ミッション:災厄「ルズローシヴ=レレイ」を消滅させよ 作:Moa
天界記録院
天界記録院は、白い塔の内側にあった。
外から見れば、それはただの塔だった。
雲に半ば沈み、天界の空へまっすぐ伸びる、音のない建物。
扉には古い紋様が刻まれている。
地上の文字ではない。
けれど、リシェラはその紋様を見た時、なぜか少しだけ寒くなった。
「ここが、天界の図書館?」
リシェラが尋ねると、エオルミアは首を傾けた。
「地上でいう図書館に近い施設です。正式名称は天界記録院。天界内で観測された事象、境界層の異常、地上との干渉記録などを保管しています」
「つまり、図書館でいいんじゃない?」
「一部機能は一致します」
「じゃあ図書館でいいじゃん」
「ですが、図書館という語では保管対象の範囲を正確に表現できません」
「はいはい」
リシェラは苦笑した。
そのやりとりに、少しだけ肩の力が抜ける。
けれど、扉が開くと、その軽さはすぐに消えた。
中には本棚がなかった。
代わりに、白い光の板がいくつも浮かんでいる。
石板のようなものもあれば、薄い水晶の膜のようなものもある。
それらは円環状に並び、中央の空間を囲んでいた。
足音が響かない。
匂いもない。
紙の擦れる音もない。
記録がある場所なのに、誰かが読んでいる気配がしなかった。
「……静かだね」
セノアが小さく言った。
「記録院は、必要な時にだけ開かれる場所です」
エオルミアが答える。
「普段から人が出入りする場所ではありません」
「それ、余計怖くない?」
リシェラが言うと、ヴェルノが肩をすくめた。
「まあ、普段から誰も読まない記録ほど、都合よく使われることもあるからねえ」
「ヴェルノ」
イリシアが短く呼ぶ。
ヴェルノは笑わなかった。
「冗談のつもりだったんだけどね」
「冗談に聞こえません」
エオルミアはそう言って、中央へ進んだ。
ここにある記録は、天界の判断材料だった。
任務の根拠だった。
エオルミアが疑わなかったものだった。
そして今は、疑うために開くものだった。
「検索条件を設定します」
エオルミアが手をかざす。
白い板がひとつ、静かに降りてきた。
「識別名。ルズローシヴ=レレイ」
その名を口にした瞬間、リシェラは無意識に周囲を見た。
何も起こらない。
火もない。
水面もない。
ただ、白い記録の光だけが揺れた。
いくつもの板が反応する。
古い順に並ぶ光。
破損した断片。
閲覧制限の印。
推定記録。
補助観測記録。
「こんなにあるの?」
リシェラが呟く。
「はい。天界境界層に関する重大記録として分類されています」
「重大なのに、一人か二人か分かってないんだよね」
セノアが言った。
オルセイが横目で見る。
「先に読め」
「だって気になるだろ」
「気になるが、先に読め」
エオルミアは一番上の記録を開いた。
白い文字が空中に浮かぶ。
境界層観測記録。
地上由来の個体、天界境界層に到達。
当該個体、高密度共鳴反応を帯びる。
発話記録あり。
――ルズローシヴ=レレイ。
発話後、天界内に濁り反応が拡散。
当該語句を濁り発生術式、または地上由来の災厄名と推定。
以後、識別名を災厄ルズローシヴ=レレイとする。
リシェラは文字を見つめた。
「……発話後」
小さく言う。
エオルミアが振り返った。
「はい」
「発話後、って書いてある」
「はい」
「発話により、とは書いてない」
エオルミアはすぐに答えなかった。
記録の文字は変わらない。
発話後。
濁り反応が拡散。
推定。
それだけだった。
「……時系列の記録と、因果関係の証明は同義ではありません」
エオルミアが言った。
その声は、いつもより低かった。
「でも、天界はこれを原因だと判断したんだよね」
リシェラが言う。
「はい。そのように扱われてきました」
「扱われてきたことと、証明されたことは違うんじゃない?」
エオルミアは黙った。
同じ言葉だった。
形は違う。
けれど、意味は同じだった。
発動可能であることと、発動すべきであることは同義ではない。
理由があることと、正しいことは同義ではない。
そして今。
発話後に起きたことと、発話によって起きたことは同義ではない。
