愚者は妖精と踊る 作:千年香
深い暗闇の底から泡のように浮かび上がる意識。
「…………ん……」
瞼が震え、小さな呻き声が喉の奥から零れ落ちる。
ゆっくりと瞼が開かれ、暗闇になれていた瞳孔が久方ぶりの光に反応してピントを合わせた所で、
同時に、鼻腔を擽る独特な薬材のニオイ。
どうにか上体を起こせば、そこは先の薬材のニオイと木のニオイが入り混じりながらも不快感の無い落ち着く空間。
ぼんやりと周囲を見渡してから、ユーゴはふと両手に視線を落とした。
「傷が、無い?」
人間の左腕と、異形の右腕。そして裸の上半身には、何れも傷の一つも見受けられなかった。
傷の有無に気付くと同時に、眠りにつく前には何処が痛いのか分からないほどにボロボロだった自分の体には痛みの一つも残っていない事にも気が付く。
強いて挙げれば、寝すぎた後のように体が怠さを訴える位か。
自分の状態を思い出そうとするユーゴ。そんな彼の聴覚が、不意に部屋に通じる扉の開閉音を聞き取った。
入ってきたのは、年嵩の女性。起き上がっている少年に肩眉を上げる。
「……ん?起きたのかい」
「あ、はい…………貴女は……」
「私は、ポーリュシカ。妖精の尻尾の顧問薬師さ。アンタの治療を任されたんだよ」
「!あ、ありがとうございます!」
「頭を上げな。それがこっちの仕事さ」
慌てて頭を下げたユーゴに対して、ポーリュシカはそっけない態度である。
何かしてしまっただろうか、と眉を下げる少年だったが彼女の態度は何も彼自体に問題がある訳ではなかった。
「さて、と。二週間程度は寝てたんだ。もう体はすっかり治ってる。魔力も回復しただろう?さっさとベッドを空けな。私は、人間は嫌いなんだよ」
しっしっ、と虫でも払うように手を動かすポーリュシカ。
だが、ユーゴはそれどころではない。
「に、二週間……?」
ズタボロであった自覚はあるが、それでもそんな長い時間寝込む事になるとは思っても見なかった。
因みに、彼の意識を失っている間の内訳としては治癒に4割、魔力回復に3割、肉体適応に3割といった振り分け方となっていたりする。
意識を失っていた期間に驚き、同時に彼はとある事にも意識が至る。
「あ、あの……ポーリュシカさん」
「なんだい。着替えなら、そこに新しいのを用意してるから、ソレを着な」
「い、いえ、そうではなく……あの、おいくらでしょうか?」
「何がだい」
「治療費と、その……新しい服の料金です。お恥ずかしながら、ギルドを追い出されて先立つものが今の僕には無くて……請求書みたいなものがあれば有り難いんですけど………」
困った様に眉を下げた少年、ポーリュシカは眉をひそめた。
診断したから知っているが、彼女の目の前に居る少年は年の頃で十代半ばといった所。魔導士は早熟な者が多いが、それでもまだまだ子供と呼んで差し支えない年齢だ。
にも拘らず、彼はまるで大人のような事を口にする。
「……支払いに関しては気にする必要ないさ。どうしても気に病むってんなら、マカロフに言いな」
「あ……そう、ですか………」
にべもないとはこの事か。
流石にこれ以上は居られない、とポーリュシカが部屋を出ていったのを確認してからユーゴはベッドから立ち上がった。
用意されていた白いカッターシャツと黒いパンツを身に纏い、黒い編み上げブーツに足を通す。
ラフな格好だが、用意されたものに不満を述べるような人間でもないユーゴは長さの余ったシャツの袖を二回ほど折り曲げる。
手首より若干下になった袖を見下ろして、ユーゴは軽く伸びをして体の調子を確認すると静かに部屋を後にするのだった。
*
抗争から暫くが経ち、崩壊した本拠地の再建と並行して仕事を行う
酒場を兼任した本拠地が健在だったころは、昼間から飲んでいるメンバーも居たのだが現在は就労意識の強い期間らしく大半の魔導士たちは仕事に精を出している。
そんな閑散としたギルドの仮設受付にて、ミラジェーンは少々手持無沙汰にグラスを磨いていた。
彼女もまた妖精の尻尾に所属する魔導士の一人だが、とある一件から魔法がほぼほぼ使えなくなり、今は受付嬢兼酒場の看板娘として働いているのだ。
先の通り、今は多くのものが出払っているか、或いは本拠地の建て替えに精を出している状態。
仕事が多い事は喜ぶべき事なのだが、それはそれとしていつもの騒がしさが恋しいというもの。
そんな複雑な内心のミラジェーンが立つ臨時の受付に近づく一つの足音。
「すみません、今大丈夫ですか?」
