ミッション:災厄「ルズローシヴ=レレイ」を消滅させよ 作:Moa
天界で一番高い塔の頂には、風がなかった。
空は近い。
見上げれば、手を伸ばせば届きそうなほど近くに、白い光の層が幾重にも折り重なっている。そこには雲も星もなく、ただ、どこまでも均質な輝きだけがあった。
その中央に、一枚の紙が浮かんでいた。
紙、だった。
だが、紙と呼ぶには大きすぎた。
人の背丈ほどの白い面に、黒い文字が無数に走っている。文字は生き物のようにうねり、折り重なり、時折、人の輪郭をなぞるように立ち上がった。
顔はない。
声もない。
ただ、そこに書かれている、というだけで世界を従わせるもの。
エオルミアはチャクラムを構えた。
「誓約中枢……」
ヴェルノが低く息を吐く。
「いやあ。これはまた、控えをもらいたくない契約書だねえ」
「冗談を言っている場合ではありません」
イリシアの声は硬かった。
「分かってるよ。だから冗談にしてる」
紙片がめくれるように、白い影が揺れた。
黒い文字が空中に浮かび上がる。
《照合開始》
《地上個体、侵入確認》
《訂正要求、却下》
その文字列が赤く染まった瞬間、床一面に契約陣が広がった。
「来る!」
リシェラが叫ぶ。
次の瞬間、黒いインクの槍が地面から突き上がった。
エオルミアは横へ跳ぶ。リシェラはその前へ滑り込み、剣でインクを弾いた。飛び散った黒が床に落ちると、そこに小さな文字が刻まれる。
《義務》
《履行》
《代償》
「文字が、攻撃になってる……!」
セノアが弓を引いた。
放たれた矢はまっすぐ白い影へ向かった。だが、途中で紙片の壁に阻まれる。紙の壁には、すでに文言が浮かんでいた。
《例外規定なし》
「そんなの、そっちが勝手に書いただけだろ!」
セノアがもう一矢を放つ。
今度はオルセイが前へ出た。盾を構えるように腕を上げ、黒い文字の奔流を受け止める。
「下がるな」
「分かってる!」
リシェラは床を蹴った。
エオルミアも続く。
白い影は動かない。だが、近づけば近づくほど、空間そのものが紙に変わっていく。足元に罫線が走り、頭上に封蝋のような赤い紋が浮かび、左右から文字列が迫る。
《災厄指定》
黒い文字がリシェラの胸元へ向かった。
エオルミアは反射的に手を伸ばした。
「リシェラ!」
その瞬間、塔の外から水の光が走った。
《援護射撃:アクアリムス》
青白い水槍が赤い文字を貫く。
文字列が滲み、砕けた。
白い影の動きが一瞬だけ鈍る。
リシェラが目を見開いた。
「今の……!」
「スレイさんとミクリオさんです」
エオルミアは即答した。
確証はなかった。
だが、分かった。
あの水は、災厄などではない。
誰かの名前を守るための水だった。
「助けてくれてるんだ」
「はい。ですが、倒すのは私たちです」
「分かってる!」
リシェラが笑った。
怖いはずだった。
塔は高く、敵は世界の条文そのもので、足元の文字は一つ踏み間違えれば命を奪う。
それでも、リシェラが笑った。
その顔を見て、エオルミアの中にあった震えが、少しだけ静まった。
白い影が揺らいだ。
《条項展開:共存継続》
床全体に光が走る。
文字列が空へ向かって伸び、天と地を縫い止めるように結ばれていく。
《人間は業を負う》
《天族は竜を負う》
《共存は代償をもって継続される》
「共存って、そういう意味じゃないだろ!」
セノアの声が響いた。
「縛って、苦しめて、それで続いてるって言うのかよ!」
イリシアが杖を掲げる。
「命を、条項にしないでください」
光が仲間たちを包んだ。
その隙にヴェルノが紙片の盾へ短剣を投げる。短剣は盾に刺さり、書かれていた文字を裂いた。
「上が作った書類を下が直す。よくある話だねえ」
「よくあってたまるか!」
リシェラが叫びながら白い影へ斬り込む。
剣が紙の身体を裂いた。
