ミッション:災厄「ルズローシヴ=レレイ」を消滅させよ 作:Moa
境界層観測塔・上層
階段を上がるほど、塔の光は薄くなっていった。
下階では壁の内側を巡っていた白い光が、上階では途切れ途切れになっている。
ところどころ、光は濁った水のように揺らぎ、壁の亀裂の奥へ沈んでいた。
エオルミアは、その揺らぎを見ながら歩いた。
記録ではない。
記録院で読んだものとは違う。
ここに残っているのは、出来事の後に整理された文章ではなく、出来事そのものに近い痕跡だった。
「足元、気をつけて」
スレイが言った。
エオルミアは一瞬、足を止めた。
それから、床の亀裂を避ける。
「助言に感謝します」
「うん」
スレイは普通に頷いた。
その普通さが、まだ少し怖かった。
夢の中でエオルミアを殺した男。
けれど今は、危険な床を教える男。
ルズローシヴ=レレイを消した時、話が終わるかもしれない男。
けれど今は、話が通じる男。
同じ人間を、ひとつの言葉に収めることは難しい。
エオルミアは、スレイの背中を見ながらそう思った。
「この先だ」
ミクリオが言った。
上階の扉は、半ば崩れていた。
扉というより、かつて扉だったものが、壁に寄りかかっているように見える。
ミクリオが手をかざすと、扉に残っていた水のような光が反応した。
古い記録片が空中に浮かぶ。
そこには、短い文が刻まれていた。
――天界の門、封鎖誓約。
リシェラが声に出して読んだ。
「封鎖……誓約?」
「天界の門を閉じた時のものだ」
ミクリオが答える。
「完全な記録ではない。けれど、この塔には原文に近い層が残っている」
ヴェルノが薄く笑う。
「記録院じゃなくて、現場の破片ってわけだ」
「破片の方が、削られていないこともある」
ミクリオの声は静かだった。
エオルミアは浮かぶ文字を見つめる。
白い文字列が、少しずつ像を結んでいった。
地上の者たちが穢れを越え、
人間と天族が共に在る道を得た時、
天界の門は再び開かれる。
リシェラは文字を追った。
「人間と天族が、共に在る道を得た時……ってことは、共存できたら門が開くってこと?」
それだけなら、希望の文言に見えた。
穢れを越えたら。
人間と天族が共に在れるなら。
閉ざされた門が再び開く。
けれど、ミクリオの表情は晴れなかった。
「違う」
リシェラが振り返る。
「違う?」
「それは、表層に残された文だ。読みやすい部分だけが残っている」
ミクリオは観測盤へ近づいた。
割れた盤面に指を触れる。
水の光が細く走った。
亀裂の奥に沈んでいた文字が、さらに下から浮かび上がる。
「エオルミア」
ミクリオが呼んだ。
「君なら、読めるかもしれない」
エオルミアは頷き、観測盤の前に立った。
文字は古い。
だが、天界の形式に近い。
任務書式よりも古く、記録院の分類よりも硬い。
エオルミアは、一語ずつ読み解いた。
地上の者たちが穢れを越え、
人間と天族が共存し続けるに足る世界を成した時、
天界の門は再び開かれる。
リシェラが眉を寄せた。
「共存し続ける?」
セノアも同じ言葉を拾う。
「さっきと違う。共に在る、じゃなくて、共存し続けるになってる」
「はい」
エオルミアは文字から目を離さなかった。
「条件が変更されています。あるいは、表層記録において省略されています」
「省略って……」
リシェラの声が低くなる。
「それ、意味変わらない?」
「変わります」
エオルミアは即答した。
「共存することと、共存し続けることは同義ではありません」
塔の光が、かすかに揺れた。
「共存する、であれば、ある時点における成立を確認できます。しかし、共存し続ける、であれば、継続性の証明が必要になります」
「どれくらい続けばいいの?」
セノアが聞く。
エオルミアは沈黙した。
文字列を確認する。
続きの条項を探す。
判定基準。
期間。
観測主体。
解除条件。
どれも、明確には示されていない。
「記載がありません」
「じゃあ、誰が決めるんだ?」
「記載がありません」
「いつ達成したことになるんだ?」
「記載がありません」
セノアが顔をしかめた。
「それ、ずるくない?」
オルセイが低く言う。
「達成できたかどうかを、いつまでも認めなければいい」
イリシアが息を呑む。
ヴェルノは、いつもの軽さを消した声で言った。
「便利な条件だねえ。開けたくなければ、まだ足りないと言えばいい」
エオルミアは観測盤の下層をさらに開いた。
白い文字が、灰色に変わる。
灰色の奥から、黒い文字が浮かび上がる。
誓約代償。
その四文字を見た瞬間、ミクリオの指がわずかに動いた。
スレイも、表情を消す。
エオルミアは読み上げた。
「誓約代償。門の再開条件成立まで、地上側における穢れ反応を増幅。人間個体における業魔化反応。天族個体における竜化反応。境界隔離維持のため、代償循環を継続」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