「あ、はーい。ちょっと、待って………」
声に反応してミラジェーンはグラスを置いて顔を上げ、そして言葉を失った。
見ず知らずの相手、ではない。しかし、知り合いと言えるほどの友誼がある訳でもない。
ほんの一時、共に轡を並べた相手。そして、最後の最後まで本来は敵である筈の自分達を庇いながら倒れた相手。
一二も無くミラジェーンはカウンターを走って抜け出すと、彼女の突然の行動に目を丸くしていた少年へと駆け寄ってその手を取った。
「目が覚めてよかった!皆心配してたのよ?」
「え、あ、その……ありがとうございます?」
突然に美女に詰め寄られた挙句、その両手を取られて満面の笑みで感謝を告げられて少年、ユーゴはしどろもどろになりながら視線を逸らした。その頬には若干の赤みが差している。
老成しているように見えても、彼もまた十代の少年なのだ。相応の欲求もあれば、興味や好奇心もある。
そんな諸々から照れを覚えつつも、気を取り直して彼は前を見た。若干、視線が揺れているのはご愛嬌。
「えっと……マスター・マカロフはいらっしゃいますか?」
「あっ、マスターに用事なの?さっきまで居たから、直ぐに戻って来るんじゃないかしら」
「そ、そうですか……少し、待たせていただいても良いですか?」
「もっちろん!ほら、座って座って!」
テンションの高いミラジェーンに手を引かれて、おっかなびっくりユーゴは勧められた席へと座る。
カウンダ―内へと戻ったミラジェーンは、キョロキョロと何処か落ち着かない様子の少年の前にグラスを置いた。
「何か飲む?と言っても色々とある訳じゃないけど」
「あ、お構いなく」
「まあまあ、そう言わないで」
ジュースで良い?とグラスには橙色のジュースが注がれる。
見た目にそぐわず、押しが強い。困った様にユーゴは眉尻を下げると、流石に親切を無下にする事も出来ずグラスへと手を伸ばした。
そこでふと、自分が二週間の昏睡状態だったことを思い出した。とたんに、視線を落としたジュースがとんでもないご馳走に思えてくる。
チラリと伺うように、ユーゴが視線を上げればミラジェーンが満面の笑みで頷きを返してきた。
グラスを手に取り、口をつけ一口。
「!」
甘酸っぱく、同時に芳醇な香り。
ジュース自体は、特別なものではない。単に、二週間飲食物に触れて来なかったユーゴの味覚が当然の味蕾への衝撃で無理矢理覚醒させられて半ば暴走しているという事。
キラキラと嬉しいという感情が雰囲気として発せられる少年に、ミラジェーンは微笑を浮かべた。
戦線を共にしたときは、背中しか見えなかった。常に、ユーゴが他四人を守る様に立ち回っていた為当然と言えば当然なのだが。
身長は特別高い訳ではないのだが、身の丈と同等程度の大きさの大剣を片手で振るうその背中は見た目以上に大きく頼もしかった。
その背中を知っているからこそ、年相応のあどけなさを感じられる様子は見ていて楽しい。
夢中でジュースを飲み干してしまったユーゴは、最後の一滴を飲み込んだ所で我に返った。
「あ、その……すみません、子供みたいに」
気恥ずかしさを覚えて、グラスを置いたユーゴは左人差し指で頬を掻きながら視線を逸らしす。
実際子供なのだが、育った精神面が自身の子供っぽい所作に対して羞恥を感じてしまっていた。
「ふふふ、良いのよ。もう一杯飲む?」
「あ、いえ、大丈夫です……」
「そう?」
「はい……あの、」
何かを言おうとしたユーゴ。
だが、その口から言葉が紡がれる前に人の気配が近づいてきた。
「ふぃー、暑い暑い。ミラ、水を貰えんか?」
「あら、マスター。休憩?」
「年は取りたくないもんじゃな。昔ほど、身体が動かんわい」
やって来たのは、小柄な老人。作業服姿で、首にタオルを掛けた格好。
笑顔で応対するミラジェーン。一方で、少年が動いていた。
「初めまして、マスター・マカロフ」
椅子から立ち上がったユーゴは、折り目正しく礼儀正しく、深々とその頭を下げる。
突然の相手の行動に目を瞬かせる、マカロフ・ドレアーだったが頭を上げた少年の顔には見覚えがあった。
「ほう、お前さんか」
「ユーゴ・カガリといいます。本日は用件があって訪ねさせていただきました」
「フム……まあ、立ち話もなんじゃし、そこに掛けてくれんかの」
そう言って、マカロフはカウンターの上へと飛び乗る。
用件はどうあれ、覚悟の決まった目をした子供を邪険に扱うような事はしない。マカロフは、そういう男だった。