手鏡に映る辛気臭い無表情を、作り慣れたいつもの笑顔へと調整して、暗闇を見つめる。
あのポスターから推測した事が正しければ、笑顔でいるべきなのだろう。無論、影に遭遇したのならの話ではあるが。
手鏡をバッグに仕舞い、代わりにその手にナイフを握る。意味があるかもわからないけれど、鈍く光を反射するそれは、今の私にとっての精神的な灯でもあった。
あの異変があった扉を後回しにして、まずは最初の部屋から最寄りの暗い部屋へと私は踏み入った。
音は反響しない。異臭や、入ってみて初めて見えるものもない。狭い部屋ではないだろうという予想を立てながら、一歩ずつ進む。
そこで、自分でもわからない何かを感じて、上へと顔を向ける。そうして私は見つめられていることに気づいたのだ。
私を見下ろす、二つの貼り付けられたような、くっきりと浮かぶ瞳。それは暗闇の中で、光のルールを無視して私を確実に捉えていたのだ。
「は、は……どうも?」
自分でも、表情が引きつってしまったのがよくわかった。我ながらわけのわからない反応を返してしまう。影もまた、そんな私の機微を察知したのか、視線を増やした。物理的にである。ぎょろりと暗闇に開かれて、波のように広がっていく。
つまり、私が表情を崩した瞬間に、部屋の暗闇は全て影となり、瞳のゆりかごになったのだ。
天井、壁、床、もちろん足元も、この部屋は隙間なく瞳に覆われ、無数の視線に晒されることとなった。
咄嗟に部屋を出ようと後退するが、それはできなかった。足が沈んだのだ。先程まで硬質な床であったはずの場所が、泥沼のように変質している。思わず目を向ければ、瞳の付いた影は液体のように足を飲み込んでいた。
狩りや罠、または胃袋、そんな言葉が脳裏に浮かんでは消える。どう考えても、私は蜘蛛の巣に絡め取られている立場だとしか考えられない。
そこに、瞳により辛うじて輪郭の掴める影が噴出し、私を飲み込まんと迫って来るのが把握できた。ダメ元でナイフを振るい切りつける。
「クソっ……」
空を切るような、何の手応えもない感触。影も瞳も影響を受けず、刃はすり抜けた。
結局私の視界は再びの黒に包まれ、ぶつりと途切れる音と共に暗転した。
◇
「――!」
目を見開いて体を起こし、心臓が動いていることを確認する。そうして周囲を見渡し、ここがあの円形広場……あるいは、全く同じ構造の場所であることを把握した。
続いて、持ち物や衣服の変化、身体の異常がないかを確かめて、ようやく私は一息を吐いた。
「……はぁ、死んではない……と思っておきますか」
広場の長方形に身を預けて、思考を進める。
私の推測はおおよそ当たっていたと判断していいだろう。影は暗闇に関わり、恐怖……もしくは笑顔以外に反応し、行動する。同時に、あれはなんらかの異常な力・性質を有しており、対象を空間を越えて移動させることができる。
とすると、私が少女と逸れたのは、十中八九あの影の仕業だと考えるべきだ。少女もまた、別の場所に移動させられているのかもしれない。階段での暗転を鑑みれば、合流を阻止されている可能性もあるだろう。
だから……どうすればいいのだろうか。物理的干渉は効かなかった。検証は不十分ではあるが、あの手応えのなさには期待できない。そして、廊下からの光はあったにも関わらず、扉に近い位置にも瞳があったことから、光に弱いかも怪しい部分がある。弱いにしても、利用に十分な光源を用意するのは現状では難がある。
一瞬、詰みではないかといった考えが浮かぶ。頭を振って立ち上がり、私は周辺の調査を始めた。
広場の構造はやはり、同一だ。長方形の配置や、四方の廊下とその先も、ここから見える限りでは一致している。最後に上を見て、唯一の変化に絶句した。
天井がある。天井と言っていいのだろうか。正確には大地だ。螺旋階段の先、無限に続いているように見えたそれはほど近い場所で途切れ、その切れ目の高さが揺らいでいる。その揺らぎの先に、街がある。
石畳にガス燈。魔導機関を使う、名前詐欺で有名な汽車が走り、時計塔がこちらへと伸びている。その景色には見覚えがある。あれは、私の住んでいた、私が少女の汽車に乗る前に居た場所だ。
私はそれに恐怖した。私が帰るべきであろう場所。空虚と惰性の内で肉体を擦り減らすだけの現実。無意味な人生の象徴。変化にも不変にも辿り着いていない今の私には、それを見続ける勇気を持てなかった。
「……今は、まだ」
だから私は、そっと現実から目を逸らした。
