彩乃さん→彩乃ちゃん
に変わりました。
彩乃と初めて会った日から数週間が過ぎて季節も移り変わったがゼータシンボリは、相変わらず放課後になると時折トレーナー室へ足を運んでいた。
「失礼します」
「おう、ゼータか」
「こんにちは、柊さん彩乃ちゃん」
「こんにちは、ゼータちゃん」
「彩乃ちゃんも来ていたんですね」
「はい。今日はおじいちゃんに、この前のレースについて教えてもらってたんです」
「お前さん、前も言ったがまず映像をちゃんと見ろって言っただろ」
「見ましたよ!」
「三回しか見てねぇじゃねぇか」
「三回も見ました!」
「はぁ……まぁいい」
そんなやり取りを聞きながら、ゼータは小さく笑う。以前なら、こうして誰かと一緒に過ごす時間そのものに、少し緊張していたが今では、それもほとんどなくなっている。
柊と話すこと。
彩乃と話すこと。
それはいつの間にか、ゼータにとって当たり前の日常になりつつあった、その一方で、ゼータの中には変わらず残っている問題があった。
――担当トレーナー。
いつか決めなければならないその事は十分に理解している、けれど。
「……」
そのたびに、思うことがある、自分が誰かと契約すれば、その人を自分の事情に巻き込むことになるだからこそ、なかなか決めることが出来なかった。
⸻
そんなある日の夜。
週末に学校から帰省したゼータは家族と食事をしていた。
両親とルドルフ。
そしてゼータ。
四人で食卓を囲む。
ルドルフは学園での出来事を話し、両親はそれを楽しそうに聞いていた。
「それで、次のレースについてですが――」
ルドルフとの話しが終わった後、父親がふとゼータを見る。
「そういえば、ゼータ」
「はい?」
「最近、学園の方から何か言われていないか?」
「……何か、ですか?」
「担当トレーナーのことだ」
その言葉を聞いた瞬間、ゼータの箸がほんの少し止まった。
「……ああ」
「やはり言われているのか?」
「はい」
母親も静かに口を開く。
「中等部二年生ともなれば、そろそろ考えてもいい時期でしょう?」
「……そうですね」
ゼータは落ち着いた声で答える。
「私も、必要だということは理解しています」
「なら、候補はいるのか?」
「それが……」
少しだけ言葉に詰まる。
「まだ、決めていません」
「なぜだ?」
責めるような口調ではなかった、ただの純粋な疑問なのだろう。
ゼータは少し考える。
「……自分に合う方が、まだ見つかっていないんです」
それは嘘ではなかった。
けれど本当の理由でもない。
「スカウトをしてくださった方も何人かいらっしゃいました」
「そうだったな」
「ですが……」
ゼータは視線を落とす。
「お断りしています」
「気に入った人がいないのか?」
「そういうわけではありません」
ゼータは首を横に振る。
「皆さん、とても立派な方でした」
「では、何が問題なんだ?」
「……」
答えられない
本音を言えば、自分はレースである程度の結果を残して早々に引退する、それに他人を巻き込むことに罪悪感を抱いている。そのことを両親にそして何より姉に知られたくなかった。
「……慎重に決めたいんです」
そう答えたゼータの顔を母親はしばらく見つめると。
「そう」
そう言いそれ以上は追及しなかった。
父親も頷く。
「まあ、確かにトレーナー選びは大切だ」
「はい」
「ただな」
父親は少しだけ真剣な顔になる。
「いつまでも先延ばしにはできないぞ」
「……分かっています」
その言葉だけは、素直に返した。
「トレーナーがいなければ、デビューすることもできない」
「はい」
「お前も、いずれはレースに出るつもりなのだろう?」
「……」
ゼータは少しだけ目を伏せる。
「そのつもりです」
「なら、そう遠くないうちに決めた方がいい」
「……はい」
食事はそのまま続いた。
けれど。
ゼータは自分の担当トレーナーをどうするかを考え続けていた。
⸻
食事が終わり自室へ戻ったゼータは、ベッドに腰掛けていた。
「……トレーナー」
小さく呟く。
必要なのは分かっている、自分だって、いつか決めるつもりだった。問題は誰にするか。
「……」
柊の顔が浮かんだ。
「……柊さん」
思わず名前が口から漏れる、だがすぐに首を横に振る。
(駄目です)
柊に頼ることはしない、できない。
柊は、自分のことを少しずつ理解してくれているからこそ、巻き込みたくなかった。
(私は……)
布団の上で手を握る。
(私は、レースを長く続けるつもりなんてない)
なのに担当になってもらっては、柊に自分のために時間を使わせることになる。その先で、自分が突然引退したら。
