ミッション:災厄「ルズローシヴ=レレイ」を消滅させよ 作:Moa
白い塔の頂に、空白が残っていた。
誓約は効力を失った。
地上へ代償を押しつけていた文言はほどけ、災厄と記された名は訂正された。天界の最も高い場所から地上を縛っていたものは、もうない。
けれど、そこにはまだ何も書かれていない場所があった。
エオルミアは、その空白を見つめていた。
風が吹いている。
先ほどまでなかった風だった。塔の頂を撫でるように通り過ぎ、白い紙片を空へ運んでいく。
リシェラは隣で息を整えていた。
傷だらけだった。服の袖は裂け、頬には薄く血が滲んでいる。それでも、彼女は剣を手放していなかった。
エオルミアは、その手を見た。
剣を握る手。
逃げるために戦ってきた手。
嫌だと言うために震えて、それでも引っ込めなかった手。
「リシェラ」
「なに?」
「まだ、空白があります」
リシェラは顔を上げた。
「空白?」
「はい。古い誓約の効力が失われたことで、記録可能領域が発生しています」
「……つまり?」
「新しい文言を、追加できます」
リシェラの表情が強張った。
その反応は、当然だった。
書かれたものが、人を縛った。
義務と書かれたものが、リシェラを追い詰めた。
災厄と書かれたものが、誰かの名を殺そうとした。
共存と書かれたものが、地上へ代償を押しつけた。
書くことは、怖い。
記録することは、時に刃になる。
エオルミアはそれを知った。
だから、すぐには手を伸ばさなかった。
「また、誰かを縛るの?」
リシェラの声は小さかった。
責めているのではない。
怖がっているのだと分かった。
エオルミアは首を振る。
「いいえ」
一度、言葉を選ぶ。
以前の自分なら、効率的な説明をしただろう。
世界維持のため。
少子化問題解決のため。
人間と天族の共存継続のため。
制度矛盾の是正のため。
どれも間違いではない。
けれど、今、最初に伝えるべき言葉ではなかった。
「縛るためではありません」
エオルミアは、リシェラの目を見た。
「選べるようにするためです」
リシェラは黙った。
風が、二人の間を通った。
遠くで、白い紙片が光に溶けていく。
「……選べるように」
「はい」
エオルミアは空白へ向き直った。
「人間と天族が共に生きることを選んだ結果、人間の数が減少しました。出生義務は、その問題への対応として制定されました」
「うん」
「問題が存在したことは、否定できません」
「……うん」
「ですが」
エオルミアは、胸に手を当てた。
そこには、まだ響いている名がある。
ネスヴック=ウイミレア。
意味は、完全には分からない。
けれど、リシェラに伝えたかった名。
契約ではなく。
命令ではなく。
必要だからでもなく。
ただ、隠したくなかった名。
「ですが、誰かの身体を義務として扱うことは、不適切です」
リシェラの指が、ぴくりと動いた。
「誰かの望まない未来を、正しいものとして記録することはできません」
「……エオルミア」
「そして、望む未来を、性別や種族を理由に閉ざす必要もありません」
リシェラは息を呑んだ。
その意味に気づいた顔だった。
エオルミアはゆっくりと手を伸ばす。
白い空白に、光が灯る。
文字が生まれる前の光だった。
「追加文言を記録します」
リシェラが一歩、近づいた。
「待って」
エオルミアは手を止める。
「はい」
「それ、エオルミアが決めていいの?」
問いは鋭かった。
けれど、そこには信頼もあった。
エオルミアがまた誰かの上から書こうとしているのか、リシェラは確かめている。
エオルミアは、しばらく考えた。
「私一人が決定するべきではありません」
「うん」
「ですが、古い誓約の中枢に到達し、訂正権限を得たのは私たちです」
「私たち?」
「はい」
エオルミアはリシェラを見た。
「私だけでは、ここまで来られませんでした」
リシェラは目を瞬いた。
「リシェラが嫌だと言ったこと。逃げたこと。怒ったこと。泣きそうになっても、未来はいらないと言わなかったこと。それらは、すべて判断材料でした」
「また判断材料って言う」
「はい」
エオルミアは頷いた。
「ですが、今はそれだけではありません」
リシェラの頬がわずかに赤くなる。
「……それだけじゃないの?」
「はい」
胸の奥が、少し熱い。
分類はまだ難しい。
けれど、言葉にはできる気がした。
「私は、リシェラが望まない未来を、正しいものとして記録したくありません」
リシェラは、何も言わなかった。
ただ、まっすぐエオルミアを見ていた。
「そして、リシェラが望む未来を、存在しないものとして扱いたくありません」
「……あたしが、望む未来」
「はい」
「まだ、分かんないよ」
リシェラは視線を落とした。
「あたし、子供が欲しいかどうかも、今すぐには分かんない。エオルミアとずっと一緒にいたいって思うけど、それがどういう形になるのかも、まだ分かんない」
「はい」
「でも、男の人とそうしなきゃいけないって言われるのは嫌だった」
「はい」
「女の子が好きなことを、逃げる理由とか、義務違反とか、そういうふうに呼ばれるのも嫌だった」
「はい」
「でも、未来なんていらないって言いたかったわけでもない」
リシェラの声が震えた。
「ただ、選びたかった」
エオルミアは頷く。
「はい」
リシェラが顔を上げる。
「それ、書ける?」
「書きます」
「命令じゃなくて?」
「はい」
「義務じゃなくて?」
「はい」
「誰かが、欲しくないって言ったら?」
「発生させてはなりません」