業魔化。
竜化。
リシェラは、その二つの言葉を飲み込めなかった。
「待って」
セノアが言った。
「待ってよ」
声が震えている。
「共存し続けられる世界になったら、門が開くんだよな?」
「はい」
エオルミアが答える。
「でも、その条件が成立するまで、人間は魔物になって、天族はドラゴンになるんだよな?」
「記録上は、そう読めます」
「それ、順番が逆じゃないの?」
オルセイが短く言った。
「逆だ」
ミクリオが答えた。
その声には、長く押し殺してきた怒りが滲んでいた。
「共に生きられるかどうかを試すと言いながら、共に生きられないようにしている」
リシェラが呟いた。
「それ、試練じゃない」
誰も否定しなかった。
「邪魔してるだけじゃん」
その声は、怒りよりも先に、呆然としていた。
エオルミアは文字を見つめ続けた。
読まなければならない。
読んだものから目を逸らしてはいけない。
「誓約とは、条件と代償が対応している必要があります」
エオルミアは言った。
自分の声が硬いことが分かった。
「しかし、この文言は、条件達成を阻害する代償を、条件成立前から地上側へ課しています」
リシェラがエオルミアを見る。
「エオルミア?」
「さらに、達成判定の基準が記載されていません。継続性を条件としながら、継続期間も、判定者も、確認方法も不明です」
エオルミアは息を吸った。
天界の門。
天界の誓約。
天界の秩序。
それらを守るために、自分は育てられた。
疑わずに任務を受け取った。
災厄を消すのだと信じて、地上へ降りた。
けれど。
「これは、誓約ではありません」
言葉は、思ったより静かに出た。
リシェラが目を見開く。
スレイも、ミクリオも、エオルミアを見た。
「誓約の形式を取っていますが、実質は条件達成を不可能に近づける拘束です」
エオルミアは、観測盤に浮かぶ文字を見た。
「これは、呪いです」
その瞬間、塔の光が大きく揺れた。
まるで、その言葉にだけ反応したようだった。
封じられていたものが、呼ばれた名を認識したように。
「呪い……」
リシェラが繰り返す。
エオルミアは頷いた。
「少なくとも、私はそう分類します」
沈黙の中で、スレイがゆっくり口を開いた。
「天界にとって、人間の穢れは毒だった」
その声は、昔話をするようで、昔話ではなかった。
「天界にいる天族たちは、それを恐れた。地上と繋がれば、いつか天界も穢れるって」
ミクリオが続ける。
「だから、地上ごと切り捨てようとした者たちがいた」
リシェラは息を呑んだ。
「地上ごと……?」
「地上の穢れが天界へ届く前に、門を閉じる。境界を隔離する。地上がどうなろうと、天界だけを守る」
ミクリオの声は冷たかった。
「そう考えた者たちがいた」
セノアが拳を握る。
「そんなの」
声が出なかった。
オルセイがその続きを引き取るように言う。
「守る、とは言わない」
「うん」
スレイは頷いた。
「でも、それに反対した人たちもいた。地上にも、天界にも」
エオルミアはスレイを見た。
「だから、賭けが結ばれた」
ミクリオが言う。
「地上の者たちが穢れを越え、人間と天族が共に生きられるなら、門は再び開く。そういう形の賭けだった」
「形の」
イリシアが小さく言った。
ミクリオは頷いた。
「形だけは」
スレイが観測盤の文字を見た。
「共に生きられるか試すって言いながら、共に生きられないようにしてたんだ」
リシェラは唇を噛んだ。
未来のため。
世界のため。
人が減っているから。
誰かが産まなければならないから。
そう言われてきた。
でも、今ここにあるものは、それよりずっと古く、大きく、同じ構造をしていた。
問題を作った側が、問題を抱えさせられた側へ責任を流す。
そして、耐えられなければ、やはりお前たちは駄目だったと言う。
「未来のためって言えば」
リシェラは言った。
「何をしてもいいわけじゃない」
エオルミアがリシェラを見る。
「地上の未来のために、あたしの身体を使うなって思った」
リシェラの声は震えていた。
けれど、途切れなかった。
「天界の未来のために、地上を壊すなって思う」
リシェラは観測盤を睨む。
「同じじゃん」
エオルミアは、ゆっくり頷いた。
「はい」
その返事は、短かった。
「同じ構造です」
リシェラの目が少しだけ揺れた。
怒っている。
傷ついている。
でも、ひとりではない。
エオルミアは、それを見た。
見なければならないと思った。
スレイが、壊れた観測盤の奥へ進む。
「この誓約の代償が、長い間、地上に流れ続けた」
ミクリオがその隣に立つ。
「業魔化。竜化。穢れの増幅。地上では、それが地上の問題として扱われた」
「実際には」
エオルミアが言う。
「天界の門を閉じるための代償だった」
「そうだ」
ミクリオは答えた。
「少なくとも、その一部は」
ヴェルノが静かに息を吐く。
