トリニティ総合学園の広大な敷地の一角。
青々とした芝生が広がる中庭で、サンクトゥス派の1年生である滝沢アスカは、不思議そうに周囲を見回していた。
「ねえ、キリコ先輩。ちょっと気になったんですけど……」
アスカは、手にした学園の部活動一覧の冊子をパタパタと揺らしながら、隣を歩く御子柴キリコに視線を向けた。
真面目な顔で書類を抱えていたキリコは、足を止めて後輩の顔を見つめる。
「何かしら、アスカ。何か記載に不備でもあった?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど。この学園って、ありとあらゆるスポーツの部活や同好会があるじゃないですか」
「ええ、お嬢様方の嗜みとして、乗馬や弓道、それにフェンシングまで網羅しているわね」
「なのに、どうして『テニス部』だけがないんですか? コート自体は、裏庭の方に古びたのがいくつか残っているのに」
アスカのその純粋で、何の気なしに発せられた疑問。
それを聞いた瞬間、キリコの体がビクンと大きく跳ね上がり、抱えていた書類が数枚、地面にハラハラと舞い落ちた。
「き、キリコ先輩……? どうしたんですか、そんなに青い顔をして」
「……アスカ、あなた、今なんと言ったの?」
「え、ですから、テニス部がどうして全面的に禁止されているのかなって……」
「シーッ! 声が大きいわ! 滅多なことを口にするんじゃないの!」
キリコは慌ててアスカの口を手で塞ぎ、まるで国家機密でも漏洩したかのように、周囲を鋭い目付きで警戒した。
そのただ事ではない様子に、アスカは目を白黒させる。
「(な、何なのこの反応……!? テニスって、そんなにタブーな言葉だったの!?)」
「……いい、アスカ。今の3年生……つまり私たちは全員、その理由を骨の髄まで知っているわ」
「は、はい……。そんなに恐ろしい理由なんですか?」
「簡単なことよ……セイア様からトリニティの平穏を守るために、あのスポーツは『無かったこと』にされたのよ……」
キリコは遠い目をしながら、2年前の、あの地獄のような春の出来事を語り始めた。
それはまだ、誰もが「百合園セイア」という可憐な少女の皮を被った猛獣の本性を、知らなかった頃の物語だ。
2年前、トリニティ総合学園に入学したばかりの1年生たちは、まだお互いの顔も名前もよく分かっていなかった。
そこで親睦を深めるため、1年生全員が参加対象となる、大規模なテニスのトーナメント大会が開催されたのだ。
「まあ、あそこにいる小柄な子、とっても可愛らしいわね」
「本当にお人形さんみたい。少し声をかけてみましょうよ」
上級生のお嬢様たちは、見るからに儚げで、風が吹けば飛んでいきそうな1年生のセイアを見つけ、微笑ましそうに近づいていった。
当時のセイアは、まだ周囲に対して完璧な猫を被っていたのだ。
「百合園さん、これから始まる試合を前に少し緊張なさっていなくて? よければ私たちと、軽くラリーをしてウォーミングアップでもいかがかしら?」
「おや、上級生の方々。お声がけいただき、大変光栄に思います」
萌え袖の奥から小さな手を覗かせ、セイアは深々と頭を下げた。
その礼儀正しく優雅な所作に、上級生たちはすっかり心を奪われる。
「私、家族と毎週のようにテニスをしておりますので、体を動かすのは大得意なのです。ぜひご一緒させてください」
「それは頼もしいわね。怪我をしないように、楽しくラリーをしましょう」
「ええ、正々堂々と、親睦を深められるような試合にしたいですね」
セイアはいつもの儚げな笑みを浮かべ、上級生たちを安心させた。
しかし、彼女が言った『家族と毎週テニスをしている』という言葉の裏には、とてつもない狂気が隠されていたのだ。
「(毎週テニスをしてるって、あの3mの山賊のジジイや、現地人を粉砕するババアと、時速数百キロの鉄球を打ち合ってたって意味だったのよ……!)」
そして5分後、セイアは静かに試合会場に向けて歩き出す。
この時、もしも誰かが気付くことができたなら、これから起こる凄惨な惨劇を未然に防ぐことができただろう。
優雅に立ち去るセイアの足元……白目を剥いて死屍累々と倒れ伏した、さっきの上級生たちの無惨な姿を発見できてさえいれば――。
だが、何も知らない無垢なトリニティの生徒たちは、異変に気付くこともなく、そのまま本当の地獄の開幕戦へと突き進んでしまうのだった。
「それでは、第1回戦を開始いたします! 双方、位置についてください!」
審判の軽快な合図とともに、コートに緊張感が走った。
セイアは小柄な体躯に見合わない、大きなラケットを萌え袖のまましっかりと握りしめる。
「それでは、私からサーブを打たせてもらおう……それっ」
トスを上げ、セイアがラケットを振り抜いた、その瞬間。
――パァンッ!!!!