もし螺旋階段から戻れるのだとしても、揺らぎから見える景色はある程度高い位置からのものだ。時計塔の屋根を見下ろす事ができる位置。それが映っているのだから、揺らぎを越えて、空間を越えられるなら、転落の危険性がある。命を無駄にはできない。そして何より、少女に何も言わずに帰るのも不誠実だろう。そもそも罠の可能性だってあるし、空間の異常ということはつまりあの影に関係があるかもしれない。あの影との接触によって生じた変化なのだから、そう考えるほうが自然だ。あのいかにも怪物的な見た目の存在が素直に返してくれるだろうか? いや、ない。それに幻覚や映像という線もある。揺らぎまでに螺旋階段はそこそこの高さまで昇る必要があるのだから、今は置いておこう。
俯いて再びナイフを手に取り、廊下の再探索に乗り出す。確認していけば、やはり同一構造であるばかりか、私が探索した痕跡すら残っていた。同じ空間で、影に関連して変化が生じたということだろう。最後に、暗い部屋の並ぶ廊下へと足を運ぶ。
廊下自体に変化はない。私が踏み入った部屋の扉が開きっぱなしであることは当然だ。しかし、あのひとりでに開いていた扉が閉まっているのは当然ではない。影の仕業だろうか。
一度私は踵を返して、推定遊戯室へと向かい、床に転がっている方の球を持ってくる。そうしてその球を、開いている暗い部屋に投げ込んだ。球は跳ねてもおかしくはないはずだったが、そうはならず、代わりに床に半分沈んで静止した。
そして部屋に、再び瞳が浮かぶ。それは奥から私を見つめているだけで、何もしない。私は今度こそ笑顔を浮かべていた。
そのまま私はゆっくりと、その部屋の扉を閉めてやった。
「…………はっ」
その場で思い悩み始める。結局のところ、あれは何なのだろうか。ルールはなんとなく掴めてきた。しかし目的がわからない。ああいった怪物的存在に目的や意味を求める事が間違いなのかもしれないが、今の私にとって、やれることはあれの考察ぐらいのものだった。
◇
「本当にどうしよう……」
広場の長方形に横になり、私は頭を抱えていた。かれこれ数時間以上は経過しているだろう。腹の虫が鳴り始め、耐え難い喉の渇きを感じ始めている。確実に、生命の危機が近づいてきているのを理解する。
できることは少ない。再び階段を進むか、他の暗い部屋を調べるか、それぐらいだ。
目を閉じて、螺旋の先は見ない。
「笑顔なら……」
いけるのではないか。暗い部屋の探索。あの影は笑顔に対しては反応が鈍くなるのは確定だろう。程度や定義など、未確認の部分は多いが、笑顔さえ保てるならば、あれを横目に部屋の探索もできるかもしれない。それに、あれが複数いるようなものかはわからないが、あれが未だに閉じられた部屋にいるのならば、他の部屋に居ない可能性も否定できまい……希望的観測なのはわかっている。
ややあって立ち上がって自らの足で移動し、閉じた部屋でも、扉に異変のあった部屋でもない、ノータッチの部屋の扉を開けた。
期待した硬質な床を踏みしめて奥に進んで、再度足が沈んだのを感じる。見上げれば、やはり瞳。もう暗い部屋にはいると思うべきか。
「もう慣れましたよ……」
影が反応を返すことはなく、あちらからのアクションは一切ない。私が笑顔を保っているからなのだろう。しばし無言で見つめ合う、奇妙な時間が流れた。
私はそれから目を離さないようにしつつ、入ってすぐに廊下側の壁に手をついて、右回りに部屋を調べていく。壁の感触は他と同様のものであり、手が呑み込まれるようなこともない。
そうやって調べていった結果、この部屋は少女と入った部屋より少し狭いくらいの部屋であり、他の部屋に繋がる扉の類はないことがわかった。正直、大きな収穫とは言えない。
諦めて部屋を出ていこうとしたところで、ぶつりと視界は暗転する。
◇
「まあ、そうですよね。遭遇してないはずの時も移動させられていましたし」
戻された最初の部屋で、影についての考察を進める。
あれの前で笑顔を崩せば直ちに転移させられるのは予想がつく。けど、私視点で影に明確に遭遇するまでに、二回の暗転移動をさせられてもいる。原因は同じ影なのだろうが、異なる形で発生している暗転があるのだ。遭遇時のルール違反とは別に、時間経過や何らかの条件の成立……最悪、あれの気まぐれによる、予測不能な移動。
しかしこっちの移動についてわかっていることもある。移動先だ。三度の転移は全て扉が一つだけの最初の部屋に移動させられている。そしてルール違反の時のみ、円形広場……ここ以外となっている。すると、危険を承知でわざとルール違反をしてみるべきだろうか。
再び円形広場で目覚める可能性もあるが、こちらの転移はまだ一度だけ。もしかすると、他の場所に到達するかもしれない。試す価値はあるだろう。加えて、二度目のルール違反が許されるか、という点にも注意すべきだ。つまり、罰則の変化があるか。即死はないことを祈る。
