トリニティ総合学園、フィリウス派が管轄する最高幹部執務室。
陽光が差し込む美しい部屋には、最高級の茶葉の香りが漂っていたが、そこにいる部下たちの心境は地獄そのものだった。
すべての元凶は、ティーパーティーの3年生でありながら、壊滅的な無能として君臨する桐藤ナギサの、満面の笑みによる一言だった。
「皆さん、とっても素晴らしいことを思いつきましたわ! 私、ゲヘナ学園の方々と仲良くするための親睦会を開催することにいたしましたの!」
その場に直立不動で控えていた明日葉レナと碓氷シノは、持っていたお茶会の計画書をすべて床にぶちまけた。
炎のように綺麗に煌めく赤髪を激しく揺らし、目を限界まで丸くしたレナが、引きつった悲鳴を上げる。
「な、ナギサ様……!? ゲ、ゲヘナとの親睦会ですか!? それは絶対に、天地がひっくり返っても不可能です! 向こうの万魔殿から猛反発を喰らうに決まっています!」
「もうはんぱつ……? レナさん、それは新しく発売された、とっても甘くて美味しいお菓子の名前かしら?」
ナギサは小首を傾げ、ポカンとした表情で、部下が必死に告げた単語の意味を全く理解していない様子を見せる。
シノは怒鳴りつけたくなる衝動を抑えると、切れ長の目で天井を仰ぎ、鳩並みの頭脳しかない上司のために説明を試みた。
「ナギサ様、いいですか? 『もうはんぱつ』というのは、ゲヘナの野蛮な人たちが『ふざけるなー!』と怒って、銃や大砲を乱射してくることです!」
「あら、まあ! それはとっても賑やかで楽しそうなパーティーになりそうですね! ぜひお呼びしなくては!」
どこまでもポジティブで楽観的なナギサには、部下たちの決死の警告など一切届かない。
レナはさらに噛み砕き、まるで幼児に言い聞かせるような言葉で、懇々と説明しようとした。
「ナギサ様、お話をよく聞いてね? ゲヘナの人たちはね、トリニティがだーい嫌いなの。だから、おててを繋いで仲良くなんて――」
――ヒュンッ! ドスッ!!
レナの言葉を遮るように、鋭い風切り音を立てて一本の矢が彼女たちのすぐ横を通り抜け、執務室の木製の壁に深く突き刺さった。
「いやぁぁぁあーーーっっ!?」
レナは情けない悲鳴を上げてその場に尻餅をつき、涙目で頭を抱え込んだ。
シノが即座に腰の銃に手をかけつつ、壁に突き刺さった矢をよく見ると、そのシャフトには白い紙が厳重に巻き付けられており、紛れもない『矢文』であった。
「レナ、下がりなさい……! ナギサ様、私の後ろへ!」
シノは鋭い手つきでくくりつけられた手紙を解き、警戒しながらそれを開いて一気に読み上げる。
そこには、お上品な飾り文字で以下のように記載されていた。
『ナギサお嬢様のご意向に添えなければ、あなた方のご実家は明日から路頭に迷います。 桐藤家一同』
「「(ひ、ひぃぃぃーーー!! 桐藤家の裏の権力発動キターーー!!!)」」
シノとレナの背筋に、同時に最悪の戦慄が走った。
矢が放たれた窓の外の物陰へと目を向けると、全身黒タイツに身を包んだ桐藤家の黒子が、じっとこちらを監視するように見つめている。
選択肢など最初から存在しなかったのだ。
2人の部下たちは、実家を守るため、文字通り死に物狂いでゲヘナの万魔殿との親睦会をセッティングすることとなった。
そして迎えた親睦会当日。
トリニティの美しい庭園に設置された屋外テラスに現れたのは、ゲヘナ学園3年生であり、万魔殿の議長を務める羽沼マコトであった。
「いいですか、ナギサ様。これからマコト議長との会談が始まります。ナギサ様にはインカムで私たちが話す内容をすべて送りますから、それ以外は絶対に、一言も話さないでください!!」
レナは本日30回目となる念押しを行い、泣きそうな顔でナギサに小さなインカムを装着させた。
