「今日はカセンの弟さんの話聞かせてよ」
「ん? いいよ。前はどこまで話したかな」
「冒険の途中で湖に落っこちて、風邪引いちゃったってとこまでだったはず」
「覚えてくれてたんだ。嬉しいな。そう、その時は流石に僕も焦ったんだよね」
のどかな、本当にのどかな場所だった。
遮るもののない広い庭園に、優しく交わされる二人の声が穏やかに溶けていく。見上げる空には、もこもことした羊の群れのような白雲が点々と浮かび、澄み切った青の中をのんびりと散歩でもしているかのように緩やかに流れていた。
傍らに広がる大きな湖は、その美しい空模様を鏡のように忠実に映し出している。時折、悪戯っぽく吹き抜けるそよ風が水面を揺らし、水鏡を歪めては、またすぐに元の静寂へと戻す___そんな営みを、飽きることなく繰り返していた。
現実の、カルデアにおける特異点修復の旅路は今のところ順調だ。……もちろん、トンチンカンなハプニングや、命の危機に瀕するような戦いは数知れない。しかし、それでも人理修復という大目的そのものを完全に停滞させてしまうほどではない、という意味において、辛うじて順調であると定義できていた。
カルデアはただ、前へと進む。こちらの奮闘に敵側も何かしらの脅威を感じているのか、歴史の歪みが正されるにつれて、次の道行きはますます険しく、苛烈なものへと変貌している。
目まぐるしく変わる前線、絶え間ない緊張感。マスターである立香には、一瞬の油断すら許されない。下手をすれば、張り詰めた糸が切れるのを恐れて、一息吐くことすら忘れて息を詰まらせてしまうような日々。
しかし、この夢の場所だけは、相も変わらず穏やかなままだ。
まるでどこかの美しい風景を切り取り、大切な写真として額縁に飾っているかのように。立香が初めてこの場所に招かれた夜から、草木の揺らめき一つ、空気の温度一つとっても、一切変わらない姿でそこに存在していた。
立香にとって、それが何よりも心地よかった。
何も変わらない。誰も傷つかない。ただのんびりと無為な時間を過ごすことができるこのまっさらな空白の時間こそが、戦い続ける彼女の心に許された、数少ない憩いの場の一つであったのだ。
「あいつはこの時代で言う免疫機能が弱かったんだろうね。僕の所を訪ねてくれる時もしょっちゅう体調を崩していてさ。せっかく僕の所に来れたのに悔しいって、ベッドで大人しく寝込みながら暴れてたんだ」
「寝込みながら暴れるって、器用だね弟さん。……カセンの時代では、病気とかってやっぱり大変だった?」
「そうだね。薬の効能とか微妙だったし、弟みたいに寝込んでもすぐ自力で回復できるような子は少なかったかな。僕もどちらかと言えば病弱な方だし」
「そうなの? あんまりそうは見えないな……」
立香は、目の前でお茶を嗜むカセンの姿をまじまじと見つめた。
薄い金髪に、一筋だけ混じる鮮やかな赤が編み込まれた小さな三つ編み。凪いだ湖のように穏やかな灰色の目。確かに華奢ではあるが、夢の中の彼はどこか超然としていて、病の影など微塵も感じさせない。
「そりゃあ、ここは夢の中だからね。生身の時はもうちょっと肌とかが青白くてさ。初見の人には病人かって毎度のごとく疑われるくらいには、見るからに儚い感じだったよ」
「美少年属性に病弱な儚さが追加されるってこと……!?」
「なんて?」
聞き慣れない言葉に、カセンは不思議そうに小首を傾げた。
こうして、目の前の妙に顔の良い少年とゆったり午睡のような時間を過ごすのは、立香にとってちょっとした秘密だった。例えるなら、部屋で一人きりの時に、こっそりとお気に入りのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたり、その匂いを思い切り吸い込んで安心したりするような……。もし万が一にでも誰かにバレたら、顔から火が出るほどとは言わなくとも、恥ずかしくてむず痒くなる、けれど絶対に手放したくない、小さくてかけがえのない大切な秘密。