「……」
考えるほど、胸が苦しくなる。
ゼータはそのまま目を閉じた。
⸻
それから数日後。
学園での授業を終えたゼータは、まだ教室へ残っていた。そして帰り支度をしている時に。
「ゼータシンボリ」
教師から声を掛けられる。
「はい」
「少し時間をいいか?」
「もちろんです」
ゼータは席に座り直した。
教師も向かいの席に腰掛ける。
「以前から何度か話が出ているが」
「……担当トレーナーの件でしょうか?」
「そうだ」
やはり。
「その様子ご両親からもすでに何か言われたか?」
「はい」
「そうか」
教師は少し考えてから続ける。
「別に急かしたいわけではない」
「……」
「だが、お前はもう中等部二年生だ」
「はい」
「デビュー時期はウマ娘によって違う。中等部三年でデビューする者もいるし、中等部四年まで待つ者もいる。中には高等部一年になる者もいる」
「はい」
「だが、いずれにせよ」
教師は真っ直ぐゼータを見る。
「トレーナーを決める必要がある」
「……分かっています」
「お前は優秀だ」
「……」
「だからこそ、焦って適当な人間を選ぶ必要もない」
その言葉に、ゼータは少しだけ安心した。
「ありがとうございます」
「ただし」
と教師は続ける。
「『決めない』のと『決められない』のは違う」
「……」
「お前は後者だと思っている」
ゼータは黙ってしまう、図星だった。
「……はい」
「何か理由があるのか?」
「……」
教師はそれ以上踏み込まなかった。
「言いたくないなら、それでもいい」
「すみません」
「謝ることじゃない」
教師は立ち上がる。
「ただ、誰かに相談するくらいはしてみたらどうだ?」
「相談……」
「ああ」
「トレーナーを経験している人間なら、選ぶ基準についても何か教えてくれるだろう」
その言葉にゼータの脳裏へ、一人の老人の姿が浮かんだ。
――柊蓮司郎。
「……」
「誰か心当たりがあるのか?」
「……はい」
ゼータは小さく答えた。
「一人だけ」
教師は笑う。
「なら、その人に聞いてみるといい」
「……分かりました」
ゼータは立ち上がり、一礼する。
「ありがとうございました」
「うむ」
「改めて言うが急かしてるわけじゃ無い、お前が納得できる相手を探せ」
「はい、分かりました」
「さようなら」
「あぁ、気をつけて帰る様に」
そう言い教師と教室を出て別れる。
その後、廊下を歩きながら、ゼータは考えていた。
(柊さんに…相談する)
契約するわけではない。
ただ少しばかり助言をもらうだけ。
「……それくらいなら」
自分に言い聞かせるように呟く。
けれど、心の奥では分かっていた。
自分が柊に相談したいのは単純に「誰を選べばいいか」だけではない。
きっと。
自分のことを話せる相手だからだ。
「……」
足を止める。
窓の外を見る。
夕暮れのグラウンドでは、何人ものウマ娘が走っていたその胸には、それぞれのウマソウルが輝いている。
ゼータは静かに目を細める。
(私は……どうしたいんでしょう)
トレーナーになりたい。
レースから離れたい。
そう決めていたはずなのに。
最近はレースを見ると、胸が騒ぐ。
走る姿を見ると、自然と目で追ってしまう。
そして。
自分が走ったときのことを思い出す。
風。
匂い。
感触。
「……」
ゼータは小さく息を吐いき、そして。
「……柊さんに、相談してみよう」
そう決めた。
今度の放課後いつものトレーナー室へ行こう。
そうすれば、何か答えが見つかるかもしれない。あるいは、もっと迷うことになるかもしれない。
それでも。
今の自分には、誰かに話す必要がある気がした。
⸻
その日の夕方、トレーナー室。
蓮司郎は一人、机に向かっていた。机の上には、いくつかの資料と薬の入った小さな袋。
蓮司郎はそれを一度見つめる。
「……」
そして、何事もなかったように引き出しへしまった。そして椅子から立ち上がろうとした。
その瞬間。
「……っ」
ほんの一瞬身体に力が入らずに倒れそうになる、それを蓮司郎は机へ手をつき何とか立ち上がる。
「はぁ……参ったな」
小さく息を吐く。
しばらくそのまま動かない。
やがて。
「まだ……大丈夫だ」
そう呟いた。
そして何事もなかったかのように机から手を離し姿勢を戻し、机の上に置かれた資料へ目を向ける。
そこには、ゼータシンボリの名前があった。
「……あの子が来る時は、ちゃんとしておかねぇとな」
そう呟いて、蓮司郎は静かにトレーナー室を後にする。
まだ誰も知らない、この老人が抱えているものを。
そして。
その秘密が、やがてゼータの物語を大きく動かすことになることも――。