ナギサは「はーい、分かりましたわ!」と元気に返事をし、優雅な足取りでテラスの特設席へと向かう。
ついに、トリニティの桐藤ナギサと、ゲヘナの羽沼マコトによる、親睦会という名のタイマンが幕を開けた。
マコトは長い銀髪を揺らし、不敵な笑みを浮かべる。
「ふん、トリニティのお高くとまったお嬢様方が、わざわざ我が万魔殿を呼び出すとはな。どうせ、我がゲヘナの圧倒的な威光の前に、ひれ伏して命乞いでもしにきたのだろう?」
最初からフルスロットルで嫌味ったらしくネチネチとトリニティへの当て付けを言い始めるマコト。
別室のモニターでその様子を見ていたレナとシノは、その侮辱の数々にハラワタが煮えくり返る思いをしていた。
シノはすぐにインカムのマイクを握り、ナギサに最初のセリフを指示する。
「ナギサ様、読み上げてください!『本日はお忙しい中、お時間を割いていただき感謝いたします』です!」
肝心のナギサは目の前に用意された高級な特製ケーキに夢中で、マコトの嫌味など1文字も聞いていなかった。
インカムから聞こえるシノの声を頼りにセリフを読み上げる。
「ほんじつはぁ……おいそがしいなかぁ……おじかんをぉ……さいていただきぃ……かんしゃいたしますぅ……」
彼女の口から発されたのは、辿々しく、間伸びしたあまりにも酷い棒読みであった。
「(もう少し感情を込めて読み上げてくださいよぉぉ!! 頭の悪いポンコツロボットみたいになってるじゃないですか!!!)」
シノはモニターの前で頭を抱え、心の中で激しいツッコミを入れた。
マコトはナギサのそのあまりにも緊張感のない態度に、こめかみに青筋を浮かべ始める。
「おい、ふざけているのか? その気の抜けた喋り方は何だ。このマコト様を愚弄しているのか!?」
「ナギサ様、次です!『そのような意図はございません。お互いの親睦を深めるための有意義な時間にしましょう』と!」
レナが慌ててインカムで次のセリフを伝える。
「そのようなぁ……いとはぁ……ございませんぬぅ……おたがいのぉ……しんぼくをぉ……ふかめるためのぉ……ゆういぎなじかんにぃ……しましょうねぇ……」
期待を裏切らないナギサはもちろんクソ棒読みである。
「(『ございませんぬ』って何ですかナギサ様!! 勝手に文字を付け足して引き伸ばさないでください!!!)」
レナは胃を押さえ、心の中で大絶叫した。
目の前で繰り広げられる天然の侮辱にマコトの怒りは、確実に沸点へと近づいている。
「いい加減にしろ、桐藤ナギサ! トリニティのトップがそんな軟弱な態度で、この私の相手が務まると思っているのか!?」
「ナギサ様、3つ目のセリフです!『トリニティとゲヘナの未来のために、建設的な対話を求めます』です!」
シノが必死にマイクに叫ぶが、当のナギサはお菓子の甘い匂いにしか興味がなかった。
「とりにてぃとぉ……げへなのぉ……みらいのためにぇ……けんせつてきな、たいわをぉ……もとめますのよぉ……むにゃ……」
「(語尾が完全に溶けてるわよ!!! もう少しでいいから緊張感を持って!!!)」
レナは悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えた。
ナギサのこの徹底した『舐めプ』とも取れる態度が、ついにマコトの神経を完全に逆撫でした。
マコトは声を荒げ、目の前の頑丈なテラスのテーブルをバンッ! と大きな音を立てて叩いた。
「この女狐がぁぁぁ!! 舐めるのも大概にしろ!」
「(ひぃっ! マコト議長が机を叩いたわ! 全面戦争のカウントダウンが始まっちゃう!!!)」
モニターの前のシノとレナは、恐怖で抱き合って震えた。
