ミッション:災厄「ルズローシヴ=レレイ」を消滅させよ 作:Moa
翌朝、巡礼小屋を出ると、東の空は薄く明るんでいた。
丘の上には、浄火の聖堂が見える。
尖塔の先に灯る火は、朝の光の中でも消えずに揺れていた。
リシェラはいつも通りに歩いている。
少なくとも、そう見せようとしていた。
「昨日の話、気にしなくていいから」
道の途中で、リシェラがそう言った。
エオルミアは首を傾げる。
「どの話ですか」
「分かってて聞いてる?」
「複数の重要な話題がありました。特定が必要です」
リシェラは一瞬黙り、顔を少し赤くした。
「……あたしが女の子好きって話」
「気にする必要がない、とはどういう意味ですか」
「だから、その……変に意識しなくていいってこと」
「意識はしています」
リシェラが足を止めた。
「してるの!?」
「はい。貴女について新しい情報を得ましたので、以後の認識に反映しています」
「そういう意識じゃない」
「では、どういう意識ですか」
「聞かないで」
「分かりました」
エオルミアが頷くと、リシェラは両手で顔を覆った。
少し前を歩いていたヴェルノが、肩を震わせている。
イリシアは何も言わず、ただ少し楽しそうに微笑んでいた。
セノアは後ろを振り返ろうとして、オルセイに袖を引かれる。
「見るな」
「でも気になる」
「気にするな」
「気になるものは気になる」
「それを口に出すな」
「難しいなあ」
リシェラは大きく息を吐いた。
「とにかく、昨日の質問は保留だから」
「はい。情報が不足しています」
「だからそういう問題じゃないんだって」
「ですが、保留であるなら、追加情報の取得が必要です」
「今はいらない!」
リシェラの声が朝の道に響く。
エオルミアは少し考え、頷いた。
「では、現在の優先事項は火の宝玉です」
「そう。それでいいの」
リシェラはそう言って、早足で先へ進む。
その耳が赤いことに、エオルミアは気づいていた。
指摘するべきか考えたが、イリシアが小さく首を振ったので、黙っておくことにした。
浄火の聖堂へ続く正面の石段には、人の出入りがあった。
祈りに来る者。
火種を分けてもらう者。
浄めの儀を受けに来た者。
その中には、役人らしき制服姿も混じっている。
リシェラの歩幅が少しだけ乱れた。
「正面からは無理だね」
ヴェルノが小声で言う。
「また裏道?」
リシェラが睨む。
「またって言われると傷つくなあ。今回は搬入口だよ」
「祈りの場所に搬入口があるの?」
「祈りにも水と薪と食料は必要だからね」
「詳しいね」
「顔が広いから」
「その説明、そろそろ信用しなくていい?」
「今まで信用してた?」
「してない」
「なら問題ない」
ヴェルノはいつもの調子で聖堂の側面へ回った。
正面の石段とは別に、荷を運び入れるための細い道がある。結界灯は少なく、人の気配も薄い。
石壁の影を進む途中、リシェラが聖堂を見上げた。
「こういう場所、苦手かも」
「体制側の施設だからですか」
エオルミアが尋ねると、リシェラは苦笑した。
「言い方」
「違いますか」
「違わないけどさ」
リシェラは少しだけ歩く速度を落とす。
「正しい場所って、怖いんだよね」
「正しい場所」
「うん。祈りの場所とか、役所とか、裁判所とか。みんな悪い人じゃなくて、ちゃんと正しいことを言う場所」
昨夜の言葉が、エオルミアの中に蘇る。
女性を好きになること自体は禁じられていません。
あなたの嗜好を否定する意図はありません。
でも、同性伴侶の存在は出生義務免除の事由には該当しません。
正しい言葉。
整った言葉。
逃げ場を塞ぐ言葉。
「ここにいる天族も、正しい人なのでしょうか」
エオルミアが問うと、ヴェルノが振り返った。
「少なくとも、悪い人じゃないと思うよ」
「それは信用できる情報ですか」
