第五話 『見つめる者』
一年生としてトレセン学園に入学してから、季節はゆっくりと巡っていった。
春が過ぎ、夏が来てやがて、秋、
ゼータシンボリの学園生活は、思っていた以上に穏やかなものだった。
普通科目の授業では、ほとんど苦労することがない。
レース理論の授業では、教師が出した問題を誰よりも早く理解し、実技に関する座学でも優秀な成績を残していた。
特に得意だったのは、レース展開の分析だった。
「この場合、先頭のウマ娘がこのタイミングでペースを上げると、後方の集団はどうなると思う?」
教師が黒板に簡単な展開図を描く。
何人かの生徒が手を挙げる、ゼータも静かに手を挙げた。
「ゼータ。」
「はい。」
「答えてみてくれ。」
「この場合、後方の集団はすぐには動かないと思います。」
「理由は?」
「前が早い段階で仕掛けたことで、追う側も脚を使うことになります。ですから、後ろのウマ娘たちは一度距離を保って、終盤まで脚を残す可能性が高いです。」
黒板へ視線を向ける。
「ただ……一人だけ、早めに動く可能性があります。」
「ほう?」
「その子は、他の子より前へ出ることを恐れていないので。」
教師が少し驚いたように目を細めた。
「正解だ。」
教室から小さなどよめきが起こる。
「やっぱりゼータさん凄いね。」
「レースを見るの、好きなんだ?」
「……はい。」
ゼータは微笑んだ。
「好きです。」
その言葉だけは、偽りではなかった。
レースが好き。
それだけは、どうしても捨てられなかった。
だからこそゼータは誰よりもレースを見ていた。
走る者の動き。
仕掛けるタイミング。
ペース。
位置取り。
そして――胸で輝くウマソウル。
それらを見ていれば、自然と分かってしまう。
この子は焦っている。
この子はまだ余裕がある。
この子は、ここで勝負に出る。
そんなことまで。
けれど。
それを「才能」と言われるたびに、ゼータの胸は少しだけ痛んだ。
(違います。)
(私は、ただ見えているだけです。)
自分が特別なのではない、
そう思いたかった。
⸻
冬。
一年生最後の実技評価が行われた。
短距離。
マイル。
中距離。
それぞれの距離を実際に走り、成長と適正を確認するためのものだった。
短距離では、ゼータは中団より少し前四着でゴールした。
入着には入る。
けれど、一着争いには届かない。
「ゼータさん、惜しかったね。」
「うん。」
「でも十分速いじゃん。」
「ありがとう。」
マイルでは、それよりも少し良い結果を残した。
学年でも上位に入る。
だが、圧倒するほどではない。
「マイルなら結構強いよね。」
「うん。ゼータさんってマイル向きなんじゃない?」
そんな評価が、少しずつ定着していった。
そして。
中距離。
ゼータは、いつものように力を抜いた。
本来なら、最も得意な距離。
身体は軽い。
脚もよく動く。
もっと速く走れる。
それでも。
走らない。
一人。
また一人。
前へ出ていくウマ娘たちを見送る。
(これでいい。)
(中距離は苦手。)
(私は、そういうウマ娘です。)
自分に言い聞かせる。
結果は、やはり全体順位の後半。
教師は特に驚かなかった。
「やはり中距離は苦手なようだな。」
「はい。」
「もう少し仕掛けるタイミングをズラいた方がいいだが、マイルでは悪くないんだ。無理に距離を伸ばす必要もないだろう。」
「ありがとうございます。」
その言葉を聞いて、ゼータは小さく笑った。
上手くいっている。
自分が望んだ通りに。
誰も、自分の本当の力を知らない。
それでいい。
そう思っていた。
⸻
けれど。
一人だけ、少し違う視線を向けている教師がいた。
実技評価が終わった後、その教師は記録表を眺めながらゼータの名前に視線を止めていた。
短距離。
マイル。
中距離。
何度見ても、妙な結果だった。
「……不思議な子だな。」
マイルでは悪くないむしろ良い、短距離でも入着する。それなのに、中距離になると露骨に順位が落ちる。
適性の違い、そう考えれば説明はつく。
だが。
教師は、先ほどのゼータの走りを思い返していた。
「……本当に、苦手なのか?」
疑問は、それ以上深く追及されることはなかった。
⸻
そして春。
ゼータは二年生になった。
桜の花びらが舞う校庭を歩きながら、新しい教室へ向かう。
一年間。
何事もなく過ごせた。
友人も増えた。
授業にも慣れた。
自分の立ち位置も、少しずつ固まってきた。
「ゼータ、おはよう!」
