トリニティ総合学園のフィリウス派が管轄する執務室は、常に優雅な紅茶の香りが漂っている。
しかし、その実態は優雅さとは程遠い、一部の優秀な部下たちの血と汗によって支えられていた。
「レナさん、レナさん! この書類にある、この棒が三つ並んで下に横棒が引いてある文字は、なんと読むのですか?」
赤いセミロングのハーフアップヘアを揺らし、タレ目を限界まで下げた3年生の明日葉レナは、深いため息を押し殺した。
彼女の目の前で、無邪気な笑顔を浮かべてペンを握っているのは、フィリウス派のトップである桐藤ナギサだ。
「……ナギサ様。それは、奉仕の『ほう』という漢字です。先ほども同じページでご説明いたしましたよね?」
「まあ、そうでしたか! ほう、ですね、ほう……あれ、ではこちらの、お魚みたいな形がついている文字は、どういう意味ですか?」
ナギサが指差したのは、予算申請書に書かれた『鮮魚』の『せん』という、ごく一般的な義務教育レベルの漢字だった。
鶏並みの集中力と鳩並みの頭脳を持つ彼女にとって、書類に並ぶ漢字の羅列は、未解読の古代文字も同然らしい。
「それは『あざやか』、または『せん』と読みます。今回はお茶会で提供する食材の鮮度のお話ですから、新鮮の『せん』ですね」
「しんせんの、せん! なるほど、お魚がピチピチと跳ねている様子を表しているのですね、素晴らしいわ!」
「……ええ、そうです。ですから、その下の欄に承認のサインをお願いいたしますね」
レナはまるで、言葉を覚え始めたばかりの幼児に言い聞かせるように、根気強く丁寧に噛み砕いて教え込んでいく。
これほど手厚く介護しなければ、ナギサの机の上に積まれた書類は、一枚たりとも右から左へと動かないのだ。
「レナさんのおかげで、私も少しずつ賢くなっている気がします! さあ、次の文字は――あっ、ちょうちょ!」
突然、ナギサの視線が窓の外へと弾け飛んだ。
開け放たれた窓から、一羽の黄色い蝶がひらひらと室内に迷い込んできたのだ。
「見てくださいレナさん、シノさん! とっても可愛いお友達が、私たちのお茶会に参加しに来てくれましたよ!」
「(……また始まったわ。この鶏頭、本当に1分と集中力が持たないのね)」
部屋の隅で書類の山を高速で処理していた同じく3年生の碓氷シノは、切れ長の目をさらに鋭くして、心の中で毒を吐いた。
クールなボーイッシュの彼女はショートカットの青髪をぴくりとも動かさず、手元のペンを握りしめる。
「ナギサ様、蝶のことはよろしいですから、まずはその書類を終わらせてください。本日中に提出せねばなりません」
「まあ、シノさんは冷たいですね。そんなにカリカリしていると、せっかくの美味しい紅茶が苦くなってしまいますよ?」
「(誰のせいでカリカリしてると思ってるんだ、このクソ馬鹿が。お前の仕事を全部私たちがケツ持ちしてるんだよ!)」
シノは表情を完璧なポーカーフェイスに保ったまま、内心で激しい怒りを燃え上がらせていた。
ナギサがとんでもなく頭が悪く、とんでもなく楽観的で仕事のできない無能であることは、フィリウス派の最高機密だ。
「ふふ、お空を飛んでいってしまいました。自由で、とっても羨ましいです!」
「……ナギサ様。蝶は行きましたので、漢字のお勉強を再開いたしますよ」
「はーい! レナ先生、よろしくお願いします!」
レナは引きつった笑顔を浮かべながら、再び幼児用のドリルを教えるかのような作業に戻った。
ナギサは文字通りの『お飾り』であり、彼女の仕事は全てレナとシノの二人が裏で引き受けている。
これほど無能な人間が、なぜ入学倍率の極めて高いトリニティ総合学園に入学できたのか。