しかし、当のナギサはテーブルが叩かれた音にさえ驚かず、ただフォークを動かしている。
「マコトさん、これ、とっても美味しいですわよ♪ はい、あーん」
ナギサは満面の笑みを浮かべ、自分が食べかけのイチゴのケーキを、お上品にフォークで掬ってマコトの口元へと差し出した。
「(何を食べかけのケーキで懐柔しようとしてるんだよ、このクソ馬鹿はァァァ!!!)」
「貴様ぁぁぁーーー!!!」
マコトは椅子を蹴り飛ばし、ブチ切れてナギサの胸ぐらに掴みかかろうと手を伸ばした。
――しかし、その手がナギサの衣服に触れる寸前、マコトの動きがピタリと止まる。
「(ま、待てよ……。ここで私がこの女に手を出せば、それを大義名分としてトリニティとの全面戦争が勃発する……。万魔殿としては、今の時期に大々的な武力衝突を起こすのは、非常に都合が悪い……!)」
マコトの脳内で、都合のいい政治的計算が高速で駆け巡った。
彼女は差し出した手を震わせながら、目の前のナギサの笑顔を凝視する。
「(まさか、この女狐……。最初から私が激昂して手を出すことを見越して、あえてこんな舐めきった態度を取っていたのか……!? 全てはゲヘナを侵略するための罠……! 恐ろしい女だ、桐藤ナギサ……!)」
マコトは額から冷や汗を流し、勝手に桐藤ナギサという無能を、稀代の策士であると盛大に勘違いし始めた。
モニターの前の部下たちは、その急展開に目が点になる。
「(ま、まさか…勝手に深読みして自滅してる!? ラッキーだけど、うちのトップは本当に何も考えてないのよ……!)」
「(ちょっとレナ、ナギサ様を見て! マコト議長の後ろの芝をのそのそ動いてるダンゴムシを楽しそうに見つめてるわ! 一ミリも話し合いに参加してない!)」
ナギサの視線は、マコトの背後の芝の上を歩く小さな虫に釘付けだった。
そんな奇跡的な勘違いの連続の中、会談はさらに進んでいく。
「ふん、いいだろう。今回の親睦会の趣旨、理解してやらんこともない。我がゲヘナとしても、不必要な衝突は避けてやりたいからな」
「ナギサ様、インカムの指示通りに!『両校の治安維持における協力体制の構築を提案します』です!」
「りょうこうのぉ……ちあんいじにおけるぅ……きょうりょくたいせいのぉ……こうちくをぉ……ていあんしますわよぉ……」
「(だから喋り方のクセが強すぎるって言ってるでしょうが!!! 頼むから普通に喋って!!!)」
シノは心の中で叫び続け、もはや喉の奥から血の味がしそうだった。
「ふははは! 協力体制だと? 我が万魔殿の足元にも及ばないトリニティが、随分と大きな口を叩くじゃないか!」
「ナギサ様、次は強気に!『それこそが互いの利益に繋がると確信しております』と!」
「それこそがぁ……おたがいのぉ……りえきにぃ……つながるとぉ……かくしんしておりますのぉ……」
「(もう語尾に『の』とか『よ』とか混ぜないで! マコト議長の顔がどんどん引きつってきてるから!!)」
レナは涙目でモニターを凝視し、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
「ふん、まあいい。お前のその不敵な態度に免じて、今日のところはこれくらいにしておいてやる!」
「ナギサ様、最後です!『本日の有意義な対話の証として、最後に握手を交わしましょう』と伝えてください!」
「ほんじつのぉ……ゆういぎな、たいわのぉ……あかしとしてぇ……さいごにぃ……あくしゅをぉ……かわしましょうねぇ……」
「(よし、これで終わりよ! 早く握手を終わらせて、この生殺し状態から解放して!!!)」
レナとシノは、ようやく終わりが見えたことに胸をなでおろした。
マコトは嫌々ながらも、自身の威厳を保つために「ふん」と鼻を鳴らし、右手を差し出す。
