狭い。いままでの駅とは違って、ここは狭苦しい場所だった。そんな場所に、さまざまなものが詰まっている。
ここを端的に表すならば、浮島だ。ごく普通の一軒家程度の土地面積で、島の周辺は完全な虚空である。そんな島に、桜の木が一本、端のほうに生えているのだ。そして木の下には、白いガーデンチェアとテーブルがそれぞれ一つ配置されている。その周辺には何冊かの本が無造作に積み上げられていて、椅子に座っていたであろう者の性質を、私に想起させた。
机の上には一冊の本と、白と青の、未知の花々による花瓶だけが置かれている。島そのものについては以上だった。島以外はというと、大きすぎる月だけが目立つ。他の島なんかはない。視界いっぱいに広がるような月が、近くにある。それだけだ。
前の駅で、確かにそろそろ月が見たいと思ったが、まさかこんなにもすぐさまよ〜く見せてくれるとは思っても見なかった。眩しすぎる、といった異常もなく、見える範囲では穏やかな印象なのも高評価である。
「ここか」
「おや? 覚えが?」
「そうだ。屋敷に移る前に、ここで暮らしていた」
「ここで……? 家らしい家は見えませんけど」
「……ここは変わっていないとも。これが全てだ」
つまり彼女はここで、屋根や寝具のようなものもなく過ごしていた、ということだろうか。汽車のベッドの高級さなどを鑑みると、眠りについてはうるさそうな印象であったが……あるいは、だからこそ、「屋敷」とやらに移ったのだろう。
「地面で寝てたんですか〜?」
「そうだな。地面か椅子か、だ」
少女が木の下に歩いていくので、ついて行く。地面の草地の感触に異常は無い。風も無いようであったが、ここが高高度に位置しているとした場合、その方がよいだろう。気温は汽車の内部と変わらないらしく、快適だ。妙な匂いがするといったこともない。
木に近づくと、ようやく異常らしい異常がわかった。舞い散る花弁、それらが空中で静止している。手を伸ばしてみると、動かせない。外部の力を受け付けていない様子だ。
ならばと、花弁をしっかりと掴んで身体を持ち上げる。低い位置にある花弁を足置きにして、両手で花弁を掴み、登っていくのだ。傍目から見れば浮いているようにも見えただろう。
「面白いですねこれ」
「……君、もう少し考えて行動したらどうだ」
「……は〜い」
特に言い返せることも無かったので、大人しく降り、花弁を避けながら少女の方へと戻る。彼女は机の周りの本を物色している最中のようで、明確な探し物がある風に見えた。
「何かお探しで?」
「そうだ……見つけた」
そうして、彼女が一冊の本を手に取り、開いてこちらに見せる。表紙は無地の黒い装丁で、中身も白紙ばかりだった。
「……?」
「思考で筆記できる。日記やメモに使っていたが、失くしていた」
「おお!」
同時に、白紙だったページに文字が浮かび上がってきた。「ここだったか」……それが今の、彼女の思考らしい。そのまんまだ。
それにしても、素晴らしい逸品な気がする。私が記者をやっているのはほとんどが惰性であったが、これがあれば見たもの全てを一瞬で筆記出来得るわけで、記者でなくとも、多くの人にとって便利極まりない一冊だろう。
「制作し直すのも面倒だったから、見つけられてよかった」
「自作ですか。どこかで売ってたりは……」
「しない」
「残念」
少女がぽいと本を汽車の出入り口に向かって投げた。あまりの唐突さに思考が停止し、次いで、明らかに物理法則を無視した直線運動で飛んでいく本に口が閉じなくなり、振り返って見た汽車のレールが、空中を走っているのに理解を放棄した。
一度落ちついて、思考を再開する。今のもまた、彼女の力、もしくは性質なのだろう。空中を足場にしていたのも……そう考えたところで、花弁が目についた。
「停まって……?」
少女は何も言わなかった。一瞬こちらを見つめて、椅子に座る。ずっとそこに座り続けていたかのような馴染み具合だ。彼女は例の本を机に置き、周辺の本から一冊を取って読み始める。月と桜、白く優雅な彼女は、美しく周囲から隔絶されている。
