そう言えばルドルフのレースについて言及して無かったので多分13話あたりに、また追加しときます。
翌日の放課後。ゼータは昨日と同じように、トレーナー室の扉をノックした。
「失礼します」
そう言い扉を開けると、柊が机の上に何枚かの資料を広げていた。隣では彩乃が書類を整理している。
「こんにちは、ゼータちゃん!」
「こんにちは、彩乃ちゃん、柊さんも、今日もよろしくお願いします」
「おう、早速だが着替えてこい、今日もトレーニングだ、それに昨日の状態を踏まえて、いくつか確認しておきたいことがある」
「分かりました」
ゼータは更衣室へ向かい、トレーニングウェアに着替える。昨日のトレーニングでは、一日休みだったこともあり身体をしっかり動かしたこともあり、帰宅後には疲労を感じていた。しかし、今朝にはほとんど回復しており、身体の調子も悪くない。今日はどんなトレーニングをするのか、これから始まる練習にゼータは期待を抱いていた。
そうして柊の元へ戻り移動する。
「よし、まずは軽く走って身体を温めろ。その後、昨日と同じようにペースを確認する」
「はい!」
指示を受けたゼータは、トラックへと駆け出した。最初は軽いジョギング、そこから徐々に速度を上げ、身体が温まったところで、柊の指示に従って一定のペースを保ちながら走る。
柊は手元の時計を確認しながら、ゼータの走りを注意深く観察していた。フォームは安定している、無駄な動きも少なく、指示したペースを正確に維持できている。昨日の結果から考えても、十分に優秀な走りだった。
しかし――。
「ゼータ、次は少しずつペースを上げてみろ。急に加速する必要はねぇ。自分で速度を調整しながら走ってみな」
「分かりました」
ゼータは返事をすると、徐々に速度を上げていく。加速は滑らかで、身体の軸もぶれない、足運びにも余計な力みは見られず、速度を上げた後も安定したフォームを維持していた。やがて柊の指示で走りを終え、ゼータが戻ってくる。
「お疲れさまです。次はどうしますか?」
「少し休憩を挟んでから、持久力の確認だ。昨日より少し長めに走ってもらう。ただし、無理にペースを上げる必要はねぇぞ」
「はい、分かりました」
ゼータは呼吸を整え、水分を補給する。その様子を見ながら、柊は先ほどの走りを頭の中で振り返っていた。
やはり、妙だ。
走りに問題があるわけではない、むしろ、こちらの指示を正確にこなし、必要な動きを過不足なく実行している。それなのに、どこか余裕がある。まだ走れる、まだ速くなれる、少なくとも柊の目にはそう映っていた。もちろん、トレーニングの段階で常に限界まで力を出す必要はない、身体への負担を考えれば、ある程度の余力を残して終えることも重要だ。
だが、今のゼータの走りには、それとは別の何かがあるように感じられた。まるで、本人が意識しているかどうかにかかわらず、ある一定のところで自然と力が収まってしまうような――。
「柊さん?」
考え込んでいた柊に、ゼータが声をかける。
「……ん? ああ、悪い。少し考え事をしてた」
「何か問題でもありましたか?」
「いや、そういうわけじゃねぇ。よし、そろそろ始めるか」
柊は思考を切り替え、次のメニューを説明した。今はまだ、判断するには早い、もう少し、ゼータの走りを見てみる必要がある。
そうして持久力の確認を終えた頃には、日も少し傾き始めていた。ゼータは額に浮かんだ汗を拭いながら、柊のもとへ戻ってくる。
「お疲れさまでした」
「おう。まずは水分を取って、少し休め」
「はい」
ゼータがベンチに腰を下ろすと、柊は手元の記録を確認した。今日のメニューは、予定していた内容をすべて終えている。ペースも安定しており、走りに目立った乱れはない、それでも、柊の中には拭えない違和感が残っていた。
「なあ、ゼータ」
「はい?」
「今日のトレーニング、実際にやってみてどうだった?」
「そうですね……。昨日よりも身体が動かしやすかったですし、ペースもそれほど苦労せずに維持できました。持久力の方も、特に問題はなかったと思います」