立香にとって、この夢とはそういう温かいものだった。
___といっても。時々この少年は、立香に温かい癒しではなく、背筋が凍るようなひんやりとした鋭い衝撃をぶち込んでくることがあるのだが。
「僕が寝込んだ時の弟はすごかったなぁ。あいつも病気にかかりやすいクセして、僕のベッドの傍から頑として離れようとしないんだ。普段なら、母上が厳しく注意すれば大人しく従うのに、その時だけはどんなに言われても絶対にテコでも動かなくてさ」
「へえ……そういうところはお兄ちゃん想いの可愛い弟さんって感じだね」
「うん。あと、僕が使用人に毒を盛られた時は、弟の怒りが凄まじくてね! 危うく屋敷の使用人を全員打ち首にしそうな勢いで剣を抜いて暴れ回ったから、体調が悪い中で宥めるのが本当に大変だったんだよ」
「待って」
……このように。
カセンという少年の感性は、どこか決定的にズレている。
今のように、現代の価値観であれば到底信じられないような……いや、現代でなくても、普通なら少しは言うのを憚られるような大事を、なんにもないような調子で、さも「昨日の晩ご飯がね」というような気軽さで平然と言ってのけるのだ。
「なに? 暗殺を企てられたり毒を盛られたりなんて、貴族や王族なんかにはよくあることだよ。だからこそ、スペアとかで子沢山なんだしね」
「んん〜〜倫理! ストップ! もうちょっとこう、現代人の胃に優しいマイルドな話が欲しいな!?」
「繊細だなぁ。別に僕自身は気にしていないし、ここからが弟の可愛いところなのに」
「そういうことじゃないから! 私の心がキュッて締まっちゃうから!」
今回は「毒を盛られておいて本人はケロッとスルーしていること」や、「弟さんが一歩間違えれば大量虐殺を犯しそうになっていたこと」など、不穏の役満のような話が挙がったが、カセンはこの他にも様々な“闇”を感じさせるエピソードで、度々立香の胃を痛めつけていた。全肯定お兄さんなカセンのフィルターを通すと、どんなにクレイジーな出来事も「可愛い弟のやんちゃ」に変換されてしまうのが一番恐ろしい。
「仕方ないな、立香は注文が多いや。なら……僕が庭で見つけたいい感じの小枝を渡してあげたら、弟が感極まってそれをそのままバリバリ食べようとして、未遂に終わった話でもしようか」
「チェンジで!!」
「残念。今日の僕はチェンジは1回までしか受け付けないよ。というわけで小枝の話だけど、まず弟には、僕からの贈り物はどんな些細なものでもとても大切に保存しようとするっていう可愛い癖があってね。それが発展した結果……」
なにかマシな別の話をしてもらおうとした結果、さらに違うベクトルで頭の痛い方向に飛んでいる話を嬉々として始めようとするのは、カセンにはよくあることだった。ちなみに彼は割と、というか相当な自由人であり、立香がどれだけ両手で耳を塞いで拒否を示しても、微笑みながらそのまま楽しそうに話を続けることがざらにある。
(あ、この展開……前にも全く同じことがあったな……)
立香は諦めの境地に達し、遠い目をした。
目の前で止まることなく楽しそうに弟自慢(果たして小枝を食べようとすることは自慢に入るのだろうか……)を続ける。これをなんとか脳内で中和するために、前に彼から聞いた話の中でも、数少ない“本当の意味で、まだマシな方の”可愛らしい兄弟エピソードを記憶の底から必死に掘り起こしていた。
…………
「僕ね、実は鳥を飼っていた事があるんだ」
カセンは手元にあった上品な白磁のティーカップをそっとソーサーに戻し、どこか遠い目をして微笑んだ。
「ヨウムっていう、声真似が上手な賢い鳥。君の故郷ではあまり名は通っていないかな? 彼女は灰色の身体に綺麗な赤色の尾羽根を持っていてね。それが一等映えていて、本当に綺麗な子だったんだ」
鳥を飼っていた時の話という出だしは、これまでの物騒極まりないエピソードに比べれば遥かにマイルドで可愛らしい響きだった。立香は「これなら安心して聴けるかな…?」と内心でホッと胸をなでおろし、身を乗り出した。
