ミッション:災厄「ルズローシヴ=レレイ」を消滅させよ 作:Moa
浄火の聖堂は、前に訪れた時と同じように静かだった。
丘の上に立つ白い壁。
赤い紋様の刻まれた扉。
祈りに来る者たちの足音は遠く、礼拝堂の奥には小さな火が灯っている。
けれど、エオルミアには同じ場所には見えなかった。
前にここへ来た時、自分は火の力を求めた。
天界に広がる濁りの根源を消滅させるため。
そう説明した。
それは嘘ではなかった。
だが、すべてでもなかった。
ルズローシヴ=レレイ。
その名を、エオルミアは告げなかった。
「戻られると思っておりました」
祭壇の前に立つ女性が、静かに言った。
火を纏う天族。
ライラ。
その声は穏やかだった。
けれど、前に会った時よりも、礼拝堂の空気は少しだけ張りつめているように思えた。
「分かっていたんですか」
リシェラが尋ねる。
ライラは小さく首を振った。
「いいえ。ただ、火が少し騒いでおりましたので」
「火が」
セノアが祭壇の火を見る。
その隣でオルセイが眉を寄せた。
「変な言い方だな」
「お前がそれを言うの」
「俺は普通だ」
「普通かなあ」
二人の小声を、ヴェルノが聞いて肩をすくめる。
イリシアは何も言わず、ライラを見ていた。
エオルミアは一歩前に出た。
「ライラさん」
「はい」
「私は、貴女に訂正しなければならないことがあります」
ライラの表情は変わらなかった。
ただ、祭壇の火がわずかに揺れた。
「訂正、ですか」
「はい。私は先日、火の力をお借りする際、天界に広がる濁りの根源を消滅させるためだと説明しました」
「ええ」
「その説明は誤りではありません。ですが、判断材料として不足していました」
エオルミアは宝玉を取り出した。
地、風、水、火。
四つの宝玉は、礼拝堂の火を受けて静かに光る。
「対象の名を、省略しました」
リシェラがわずかに息を止める。
イリシアの指が杖に触れた。
ヴェルノは軽口を挟まなかった。
ライラは、ゆっくりとエオルミアを見た。
「名を伏せたことには、理由があったのでしょう」
「はい。ですが、理由があることと、正しいことは同義ではありません」
ライラの目が、ほんの少しだけ細められる。
責める目ではなかった。
それでも、逃がさない目だった。
「では、お聞かせください」
エオルミアは頷いた。
「天界の記録において、消滅対象とされていた名は」
そこで一度、言葉が止まった。
真名みたい。
ルネアの声がよみがえる。
いい名前だね。
ルファーナの声が重なる。
親愛なるルズローシヴ=レレイへ。
焼け落ちた手紙の文字が胸の奥に浮かぶ。
そして夢の中の男が言った。
オレの命より大切なものだったんだ。
エオルミアは息を吸った。
「ルズローシヴ=レレイです」
礼拝堂から音が消えた。
火が燃え上がったわけではない。
むしろ、祭壇の火は揺れなくなった。
炎の形をしたまま、息を止めたように静まり返っている。
ライラはしばらく何も言わなかった。
リシェラがエオルミアの隣で身じろぎする。
けれど、誰も口を開けなかった。
「……今」
やがて、ライラが言った。
「何とおっしゃいました?」
「ルズローシヴ=レレイです」
エオルミアは繰り返した。
「天界では、災厄として記録されています」
「その名を」
ライラの声は静かだった。
「消滅対象として扱っていたのですか」
「はい」
答えた瞬間、エオルミアは胸の奥が沈むのを感じた。
ライラは目を伏せた。
長い沈黙だった。
祭壇の火は、まだ揺れない。
「私は」
ライラが言った。
「何に火を貸したのでしょうか」
その声に、リシェラが顔を上げた。
「ライラさんのせいじゃないよ」
ライラはリシェラを見る。
「あたしたちが言わなかった。エオルミアだけじゃない。あたしも気づかなかった」
「いいえ」
ライラは静かに首を振った。
「聞かなかったのは、私です」
「聞ける名前だって、知らなかったんだから」
リシェラの声は少しだけ強かった。
ライラはその言葉を受け止めるように、目を閉じた。
「……そうですね。知らなかったのでしょう。ですが」
祭壇の火が、ほんの小さく揺れた。
「知らなかったことは、焼いた後の言い訳にはなりません」
リシェラは何も言えなかった。
その横顔を、エオルミアは見た。
正しい場所が怖い。