コート全体、いや、トリニティの学園内に、鼓膜を突き破らんばかりの甲高い破裂音が鳴り響いた。
あまりの衝撃波に、観客席のお嬢様たちは全員、悲鳴を上げて耳を塞ぐ。
「きゃあああ!? な、何事ですか! 銃撃!? ゲヘナの襲撃を許したのですか!?」
「テロよ! 救護騎士団を呼んで! 正義実現委員会は何をしているの!?」
会場は一瞬にして大パニックに陥り、生徒たちが右往左往し始めた。
しばらくして、火薬の煙のような土煙が徐々に薄れていく。
恐る恐る目を開けた観客たちが目にしたのは、ネットの向こう側で完全に白目を剥いて倒れている対戦相手の1年生の姿だった。
「ひ、ひえっ……! 救急車! 誰か早く!」
慌てて審判の生徒がコートに駆け寄るが、対戦相手はピクリとも動かない。
そのまま審判も恐怖のあまり腰を抜かし、その場に気絶してしまった。
「おや、どうしたんだい? まだ私のサーブは1本目なのだがね」
当のセイアは、ラケットを肩に担ぎ、不思議そうに首を傾げている。
駆けつけた別の救護団員が、倒れた生徒のそばに、何か小さくて黒焦げの物体が落ちているのを見つけた。
「……これ、何かしら? ゴムの焼けたような臭いがするけれど……」
ピンセットで拾い上げ、よく観察した団員は、その正体に気づいて顔を真っ青にした。
それは、見るも無惨に引き裂かれ、炭化しかけた『テニスボールの皮の破片』だったのだ。
「そんな……嘘でしょ!? ボールが、粉々に破裂してる……!?」
セイアの祖父である修羅王でさえ、人間の身でありながら時速300キロの殺人サーブを放つという。
だが、よりにもよってセイアは頑丈なキヴォトス人であり、そのキヴォトス人の中でも規格外の怪力を秘めた一族の最高傑作だ。
彼女が本気でラケットを振り抜いた結果、サーブの初速は信じられないことに『マッハ3』に達していた。
もちろん市販のテニスボールが、音速の壁を超える衝撃に耐えられるはずもない。
ボールはラケットに当たった瞬間に、爆弾のように大爆破を起こしたのだ。
そして、超音速で飛び散ったボールの破片が、対戦相手の1年生の顔面に容赦なく直撃し、ヘイローに甚大な負荷を与えて一撃で意識を刈り取った。
「た、対戦相手の続行不可により……百合園セイアさんの、勝利……!」
震える声で勝敗が告げられ、会場には静まり返った恐怖だけが残った。
これが、トリニティテニス界における、暗黒の快進撃の幕開けだった。
続く第2回戦。
セイアの対戦相手となった生徒は、恐怖に足をガタガタと震わせながらコートに立った。
「あ、あの……手加減を、どうか手加減をお願いいたします……」
「おや、スポーツに手加減など失礼だよ。私はいつでも、全力で君と語り合いたいと思っているさ」
「ひぃっ……!」
セイアが再びラケットを構え、ボールを高く掲げる。
そして――。
――ズガァァァンッ!!!!