「誰かが、欲しいって言ったら?」
「道を閉ざしてはなりません」
リシェラは小さく笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「じゃあ、一緒に書いてください」
エオルミアは手を差し出した。
リシェラは驚いたように目を開いた。
「え?」
「私たちの訂正です」
リシェラは少しだけ迷った。
それから、剣を鞘に収めた。
戦うための手を空けて、エオルミアの隣に立つ。
「……変な字になっても知らないから」
「文字形成は私が補助します」
「そういう問題じゃないんだけど」
リシェラはそう言いながら、エオルミアの手に自分の手を重ねた。
温かかった。
エオルミアは、その温度を感じる。
記録する。
けれど、閉じ込めるためではない。
忘れないために。
二人の手から、光が広がる。
白い空白に、ゆっくりと文字が刻まれていく。
『種族、性別の別を問わず、双方が望んだ場合に限り、子を成す道を開く。
双方が望まぬ場合、いかなる義務、命令、制度もこれを発生させてはならない。』
文字が定着した瞬間、塔全体が静かに震えた。
それは崩壊の音ではなかった。
古いものがほどけ、新しい道が開く音だった。
遠く、地上の方角から風が昇ってくる。
天界の光が、その風に混じる。
白い塔の頂に、初めて空の匂いがした。
リシェラは書かれた文言をじっと見つめていた。
「……これで、変わるのかな」
「すぐに全てが変わるわけではありません」
エオルミアは答える。
「制度を訂正する必要があります。周知も必要です。悪用を防ぐ規定も必要です。人間社会と天族社会の双方に説明が必要です」
「現実的」
「はい」
「でも」
リシェラは、書かれた文字にそっと触れた。
「道は、できたんだ」
「はい」
エオルミアは頷いた。
「道は、できました」
リシェラは深く息を吸った。
その肩から、少しだけ力が抜ける。
「選べるって、こんなに息がしやすいんだね」
エオルミアは、その言葉を聞いた。
胸の奥に、静かに残る。
「はい」
それ以上の説明は、必要ない気がした。
リシェラが振り向く。
「ねえ、エオルミア」
「はい」
「これから、どうする?」
エオルミアは少し考えた。
以前なら、任務完了後の手続きを答えただろう。
天界への報告。
誓約訂正記録の提出。
地上制度への影響調査。
出生義務の廃止または改正支援。
四属性宝玉の返還。
やるべきことは多い。
けれど、リシェラが聞いているのは、それだけではない気がした。
「リシェラは、どうしたいですか」
そう返すと、リシェラは目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「質問を質問で返した」
「回答に必要な情報です」
「そういうところ、変わらないね」
「不快ですか」
「ううん」
リシェラは首を振った。
「好き」
エオルミアは、動きを止めた。
風が吹く。
白い紙片が一枚、二人の間を通り抜けていく。
「……今の発言は」
「分類しなくていい」
リシェラが慌てて言った。
顔が赤い。
「分類しなくていいから」
「ですが」
「いいから」
リシェラは手を差し出した。
「手、握って」
エオルミアは、その手を見た。
戦ってきた手。
逃げてきた手。
未来を選ぼうとしている手。
エオルミアは、迷わず握った。
「はい」
リシェラの手は、温かい。
その温度に、胸の奥の名がまた静かに響いた。
ネスヴック=ウイミレア。
リシェラが小さく呟く。
「……ネスヴック=ウイミレア」
エオルミアはリシェラを見る。
「覚えてくださったのですね」
「覚えたって言ったでしょ」
リシェラは少し得意げに笑った。
「意味は、まだ分かんないけど」
「私も、完全には分かりません」
「でも、エオルミアのことなんだよね」
「推定では、そうです」
「じゃあ、覚えてる」
リシェラは手を握る力を少し強くした。
「エオルミアがあたしに教えてくれた名前だから」
エオルミアは、返す言葉を探した。
たくさんの言葉が浮かんだ。
感謝。
信頼。
親愛。
友情。
愛情。
どれも、近いようで、少し足りない。
だから、今は一つだけ選んだ。
「ありがとうございます、リシェラ」
リシェラは笑った。
「うん」
遠くで、水の光が空へ昇っていくのが見えた。
青く、静かで、どこか懐かしい光だった。
誰かの名前が、もう災厄と呼ばれないことを告げるように。
リシェラはそれを見上げて、ぽつりと言った。
「帰ったら、忙しくなるね」
「はい」
「制度を変えないといけないんでしょ」
「はい」
「説明もしないと」
「はい」
「反対する人もいるよね」
「想定されます」
「大変だ」
「はい」
「でも」
リシェラはエオルミアの手を引いた。
「一緒なら、行ける気がする」
エオルミアは、その言葉を聞いた。
今度は、すぐに分類しなかった。
ただ、手を握り返した。
「私もです」
白い塔の頂から、二人は地上を見下ろす。
そこには、まだ何も終わっていない世界がある。
制度も、偏見も、古い記録も、簡単には消えない。
けれど、道はできた。
望めば進める道。
望まなければ、進まなくていい道。
誰かに命じられるのではなく、誰かのために自分を差し出すのでもなく、自分たちの意思で選べる道。
リシェラが一歩を踏み出す。
エオルミアも続く。
空白だった場所に、二人分の足跡が残る。
それは誓約ではない。
命令でもない。
ただ、二人がそこを歩いたという記録だった。