先のことについて、私が花弁を足場にできたことと、彼女のあの動作に共通する要素があるように感じたが、確信とまではいかない。なぜなら彼女は動いているし、今の本の挙動だってよくわからない。ただ、この場所は彼女の旧居であり、ここの性質、ルールは彼女の本質、その美しさに直結するように思う。
ふと少女が机の反対側に足を伸ばし、空を蹴る。すると、その場に光の一切を遮断したような、真っ黒の椅子が現れた。こちらを振り返り、指でそれを示す。座れ、ということでよいだろう。
それに従い、黒い椅子に座る。感触は全く未知の物だ。少なくとも、私の既存の知識にはない。柔らかくはない、硬いというより、不変というべきか。表面は滑らかで、研磨された石のようでもある。軽く指で叩くが、音はならなかった。その場から動かすこともまた、出来ない。
しかし、空中を足場にしていたことの説明は、まさしくこれだろう。彼女は空気か何かを固定して、固体のように振る舞わせているのだ。黒い着色は、光を固定しているのだろう。少しずつ、わかってきている。けれど、これ以上は難しい。単純な固定ではないのは確実だ。ならば停止かというと、それもまた違うように感じる。単なる停止で説明できないように見える現象があるのだ。
思考を打ち切って、近場の本を手に取ってみる。完全に知らない言語だった。最初の駅の広告のように、見覚えのある字ですらない。しっかりと内容があるようだが、読み解くことは無理だ。それでも挿絵はある。そう読み進めるが、結局内容はわからずじまいだった。いくつかの円が大きな円の線上にあったり、科学に関するものかも、とまでは推測できたが。
「う〜ん?」
「……それは天体に関するものだ。個人的に推察したもので、誰かに読ませるものでもない」
「ああ天体! これ星の運行あたりですか!」
すると納得だ。著者はこの少女で、個人的に星に関する考察を記述した本……この字は彼女の故郷のものとか、そんなところだろう。いくつかの挿絵についても、おおよそ何を示しているかの予想がつく。
「というか君、勝手に読んで……」
「駄目でしたか?」
「いや、いい」
正式に許可が出たので、次々に読んでいく。植物に関するらしい本、生物について、科学技術について、魔術について……一冊につき一テーマで、この少女が書いたらしい本が多くある。そんな中に、明らかに彼女の手によらないものもあった。挿絵や表紙から、何らかの物語なのだろう推測できる本があったのだ。ジャンルに規則性はないように見えるが、比較的多かったのは、点描で描かれた妙におどろおどろしい挿絵のある本だ。ものによってはどう見ても恐ろしい怪物が描かれていたので、ホラー系統かもしれない。
「君、変化は好きかね」
「……急ですね」
珍しく彼女の方から声がかかった。本から目を上げてこちらを見つめる彼女は、いつもと変わらないように見えたが、いままでのことを振り返れば、そういうわけでもないのだと考えるべきだ。昔によく交流していた友人たちも、いつも通りに見えて、思いもよらない気持ちを抱えていたと、後から把握することが多かった。私には誰かの感情を察することはできなくても、経験から何かあるかもと予想するくらいは、色々あってできるようになったのだ。できるようになった頃にはもう、友人は居なかったのだが。
「好き……というか、生きていく上で、切っても切り離せないものじゃありません? 嫌いになってる暇なんかないですよ」
「そうだろうな。周りの影響を受けて生きていく以上は、変化せざるを得ない」
「そういう貴方はどうなんです?」
「当然、大嫌いだとも」
そういった彼女の顔には、明確な嫌悪が浮かんでいた。初めて見る表情でもあった。彼女は、こんな顔もできたのかと、私はそこに魅力すら感じた。
「自然な、本来の自らを殺してまで在り続けることを、生きているとは到底見做せない」
「そこまで言っちゃいますか」
「言うとも。ここまで」
「でも、多少は変わらないとやっていけないでしょう」
「私は違う」
前提をひっくり返されてしまった。そう言われてしまうと、頷くしかない。彼女は確かに、常人とは違い、普通の価値観では語れない。人間には必要不可欠であるはずの変化も、彼女には何の意味も無いのだろう。彼女の態度がそれを物語っていた。