それどころか、なぜ最高権力機関であるティーパーティーの一角に君臨できているのか、普通に考えれば怪異でしかない。
「(全ては桐藤家の、汚い金と権力の力よ……。本当に、裏口入学の最高峰ね)」
「(理事長への脅しまで使って、本人の知らないところでトップに据えるなんて、桐藤家も過保護が過ぎるわ)」
シノとレナは、視線だけで互いの愚痴を共有し合った。
ナギサ本人は、自分が実力と人徳でこの地位に就いていると1ミリの疑いもなく信じ込んでいるのが、またタチが悪い。
「今日もたくさんお仕事をしました! 頑張った自分へのご褒美に、最高の紅茶を淹れなくてはなりませんね!」
「(お前は漢字を2文字聞いただけで、書類は1枚も進んでないだろうが……!!)」
シノの心の声は、もはや怒りを通り越して悲哀に満ちていた。
しかし、そんな部下たちの苦労など露知らず、ナギサは今日も世界で一番幸せそうに微笑んでいる。
数日後、ティーパーティーの定期お茶会が、美しい庭園の特別席で開催された。
出席者はサンクトゥス派の百合園セイア、そしてフィリウス派の桐藤ナギサの二人だ。
セイアの背後には御子柴キリコと羽生マリエが、ナギサの背後には明日葉レナと碓氷シノが、それぞれ直立不動で控えている。
心地よい風が吹く中、ナギサは優雅にティーカップを傾け、ふと思いついたように口を開いた。
「ところで、セイアさん。ずっと不思議に思っていたのですが、何故セイアさんはゲヘナ学園に入学しなかったのですか?」
その瞬間、庭園を流れる空気が肉眼で見えるほどの速度で凍りついた。
あまりにも直球で、あまりにもタブーに触れたその発言に、周囲の全員が呼吸を忘れる。
「(なっ……!? このクソ馬鹿、ついに脳みそが完全に沸騰したの!?)」
「(よりによって、あのセイア様に向かってゲヘナの身内扱いをするなんて……! 終わった、私たちの命はここで終わりよ!!)」
レナとシノの顔から、一瞬で血の気が引いていった。
2人は心の中で、まだ実家に残してきた両親への遺書を高速で書き殴り始める。
「(お父様、お母様、不肖の娘は本日、クソ馬鹿な上司の自爆に巻き込まれて殉職いたします……!)」
「(どうか、私の集めていた限定品のグッズは、丁重に処分してください……!)」
ナギサの背後で、2人の部下たちが完全に絶望の淵に立たされている。
一方で、サンクトゥス派のキリコとマリエもまた、別の意味で限界を迎えていた。
「(マリエ、聞いた!? ナギサ様、セイア様の『真の姿』を見抜いてるの!?)」
「(わかりません、キリコさん! でも、もしここでセイア様がキレたら、この庭園どころかトリニティが消滅します……!)」
4人の部下たちがそれぞれの理由で冷や汗を流す中、当のセイアは、ティーカップを静かに皿へと戻した。
彼女の美しい瞳が、微かに細められる。
「ふむ、ナギサ。それはどういうことだい? 唐突に面白いことを言うじゃないか」
「あはは、決まってるじゃないですか! 理由なんて、とっても単純なことですよ!」
ナギサは場が凍りついていることなど一切気にせず、むしろ名案を思いついた子供のように破顔した。
死ぬほど鈍感な彼女には、周囲の人間が発している殺意や恐怖のオーラなど、微塵も届かない。
「どう考えてもセイアさんは、野蛮で暴力的なゲヘナ学園の適性が高いですよね? なのに、真逆のトリニティに入学したのが不思議でたまらなくて!」
「(クオラアアアアアァァァ!!! ぶち殺すぞボケナスがあああああああ!!!)」
「(嫌ああああああああ!!!!! 殺される…! 本当に殺されるわ!! セイア様のあの凶悪な拳が火を吹くわよ!!!)」
