無能な荷物持ちだった12歳のあの日、泥を すすりながら謝るしかなかった自分を救っ てくれた「本物の大人たち」の温もりを胸 に、おじさんは生身の人間として歩き出す。
「お袋、元気にしてるかと思ってな」
「元気なわけないだろう、この親不孝者 が。……………でも、よかった。生きてたんだね え…………」
実家の古びた木扉を開けた老母は、皺だらけの 手で、ガルドの大きくて傷だらけの手を、震え ながら包み込んだ。かつて反発して家を飛び出 した場所。だが、いま老母に手を握られた瞬 間、ガルドの胸に宿ったのは、言葉にできない ほど圧倒的な温かさだった。
「そうかい。体にだけは気をつけなさいよ」 「あぁ、分かってる」
お袋に背を向け、ガルドが次に向かったのは、 森の奥にある、ひっそりとした小さな墓地だっ た。そこには、並んで建てられた二つの古びた 墓石がある。一つは獣人の先輩、もう一つはエ ルフのお姉さんの墓だ。
「先輩。姐さん………………ご無沙汰しております。」
ガルドは墓石の前にしゃがみ込み、安煙草を二 つの墓の前に一本ずつ供えた。白煙が夜の冷気 に溶けていくを見つめながら、12歳の頃の記 憶が鮮烈に蘇る。
当時、ギルドに入ったばかりのガルドは、今の ライトとそっくりな、あどけないだけのヒュー マンの少年だった。
ただ、歩いていて肩がぶつかった。そんなくだ らない理由だけで、他の種族の冒険者たちに囲 まれ、殺されそうになった。
『おい、調子に乗るなよ汚いヒューマンが』 『無能の荷物持ちの分際で、俺たちの前を歩い てんじゃねえよ』
竜人種の強靭な足が、少年の腹を容赦なく踏み 抜いた。獣人種の鋭利な爪が、少年の皮膚を無 慈悲に切り裂いた。
「なんで俺がこんな目に……………」という理不尽へ の怒りは、確かにあった。だがそれ以上に、 12歳の少年が思い知らされたのは、世界の絶 対的な格差だった。人種—————ヒューマンはこの世界にお いてただの侮蔑の対象であり、自分はなんの力 もない役立たずの荷物持ちでしかないという、 冷酷な現実。
怒る権利さえ自分にはない。そう悟った少年 は、ただただ申し訳なさの波に呑まれ、ひたす ら血と涙を流しながら、地面を這いずり回るし かなかった。
『すみません………………っ、すみません……………!』
何度も、何度も、踏みつけられながら謝るしか なかった。世界すべてが敵で、誰も助けてくれ ない。そう諦めて目を閉じた、あの最悪のドブ 底のような瞬間—————
『おいお前ら、ウチの可愛い荷物持ちに何して くれてんだ?』
頭上から響いた、ずっと年上の、圧倒的に頼れ る大人の獣人――ボルド先輩の怒鳴り声。さら に、その背後から現れた、同じくずっと年上の エルフのお姉さん――セシアの姐さん。
二人は世界を敵に回すような気迫で他の種族を 睨みつけ、無能で無力だった12歳のガルドをそ の腕に救い出してくれたのだ。
『よしよし、怖かったね。もう大丈夫だよ、ガ ルド』
そう言って、血まみれの自分を人間として強 く、優しく抱きしめてくれた、お姉さんの手の 温もりは、いまだにガルドの脳裏に焼き付いている。
だが、救われたからといって、無能のまま甘え るわけにはいかなかった。
その日の晩。ガルドは傷口から血を滲ませ、破 れた豆から肉を覗かせながら、暗闇の中でただ 一途に木剣を振り続けていた。「ここで諦めた ら、俺は一生弱いままだ」と言い聞かるように声に出し、涙を拭いなが ら。
そのときだった。
『やめろ、ガルド! もういい、もう剣を振る んじゃねえ!』
静まり返った森の闇を引き裂くようにして、ボ ルド先輩が茂みから飛び出してきた。その顔 は、痛々しいものを見る恐怖と心配に歪んでい た。
『ガルド、お願いだからもうやめて・・・・・・!』
セシアの姐さんもその後ろから駆け寄り、服が 汚れるのも気にせず、ボロボロのガルドの身体 を背後からきつく抱きしめて、その動きを止め た。
『離してください……………っ! 早く、早くお二人 に追いつかないと・・・・・・ヒューマンの僕には・・・・・・ 役割がないから…………っ!』
涙で顔をくしゃくしゃにして叫ぶガルド。自分 を救ってくれた、遥か先を行く大好きな二人の 大人の足手まといになりたくない。その切実な 恐怖。
ボルド先輩は大粒の涙を流しながら、ガルドの 手から木剣を力任せに奪い取り、草むらへ投げ 捨てた。放置すれば壊れてしまう少年を扱うよ うに、大きな手でガシガシと頭を撫で回した。
『役割だのなんだの、そんなのが、最初からなきゃウチ にいちゃいけねえのかよ! お前はお前だろう が! 無能でも、荷物持ちでも、俺たちの大事 な仲間だ!!』
涙を流しながらセシアの姐さんは、憐れむ様にこう言った。
『もう自分を責めないで、ガルド・・・・・・! あんたの 役割はね、生きて、私たちの隣で笑ってくれる こと、それだけなのよ……………』
自分を「無能」と罵ってきた世界の中で、ずっ と年上の頼れる大人であるはずのこの人たち が、自分のためにこんなに泣いて、怒って、抱 きしめてくれている。
少年はただ不甲斐なくて、申し訳なくて、愛お しくて、涙と鼻水で顔をドロドロにしながら
「………………っ、すみません…………っ、僕がヒューマン だから、無能だから、お二人にまでこんな格好 悪い姿を…………っ。すみません、すみませ ん……………!!」と、ただただ謝るしかなかった。
そして時は現在。ガルドは胸元からボロボロのエル フの髪飾りと、獣人の牙の首飾りを取り 出し、墓石にそっと重ねた。
「お二人たちが俺を救ってくれたあの『本物の 絆』を、あいつはおままごとで汚してい る。………行ってきます。お二人たちが俺を抱き しめて救ってくれたように、今度は俺が、あい つの『すみません』を受け止めに行ってきま す」
ガルドは立ち上がり、二人の墓に深く、丁寧に お辞儀をした。
加護の形見をすべて墓に還し、おじさんはただ の生身の人間として歩き出した。