先ほど以上の爆音とともに、再びマッハ3の衝撃波がコートを襲った。
対戦相手の生徒は、ボールの破片を浴びるまでもなく、風圧だけで後ろのフェンスまで吹き飛ばされ、そのまま気絶した。
「第2回戦、百合園セイアの勝利……ではなく、ノックアウト勝利!」
「(ば、化け物よ……! あんなの、テニスじゃなくてただの対物ライフルじゃない……!)」
観客席にいた1年生たちは、ついに理解した。
あの小柄な少女の前に立つということは、死を意味するのだと。
その結果、第3回戦の組み合わせが発表された瞬間、異様な光景が広がることになる。
「第3回戦を始めます! 対戦相手の……あれ? 選手がいません!」
「降参です! 私は命が惜しいので棄権します!」
「私もです! 誰があんな大砲と戦うんですか!」
3回戦以降の対戦相手たちは、自分の名前が呼ばれた途端、会場から一目散に逃げ出して降参した。
ラケットを握ることすら放棄し、次々と不戦勝の山が築かれていく。
セイアはコートの真ん中で、ぽつんと立ち尽くすしかなかった。
「やれやれ。みんな、シャイだねぇ。私と一対一で白球を追いかけるのが、そんなに恥ずかしいのかい?」
「(恥ずかしいんじゃなくて、死にたくないだけだよ!!!)」
既に棄権したキリコたちの心の中のツッコミが響く中、セイアは汗一つかかずにスイスイとトーナメントを勝ち進んでいく。
しかし、そんな恐怖の独走状態に、ついに待ったをかける者たちが現れた。
トリニティが誇る、武闘派の猛者たちだ。
「ギ、ギヒヒヒィ……!! 面白い、実に面白いなぁ…! そのマッハの弾丸、私のこの身体で受け止めてみせようかぁ!!」
不気味な笑い声を上げ、口から涎を垂らしながらコートに乱入してきたのは、正義実現委員会の1年生、剣先ツルギだった。
彼女は血走った目でセイアを睨みつけ、ラケットを激しく振り回す。
「君は確か、正義実現委員会期待のルーキーの剣先ツルギ。君なら、私との対話に答えてくれそうだね」
「ギハハハハハッ!! 語ろう、肉削り魂燃やすまで語ろう!! さあ、来いよおおぉ!!」
「いいだろう。それじゃあ、いくよ……!」
ボッ…!!
セイアが放った、渾身の超音速サーブ。
ツルギはそれを正面からラケットで受け止めようとしたが――。
――ドゴォォォンッ!!!!
「ぎゃあああああッ!?」
ラケットごとツルギの身体は消し飛び、後ろのコンクリート壁に激しく叩きつけられた。
壁に大きなヒビを入れながら、ツルギはそのままズブズブと地面に崩れ落ち、白目を剥いて意識を失う。
「ツ、ツルギさん!? 嘘でしょ、あのツルギさんが一撃なんて!」
「次はこの私、救護騎士団の蒼森ミネが相手になります! 負傷者の救護のためにも、ここであなたを止めなければなりません!」
次に名乗りを上げたのは、正義の盾を持つ蒼森ミネだ。
彼女は凛とした表情でコートに立ち、堅牢な構えを見せる。
「いくらあなたのサーブが強力であろうとも、我が救護騎士団の意志は砕けません! さあ、正々堂々と勝負です!」
「素晴らしい気概だね、蒼森ミネ。だが、我が一族の歴史を前に、その盾がどこまで持つかな?」
セイアが冷酷な笑みを浮かべ、容赦なくマッハサーブを放つ。
ミネはラケットを両手でガッチリとホールドし、迎撃の体制をとったが、結果は無残なものだった。
――バギィィィッ!!!!
「がはっ……!? なんという、暴力……!」
ラケットは一瞬で粉々に粉砕され、ミネの身体もまた、ツルギの隣の壁へと綺麗に叩きつけられた。
トリニティが誇る二大巨頭が、文字通り一撃で意識を刈り取られ、壁のオブジェと化してしまったのだ。
「ひ、ひぃぃ……! 怪物よ! 怪物が出たわ!」
「もう誰も勝てない! トリニティはあのモンスターに支配されるんだわ!!」
会場は絶望のどん底に突き落とされ、誰もがセイアの優勝を確信した。
そしてついに、記念すべき第10回目の試合にして、決勝戦を迎える。
決勝戦のコート。
セイアの前に立ったのは、聖園ミカだった。
ミカは可憐な笑顔を浮かべ、どこか楽しげにラケットを転がしている。
「へえ、あなた、百合園セイアちゃんだっけ? さっきの試合見てたよー。ツルギちゃんやミネちゃんを、一瞬で壁のシミにしちゃうなんてすごいね」
「おや、光栄だね。君もかなりの力自慢だと聞いているが?」
「うん、私も力にはちょっと自信ある方だけど、あなたはもっとすごいね。正直、びっくりしちゃった」