「おはようございます。」
「今年もよろしくね。」
「こちらこそ。」
穏やかな笑顔。
誰に対しても優しい、頼まれれば手を貸す。
困っている子がいれば放っておけない。
そんな姿は、周囲から見ればただの優しい少女だった。
けれど。
その内側では。
(今年は、もっと結果を残さないと。)
二年生。
そろそろ、選抜レースが視野に入ってくる。
選抜レース。
それは、トレーナーたちが未来の担当ウマ娘を探すための舞台。
そしてウマ娘たちが数年間苦楽を共にする相棒を得るための舞台。
当然、ゼータもその対象になる。
「……。」
机の上へ視線を落とす。
選抜レース。
その言葉を考えただけで、胸がざわつく。
(私は、選ばれる必要がある。)
(シンボリ家の娘として。)
(何も残さず終わるわけにはいかない。)
それは、ゼータ自身が決めたことだった。
レースを続けたいわけではない、むしろ早く離れてこの思いを終わらせたい。
けれど。
何の実績も残さず引退することは、シンボリ家の名を背負う自分には許せなかった。
だからこそ、一度は結果を残す。
そして。
早々に引退するに足る理由を作る。
その後は、トレーナーになる。
それが、自分にとって一番正しい道だと思っていた。
⸻
その日の放課後。
ゼータは図書室で一冊の資料を読んでいた。
トレーナーの仕事について書かれた本。
担当ウマ娘の能力分析。
トレーニング計画。
レース戦術。
体調管理。
メンタルケア。
ページをめくる。
そこには、こんな言葉が書かれていた。
『トレーナーは、担当ウマ娘の最も近くで、その成長を見守り、導く存在である。』
ゼータの手が止まる。
「……。」
思い出す。
勝ったウマ娘がトレーナーへ飛び込んでいった光景。
負けたウマ娘へ、次を約束したトレーナー。
一緒に喜び、一緒に悔しがり。
また次へ進む。
「……やっぱり。」
小さく笑う。
「素敵だな。」
その憧れは、本物だった。
自分の夢から逃げるためだけではない。
ゼータは、本当にトレーナーという生き方に惹かれていた。
⸻
図書室を出る。
廊下の窓から、グラウンドが見える。そこでは何人ものウマ娘が走っていた。
その胸に宿る光が、夕暮れの中でもはっきりと見える。
ゼータは立ち止まった。
「……。」
光を見る。
そこから伝わる想いを感じる。
夢。
努力。
期待。
不安。
そして、未来へ向かおうとする強い意志。
胸が苦しくなる。
(私は、この光の中に入ってはいけない。)
そう思う。
けれど。
同時に。
(……見ていたい。)
とも思う。
走ることを。
レースを。
誰かが夢へ向かっていく姿を。
(感じていたい。)
それを捨てることなど、本当はできていない。
だからこそ。
トレーナーという道が、ゼータには必要だった。
走ることを諦めるためではない。
走ることへの憧れを、別の形へ変えるために。
「……私は。」
窓へ映った自分の姿を見る。
白い髪。
フローライトのような瞳。
その瞳にだけ、世界中のウマソウルが映っている。
そして。
自分自身には何もない。
「……。」
視線を逸らす。
(私は、走る側じゃない。)
(支える側になる。)
(それなら……。)
胸の奥の痛みを押し込める。
(きっと、この気持ちもいつか消える。)
そう信じる。
そう信じなければならない。
⸻
数日後。
教室に、一枚の掲示が貼り出された。
生徒たちが集まっている。
「選抜レースの日程だって!」
「今年も始まるんだ。」
「誰がスカウトされるかな。」
ゼータは少し離れた場所から、その掲示を見つめていた。
『選抜レース』
その文字が、妙に大きく見える。
心臓が一度、大きく鳴った。
(……来た。)
二年生。
自分が、初めて本格的にレースの世界へ踏み込む年。
ゼータはゆっくりと目を閉じる。
そして。
心の中で何度も、自分へ言い聞かせる。
(大丈夫。)
(私は、必要な結果を残すだけ。)
(それが終わったら――。)
トレーナーになる。
その言葉を、胸の奥へしまい込む。
だが。
その瞬間。
胸の奥にある小さな憧れが、確かに鼓動した。
ゼータは、それを無理やり押さえつけるように目を開く。
その瞳に映っていたのは、これから始まる選抜レースへの恐怖と。
そして。
ほんの僅かな期待だった。
まだゼータは知らない。
この選抜レースが。
自分の運命を大きく変える、一人のトレーナーとの出会いへ繋がっていることを。
ようやく書きたいところが書けそうです。