虫の羽音のような、途切れることなく続く音が、この白い空間に響いている。匂いを嗅げば、不快な刺激臭もする。それと天井や壁が一部光っているようだ。
壁や床に切れ目はなく、ひたすらに廊下が続く。よく目を凝らして、ようやく扉を見つけられる、無機質な空間。
私は白い少女と共に、言葉もなく歩き出す。ここまで来たら慣れたものだった。一つの当たり前になっている。彼女がいることも、私たちの歩く場所が平凡からズレていることも。
一つ目の扉を開けた先、目に入ってきたのは小さすぎる家具の数々だ。私の膝ほどまでの高さの、長方形の机。その横には足置きと勘違いしそうなほどの椅子。それらもまた白く、無機質に、等間隔で並んでいる。
そして一つだけ、白くないものがある。壁に貼られたポスターだ。彼女が部屋の中央へと歩いていくのを確認し、私はあのポスターへと近寄る。
その内容は、警告であろうか。白い部屋に三人の、簡略化された人が描かれている。白い服装で、肌すらも同じ白。彼らは天井に対して酷く小さく、この部屋の家具を使っていた者たちなのだとわかる。
そして目を引くのは、影であろう。これだけが明確な黒だった。ちょうど前の劇場の映像で見たような、この絵のタッチには不釣り合いに過ぎる目が取り付けられた影。それが一人の不思議そうにしているものから伸び、壁を伝い、天井から三人を見下ろしている。
他の二人は対照的な反応をしている。一人は青ざめ、座り込み、錯乱している様子で、その足元は無数の目に覆い尽くされている。もう一方は、笑っていた。正面、ポスターを見るこちらを見つめ返すように立ち、口の両端を吊り上げ、最大限の笑顔を浮かべている。その目は閉ざされ、耳は両手で塞がれている。
そんなポスターの右端下に、二つの印があるのだ。これらはそれぞれ感情を示しているように見える。前述の感情だと言えばわかるだろう。口をへの字に曲げ、涙を流すものと、口を開き、固く目を閉ざすもの。そして恐怖の方に、大きなバツ印がされているのだ。
カメラを取り出そうと思い、そんなものはないことを思い出す。遅れて自嘲した。もはや仕事着でもないのに、何を今更やろうとしていたのか。
振り返って少女に声をかけようとした瞬間、あの音がぶつりと途切れ、正反対の黒へと空間が塗り替えられた。
それもほんの一瞬。気がつくと、私は何もない、狭い白の部屋に居た。扉が一つだけ、正面にある。
「え?」
◇
しばらくは立ち尽くしていた。村で彼女と一時別れることはあったが、このように不意に逸れることはなかったからだ。
再度彼女の不在を確かめ、頬をつねる。時間が経って、ようやく危機感が湧いてくる。すなわち、これは偶然か、だ。
一人は慣れていると、こみ上げる不安を振り払う。
微睡んでいた脳が久しぶりに回転を始めるのを感じる。対人用の表情を作るのも放棄した。
直前まで見ていたあのポスター。内容を鑑みるに、この場所での規則を部分的に示していたと考えていいだろう。とすると、あの黒い影のような、超常的存在がいる可能性は否定できない。今までの駅には居なかったが、ここもそうであるというのは楽観的だろう。村の色彩を思い出せば、駅というのはそれぞれ未知の危険性を有しているということもわかる。それが知られざる怪物ではないと、誰が言えよう。
そして、白い少女の不在。彼女は私にとって安全地帯であった。ひまわり畑の暑さも無意味にし、色彩も速やかな対処をしようとしていた素振りがある。だからこそ、私は細かいことを考えずに駅の探索を楽しんでいた節がある。彼女に頼り切っていた。
ここでの選択肢は二つだ。少女を待つか、自らあの扉を開けて、探索に乗り出すか。少女が助けてくれる可能性は、私から見て高い。しかし彼女が面倒だと切り捨てる可能性もまた、存在する。それに、彼女の影響下にもない以上、当然に空腹や疲労が存在するはずだ。
そこまで考えれば、後は早かった。私はバッグからナイフを取り出し、部屋を調べ始める。
全体を見るが、この部屋もまた切れ目がない。目が痛くなるほどの白だけが私の脳を漂白していく。壁を叩いてみると、硬質な音が反響し、それが金属質であることがわかる。試しにナイフで切りつけるが、不快な音が鳴っただけだ。これ以上は無駄だと判断し、扉へと向かう。
白い扉に、白いドアノブ。もう既に嫌になってくる。少女の白とは大違いだ。扉へと慎重に近寄り、ゆっくり耳を当てる。聞こえたのは、あの虫の羽音のような途切れない音。それ以外は聞こえず、何らかの気配は感じない。
私はドアノブに手をかけ、可能な限り音を立てないように、扉を開いた。
そこは廊下であった。されど、最初の場所ではないことは確実だ。ここから見える扉の配置に見覚えはなく、目の届くところに汽車への入り口もない。私が居た部屋はこの廊下の終端であるらしく、道は正面に続いている。左右にそれぞれ扉が二つずつあり、奥は曲がり道であるようだった。