「この記録では」
エオルミアは文字をなぞった。
「ルズローシヴ=レレイという語句が、濁り発生の原因であることは証明されていません」
「推定、って書いてあるもんね」
リシェラが言う。
「はい」
エオルミアは、最後の一文を見た。
以後、識別名を災厄ルズローシヴ=レレイとする。
「推定が、識別名になっています」
イリシアが静かに言った。
「そして識別名が、いつの間にか任務になった」
ヴェルノが続ける。
「災厄ルズローシヴ=レレイを消滅させよ、か。ずいぶん短くなったもんだ」
誰も笑わなかった。
エオルミアは次の記録を開いた。
発話者数に関する補助記録。
主観測記録では発話者一名。
ただし、複数の補助観測において二名の共鳴個体を確認。
境界層の揺らぎにより観測精度が低下。
発話者数については記録間に差異あり。
確定不能。
「確定不能」
セノアが読み上げた。
「一人か二人か、確定できなかったってこと?」
「そうなります」
エオルミアが答える。
「そんな大事なところが?」
リシェラの声には、責める響きよりも困惑があった。
「侵入者の人数だよね。天界に濁りが広がった時の記録だよね。そこ、そんなに曖昧になるものなの?」
「観測条件によっては、あり得ます」
エオルミアは言った。
けれど、自分でもその答えが十分ではないことを感じていた。
あり得る。
だが、それで終えてよいのか。
今までは、終えていた。
「見失った可能性がある」
オルセイが言った。
「境界層が不安定なら、見えていたものが変わることもある」
「もしくは」
ヴェルノが記録を見上げる。
「見たものを、そのまま書いたら説明がつかなかったか」
「ヴェルノ」
「分かってるよ。まだ断定はしない」
ヴェルノは両手を上げた。
「でも、確定不能って書いてあるものを確定みたいに扱ったのは、事実だろ」
エオルミアは次の断片を開いた。
その記録は、他のものより古く、光がところどころ欠けていた。
文字も途切れている。
けれど、読める部分はあった。
補助観測記録。
発話記録確認。
発話語句、ルズローシヴ=レレイ。
発話直後、二名の男性発話者に高密度水属性共鳴を確認。
既知の水術式と一致せず。
浄化反応および濁り反応を同時検出。
分類不能。
リシェラが息を止めた。
エオルミアは続きを表示する。
二名の輪郭、重複。
境界層観測上、二名の反応が単一反応へ収束。
融合、または単一個体化と推定。
以後、観測対象一名として記録。
誰も声を出さなかった。
白い記録だけが、静かに浮かんでいる。
「融合」
セノアがようやく言った。
「融合って、二人が一人になったってこと?」
「または、単一個体化と推定」
エオルミアが読み上げる。
「同じ意味ではないの?」
「観測上は近い状態を指します。ただし、実際に何が起きたのかはこの記録だけでは確定できません」
リシェラは記録を見つめていた。
「待って」
小さく言う。
「じゃあ、一人だった記録と、二人だった記録……どっちも間違いじゃないってこと?」
エオルミアは、ゆっくりと頷いた。
「発話前、または発話時には二名。発話後、観測対象は一名。そう記録されたのであれば、矛盾は解消されます」
「だから」
リシェラの声が少しだけ震えた。
「だから、本人達」
ライラの声が思い出される。
ルズローシヴ=レレイについては、ご本人達から聞くとよろしいかと。
本人。
達。
一人だったという記録。
二人だったという記録。
発話後、二人の発話者が融合したという断片。
それらは、別々の間違いではなかった。
同じ出来事を、別の位置から見た記録だったのかもしれない。
「この記録は、ルズローシヴ=レレイ発話時に濁り反応のみが発生したとは記していません」
エオルミアは文字を見つめる。
浄化反応および濁り反応を同時検出。
分類不能。
「浄化反応も、同時に検出されています」
「じゃあ、濁りを出しただけじゃないってこと?」
セノアが聞く。
「その可能性があります」
「でも天界は、濁り発生術式って推定した」
「はい」
「浄化反応も出てたのに?」
「はい」
セノアは困った顔をした。
「なんで?」
誰もすぐには答えなかった。
オルセイが低く言う。