「そうか。じゃあ、走っている最中に、もう少し速く走れそうだとか、まだ余裕があるとか、そういう感覚はあったか?」
「……いえ、走っているときは、あまり意識していませんでした。柊さんに指示されたことを守ろうと考えていたので」
「なるほどな」
柊は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。ゼータの返答に不自然なところはない。質問に対して考えながら答えているが、何かをごまかそうとしている様子もなかった。つまり、彼女は本当にそう感じているのだろう。指示を守り、真剣に取り組んでいる。それは間違いない。だが、柊が見ていた限りでは、まだ余力が残っていた。
自分の感覚と、実際の走り。
その二つに、わずかな食い違いがある。柊はもう一度、ゼータの走りを思い返した。最初から最後まで、彼女は真面目だった、手を抜いているわけでも、指示を軽んじているわけでもない。むしろ、一つひとつの動きを丁寧にこなし、期待された役割を果たそうとしていた。それなのに、力を出し切るところまでは至っていない。もし、これが単に力の使い方を知らないだけなら、練習を重ねることで改善できるだろう。
だが――。
(……無意識、か?)
ふと、そんな考えが浮かんだ。本人が意図していないにもかかわらず、自然と力を加減してしまう。そう考えれば、目の前の走りにも説明がつくのだ、しかし、そうだとすれば、別の疑問が生まれる。
なぜ、そこまで自然に力を抑えてしまうのか。身体が覚えてしまうほど、長い間そうしてきたということなのだろうか、何か理由があるのか、それとも、本人にも分からない何かがあるのか。
(こいつは……いったい、何を抱えてるんだ?)
柊は、ゼータの顔を見た。
彼女は休憩を終え、次の指示を待っている。表情には疲労こそあるものの、トレーニングをやり遂げた充実感も見て取れた。少なくとも、走ることそのものを嫌がっているようには見えない。真剣に取り組んでいるしそれどころか少し楽しげだ。
だからこそ、分からなかった。
これほど真面目に走ろうとしているウマ娘が、なぜ自分でも気づかないほど自然に力を制限してしまうのか。その理由が、柊にはどうしても気になった。
「……柊さん?」
「ん? ああ、悪い。ちょっと考え込んじまった」
「やっぱり、何か問題があるんですか?」
「いや、今のところ問題があるわけじゃねぇよ。ただ、もう少しお前さんの走りを見ておきたいと思ってな」
「私の走り、ですか?」
「ああ。今日のところは、指示したメニューをきちんとこなせてる。だから、今すぐ何かを変える必要はねぇ」
柊はそこで一度言葉を切り、ゼータの目を見た。
「ただ、自分の身体がどう動いているのか、走っているときに何を感じているのか。そういうことは、これから少しずつ意識してみてくれ。無理に意識する必要はねぇぞ」
「分かりました。自分でも、もう少し考えてみます」
「おう。焦らずやっていこうぜ」
「はい!」
ゼータは明るく返事をした。柊はそれ以上、何も尋ねなかった。
今はまだ、彼女の事情に踏み込む段階ではない、だが、いつか理由を知る必要がある、そう思いながら、柊は今日の記録に目を落とした。
「そういえば、ゼータちゃん」
着替えを済ませ、トレーナー室に戻ったゼータに彩乃が声をかけた。
「はい、何ですか?」
「ルドルフさん、次のレースが近いんだよね?」
「ええ。新馬戦を終えて、次のレースに向けて準備していると聞いています」
「そっかぁ。人によってはデビューしたばかりの子もいるのに、もう次のレースなんだね。やっぱり、すごいなぁ」
「そうですね」
彩乃は感心したように頷いた。シンボリルドルフの名前は、学園の中でもよく知られている。彼女の走りに期待を寄せる者は少なくない。そして、ゼータにとっては誰よりも身近で、尊敬する姉だった。
「姉さんなら、きっと大丈夫だと思います」