リシェラはそう言っていた。
正しい人が、正しい言葉で、逃げ場を塞ぐことがあると。
けれど今、ライラは誰も塞いでいない。
ただ、自分が貸した火の行き先を見つめている。
「少なくとも」
ライラは目を開けた。
「その名は、災厄につける名ではありません」
誰も動かなかった。
「では」
エオルミアは問い返す。
「ルズローシヴ=レレイは、災厄ではないのですか」
「それを私の口から断じるべきではないでしょう」
「知っているのですか」
「知らない、と申し上げれば嘘になります」
リシェラの肩がわずかに動く。
「けれど、私が語るには重すぎる名です」
ライラは宝玉を見た。
その内側には、確かに火がある。
消すためだけではない火が。
「ルズローシヴ=レレイについては、ご本人達から聞くとよろしいかと」
リシェラが瞬きをした。
「本人たち?」
「はい」
「待って。本人たちって、複数なの?」
ライラは答えない。
ただ、穏やかな目でリシェラを見ている。
リシェラはエオルミアを見た。
「侵入者って、一人だったんだよね?」
「一人だったという記録が多いですね」
エオルミアは答えた。
「ただ、二人だったという記録もあります」
「どっち?」
「不明です。記録が一致していません」
「一致してないって、そんな大事なところが?」
「はい」
エオルミアは自分で答えながら、その言葉の重さに気づく。
一人だったという記録。
二人だったという記録。
地上から来た男。
天界に濁りが溢れた時に発された名。
水属性の高密度共鳴反応。
それらは、ずっと天界の記録の中にあった。
けれど、エオルミアは疑わなかった。
災厄。
消滅対象。
任務。
そう呼ばれていたから。
「それも含めて」
ライラが言った。
「ぜひ、ご本人に」
リシェラは眉を寄せた。
「ライラさんは、その人たちがどこにいるか知ってるの?」
「正確な居場所までは」
「じゃあ、まだ天界にいるのかな。ルズローシヴ=レレイ」
その名を、リシェラは慎重に呼んだ。
災厄とは言わなかった。
ライラは少しだけ表情を和らげる。
「天界に留まり続ける方ではないでしょう」
「方、ねえ」
ヴェルノが小さく呟く。
ライラは否定しなかった。
「では、どこに」
エオルミアが尋ねる。
「旅を続けているのなら、道は残ります」
「旅」
セノアが祭壇の火を見た。
その顔に、どこか不思議そうな色が浮かんでいる。
「探せるってこと?」
リシェラが言う。
「はい」
ライラは頷いた。
「消すためではなく、聞くためであるなら」
エオルミアは宝玉を見た。
四つの光は、静かに重なっている。
天界を守るための力。
濁りの根源へ届くための力。
そして今は、見失った名を照らすかもしれない力。
「探してみましょう」
エオルミアは言った。
リシェラがこちらを見る。
「うん。消すためじゃなくて、聞くために」
「はい。聞くために」
その言葉は、エオルミア自身の胸にも落ちた。
ルズローシヴ=レレイ。
消滅対象として記録された名。
親愛を向けられた名。
命より大切なものと呼ばれた名。
それを、消すためではなく。
聞くために。
「エオルミアさん」
ライラが呼んだ。
「はい」
「どうか、火を灯としてお使いください」
祭壇の火が、今度は静かに揺れた。
責める火ではなかった。
焼く火でもなかった。
「誰かを焼くためではなく、見失った名を照らすために」
エオルミアは宝玉を胸元に抱いた。
「適切に使用します」
リシェラが横から小さく息を吐く。
「そこは、もう少し別の言い方ない?」
「別の言い方」
「今の流れで適切に使用しますは、ちょっと硬い」
エオルミアは考えた。
火を使う。
力を使う。
術式を使う。
それは間違ってはいない。
けれど、今言うべきことは違うのだと、リシェラの顔を見て分かった。
「……見失わないようにします」
リシェラが少しだけ笑った。
「うん」
ライラも微笑んだ。
「はい。それで十分です」
浄火の聖堂を出る時、宝玉の中の火は静かだった。
焼くための火ではなかった。
まだ見えない道を照らす、小さな灯だった。
ルズローシヴ=レレイ。
災厄として記録された名。
命より大切なものと呼ばれた名。
そして今、本人に聞くべき名。
エオルミアは、その名を消すためではなく、探すために天界へ戻ることを決めた。