「俺が言うと信用できない?」
「はい」
「正直でよろしい」
ヴェルノは苦笑して、古い扉の前で足を止めた。
扉には火の紋様が刻まれていた。
だが鍵はかかっていない。
ヴェルノが軽く押すと、扉は音もなく開いた。
中へ入ると、空気が変わった。
そこは静かな礼拝堂だった。
高い天井。
赤い紋様の入った白い壁。
中央の祭壇には、小さな火が灯っている。
その火は、何かを焼く炎ではなかった。
ただ、そこに在る。
近づくほどに、背筋が自然と伸びるような火だった。
昨夜、巡礼小屋で人を温めていた小さな火とは違う。けれど、まったく別のものでもない。
火は火だ。
焼くことも、照らすことも、温めることもできる。
祭壇の前に、一人の女性が立っていた。
火を纏う天族の女性。
その髪は灯火を映したように揺れ、白と赤の衣が印象的だった。穏やかな表情をしていたが、その奥には、どんな嘘も曇りも見逃さないような強さがあった。
「お待ちしていました。私はライラ。この聖堂を守っております」
ライラは静かに言った。
ヴェルノが目を丸くする。
「待ってた?」
「聖堂の火が、少し騒いでおりましたので」
「便利だねえ、火って」
「便利なだけではありません」
ライラは微笑んだ。
「火は、扱いを誤ればすべてを焼きます」
その言葉に、礼拝堂の空気が少しだけ張りつめた。
リシェラが無意識に一歩下がる。
ライラはそれに気づいたようだった。けれど、踏み込んではこない。
「ここに来た方を、まず罪名で呼ぶことはいたしません」
リシェラの肩がわずかに揺れた。
「……知ってるんですか」
「貴女が追われていることは」
ライラは否定しなかった。
「ですが、貴女をどう呼ぶかは、私が今ここで決めることではありません」
水の遺跡で見た水鏡の文字が、エオルミアの脳裏をよぎった。
出生義務違反者。
逃亡者。
未来の命を拒んだ者。
それらは、リシェラを呼ぶ言葉だった。
だが、リシェラのすべてではなかった。
リシェラは祭壇の火を見つめる。
「火は、罪を焼くものなんですか」
ライラは少しだけ目を伏せた。
「罪を焼けば人が救われるなら、世界はもっと簡単だったでしょうね」
リシェラは何も言わなかった。
その代わり、イリシアが一歩前に出る。
「正しい目的のためなら、誰かを傷つけてもいいのか。最近、それが分からなくなることがあります」
ライラはイリシアを見た。
「正しい目的は、人を傷つけた時に、より正しくなるわけではありません」
その声は穏やかだった。
けれど、火のようにまっすぐだった。
「けれど、傷つけないために何もしなければ、失われるものもある」
イリシアは静かに言う。
「ええ」
ライラは頷いた。
「だからこそ、力は必要なのでしょう。問題は、力を何に向けるかです」
エオルミアは宝玉を取り出した。
「この宝玉に、火の力を込めてください」
ライラの視線が宝玉へ落ちる。
「何のために?」
これまでなら、エオルミアは同じ答えを返していた。
『災厄ルズローシヴ=レレイを消滅させ、天界を守るためです』
だが、その名は喉元で止まった。
ルファーナは、いい名前だと言った。
ルネアは、真名に近いと言った。
そして、真名に近いからこそ災厄なのだとも言った。
ならば、その名は軽々しく呼ぶべきではないのかもしれない。
エオルミアは、言葉を選んだ。
「天界に広がる濁りの根源を消滅させるためです」
リシェラが、ほんの少しだけエオルミアを見た。
ライラは静かに問い返す。
「濁りの根源」
「はい。地、風、水の宝玉には、すでに力をいただきました」
ライラは宝玉を受け取り、両手で包み込んだ。
「そこに火を加えれば、術式は対象の奥へ届くでしょう」
「対象の奥へ届く力は、対象を救うことも、壊すこともできます」
礼拝堂の火が、小さく揺れた。