しかし、裂け目から新たな文字が溢れ出す。
《修復》
《再記録》
《効力維持》
白い影が初めて、明確に形を変えた。
人型がほどける。
巨大な契約書が広がる。
空そのものが白く染まり、床も壁もなくなった。エオルミアたちは、無限に広がる紙面の上に立っていた。
そして、文字が降ってきた。
《最終照合》
《訂正要求者、排除対象》
《至天誓約・地上代償執行》
エオルミアの背筋に、冷たいものが走った。
それは技名ではなかった。
宣告だった。
判断ではない。
感情でもない。
ただ、書かれているから実行される。
それだけのものだった。
白い世界に、黒い文字列が走る。
逃げ場はほとんどない。文字の隙間、文と文のあいだ、まだ何も書かれていないわずかな空白だけが安全地帯だった。
「エオルミア!」
リシェラが手を伸ばす。
エオルミアも手を伸ばした。
だが、次の瞬間、足元の空白が黒く塗りつぶされた。
《例外規定なし》
光が爆ぜる。
エオルミアは吹き飛ばされた。
身体が床に叩きつけられる。呼吸が止まる。視界が白く染まった。
遠くで誰かが叫んでいる。
リシェラの声だ。
立たなければ。
そう思った。
だが、身体が動かなかった。
白い影が、契約書の中央に浮かぶ。
《記録されぬ意思に、効力はない》
文字がエオルミアの目の前に落ちた。
《出生義務違反者》
リシェラの足元に。
《災厄》
遠く、青い水の光が弾ける場所に。
《訂正不可》
エオルミアの胸元に。
それを見た瞬間、エオルミアの中で何かが軋んだ。
違う。
その文字は、違う。
記録ではない。
観測でもない。
これは、誰かの意思を踏み潰すための形だ。
「……違います」
声が出た。
小さな声だった。
だが、リシェラが振り向いた。
「エオルミア!」
エオルミアは床に手をつき、落ちたチャクラムを拾って立ち上がる。
白い世界の中で、リシェラだけが鮮やかに見えた。
傷だらけで、息を切らして、それでも剣を握っている。
逃げてきた人。
嫌だと言った人。
それでも未来をいらないとは言わなかった人。
エオルミアに、判断材料を与えた人。
いいえ。
それだけではない。
エオルミアは胸に手を当てた。
奥で、何かが浮かんでいた。
言葉。
名。
意味は分からない。
けれど、伝えたいと思った。
伝えなければならない、ではなかった。
任務ではない。
契約ではない。
必要情報の共有でもない。
ただ、リシェラに伝えたい。
その感覚が、胸の奥から溢れていた。
「リシェラ」
「なに!?」
リシェラは白い影を警戒したまま返事をする。
エオルミアは、一歩進んだ。
黒い文字が足元をかすめる。
それでも進んだ。
「意味は、まだ分かりません」
「今それ言う!?」
「ですが、リシェラに伝えたいと思いました」
リシェラの目が揺れる。
エオルミアは息を吸った。
「ネスヴック=ウイミレア」
その音が、白い世界に落ちた。
一瞬、すべての文字が止まった。
リシェラが目を見開く。
「それ……」
「分かりません。ですが、私の奥から浮かびました」
「真名、なの?」
「推定されます」
「契約のため?」
「いいえ」
エオルミアは首を振った。
「契約ではありません。命令でもありません。術式条件でもありません」
リシェラの手が震えた。
エオルミアは、その手を見た。
剣を握る手。
逃げて、戦って、何度も自分の未来を守ろうとした手。
「隠したくありませんでした」
リシェラが唇を噛んだ。
泣きそうな顔だった。
でも、泣かなかった。
かわりに、笑った。
「ほんと、そういうところ……」
「不適切でしたか」
「違う」
リシェラは剣を構え直した。
「あたし、今の、ちゃんと覚えたから」
白い影の文字列が再び動き出す。
《未承認真名》
《効力なし》
《記録対象外》
リシェラが前へ出た。
