確に読む暇はなかったが、「クワ・トイネ」という文字が見えた気がした。

 

「……あの耳の長い参謀は達者にやっているだろうか」

 

笠井がぽつりと言うと、南が少し間を置いて答えた。

 

「ケンシーバ殿ですか」

 

「種族間連合の者たちも。城壁がちゃんと役に立っていればいいが」

 

「そうですね……エルフの子供たちはもう大きくなっているんでしょうか。あの子たちが死ぬほど泣いて見送ってくれましたよ、覚えてますか」

 

「覚えている」

 

「まさかこっちに泣かされる番が来るとは思わなかったですね」

 

南が苦笑した。笠井も、ほんのわずか、口の端を動かした。

 

笑い飛ばせるほどではなかったが、それくらいは、できた。

 

扉の外で廊下を歩く足音が遠ざかっていった。次の聞き取りが始まるまで、もう少し時間がある。

 

笠井は長く息を吐き、椅子に深く腰を落ち着けた。

 

「これからのことは、これからだ」

 

「……そうですね」

 

「今の我々にできることをやる。それだけだ」

 

答えは出なかった。出るはずもなかった。だがその言葉は、言った笠井自身の中に静かに沈んでいった。

 

外では、誰も知らない七十年分の東京が、灰色の空の下でざわめいていた。

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