ゼータは微笑みながら答えたそれは、心からの言葉だった。幼い頃から、姉の背中を見てきた、努力を重ね、周囲の期待に応え、自分の信じる道をまっすぐ進んでいく。そんな姉を、ゼータは誇りに思っていた。
「ゼータちゃんも、ルドルフさんのレースを見に行くの?」
「今回はそう遠く無いですし予定が合えば、ぜひ見に行きたいですね」
「そっか! 私も見てみたいなぁ。ルドルフさんのレース」
彩乃は楽しそうに話を続ける、ゼータも相槌を打ちながら、姉の次のレースに思いを馳せていた。姉は、これからも走り続けていく。その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。それでも、姉は自分の選んだ道を進んでいくのだろう。では、自分はどうなのだろうか。
ゼータは一瞬、考えを止めた。
自分もまた、走ることを望んでいたはずだった、走ることが好きだった、姉のように、誰かの心に残る走りをしてみたいと思ったこともある。けれど、今の自分には、走り続けることが正しいとは思えなかった。
結果を残した後、競技者としての道を終える。その決意は、今も変わっていない。
「……ゼータちゃん?」
「あっ、すみません。少し考え事をしていました」
「疲れちゃった? 今日もトレーニングだったんでしょ?」
「いえ、大丈夫です。本当に少し考え事をしていただけなので」
「そっか。何かあったなら相談してね!あんまり無理しないように!」
「ありがとうございます、彩乃ちゃん」
ゼータは再び微笑んだ。胸の奥に生まれた小さな引っかかりには、気づかないふりをした。
その日の夜。
入浴を済ませ、寝る支度を整えたゼータは、机に向かってノートを開いた。柊から言われたとおり、トレーニングの内容や身体の状態を記録するためだ。最初のページから少しずつ増えていく事を考えると、自分がトレーナーとして学ぶための一歩を踏み出したのだという実感が湧いてくる。
選手の状態を把握し、練習内容を振り返り、次につなげる。トレーナーにとって、記録を残すことは大切な仕事の一つだ。いつか自分が誰かを担当することになったとき、この経験はきっと役に立つだろう。
そんなことを考えながら、ゼータは今日の内容を書き始めた。まずは、実施したトレーニングの内容。次に、身体の状態や疲労の具合。そして、今日の走りについて気づいたこと。
ペースは安定していた。加速も問題なく、持久力にも大きな不安はなかった。けれど、柊に尋ねられたことが、どうしても頭から離れなかった。
――もう少し速く走れそうだとか、まだ余裕があるとか、そういう感覚はあったか?
言われれば違和感はあった、だが自分では真剣に取り組んでいるつもりだった。指示されたことを守り、より良い走りができるように努力している、それなのに、柊には余裕があるように見えたらしい。自分では気づいていなかったことを、他人から指摘されて気付いた。
それは、トレーナーを目指すうえでも大切な経験なのかもしれない。選手自身が感じていることと、外から見た状態が必ずしも一致するとは限らない。だからこそ、選手の言葉を聞き、実際の動きを観察し、その両方から状態を判断する必要があるのだろう。ゼータはペンを動かしながら、そんなことを考えた。
しかし、自分自身のこととなると、話は別だった。走っているとき、力を出そうとしていないわけではない。それでも、どこかで自然と加減してしまっているのだとしたら。自分は、いつからそうなっていたのだろう。どうして、そうなってしまったのだろう。
考えてみても、明確な答えは浮かばなかった。
「……分からない」
小さく呟き、ゼータはノートに視線を落とした。今は、分からないことを無理に答えにする必要はない、分からないのなら、これから考えていけばいい。柊も、焦らずやっていこうと言ってくれた。ならば、今の自分にできることを、一つずつ積み重ねていこう。
ゼータは最後に、今日の気づきを短く書き留めた、そしてノートを閉じ、机の引き出しへとしまい眠りについた。
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