ミカはフランクに話し、セイアとの距離感を測る。
セイアは萌え袖を少し引き締め、ラケットを構え直した。
「それじゃあ、決勝戦だ。正々堂々、スポーツマンシップに則って、最高の語り合いをしようじゃないか」
「うん、そうだね! それじゃあ――」
ミカは満面の笑みを浮かべたまま、すっと右手を高く突き上げた。
「審判さーん、私、降参しまーす♪」
「……は?」
セイアの動きが、完全にピタリと止まった。
あまりにも唐突な棄権の申し出に、会場全体がシンと静まり返る。
「ちょっと待ちたまえ、ミカ。今、なんと贅沢な冗談を言ったんだい? 決勝戦だよ?」
「冗談じゃないよー。だって、死にたくないもーん」
ミカはあっけらかんと言ってのけ、ラケットをぽいと地面に放り投げた。
某鳩並みの頭脳を持つお嬢様と違い、ミカの生存本能は極めて正常に機能していたのだ。
「あんな音速の爆弾、まともに受け止めたら服がボロボロになっちゃうし、何より痛いのは嫌だしね! だから、優勝はセイアちゃんにあげる!」
「くっ……。戦わずして勝つなど、我が百合園家の家訓に反するのだが……」
「いいのいいの! はい、これでおしまい! お疲れ様でしたー!」
こうして、決勝戦は1秒もラリーが行われることなく、ミカの敵前逃亡によって幕を閉じた。
セイアの圧倒的な優勝とともに、この大会を最後に、トリニティ総合学園からテニスというスポーツは完全に闇へと葬り去られたのだ。
「……と、これがテニス部が存在しない理由よ」
キリコが話を終えると、後輩のアスカは完全に魂が抜けたような顔で、その場に立ち尽くしていた。
「な、なるほど……。テニスって、スポーツじゃなくて大量破壊兵器の実験場だったんですね……」
「分かればよろしいわ。ちなみに、ちょっとした余談があるんだけどね」
キリコはさらに声を潜めて語る。
「これはナギサ様の出場していた試合の話なんだけどね……」
「えっ、ナギサ様ですか? あの方、スポーツができるようなイメージはありませんけど……」
「案の定よ。あの方、テニスのルールを1ミリも理解していなかったの。試合が始まった瞬間、何をしたと思う?」
キリコは頭を抱え、思い出すだけでも頭痛がするという風に告げる。
「ナギサ様、コートに転がってきたテニスボールを見てね……『あら、なんて美味しそうなスポンジ菓子かしら!』って、お上品に齧り付いて食べちゃったのよ」
「えぇぇぇーーーッ!?!? ボールを食べたんですか!?」
「そうよ。当然、試合で使う大切なボールを破損させたわけだから、器物破損による『反則負け』。1回戦敗退の最短記録を樹立されたわ」
アスカは流石に言葉を失い、フィリウス派のトップの知性を本気で心配し始めた。
ちなみに、その時のナギサの対戦相手こそが、他ならぬ聖園ミカだったのだ。
「ミカ様はね、目の前で黄色いゴム毬をバリボリと美味しそうに完食するナギサ様を見て、完全に珍獣を見るかのような目をしていたわ」
「『うわぁ……この子、絶対に関わっちゃいけないタイプのヤバい子だ。これからは距離を置こう』って、心の中で固く誓ったらしいのだけど……」
「だけど……?」
「そのわずか1週間後、ティーパーティーの就任式で、まさかの同僚として悪夢の再会を果たすことになるのよ。運命って本当に残酷よね」
「(ミカ様、一番近くの席に配置されちゃったんだ……。そりゃあ、裏切りたくもなるわね……)」
アスカはパテル派のカリンが、日々受けているという『裏切りの勧誘』の根本的な原因を、何となく察してしまった。
トリニティのトップ3人は、1年生の時点ですでに全員が等しく壊れていたのだ。
「とにかく、アスカ。テニスの話題は、この学園では絶対に禁句よ」
「はい! 肝に銘じます!」
「それに……2年経った今でも、時折セイア様から『久しぶりに、お茶会の後にテニスでもいかがかね?』って、満面の笑みで誘われることがあるけれど……」
キリコはアスカの肩をがしっと掴み、今までで一番真剣な眼差しを向けた。
「絶対に了承してはならない。それが、トリニティ生徒全員の『暗黙の了解』だからね」
「(もし誰かがイエスって言ったら、その瞬間にトリニティが焦土と化すのね……。絶対に断ろう……!)」
2人は深くため息をつき、今日も辛うじて保たれている学園の平和に、心の中で感謝を捧げるのだった。