「へえ、鳥! ヨウムって知ってるよ。オウムの仲間ですごく頭が良いんだよね。カセンが飼ってたんだ?」
「うん。と言っても自分で飼おうってなったわけじゃなくてね、弟が僕にプレゼントしてくれたんだ」
「あ、弟さんからのプレゼントなんだ。……今回はまとも、だよね?」
思わず警戒の眼差しを向ける立香に、カセンは「失礼だなあ。可愛い弟からの素敵なプレゼントなんだよ?」と苦笑してみせる。
「もちろん。当時の僕にとっては、少し飼育に手間取ることもあったけどね。でも、たくさん世話を焼いていくうちに、彼女は僕にとてもよく懐いてくれるようになったんだ。毎日ご飯をあげて、羽繕いを手伝って、根気強く話しかけて……。そうしているうちに、驚いたことに彼女、言葉を覚えるだけじゃなくて、僕と話すようになったんだよ」
「言葉の真似事じゃなくて?」
「そう。彼女は本当に、賢い子でね、まるで人のようだった。だから僕にとっては、単なるペットというよりは、一人の同居人のような感覚だったんだ。喋る内容といえば、もっと美味しいものが食べたいとねだられたり、もっと日光を浴びたい、あっちの部屋で遊びたいっていう、彼女からの要求がほとんどだったけどね。それでも僕にとっては退屈しない、いい時間だったよ」
カセンのまなじりがゆったりと下がる。凪いだ瞳に滲むものは慈しむ人のそれで、立香から見ても、きっと大切な思い出の一つだったのだろうと察せられた。
______しかし、やはりそこはあのカセンのエピソードである。話がそのまま平和に終わるはずがなかった。
「だけどある日、ちょっとした不思議なことがあってね。彼女といつものように話しているうちに、僕が教えていないはずの言葉を、彼女がいくつも口にするようになったんだ。不思議に思って、“それは誰に教えてもらったの?”って聞いてみたら……どうやら、弟が関係してたみたいでさ」
「あ……(察し)」
「あいつ、僕のいる屋敷へ来るたびに、しかも僕が部屋を外してる間にだけ彼女に語りかけてたらしいんだよね」
カセンは「くすくす」と吐息を漏らして、本当に可笑しそうに肩を揺らした。けれど、そこからカセンの口から語られた弟の発言は、立香の予想を裏切らない、十分に重苦しいものだった。
「彼女の言葉を借りて再現するなら、こうさ。
“兄上は俺のカリバーンであって、もしものことがあればお前よりも俺を優先してくれるんだ。そこを履き違えるんじゃないぞ、鳥畜生!”って、まずは牽制から入ったみたいでね」
「鳥相手に大真面目にマウント取ってる……!?」
「それだけじゃないよ。他にもね、“兄上は素晴らしい人なんだ、俺には勿体ないくらい。でも俺は兄上を手放せないし、手放す気などない。あまりさみしい思いをさせてはいけないと思ってお前を贈ったが、今は少し後悔している”とか」
「重い! ちょっとどころじゃない重さだよ弟さん!」
「極めつけはこれだね。“兄上に世話を焼いてもらえるお前が羨ましい。名前まで貰って、あんなに慈しんで頂いているだなんて。クソ、俺もあんなふうに兄上に甘やかしてもらいたい……!”……もうね、面白くてたまらなかったよ。鳥を相手になに言ってるのさって感じじゃない?」
「感想そこ!? 確かにそうだけど他にもあるよね!? 弟さんめちゃくちゃキレてるじゃん! 自分で贈ったペットに嫉妬して幼児退行しかけてるじゃん!」
「あはは、そうだね。あとは“兄上の一番は俺だからな……だから俺は兄上が可愛がっているお前を殺したりなんてしないとも、ああ。殺してはいけない、んだ……!”って、自分に言い聞かせるようにぶつぶつ呟いていたらしいよ。こんな調子でいっつも喋りかけていたみたいでね。彼女、げんなりとした様子で“あいつうるさい、めんどくさい、どうにかしなさいよ”って僕に愚痴をこぼしてきたんだ」