「(桐藤ナギサ……底の知れない恐ろしい女狐だ。今後、トリニティの中で最も警戒すべき最重要要注意人物として、マークしておかねばな……)」
マコトが心の中で最大級の警戒レベルを設定しなかまら右手を差し出す。
そしてナギサが右手で、マコトの手をしっかりと握り返した。
その時である。
――うぞうぞ、もぞもぞ。
マコトの握った右手の中で、生理的嫌悪をもたらす最悪の感触が広がった。
「……ん? なんだ、この、手の平の中の感覚は……?」
マコトが引きつった顔でナギサの手を離すと、彼女の手の平から、1匹の巨大な『ムカデ』がポロリと床に落ちた。
なんとナギサは会談の終わり間際、お上品に『お花摘み』と言って席を外した際、中庭の石の裏で見つけたそのムカデを、ペットにしようと素手で捕まえていたのだ。
彼女はあろうことか捕まえていたこと自体を鳩並みの頭脳ですっかり忘れ去り、ムカデを握りしめたままの右手で、満面の笑みで握手を交わしたのである。
「ぎゃあああああああああああああ!!!!!! ム、ムカデェェェーーー!!!!」
ゲヘナの最高権力者である羽沼マコトは、見たこともないような情けない悲鳴を上げて跳び上がり、そのまま白目を剥いてテラスの床に倒れ込んだ。
口からアブブと泡を吹き、完全に気絶してピクリとも動かなくなる。
「あら? ムーちゃん、ここにいたのですね? 良い子ですから、私のポッケの中に戻りましょうねー」
ナギサは床を這う巨大ムカデを優しく拾い上げ、制服のポケットの中へと仕舞い込んだ。
その光景をモニターで見ていたレナとシノは、完全に静止した。
「(終わった……。トリニティは、終わったわ……)」
「(ゲヘナの議長にムカデを握らせて気絶させるなんて、宣戦布告以外の何物でもない……。明日から、全面戦争よ……)」
2人の部下たちは、ただただ訪れるであろう世界の終焉に、涙を流して絶望するしかなかった。
しかし、翌日。
トリニティ総合学園の部下たちが怯えていた、ゲヘナからの報復や全面戦争が仕掛けられる様子は、どこを探しても一向になかった。
それもそのはず、ゲヘナ学園の万魔殿に帰還したマコトは、青い顔をしながらも、周囲の部下たちに対して虚勢を張り続けていたからだ。
「フ、フハハハ! 昨日のトリニティとの会談か? 完璧に我が万魔殿の勝利だ! あの桐藤ナギサも、私の威光の前に震え上がっていたぞ!」
「(あ、あんな恥ずかしい失態が他の生徒にバレたら、マコト様の築き上げてきた(と思い込んでいる)威光が、一瞬で地の底に失墜してしまう……! 会談は、大成功したことにするしかない……!!)」
マコトは自室の机の下でガタガタと足を震わせながら、悔し涙を浮かべて拳を握りしめた。
「おのれ……桐藤ナギサ……! 握手の中にムカデを仕込むなどという、そんな常軌を逸した暗殺術を平然と繰り出してくるとは……! 次こそは貴様を地の底に引き摺り下ろしてやる……!」
ゲヘナでは、ナギサへの恐怖と勘違いがさらに加速していた。
しかし、そんな遥か向こうのゲヘナの動向など、トリニティ総合学園の平和な庭園には一切関係のないことだった。
「ふふ、大きな石をひっくり返すと、たくさんのお友達が隠れていて、とっても楽しいですわね!」
ナギサは今日も、ドレスの裾が泥で汚れることなど1ミリも気にせず、大きめの庭石を自力でひっくり返していた。
そして、そこからのそのそと出てくるミミズやダンゴムシを、無邪気な笑顔で楽しげに捕まえ続けている。
「(全面戦争にならなくて本当に良かったけど……私たちのトップが、やっぱり1番の問題児だわ……)」
その背後で、レナとシノは新しい虫かごを抱えながら、今日も深いため息を空へと溶かしていくのだった。