廊下へと出て、未探索の黒い部屋に入る。天井に目が貼り付けられているのを確認してから、壁伝いから順に全体を調べていき、全ての暗い部屋が同じ構造なのを把握して、最後に私はありったけの変顔をした。瞬間、目は増殖し、再度暗闇を瞳で覆い尽くした。
恐怖が駄目というより、笑顔以外が駄目……の方が正確な理解だとわかった。
◇
戻った先は、円形広場だ。速やかに確認作業を済ませて、天を仰ぐ。視界に忌まわしい現実が映って即座に俯く。その一瞬に違和感を覚えて嫌々見上げ直せば、揺らぎの位置が低くなっていることに気づいた。
螺旋階段を上って、あちらへ行けということなのだろうか。それは、嫌だった。
探索できる場所にはもう、長すぎる階段以外心当たりがない。空腹は存在感を増し、渇きは明確になっていた。限界が近い。少女は未だ現れず、影は検証できることが少ない。
試しにあの階段に向かって上っていくが、やはり途中で暗転し、見慣れた部屋に飛ばされる。私はその場に座り込んだ。
死ぬのだろうか、私は。死ぬこと自体は恐ろしいが、納得ができる。どんな人間であれ死ぬ時は死ぬし、特に私のような価値を生まない人間は早々に淘汰される側でもあろう。だから、生き残れない側になるのは受け入れられる。
ただ、一つわがままを言うなら、眠っている間に、何も感じないままに、安らかに死にたかった。虚無に満ちた薄っぺらな人生。その最後も面白味がなければ、誰もが私を忘れるだろうに。いや、もしかすると、既に忘れられているだろうか。そうだとすれば、それは私にとって小さな救いである。誰も悲しまず苦しまず、迷惑をかけることもないのだから。
私が私であったが故に、縁を維持できず、離れていった友人たちがボンヤリと思い出される。日々のチンケな思い出が先行して、その顔や名前をろくに思い出せない、自らの無関心に自嘲する。
「どうしましょうか」
途切れぬ廊下、虫の羽音のような雑音の中、私はナイフを見つめて、すぐにやめた。結果は変わらないし、無駄に苦しむことも嫌だ。待っていれば何かあるかもしれないのに、それは早すぎる。
「…………」
私は一度、その場で眠ることにした。目が覚めた時に、何かが変わっていることを願って。
◇
何度か眠りと覚醒を繰り返した。その度に死が近づいているだけなのを確認する。バッグにありもしない食べ物や水を求めて漁るが、当然何もない。気がつけば、私は指を噛んでいた。口寂しさを誤魔化せていいだろうと、赤子のように指を噛み締めて横になり続けている。
耳障りな音の中でただ、部屋の天井を見つめながら、停止した思考が過去を無意味に反芻している。いつしか、目に痛い白に、見慣れぬ赤が零れてきていた。小さな私は、ただそれを見つめながら柔らかいものを噛み切り、喉を濡らす液体を啜り続ける。
どの程度の時間が経っただろうか。あの雨の時とは違い、変化し続ける私にとって、曖昧になっていくこの時間は正反対のものとなっている。緩やかな腐敗の中で、私はゆっくりと溶解し始めていた。
諦観に沈み、身体から力が抜けていく。
そして、唐突に、ぶつ切りされた映像のように視界が切り替わり、私は円形広場の長方形に座らされていた。そして、目の前に白い少女が立っている。その目は細められ、珍しく口を曲げている。今度は影ではなく、少女の手によって移動させられたのだろうか。
自身の手を見ると、いつの間にか包帯が巻かれていた。
「探したぞ」
「……現実ですか?」
私の言葉に、彼女は無言で近寄って、私の頬を強く引っ張った。
「いて」
「それで、もう戻るか」
「……はい。お腹空きましたし。もう懲り懲りです」
その時、少女の後ろの方に、あの影が立っているのが見えた。私の二倍ほどの高さまで伸び、定まらない形で、瞳をこちらに向けている。そして影は、その足元に影を広げ、それをあの揺らぎへと変えた。
私は、私を見捨てなかった少女だけを見つめて、あの現実を見ないようにする。
少女もあれには気づいているようだったが、軽く一瞥して、興味がないと言わんばかりにこちらへと向き直る。そうして少女の手が差し伸べられた。
私がその変わらない手を取った瞬間、汽車のソファに座っていた。目の前のテーブルにはいつもの食事が並べられている。それを見た私は、即座に紅茶を飲み干してから、ナイフとフォークを手に取って、速やかに食事を胃袋に押し込んだ。
食べ終えると、それらは瞬きの間に消え失せ、私はベッドに横たえられていた。隣には少女が居て、こちらを静かに見据えている。
その安寧を享受して、私は悟りを得たのだ。助けられたからこそ確信できる。私の足掻きは全くの無駄であったのだと。
「今は眠れ。あの駅のことは、気にするな」
私はそれに頷き、少女に寄り添い、抱き締めて、その不変を確かめながら、安らかな眠りに就いた。