「勝手に対象外にするな!」
彼女の剣が黒い文字を裂く。
エオルミアはその隣に立った。
二人の足元に、光が生まれる。
それは契約陣ではなかった。
誰かを縛る円ではない。
二人の立つ場所から広がる、小さな空白だった。
まだ何も書かれていない場所。
だからこそ、これから書ける場所。
「エオルミア」
「はい」
「行ける?」
「はい」
エオルミアはチャクラムを握る手に力を込める。
「リシェラとなら」
リシェラが笑った。
「そういうこと、戦闘中に言うんだ」
「今、言いたいと思いました」
「なら、いい!」
白い影が巨大な条項を展開する。
《至天誓約・地上代償再執行》
天から黒い文字が降る。
地から赤い封蝋が噴き上がる。
その中央を、リシェラが駆けた。
「これは、あたしの身体!」
一閃。
《出生義務》の文字が裂ける。
「これは、あたしの未来!」
二閃。
《違反者》の文字が砕ける。
「勝手に書くな!」
リシェラの剣が白い紙面を切り開いた。
そこへ、エオルミアが手を重ねる。
「記録を訂正します」
青白い光が指先に宿る。
遠くで、水の援護がもう一度走った。
《援護射撃:アクアリムス》
黒い文字が滲む。
その向こうから、声が聞こえた気がした。
――その名前を、災厄として読むな。
エオルミアは頷いた。
「ルズローシヴ=レレイは、災厄ではありません」
白い紙面に、新しい文字が刻まれる。
「リシェラは、義務ではありません」
さらに一文。
「望まぬ未来を、正しいものとして記録しません」
リシェラがエオルミアの手を取った。
「望んだ未来を、罪にしない!」
二人の光が重なる。
契約書の白が、眩い空へ変わる。
そこには、もう黒い文字だけではない。
無数の星のような光が散らばっていた。
エオルミアは、その光を見た。
証明ではない。
命令でもない。
これは、証しだ。
見たこと。
聞いたこと。
なかったことにしないと決めたこと。
そして、隣にいる人の名を、未来へ残したいと思ったこと。
「消される名を、ここに証します」
「奪われた未来を、ここから返す!」
二人の声が重なった。
「ウィットネス・エタニティ!」
光が走った。
リシェラの剣が古い条項を断ち、エオルミアの光がその裂け目に新しい文言を刻む。
白い影が震えた。
《訂正不可》
《訂正不可》
《訂正不可》
文字が何度も浮かび上がる。
だが、そのたびに光が上書きしていく。
《訂正受理》
《災厄指定、解除》
《地上代償、無効》
《誓約効力、喪失》
白い影が崩れた。
紙片が舞う。
血も、叫びも、断末魔もなかった。
ただ、効力を失った文書がほどけるように、ゆっくりと空へ散っていく。
最後に一枚だけ、エオルミアの手元へ落ちた。
そこには、かつての文字が薄く残っていた。
《災厄ルズローシヴ=レレイ》
エオルミアはそれを見つめた。
そして、静かに指を置く。
「訂正します」
文字が消える。
新しい一文が浮かぶ。
《ルズローシヴ=レレイ》
ただ、それだけ。
災厄でも、対象でも、術式でもない。
名前だけが残った。
リシェラが隣に立つ。
「終わった?」
「はい」
エオルミアは答えた。
「少なくとも、この誓約は効力を失いました」
「そっか」
リシェラは力が抜けたように笑った。
それから、少しだけ躊躇って、エオルミアの手を握った。
「ネスヴック=ウイミレア」
エオルミアは目を瞬いた。
リシェラは照れたように視線を逸らす。
「覚えたって言ったでしょ」
「はい」
胸の奥が、また不思議に震えた。
意味は、まだ完全には分からない。
それでも、もう不明な情報として保留する必要はなかった。
エオルミアはリシェラの手を握り返した。
「ありがとうございます、リシェラ」
白い塔の頂に、風が戻る。
遠くで、水の光が静かに消えた。
空白だった場所に、二人の足跡が残っていた。