ミッション:災厄「ルズローシヴ=レレイ」を消滅させよ 作:Moa
水音は、通路の奥から聞こえていた。
一定の間隔で、ぽたり、ぽたりと落ちる音。
けれど、天井から水が滴っているわけではない。
暗い通路の先に、広い空間があった。
半ば水没した遺跡の祭壇。
床には薄く水が張り、割れた柱の間を青白い光が漂っている。外の結界灯とは違う。もっと静かで、もっと古い光だった。
その中心に、少女が座っていた。
「追われている人たち」
少女が言った。
声は幼く聞こえた。
けれど、その響きは水底から届くように深かった。
「罪を持つ人たち。名前を探している人たち。宝玉を持つ人たち」
少女は首を傾げる。
「どれで呼べばいい?」
エオルミアは一歩前に出た。
「名前で呼ぶべきです」
少女の視線が、エオルミアへ向く。
「そう。じゃあ、エオルミア」
小さく頷く。
「あなたたちは、名前を大事にする人たちなんだね」
その言葉に、エオルミアはすぐには答えられなかった。
名前を大事にする。
その意味を考える前に、少女は水面を指先でなぞった。
「わたしはルネア」
「貴女が、ルネアさん」
リシェラが呟く。
ルネアは頷き、今度はリシェラを見た。
「リシェラ」
名を呼ばれた瞬間、水面が揺れた。
足元に張った薄い水が、鏡のように光る。
そこに映ったのは、リシェラの姿ではなかった。
出生義務違反者。
逃亡者。
未来の命を拒んだ者。
水面に、文字のようなものが浮かんでは崩れていく。
リシェラの顔から血の気が引いた。
「……趣味悪いね」
軽口の形をしていた。
けれど、声は軽くなかった。
ルネアは悲しそうでも、楽しそうでもなかった。ただ静かに水面を見る。
「水は、呼ばれたものを映すから」
「呼ばれたもの?」
「他の人が、あなたをどう呼ぶか」
リシェラは笑おうとして、失敗した。
「慣れたと思ってたんだけどな」
「慣れたふりをしている水は、よく濁るよ」
ルネアの言葉に、リシェラは何も返さなかった。
次に、水面はイリシアの足元で揺れた。
母。
義務履行者。
産んだ者。
イリシアはそれを見下ろし、静かに息を吐いた。
「母であることは、私の一部よ」
水面の文字が、わずかに揺らぐ。
「でも、私の全部ではないわ」
その言葉に反応するように、文字はほどけて水に戻った。
ヴェルノの足元では、いくつもの呼び名が重なるように浮かぶ。
案内人。
偽名持ち。
逃亡幇助者。
信用ならない男。
ヴェルノは肩をすくめた。
「最後の、ちょっと主観が入ってない?」
「呼ばれてるなら映る」
「人望が泣けるねえ」
そして、エオルミアの足元にも水面が広がった。
天界の使者。
災厄を消す者。
使命の器。
エオルミアは、その文字を見つめた。
間違ってはいない。
自分は天界から来た。
ルズローシヴ=レレイを消滅させるために地上へ降りた。
使命を果たすための器として、今ここにいる。
すべて事実だ。
それなのに、胸の奥が少しだけ重くなった。
「嫌?」
ルネアが尋ねる。
エオルミアは考えた。
「不快と判断するほどではありません」
「そう」
「ですが」
続きを言おうとして、言葉が止まる。
ですが、何なのか。
自分でも分からなかった。
ルネアはそれ以上聞かなかった。水面を静かに撫でると、足元の文字は消えた。
「宝玉を見せて」
エオルミアは宝玉を差し出した。
ルネアはそれを両手で受け取り、光に透かすように見つめる。
「この宝玉に、水の力を込めてください」
「何のために?」
エオルミアは、これまでと同じ答えを口にした。
「災厄ルズローシヴ=レレイを消滅させ、天界を守るためです」
ルネアの指が止まった。
水面の波紋が、ひとつ広がる。
「ルズローシヴ=レレイ」
彼女はその名を、ゆっくり繰り返した。
「ルズローシヴ=レレイ……」
リシェラが身を乗り出す。