セノアが祭壇の火を見つめている。
「この火、熱いのに嫌じゃない」
オルセイが隣で眉を寄せた。
「浄化の火だからだろう」
「そういう理屈じゃなくて」
セノアは少し困ったように笑った。
「懐かしい、みたいな」
「火が懐かしい?」
「変かな」
「お前が変なのは今さらだ」
「ひどいな」
二人のやり取りに、リシェラが少しだけ笑う。
けれどエオルミアは、祭壇の火から目を離せなかった。
ライラは宝玉を見つめたまま言った。
「浄化とは、ただ消すことではありません」
「違うのですか」
「穢れを祓い、本来あるべき形へ戻すことです。火は焼き尽くすものにも、灯すものにもなります」
「使う者次第、ということですか」
「使う者の願い次第、かもしれません」
ライラは宝玉に手をかざした。
火が動く。
祭壇の火は大きく燃え上がらなかった。
ただ、光だけがゆっくりと宝玉へ流れ込んでいく。
それは破壊の炎ではなかった。
四つの光が、ついに集まった。
エオルミアは息を呑む。
これで揃った。
天界を救うための力が。
濁りの根源へ届く力が。
ライラは宝玉から手を離した。
「終わりました」
エオルミアは両手で宝玉を受け取る。
宝玉は熱くなかった。
けれど、その内側には確かに火があった。
「ありがとうございます」
エオルミアが礼を言うと、ライラは少しだけ表情を和らげた。
「これは、消すためだけの力ではありません」
「はい」
「どうか、使い方を誤らないように」
その言葉は、静かに礼拝堂へ落ちた。
誰も、すぐには返事をしなかった。
エオルミアは宝玉を見つめる。
使い方を誤らないように。
エオルミアは頷いた。
「承知しました。天界を守るため、適切に使用します」
ライラは微笑んだ。
けれど、その微笑みには、ほんのわずかな憂いがあった。
「貴女がたの願いが、誰かを焼く炎ではなく、誰かを照らす灯でありますように」
「ところで、エオルミアさんは無属性なのですね」
「無属性?」
「あの方と同じ、珍しい属性の天族ですわ」
「きっと才能に満ち溢れているのですね」
褒められて、エオルミアは少し嬉しくなった。
リシェラが小さく息を吸う。
「これで、全部揃ったんだね」
「はい」
エオルミアは宝玉を胸元に抱えた。
「地、風、水、火。四属性の力が揃いました」
「……怖くない?」
リシェラの問いは、思ったよりも静かだった。
エオルミアは少し考える。
怖い。
そう言えるほど、エオルミアは自分の感情を理解していない。
だが、胸の奥には確かに何かがある。
昨夜、リシェラが自分の「嫌だ」を差し出した時に灯った小さな火。
ルネアが言った、真名に近い名前だからこそ災厄なのだという言葉。
そして、今聞いた、火は使う者の願い次第で灯にも炎にもなるという言葉。
それらが、宝玉の内側で重なっているように思えた。
それでも、天界は今も濁りに侵されている。
エオルミアには、果たすべき使命がある。
「天界を救うために必要なことです」
「そっか」
リシェラはそれ以上、問い詰めなかった。
エオルミアは、リシェラを見た。
「ですが」
「ですが?」
「貴女がそばにいるので、以前よりは怖くありません」
リシェラは目を丸くした。
「そういうこと、急に言う?」
「急でしたか」
「急だよ」
リシェラは顔を背ける。
火の光のせいか、頬が少し赤く見えた。
セノアが小声でオルセイに言う。
「今の、どういう意味?」
「聞くな」
「なんで」
「聞いたら面倒なことになる」
ヴェルノがにやにやしている。
イリシアは何も言わず、ただ優しく二人を見ていた。
エオルミアはもう一度、宝玉を見る。
火は静かに灯っている。
それは道を照らす灯にも見えた。
すべてを焼く炎にも見えた。
その違いを決めるのは、使う者の願い。
エオルミアは、自分の願いをまだ正確には知らなかった。