よう実×ヒカルの碁 作:れもねーど
「まぁ! ヒカル、見てごらんなさい! あの建物の形、まるで巨大な碁盤のようではありませんか!?」
脳内に直接響く、平安の天才棋士の無邪気な声。
満員のバスの車内、窓の外を流れる景色を見つめながら、俺――進藤ヒカルは小さくため息をついた。
(静かにしろって、佐為。声に出してなくても、俺がキョロキョロしてたら怪しまれるだろ)
「だって仕方がありません! 二度目の人生とはいえ、ヒカルがまたこうして学校という場所へ通うのです。私は嬉しくて、嬉しくて……!」
脳内で袖を振り回して喜ぶ佐微を、俺は座席に腰掛けたまま、苦笑交じりになだめる。
二度目の人生。
一度目の人生では、俺はただがむしゃらに囲碁にのめり込み、プロの荒波に揉まれ、世界の強豪たちと戦ってきた。心残りは何もない。だからこそ、この二度目は「ごく普通の、平穏な高校生活」を楽しもうと、この全寮制の『高度育成高等学校』を選んだのだ。
だが。
(……普通の高校、ねえ。まぁ、まずは無事に合格できてよかったよな)
俺は座席に腰掛けたまま、窓の外を眺めて小さく息を吐いた。
車内を見渡せば、これから始まる新生活への期待でそわそわしている新入生ばかりだ。友達同士で楽しげに話す声や、スマホをいじりながら落ち着かない様子でいる奴など、どこにでもある普通の、平和な光景が広がっている。
だが、そんなのどかな空気は、ある老婆が乗車してきたことで、一変して「気まずい沈黙」へと変わることになる。
満員電車の乗客がよくやる、アレだ。
誰もが「誰かが譲るだろう」と周囲を伺い、視線を逸らし合う。
一度目の人生で、プロ棋士として常に『盤面全体(大局)』を見る訓練をしてきた俺には、その車内の気まずい空気の流れや、乗客たちの視線の動かし方が、まるで手に取るように分かってしまった。
譲るべきか、譲らざるべきか。
誰もが「誰かが譲るだろう」と周囲を伺い、気まずい沈黙が盤面を支配する。
「席を譲ってあげようって思わないの?」
その沈黙を破ったのは、一人のOL風の女性だった。彼女が声をかけたのは、優先席で堂々と足を組んでいる金髪の男──高円寺六助。
「そこの君、お婆さんが困っているのが見えないの?」
女性の声はよく通り、乗客たちの視線が一斉に集まっていた。
「実にクレイジーな質問だね、レディー」
少年は無視、あるいは女性の言うことに素直に従うかと思われたが、実際はそのどちらでもなくニヤリと笑いながら足を組みなおした。
「何故この私が、老婆に席を譲らなければならないんだい? どこにも理由はないが」
「君が座ってる席は優先席よ。お年寄りに席を譲るのは当然でしょう?」
「理解できないね。優先席はあくまで優先席であって法的な義務はどこにも存在しない。この席を譲るか否か。それは今現在この席を有している私が判断することなのだよ。若者だから席を譲る? 実にナンセンスな考え方だ」
鏡で前髪をいじりながら、唯我独尊の態度を崩さない。屁理屈とも取れる持論を展開し、席を譲ることを拒否する金髪の男。
「私は健全な若者だ。確かに立つことに何の不自由も感じない。しかし、座っているときよりも体力を消耗することは明らかだ。意味も無く無益なことをするつもりにはなれないねぇ。それとも、チップを恵んでくれるとでも言うのかな?」
「そ、それが目上の人に対する態度!?」
「目上? 君や老婆が私よりも長い人生を送っていることは一目瞭然だ。そこに疑問を挟む余地も無い。だが、目上とは立場が上の人間を指して用いる言葉だ。それに君にも問題がある。歳の差があるとしても生意気極まりない実にふてぶてしい態度ではないかな?」
「なっ……! あなたは高校生でしょう!? 大人の言うことを素直に聞きなさい!」
「も、もういいですから……」
OLはムキになっていたが、老婆はこれ以上騒ぎを大きくしたくないようで、手振りでOLを宥めていたが、当の彼女は怒り心頭といった様子で落ち着くことはない。
「どうやら君よりも老婆の方が物分りがいいようだ。いやはや、まだまだ日本社会も捨てたものではないな。老婆よ、残りの余生を存分に謳歌するといい」
少年はそう締めくくるとイヤホンを耳に入れ、爆音で音楽を聴き始めた。
その光景にOLは悔しそうに歯を噛み締める。
「すみません……」
女性は必死に涙をこらえ、老婆に対して小さく謝罪していた。
強引に話は終息したものの、バスの車内の空気は最悪と言っていい。