静かに進んでいき、最も近い扉へと到達する。音もしないのを確認してから、開くと、正確には、真っ暗だった。廊下の光で辛うじて、入り口付近が同様の白であることだけが理解できる。
手持ちに灯になるものはない。何があるかもわからないと、扉を閉めて後回しにする。
そうして廊下を見て、絶句した。扉が一つ開いている。何の物音もしていないはずだったのに。一度深呼吸をして、そちらへと向かう。道中の扉を一つ、二つと通り過ぎて、中を覗く。
そこもまた、完全な暗黒であった。
「……ふぅ」
左右を確認して、再びの変化がないかを見渡す。そうして、この部屋をどう扱うかを考える。理由が不明瞭かつ、内部が見えないからには、不用意に近づくのも危険だろう。今まで以上に警戒を強めて、他の探索をするしかない。
あの扉を見つめながら、周囲への警戒もしつつ、後戻り。考えることが多く、汽車に乗る前の生活をボンヤリと思い出してきて、嫌な気分になる。
通り過ぎた扉を確認していくと、これらもまた暗黒であり、あの扉の先の扉もまた、暗黒。つまり、この廊下の部屋は、私が移動させられたらしい部屋以外、光がなかった。
曲がり道の先の方へ身体を向けて、背を壁につける。歩いてきた方に目をやりながら、先へと進んで行き、新しい廊下を空間に収める。
短い廊下の先に、かなり高い天井を持つのか、ここからは天井の見えない円形の広場がある。真っすぐ行った先と左右に廊下が続いているようであり、ある種の中心であるとわかる。
広場自体には、中央に柱のない螺旋階段があり、それを囲むように小さな長方形がいくつか配置されている。
広場へと足を踏み入れて観察すると、壁には特別な何かはないと判断できた。それに対して、上は恐ろしいものだった。
天井が廊下から見えないのではなく、ただただ本当に見えなかった。
どう表現すべきか、この広場は上に対して無限に続いているのではないかと思えるのだ。ここから天井が見えることはなく、空間に対して細い螺旋階段がひたすらひたすら伸びている。階段に柵などもなく、安全とは程遠い。途中で落ちたら、結果は目に見えている。
私はそれから目を逸らして、他の廊下を観察する。
入ってきた方から見て左は、短い廊下の先に、ここより広い四角形の空間があるようだった。そして反対側は直線の廊下である。いくつかの扉が左右にあり、奥は行き止まりだとわかった。
そして正面は、何もないのに異常に長い廊下の先に、明らかに踏み板の狭い階段がある。
まずは左の方へと向かった。そうして先の空間へと入り、周りを見る。そこは完全な空虚だ。だだっ広く、白だけの空間があるだけ。天井は見えるが、やはり高すぎる印象はある。何かが置いてあるわけでもなく、他への接続も見られない。何の目的があって用意されたのか見当もつかなかった。
切り替えて、右の廊下へと進んでいく。扉は計三つ。行き止まりまでは長くなく、部屋の大きさも、横には広くないだろうと予測できる。空間が狂っている可能性を無視すれば、だが。
一つ目を開き、覗き込む。そこは黒ではない。探索可能な白であった。少女と入った部屋ほどの広さであり、小さな家具が配置されている。
部屋の端から端まである、横に長い机。その周りにあの小さな椅子が無数に並べられ、囲んでいる。既知に当てはめるなら、食堂だろう。もしそうなら、調理場もあるだろうか。空腹の危険が脳の片隅にあるからか、安全とは言えない選択肢が浮かんでいる。
結局、家具以外がないことを確認してから、次の扉へと向かって行く。
開いた先、そこは遊技場だろうか。中央に四つの台があり、その上に球体が複数ある。その周りには台の上の球体より大きな球が転がっていて、所々に天井と床を接続する細い柱が立っている。
そっと近寄って、それらを観察していく。台は四隅から床に接続し、融合する脚で固定され、その上に長方形の板を乗せている。その板は縁が段差になっていて、内にある球体が落ちないようにしてあるのだとわかる。球体は見たところ壁や床と同じ材質で、大きさの割に重量がある。しかしそれだけだった。ビリヤードなどを想像していたが、欠落が多く、違うのだと判断する。
周囲の球は、別物であった。触れてみると硬質さがなく、弾力がある。こういった球……ボールを用いた競技がいくつか思い浮かぶが、確定はできない。そもそも知らない使い方の可能性もある。
最後に、柱を見てみる。これは当然、金属質であった。滑らかで白い。けれど、掴んでみると妙に手が吸い付く感覚がある。試しに身体を持ち上げると、容易に上へと昇る事ができた。ならばと、天井まで昇って色々と確認してみるが、収穫は得られなかった。