「地上の問題だと思わせておけば、天界は綺麗なままでいられるってわけか」
「綺麗ではありません」
エオルミアが言った。
その声は、自分でも驚くほど早く出た。
「それは、汚れていないことではありません。見えない場所へ移しただけです」
ヴェルノは少しだけ目を細めた。
「いいねえ。天界の子がそれを言うのは、なかなか効く」
エオルミアは返答しなかった。
観測盤の奥に、さらに別の記録が浮かぶ。
文字は乱れている。
いくつかは欠けている。
しかし、読める。
境界層異常。
地上由来個体、到達。
高密度水属性共鳴。
発話記録、ルズローシヴ=レレイ。
発話後、代償循環の逆流を確認。
天界側境界層へ濁り反応拡散。
誓約代償の露見を防ぐため、当該反応を地上由来災厄として処理。
エオルミアの喉が止まった。
リシェラが気づく。
「エオルミア?」
エオルミアは、もう一度読んだ。
誓約代償の露見を防ぐため。
当該反応を地上由来災厄として処理。
ミクリオは目を閉じた。
スレイは、ゆっくり息を吸った。
「僕の名が災厄だったわけじゃない」
ミクリオが言った。
「災厄と呼ばれると都合がよかったんだ」
スレイが続ける。
「オレたちが持ち込んだことにすれば、天界が地上に何をしていたかを見なくて済む」
リシェラは言葉を失った。
セノアが一歩下がる。
「じゃあ、エオルミアが受けた任務って……」
言いかけて、止まる。
その先を言いたくなかった。
けれど、エオルミアは言った。
「私は」
声が震えた。
「証拠を消すために、地上へ派遣されたのですか」
誰も、すぐには答えなかった。
それが答えのようだった。
リシェラが、エオルミアの手を掴んだ。
強く。
痛いほどではなく。
逃がさないほどに。
「エオルミア」
「私は、災厄を消す任務だと認識していました」
「うん」
「天界を守る任務だと認識していました」
「うん」
「しかし、実際には」
エオルミアは観測盤の文字を見た。
ルズローシヴ=レレイ。
災厄と呼ばれた名。
ミクリオの名。
スレイの命より大切なもの。
天界が押し付けた代償を、見えるようにしてしまった名。
「天界の誓約が呪いであることを隠すために、ルズローシヴ=レレイを消す必要があった」
リシェラの指に力が入る。
「エオルミアのせいじゃない」
その言葉に、エオルミアはすぐには頷けなかった。
「私が作った誓約ではありません」
「うん」
「私が地上へ代償を流したわけではありません」
「うん」
「ですが、私はその続きを実行しようとしました」
リシェラは何も言えなかった。
スレイが静かに言う。
「君が作ったものじゃない」
エオルミアはスレイを見る。
「でも、ここから先を見なかったことにはできない」
その声は優しかった。
優しいからこそ、逃がしてくれなかった。
ミクリオも言った。
「知らなかったことは、これからも知らないままでいてよい理由にはならない」
エオルミアは目を伏せた。
ライラの言葉を思い出す。
知らなかったことは、焼いた後の言い訳にはなりません。
あれは、火を貸したライラ自身へ向けられた言葉だった。
けれど今は、エオルミア自身にも向いていた。
「はい」
エオルミアは答えた。
「見なかったことにはしません」
塔の中に、低い音が響いた。
観測盤のさらに奥で、古い封印が反応している。
ミクリオが眉を寄せる。
「誓約中枢に近い記録が開きかけている」
「危険ですか」
「危険ではある」
ミクリオは言った。
「だが、必要だ」
エオルミアは頷いた。
その前に、言わなければならないことがあった。
「任務を訂正します」
リシェラが顔を上げる。
「どう訂正するの?」
エオルミアは、観測盤へ向き直った。
「災厄ルズローシヴ=レレイを消滅させるのではありません」
その名を、もう災厄として呼ばない。
「ルズローシヴ=レレイを災厄と呼んだ記録を、訂正します」
スレイは何も言わなかった。
ミクリオも、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
エオルミアは続ける。
「天界の門の誓約を、呪いとして再分類します」
塔の光が、また揺れた。
今度は大きく。
天界の端に立つ塔全体が、息をしたように。
セノアが小さく言う。
「怒ってるみたいだ」
オルセイが答える。
「隠されていたものが、名前を呼ばれた」
リシェラは、エオルミアの手を離さなかった。
「行こう」
エオルミアがリシェラを見る。
「あたしも聞くって言ったでしょ」
「はい」
エオルミアは頷いた。
消すべきものは、名ではない。
災厄と呼ばれた人ではない。
災厄と呼ばれた愛ではない。
災厄と呼ばれた共鳴ではない。
その名に災厄を押しつけたもの。
誓約の形をした呪い。
境界層観測塔の最上階へ続く階段が、音もなく開いた。
エオルミアたちは、上を見た。
天界の門に最も近い場所へ。
呪いの文言が残る場所へ。
消すためではなく。
訂正するために。