「濁りが広がったなら、そちらを危険と見たんだろう」
「それは分かるけど」
セノアは記録を見上げる。
「でも、片方だけ見るのは違う気がする」
「違う」
リシェラが言った。
その声は、静かだった。
「あたしも、そう思う」
エオルミアはリシェラを見た。
リシェラは光の文字から目を離さない。
「天界って、間違えるんだね」
その言葉は、責めるものではなかった。
ただ、事実を見つけた声だった。
けれど、エオルミアの胸には深く刺さった。
天界が間違える。
考えたことがなかったわけではない。
だが、考えないようにしていたのかもしれない。
天界は地上よりも遠く、静かで、正しい場所だと思っていた。
少なくとも、そう教えられてきた。
けれど、リシェラは言った。
地上も間違えるよ、と。
「あたしのこと、罪人って呼んだ」
リシェラは続ける。
「人が減ってるのは、本当なんだと思う。村が寂しくなってるのも見た。子供がいない場所があるのも、分かる」
その声は震えていなかった。
「でも、だからあたしの身体を使っていいって決めたのは、間違いだった」
エオルミアは何も言えなかった。
「天界も間違えるなら」
リシェラはエオルミアを見た。
「ちゃんと確かめないと」
「はい」
エオルミアは頷いた。
「確かめます」
それは、任務のための返答ではなかった。
天界への忠誠でもなかった。
リシェラの言葉を受け取った上での、エオルミア自身の返答だった。
エオルミアは最後の記録を開いた。
境界層異常に関する総合所見。
発話者の目的、不明。
発話語句の術式構造、未確定。
濁り拡散との因果関係、推定段階。
ただし、天界への影響甚大。
再発防止のため、当該語句および関連反応を災厄指定。
詳細調査は上位機関へ移管。
「未確定」
エオルミアは、その文字を見た。
未確定。
推定段階。
なのに、自分は消滅術式を発動しようとしていた。
災厄として。
消すべきものとして。
それが何であるか、本人に聞く前に。
「未確定であったはずのものが」
エオルミアは言った。
「消滅対象として確定しています」
「上位機関へ移管、ねえ」
ヴェルノが呟いた。
「便利な言葉だ」
「閲覧できますか」
イリシアがエオルミアに尋ねる。
エオルミアは記録院の奥を見た。
白い光のさらに奥。
閉じられた扉がある。
そこには、天界文字で封印の印が刻まれていた。
「私の権限では、一部まで可能です」
「一部」
「はい。全記録の閲覧には、上位承認が必要です」
「つまり、すぐには全部見られないってこと?」
リシェラが言う。
「はい」
「じゃあ、記録じゃなくて、場所を見に行くのは?」
エオルミアはリシェラを見た。
「場所」
「その人たちが天界に来たところ。濁りが出たところ。そこなら、まだ何か残ってるかもしれない」
「境界層観測塔」
オルセイが言った。
エオルミアは頷いた。
「はい。発話記録が残された地点に最も近い観測施設です。現在は封鎖区域に指定されています」
「封鎖」
セノアが小さく繰り返す。
「封鎖されてる場所って、だいたい何かあるよね」
「そういう言い方をするな」
「でもあるだろ」
「否定はしない」
ヴェルノが笑いそうになって、やめた。
「行くしかないねえ」
イリシアが静かに頷く。
「記録ではなく、痕跡を確認しましょう」
エオルミアは、閉じられた記録をもう一度見た。
ルズローシヴ=レレイ。
その名は、濁りを生む術式として記録された。
けれど、記録は断じていなかった。
推定していただけだった。
発話後に濁りが溢れた。
それは事実。
発話によって濁りが生まれた。
それは、まだ証明されていない。
発話者は一人だった。
そう記録された。
発話者は二人だった。
そう記録された。
二人の発話者が融合した。
そう記録した断片もあった。
エオルミアは初めて、天界の記録を疑うために読み返した。
「境界層観測塔へ向かいます」
エオルミアは言った。
「ルズローシヴ=レレイを消すためではありません」
リシェラが隣に立つ。
「聞くため、だよね」
「はい」
エオルミアは頷いた。
「聞くために、痕跡を探します」
天界記録院の光が、静かに背後で閉じていった。