「知ってるの?」
「知らない」
ルネアは即答した。
「では、心当たりはないのですね」
エオルミアが言うと、ルネアは少し首を傾げた。
「知らない。でも、変」
「変?」
「それ、ただの災厄の名前には聞こえない」
エオルミアは眉をひそめる。
「どういう意味ですか」
ルネアは宝玉を抱えたまま、水面に視線を落とした。
「
その場の空気が、わずかに変わった。
リシェラが聞き返す。
「真名?」
「天族の奥にある名前。本質に近い名前。誰かが勝手につける呼び名じゃなくて、その人の底に沈んでいる名前」
ルネアは、水面に指先を沈めた。
「水面に映る呼び名より、もっと深いところにあるもの」
「それを伝えるのは、命懸けの友情、愛の告白って言われているくらい重いもの」
リシェラは困惑した顔でエオルミアを見る。
エオルミアも、すぐには答えられなかった。
「じゃあ、災厄の名前じゃないってこと?」
リシェラが言う。
ルネアは首を振った。
「ううん。逆かも」
「逆?」
「本質に近い名前だから、災厄なんだと思う」
その言葉は、静かだった。
静かすぎて、遺跡の水音と混ざりそうだった。
「表面だけの悪いものなら、ここまで揺れない」
ルネアは、宝玉をエオルミアに返した。
「でも、真名に近いものなら、存在の奥に届く。奥に届くものほど、世界を揺らす。だから……誰かが恐れるのも分かる」
エオルミアは宝玉を受け取った。
「では、ルズローシヴ=レレイは、消滅対象として適切であると考えられますか」
ルネアは少しだけ黙った。
水面に、小さな波紋が広がる。
「わたしは、その名前を知らない。だから断定はできない」
ルネアはエオルミアを見た。
「でも、ただの噂や呼び間違いじゃないと思う。もっと深いもの。もっと根に近いもの。だから、災厄なんだと思う」
リシェラは唇を噛んだ。
「名前が深いから、消した方がいいってこと?」
「深いところにあるものを消さないと、止まらないこともある」
ルネアの声は、責めるでも励ますでもなかった。
ただ、水のようにそこにあった。
「あなたたちは、世界を守りたいんでしょう?」
エオルミアは頷いた。
「はい」
「じゃあ、水の力を貸す」
ルネアは祭壇の中央へ歩いた。
彼女の足が水面を踏むたび、波紋が広がる。青白い光が宝玉へ集まり始めた。
地の力は、重く根を張るようだった。
風の力は、軽く鋭く抜けていくようだった。
水の力は、静かに満ちていった。
宝玉の内側で、透明な光がゆっくり巡る。
光は形を持たず、けれど確かにそこにある。どんな器にも沿い、どんな隙間にも入り込み、いつか深いところまで届くもの。
エオルミアは、それを見つめていた。
ルズローシヴ=レレイ。
ルファーナは、いい名前だと言った。
ルネアは、真名に近いと言った。
そして、真名に近いからこそ災厄なのだと。
ならば、消さなければならない。
そう考えるのが正しいはずだった。
「エオルミア」
リシェラの声で、エオルミアは顔を上げる。
「大丈夫?」
「はい」
エオルミアは答えた。
「判断材料が増えました」
「……そっか」
リシェラは、それ以上聞かなかった。
宝玉の光が収束する。
ルネアは両手を離した。
「終わったよ」
エオルミアは宝玉を胸元に抱えた。
「ありがとうございます」
「うん」
ルネアは水面に座り直す。
その姿は、最初に見た時と同じように静かだった。
「名前は、深いところに沈む」
彼女はぽつりと言った。
「深い名前ほど、簡単には消えない。だから、消すなら、ちゃんと奥まで届かせて」
エオルミアは頷いた。
「承知しました」
リシェラが小さく息を呑んだ気配がした。
けれど、何も言わなかった。
水音が、遺跡に響いている。
ぽたり、ぽたり。
それはまるで、どこか見えない場所で、何かが少しずつ沈んでいく音のようだった。