選抜レースの日程が発表されてから、学園の空気は少しずつ変わっていった。
廊下ではレースの話題が増え、教室でも自然と誰が出走するのかという話が飛び交う。
「私は来週のマイルに出るよ!」
「本当? じゃあ応援に行く!」
「私は中距離。ちょっと緊張するなぁ……。」
そんな会話を聞きながら、ゼータは静かに笑っていた。
「みんな、頑張ってくださいね。」
「ゼータさんは?」
「私は……マイルに出ます。」
「やっぱりマイルなんだ!」
「はい、中距離は苦手なので。」
自然にそう答える。
もう、それは周囲にとって当たり前の認識になっていた。
ゼータシンボリは、短距離なら入着できる。
マイルなら学年でも上位に入れる、だが中距離は苦手そして長距離は、おそらくもっと苦手だろう。
一年間かけて作り上げた評価だった。
それはゼータにとって、ある意味で理想的だった。
(これなら……。)
(誰も私を必要以上に期待しない。)
そう思う一方で。
胸の奥には、別の感情があった。
選抜レース。
トレーナーたちが、自分の目でウマ娘を見定める場所。
そこへ出れば、当然ながら多くのウマ娘のウマソウルを感じることになる。
それが怖かった。
けれど。
逃げるわけにもいかなかった。
(私は、シンボリ家の娘だから。)
(結果は残さないと。)
ゼータは、静かに拳を握った。
⸻
数日後。
選抜レース当日。
観客席には、学園関係者や多くのトレーナーが集まっていた。
出走するウマ娘たちがパドックへ姿を現す。
その瞬間。
ゼータの視界が、一気に鮮やかになった。
無数のウマソウル。
期待。
緊張。
不安。
練習の時とは比べ物にならないほどの勝ちたいという意志。
それらが一斉に押し寄せてくる。
「……っ。」
ほんの一瞬めまいがし、呼吸が浅くなる。
それと同時に理解する、今から始まるレースは遊びや練習ではなく、自身の未来がかかった真剣勝負であると。
(大丈夫。)
(いつも通り。)
自分へ言い聞かせる。
(私は逃げる。)
逃げなら、他のウマ娘との距離を取れる。
それでもレース中はウマソウルを強く感じる。
だから、完全な状態にはならないでも。
それでいい。
それが、今の自分にできる精一杯だった。
「ゼータシンボリ!」
名前を呼ばれる。
「はい。」
返事をして、ゲートへ向かう。
その途中、観客席の一角に見覚えのある姿を見つけた。
「……。」
ルドルフだった。
中等部三年の制服姿。
わざわざ時間を作って、妹のレースを見に来てくれたらしい。
目が合う。
ルドルフは小さく手を振った、ゼータも笑顔で手を振り返す。
(姉さん……。)
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
(見ていてください。)
(私は……ちゃんとやります。)
その言葉を心の中で呟き、ゼータはゲートへ入った。
⸻
「各ウマ娘、ゲートイン!」
一人、また一人とゲートに入っていく。
ゼータは静かに前を見た。
息を整えて合図を待つ。
「スタート!」
ゲートが開く。
ゼータは勢いよく飛び出して、先頭へ躍り出る。
いつものように自分で速度を抑えることは無く後続との差を開かせるだが、一気に突き放すことはしない。
後続との差は、徐々に広がり一定の距離になるとその広がりは止まった。
「先頭はゼータシンボリ!」
実況が響く。
「シンボリ家の令嬢が、まずは先頭を奪いました!」
観客席から声が上がるが、ゼータはただ淡々と走る。
足元から伝わる芝の感触、前に進むたびに全身に降りかかる風。
そのすべてが心地いい。
そう思いながらさらに前へ進む。
本当なら。
もっと速く走りたい。
もっと前へ。
もっと自由に。
けれど。
「……。」
胸の奥に、次々と光が入り込んでくる。
後ろから迫るウマ娘。
その焦り。
隣を狙おうとする意志。
誰かを抜こうとする闘争心。
それが、ゼータの集中を少しずつ乱していく。
(……うるさい。)
心の中で、ほんの僅かに眉を寄せる。
(違う。)
(集中して。)
前を見る。
それでも、身体は本来の力を出せない。
先頭を走っている。だが、圧倒しているわけではない。むしろ後続はすぐ後ろまで迫っている。
「残り四百!」
最後の直線。
後ろから一気に迫る。
ゼータは徐々にスピードを落とすことにより貯めた脚を一気に使ったそれに、身体が応える。
一気に加速できる。
けれど。
(駄目。)
それ以上は出さない。
(これ以上は……。)
後ろのウマ娘が並びかける。
その瞬間。
ゼータは最低限だけ速度を上げた。
僅かに前へ出る。
そして――。
ゴール。
「ゼータシンボリ、逃げ切った!」
ハナ差。
ほんの数バ身ではない。
最後まで競り合った末の、際どい勝利だった。