「私には究極、他者は必要無いのだよ。それらを楽しむ機能はある。気を紛らわせる為に旅をして、コーヒーを飲みもする。だが私は、静かに過ごせるならば、最悪それでいい」
「……寂しくないですか」
「寂しいかもしれないな。最初は感じなかったが、同行者たちのせいで理解はした。その上で、私は一人で十分だと確信したのだよ」
「そうなるんですか」
彼女の言っていることは、正直言って目茶苦茶であるように感じた。彼女も、彼女自身の過去に関するらしい場所に来て、狭い場所故に探索の余地も、他にやることもないから、口がよく動くのだろう。深く考えずに話しているように見える。
「貴方はそうかもしれませんが、普通の人は変わらないとですからね」
「君は変わりたいのかね」
返答が出なかった。だからこそ、今更自分が変わりたいと思っていたらしいことに気づいた。そう、私は変わりたいのだ。
「変わる必要が、あるのかね」
「え?」
「言っただろう。既存の自分を殺してまで在り続けるのは、生きているとは思えないと」
「…………」
「今のままでもいいだろう」
それきり、彼女は本に目を戻して、話さなくなった。私が何も言えなかったもあるだろうけど、これ以上の会話に興味を失ったのは確実だった。
変わらなくても、いいのだろうか。私が私である故に、今まで多くのことを経験してきた。それらは全て、よいものとは評価されないことばかりだった。だからこそ、私は周りをよく見るようにしてきた。それも今考えると、本当に意味のあることだったのか、という考えが湧いてくる。私の努力は、報われていただろうか。いや、ない。私の変化の努力が報われたことは無かった。失ったものが返ってくることもだ。むしろ、変化することでこそ、より多くを失っていたのではないかとすら、思ってしまった。
だから私は、彼女を羨ましく思った。
◇
しばらくお互いに無言で、どちらも本を捲っていた。あちらは物語本を読んでいるらしく、うまく暇つぶしが出来ている様子であるのに対し、私は内容の読めない、実質挿絵だけの本を見ているだけだったと言える。
月が動くこともなかった。花弁と同じなのだろう。少女の方が五冊ほど読み終えた所で、彼女は立ち上がり、本を何冊か持って、汽車の方へと歩く。
満足したのだろうと、私もそれに続こうとし、ふと残された本が気になった。これらは持ち帰らないのだろうか。そもそも、ここのものはほとんどが彼女の私物のはずだが。
「他はいいんですか?」
「ここだけは屋敷から戻れるようにしておく。屋敷だけは何時でも次の駅に出来る」
「そんな例外があったんですか」
初耳だ。もっとも、彼女の方から何かを語ることが滅多にないし、こちらから明確に質問しても、大した返答が返ってくることが無かったので、こういった例外を知ることができなくて当然かもしれない。
「じゃあいつか、その屋敷にも行くわけですね」
「そのうちな」
「それと、本、何冊か気になるものがあって……暇つぶし用に、持っていってもいいですかね?」
「二、三冊にしておけ。私の五冊も部屋に置くからな」
「わかりました〜」
言われた通りに、特に気になるものをチョイスして手に取り、彼女に遅れて汽車へと戻った。変わらない内装。部屋の棚に本が増えたが、それが変化であるかは、微妙に見えた。元々彼女の世界にあったものが、その世界の中で位置を変えただけで、その内の本質が不変なのだろうと、他と隔絶されていて、一切の外部の影響を遮断していることは変わりないのだと、私には見えたのだ。
「次はどんな駅でしょうね〜」
「さてな」
先程の対話が夢であったように、彼女は何も変わらない。私は、それに引っ張られているのだろうか。私もまた、いつも通りであるかのように振る舞ってしまう。
いつも通りの食事、いつも通りの部屋、ベッドに横になり、眠りそうになる。直前に、対話の衝撃で撮影なんかを忘れていたことに気づく。最後の最後に、いつもとは違う、車内からの写真を取って、私は眠りについた。