着地して廊下へと戻り、最後の扉を開く。そこは随分と狭い部屋だった。今までの部屋で最も狭いと断言できる。天井だけは高いが、人が二、三人入るだけで精一杯に見える。小さな家具の事を考えれば、設計者にとってはそうでないのかもしれないが、それなら余計にあの無意味に広いだけに映った空間が更に意味不明になる。
私はため息をついて広場へと戻っていった。少しずつ、されど確実に疲労してきているのを感じる。移動距離で考えればそこまでのはずなのだが、神経を尖らせているからだろうか。
足取りが重くなってきているのを自覚しつつ、階段への廊下を進んでいく。時折振り返って、異常がないかを確認するが、あの開いていた扉以降、目に見える異常はない。
やがて階段に辿り着く。見上げれば、乾いた笑いが零れる。先は薄っすら見えるが、長すぎる。ただでさえ上りづらそうな階段なのに、狂った長さだ。
現状を振り返る。私がまだ探索していないのは、移動して最初の廊下にある、複数の暗い部屋と、螺旋階段、そしてこの長すぎる階段だ。
小一時間、危険性を並べて考えて、私はこの長すぎる階段を進むことに決めた。壁に寄りかかり、小さな踏み板を慎重に確認しながら上っていく。
そうしてしばらく進んでいると、唐突にぶつりと音が鳴り、視界が黒く染まった。
◇
「……はあ?」
気がつくと、私は正面に扉が一つだけある、見覚えのある部屋に立っていた。
しばらく呆気にとられていた。やがて扉の先を確認し、徒労感に襲われた。扉の先は廊下であり、ここもまた覚えがある。私は移動させられた最初の部屋に戻されているようだった。
苛立ちすら覚え始めていたが、一度座り込み、思案する。
あの暗転が来ると、移動させられるらしい。同じ現象が二度あったのだから、そう考えて動くべきだ。しかし法則性が全くわからない。どのような場所で、いかなる条件で、そもそも何故なのか、手がかりが見つけられていない。この駅の法則、あるいはそれに近しいものではあると考えているが……
そこであのポスターについて再考する。あれはあの影に関する説明や警告であるように見えた。バツ印の意味が私のそれと同じなら、恐怖やそれに近しい反応をしてはいけないのだろう。笑顔はそれと正反対の、推奨される対応のはずだ。
ではあの黒い影自体は何なのか。私はあれに見覚えがある。ちょうど前の駅で見た映像に、酷似した存在が描写されていた。明確な形を持たず、どこか浮いた瞳を貼り付けたような、薄気味悪いもの。
あれは貴族風の人によって、儀式的に呼ばれたようであった。暗転によって姿を現し、同時に人を溶解させていた。そのまま物体をすり抜けて外に行き、街中で人々に無視されて夜を迎え、そこで動き出した。
暗闇の中、子供をつけ回し、恐怖させて家屋から追い返した後、眠る人を何もせず見つめ、最後は暗闇に溶けるように姿を消した。それが私から見たあの影の挙動だった。
思考を飛躍させる。状況が状況だ。突飛な発想もしなければいけない。
あの影は暗転によって姿を現し、暗闇の中に姿を消した。ならば、あの影は黒を経由して何かするものではないか。私が暗転によって移動させられた現象は、あの影の移動に似ているようにも思える。
すなわち、暗い部屋に足を踏み入れれば、その時点で何か変化があるのではないか。変化が起きないにしても、探索は進む。
明らかに危険だ。あの影はイマイチ凶暴な怪物なのか判断しづらいが、行動は性急に過ぎるだろう。一度思考を中断し、確認を兼ねて再探索を行う。
廊下の暗い部屋。円形広場。三方の廊下……やはり、変化はない。相変わらずの途切れない音だけが響いている。
思考もまた、最初に戻る。少女を待つか否か、だ。危険すぎるように思える選択肢を取るより、あの少女の優しさに期待して待ち続けるべきなのではないかという思考。
人生で何度も味わった徒労感が、私の生活にこびりついていた怠惰を呼び起こしている。
私は今、変わりかけているのだろうか。徒労感の中で、それでもと怠惰を振り払う。それこそが、私が求めていた変化だったはずだ。あの浮島で自覚した、静かな渇望。
だが同時に、あの少女が頭を離れない。彼女との交流に心地良さを感じている私がいるのはわかっている。不変を好む彼女への羨望。
変わらないことを選んで、彼女に回収されれば、そのままだ。けれど、捨てられる可能性もある。逆に、自らを変えて彼女との合流を目指せば、私は小さな不変を捨ててしまうことになる。
私は不快な白と、心地よい白の間で板挟みになっていた。
結局、私は空腹に耐えかねて、暗い部屋を目指すことにした。怠惰な私が、純粋な危機に背を押されて動き出すという、慣れ親しんだ……汽車に乗る前の人生と変わらない結果に辿り着いたのだ。
どっちつかずな我が身の、愚劣な天才性を笑いながら、私は扉の前に立った。