「おおおおっ!」
観客席が沸く。
ゼータはゴール後、ゆっくりと速度を落とした。
胸が大きく上下する。
脚が重い。
けれど、それ以上に。
胸の奥が苦しかった。
(……勝った。)
その言葉より先に浮かんだのは。
(……勝ってしまった。)
だった。
視界の端に、無数の光が見える。
悔しそうに拳を握るウマ娘。
涙を堪えるウマ娘。
そして、自分の胸で輝く――何もない空白。
ゼータは目を伏せた。
(……ごめんなさい。)
誰に謝っているのか、自分でも分からない。
⸻
一着となったゼータの元には沢山のトレーナーがスカウトに来ていた。
「ゼータシンボリ!最後まで諦めず粘ったその意志の強さがあればきっとGⅠを優勝することも可能だろう!その道中の手伝いを俺にさしてもられないだろうか!」
「私と契約を結べば必ず君のその才能を磨き上げ、GⅠバにすると約束しよう」
「私のチームはマイルや短距離をメインでやってるの、貴方の先輩に当たる人たちから実際の経験を用いたアドバイスや並走などが出来るわ、きっとあなたの成長に繋がるはずよだから私のチームに入ってくれないかしら!」
ハナ差であったとしてもゼータは一着となり、その走りと粘り強さに魅せられたトレーナーたちが次々と立候補するが、
「すみません、少し体調がすぐれないのでまた後日お話しを伺ってもいいでしょうか?」
といい、それを聞いたトレーナー達は離れゼータはコースを後にした。
レース後のスカウトが終わり、控室へ戻る途中。
何人かのトレーナーが選手たちを見ていた。
その中には、ゼータへ視線を向ける者もいた。
「シンボリの子か。」
「逃げであの粘りか。悪くないな。」
「ただ、圧倒的というほどではない。」
そんな声が聞こえてくる。
ゼータは、何も言わずに通り過ぎた。
(それでいい。)
(これくらいでいい。)
強く注目される必要はない、そう思っていた。
だが。
少し離れた場所に、一人の年配の男性トレーナーが立っていた。
周囲の若いトレーナーたちとは違い、派手な記録や時計を見ることもなく。
ただ静かに、ゼータの走りを見つめていた。
「……。」
彼は手元の資料を閉じる。
そして、ぽつりと呟いた。
「妙だな。」
ゼータは気づかない。
その視線が、自分へ向けられていることにも。
⸻
その日の夕方、寮へ戻る途中。
「ゼータ。」
後ろから聞き慣れた声がしたので振り返ると。
「ルドルフ姉さん。」
ルドルフが歩いてくる。
「見ていたぞ。」
「……どうでした?」
「惜しいレースだったな。」
「そうですね。」
ゼータは笑う。
「でも、勝ててよかったです。」
ルドルフは妹の顔を見る。
「本当にそう思っているか?」
「……え?」
「いや。」
ルドルフはそれ以上何も言わなかった。
ただ、妹の頭へ手を乗せる。
「よく頑張ったな。」
「……。」
その言葉に、ゼータの胸が少しだけ痛んだ。
「ありがとうございます。」
「今日はゆっくり休め。」
「はい。」
ルドルフが先に歩いていく。
ゼータはその背中を見つめた。
(姉さん。)
(私は、ちゃんとやりきります。)
(シンボリ家の娘として。)
そう自分へ言い聞かせる。
けれど。
その夜。
ゼータは眠る前に、今日のレースを何度も思い返していた。
風を切る感覚。
芝を蹴る感触。
最後の直線。
そして。
勝った瞬間に胸へ浮かんだ言葉。
「……勝ってしまった。」
小さく呟く。
その声は、誰にも届かなかった。
⸻
一方。
学園のトレーナー室。
昼間のレース映像を、一人の男が繰り返し見ていた。
年齢を重ねたトレーナー。
長年、多くのウマ娘を見てきた男だった。
映像の中で、ゼータは逃げている。
しかし。
「……。」
男は映像を止める。
「ここだ。」
最後の直線。
ゼータが踏み込み一瞬だけ加速した場面。
「今の……。」
もう一度再生する。
今度は、その直前まで巻き戻す。
「……やっぱりか。」
男は小さく笑った。
「お前さん。」
画面の中のゼータへ語り掛ける。
「本当は、もっと速く走れるんじゃねぇのか?」
その疑問が。
やがて、ゼータ自身が望んでいなかった一つの出会いへと繋がっていく。
そしてゼータはまだ知らない。
この老人との出会いが。
自身の定めた決意を、大きく揺さぶることになるとは。
今の段階でゼータは技術が圧倒的に優れていて尚且つ肉体も、同年代の誰よりもスペックが高い状態です、そして適正は中距離長距離なので体力は有り余ってましたですがマイルが限界だと見せるためにわざと最低限の加速で終わらせました、ゼータはレースが大好きですがそのレースでいくら理由や考えがあっても手を抜いて汚したと思っているので、普通に体調を崩してるし控え室に戻ったあとトイレで吐いています。