レナとシノは、心の中で容易く臨界点を突破し、ナギサに対して純粋な殺意を抱いていた。
もし許されるなら、今すぐこの場でナギサの首を絞めて気絶させ、セイアの前に土下座したい心境だった。
「ほう……。私がゲヘナの適性が高い、か。君の目には、私がそのように映っているのだね」
彼女の萌え袖の中で、パキッ…と、何かが軽く破裂する音がした。
「(ひぇっ、キリコさん! 今聞きましたか!? 萌え袖の奥で、あのゴツゴツした岩のような拳が骨を鳴らした音を……!!)」
「(マリエ、落ち着いて! 祈るのよ、トリニティの全生徒のヘイローにかけて、持ち堪えてもらうのよ!!)」
キリコとマリエは、セイアの服の袖から覗く不自然に太い血管が浮き出た拳を見て、本能的な恐怖に震え上がった。
あの拳が一度でも振るわれれば、ナギサの頭部は文字通り消し飛ぶだろう。
「ええ! セイアさんはいつもどこかトゲトゲしていて、お言葉も暴力的ですし、何より品格というものが……あっ、このスコーン、とっても美味しいです♪」
「(この期に及んでスコーンを食うなァァ!!)」
シノは心の中で絶叫した。
ナギサの鳩並みの頭脳は、自分が今、どれほど綱渡りの危険な状況にいるのかを理解できないのだ。
「ふふ、なるほどね。ナギサ、君の純粋な疑問に対して、明確な答えを返そうじゃないか」
「簡単なことさ。家から近かったんだよ、この学園はね」
「「「「(は?)」」」」
4人の部下たちの心の声が、完璧にシンクロした。
あまりにも俗世的で、あまりにも拍子抜けな理由に、全員の思考が一時停止する。
「ゲヘナはここからだと、交通機関を使っても随分と遠いからね。だが我が家からトリニティの敷地までは、徒歩1分で着くのさ」
「通学は楽に越したことはないだろう? 毎朝遠くまで通うなんて、それこそ脳筋のすることだよ」
「(お前が脳筋の最高峰だろうが!!!)」
キリコとマリエは、心の中で同時に激しいツッコミを入れた。
家訓が「困ったらとりあえず殴れ」の一族の人間が、どの口で脳筋を批判しているのか。
「(ある意味で、ゲヘナの生徒よりもゲヘナらしい、適当で身勝手な理由ね……)」
「(め、目眩がしてきたわ……。ティーパーティーのトップ2人が、片やクソ馬鹿、片や狂犬だなんて……)」
レナとシノは、あまりの衝撃に立ちくらみを起こし、互いの体を支え合った。
トリニティの未来が、これほどまでに絶望的な人材によって握られているという事実に、頭痛が止まらない。
「まあ! 徒歩1分だなんて、それはとっても素晴らしい環境ですね!」
しかし、ポジティブの化身であるナギサだけは、手を叩いて大喜びしていた。
彼女にとって、セイアの家が近いという事実は、ただの楽しいニュースでしかないらしい。
「それならセイアさん、いっそのことトリニティの寮に入寮しませんか? 私、セイアさんの隣の部屋がいいです!」
「毎日夜遅くまで、一緒にお歌を歌ったり、お菓子を食べたりできますよ!」
「絶対に嫌だね。夜中に君のトチ狂った歌声を聞かされるなんて、拷問以外の何物でもないさ」
セイアは流石に呆れたように、肩をすくめて紅茶を一口啜った。そして、慈悲深い笑みを浮かべる。
「卒業まで1年を切っているのに、今更寮に移り住むなんてね……ナギサ、君は相変わらずクソ馬鹿だなぁ」
「まあ! セイアさんに褒められてしまいました! 私、とっても嬉しいです!」
「(褒めてねえよ!!!)」
4人の部下たちの心の叫びが、再び美しく調和した。
トリニティ総合学園の平和は、今日もこの噛み合わない2人のトップと、胃薬を手放せない部下たちによって、奇跡的に保たれている。