カセンは相変わらず「僕のこと好きすぎて鳥にまでヤキモチ焼くんだよ? 可愛いよねえ」と、のほほんとした調子でカップを持ち上げて紅茶を傾ける。しかし、立香の背中には冷や汗が流れていた。鳥相手に嫉妬したり“殺してはいけない”などと言っている彼の弟の様子を想像してしまったからだ。この時だけは立香は自分の想像力の豊かさを悔いた。どう考えてもそんな場面は普通にホラーの領域である。
「それでね、流石に僕も弟を注意したんだ。“僕の鳥なんだから、あんまり苛めないでやってね”って。それと、“そんなに甘えたいならコソコソ鳥に愚痴を言ってないで、ちゃんと言いなよ。思いっきり可愛がってあげるけど?”って伝えたんだよね」
「うわあ……。で、弟さんの反応は?」
「それはもう、もの凄く焦っていたよ。顔を真っ赤にして“もしや千里眼で視ていたのですか!?”って僕に詰め寄ってきたから、“いや? 彼女が教えてくれたんだ”って伝えたんだ。そこで初めて、自分が贈った鳥が人と会話できるくらい賢いって知ったらしくてさ。僕はてっきり僕の監視用に彼女をくれたんだと思ってたから、お互いに予想外だったみたいだね」
「自業自得とはいえ、弟さんのプライドが粉々になってそう……待って。監視用ってなに!? ツッコミが追い付かないんだけど!」
「ふふ。……それ以来は弟も彼女も遠慮しなくなったらしくてね。弟が屋敷に来るたびに、彼女と激しいバトルが勃発するようになったのさ。弟が僕の隣をキープしようとすれば、彼女が僕の肩に飛び乗って、お互いに牽制し合うんだ。騒がしくて凄かったよ、まさにキャットファイトってやつだね。千里眼で何回も視たり、後から彼女に“今日もあいつに勝った”なんて報告を受けたりして、すごく楽しませてもらったよ」
懐かしそうに目を細めるカセンを見て、立香は「そんなの楽しんでたんだ……」と遠い目になった。色々と観点のズレた兄と、ドロドロした独占欲を持ったアレな弟、それから愚痴をぶつけられていて不憫だけどなにやら強そうな賢い鳥。そのなんとも奇妙な空間を、この少年は微笑ましいものとして捉え、過ごしていたのだ。
「そんな彼女とは、それから十数年ほどの仲だったんだ。僕の人生で面白おかしくて素敵な時間をくれた、本当に大切な女の子だったよ」
ふっとカセンが微笑む。その笑顔には先ほどまでの楽しかった思い出を懐かしむよりも、失ってしまった痛みを噛みしめるような、切なさや儚さがあったように見えた。
十数年。
普通のヨウムの寿命は40年ほどは生きると聞いていたが、そのことからすれば、彼らの居られた時間は少し短いものだったかもしれない。けれど、その歳月がどれほど濃密で、かけがえのないものだったかは、カセンの表情を見れば言葉にしなくても伝わってきた。
「……うん。ちょっと、いや、大分弟さんの奇行は怖かったけど。でも、素敵な話だね。カセンがそのヨウムのことを本当に大事にしてたんだなっていうのは、すごく伝わってきたよ」
立香がそう言うと、カセンは少し驚いたように瞬きをした後、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう、藤丸。やっぱり君に話してよかったな。……」
「あ、じゃあ、次こそ普通の……本当に普通の、弟さんのドジっ子エピソードとかでお願いします……」
「なんでさ。どれも可愛い話だろう?」
そう言って笑うカセンの瞳は、やはりいつもと同じ灰色の凪いだ瞳だった。
…………
ここまで回想して、立香は思った。
もしや……自分の考えるような穏やかな彼らの思い出とは、実質ないのではなかろうか……と。
本日の兄弟+αの様子
鳥畜生(彼女)「見ナサイゴ主人! アタシノ綺麗ナ羽ヨ! 特別ニアンタニアゲルワ!」
ウィリアム「おお、ほんとに綺麗だ。手入れができてる証だね。ありがとう」
鳥「(ドヤァ……)」
リチャード「…………(鳥が、自らの羽を渡す意味は……、)
……兄上! 俺は髪を今ここで切ろうと思うのだが! 切った後の髪を受け取ってもらえないだろうか!!!」
ウィリアム「切らないで。というか剣を室内で振らないで。鳥と張り合ってどうするのお前」
仁義なきキャットファイトが行われている。