無心で剣を振るう。
鍛錬用の木剣が上から下へと振り下ろされ、風を切る小気味の良い音が耳に入った。
女の身体になっても経験はこうして体の芯にまで染み付いている。我がことながら美しい剣筋だと思う。
だが、実戦であればこの剣筋にスピードと力が求められる。
硬い竜の鱗や、ゴーレムの岩肌を切り裂くには力が必要だ。ワーウルフや吸血鬼の軽やかで、予測不可能な動きに対応するにはスピードが必要だ。
今の俺にはその両方が足りていない。
───筋肉だ。
この身体には、根本的に筋肉が足りていない。
女らしい身体は性的に見れば確かに魅力的ではあるが、農家の娘よりも筋肉が足りていないのは如何なものかと思う。
元が英雄の身体とは思えない軟弱さだ。
「⋯⋯ふぅ」
素振りを終えて一息つく。
額から垂れ落ちる汗を腕で拭い、ぷるぷると震える腕を見て思わず舌打ちが漏れた。
───息も上がっている。
日没まで剣を振るっていただけだというのに⋯⋯。
時間にすれば四半日にも満たない僅かな時間だ。たかだか、素振り程度で疲労を訴える肉体に嫌気がする。
「このままでは、まずいか」
自分の弱さを改めて再認識した。
このままではまずい。
何がまずいかは口には出せないが、やがてこの村にやって来る魔法使いの女に抵抗すら出来ずに沈められる可能性がある。
「いや、それは仕方ないことか⋯⋯」
むしろ、甘んじて受け入れる必要がある。
抵抗しようと考えている事が愚かしい行為だと、自分で気付くべきだ。男なら、責任は取らないといけない。
「怒っていたな」
空に浮かぶ月を見ながらポツリ零す。
誰が怒っていたかなど、今更語る必要はないだろうがあえて名前を挙げるとしよう。
───エクレリ・スノーフレーク。
現在は冒険者を引退して、山奥に引き篭っているがその名前を知らない者はいない。この世で最も優れた魔法使い。ダンジョンを制覇した英雄。
そして、俺の恋人らしい。
我がことながら客観的な言葉が出た事を許して欲しい。自分でも、まだ上手く飲み込めていないんだ。
エクレリに説明を求めたが、ブチ切れた彼女に『今からそっちに向かうから震えて待ってろ』と会話を切られてしまった。
俺たちは恋人なのかと、聞き返した時のドスの効いた聞いた事は思い返しても体が震える。ダンジョンで相対するモンスターよりも強い殺気を纏っていた。
あのエクレリがあれだけブチ切れたという事は、冗談や嘘の類ではない。彼女は俺のことを恋人だと思っている。
「そうか、恋人だったのか」
不思議と悪くない気分だった。
いや、嬉しいとすら思う。
俺自身も気付かないくらい自然にエクレリに好意を抱いていたのだと再認識した。それと同時に自分の失言の危うさを再認識して、震えている。
身体はまた、気付けば動いていた。
既に両腕はぷるぷると震えて限界だと訴えているが、その主張を無視して素振りを始める。
久しく感じる疲労感による重み。
筋肉の悲鳴。
今の俺には、それが心地よかった。
言ってしまえば現実逃避だ。エクレリとの会話が終わった直後から、考えすぎないように素振りをして誤魔化している。
ただ、残念ながら無心で剣を振るという行為は出来ていない。どうしても脳裏にエクレリの顔が浮かび上がってしまうからだ。
聞いた事もない声だったな。
怒っているエクレリは何度か見た事はあるが、今回のは過去一のものだと断言できる。この俺が、ただの言葉で震え上がったほどだ。
それほどの怒りを覚える原因は間違いなく俺だ。今はひたすらに後悔している。エクレリを悲しませてしまったんじゃないかと心配している。
「どの口が言っているんだ⋯⋯」
力なく腕が落ちる。
疲れたとか、腕が痛いとかではない。気持ちの問題だ。
「謝ろう」
俺にできるのはそれくらいだ。
エクレリがこの村にやってきたらまず謝る。エクレリがそれでも許せないくらい怒っていたなら、全て受け入れて受け止めろ。それが男の責任だ。
「土下座、か」
俺が剣を教えた弟子の一人、タナカに教えて貰った座礼の最高位。お願いをする時や、深く謝る時に使うものだったか?
妙な謝罪方法だと思ったが、今ほど適切なタイミングはないだろう。幸い、タナカの説明の時にエクレリも同席していた。土下座の意味はちゃんと伝わる筈。
いつから俺たちが恋人だったとか、いつから俺の事を好きだったとか、聞きたいことは山ほどあるが俺の事は全て後回しだ。
とにかく謝ろう。
「終わるか」
普段の俺なら、この程度の疲労では鍛錬はやめないが今はそういう気分ではない。重たい身体を動かして家へと向かう。入口まで近付いたところである物が目に入る。
「ん?」
それは手紙。
腑抜けていた俺が、呑気に日向ぼっこをする為に用意した大きめの椅子の上に手紙が置かれていた。
記憶を辿れば、俺が素振りをしている最中に村の少年が持ってきてくれていたような気がする。素振りに集中し過ぎて少年がわざわざ持ってきてくれたのに、対応出来ていなかった。後で謝っておこう。
「差出人は、不明」
椅子に置かれた手紙を手に取って差出人を確認しようとするが、どこにも記載がない。手紙を広げて中を確認するが、筆跡に覚えがない。
綺麗な字だ。
手紙に短く、こう書かれている。
『あなたがロゼ・アレクサンドロス様である事を存じ上げています。ボクを、弟子にしてください』
改めて差出人を確認するが、やはり手紙のどこにも名前は書かれていない。なんだったら宛先の俺の名前すら書かれていない。
これでは誰が書いたのか、誰に宛てた手紙かすら分からない。だが、この手紙は村の少年を経て、確かに俺に届けられたものだ。
手紙や物資の配達は商人が請け負っている事が多いが、宛先も差出人も書かれていないような不審な代物は断るのが基本だと聞いている。思いもしない騒動に巻き込まれる可能性があるからな。
過去の一例ではあるが密書と知らずに配達し、密使と疑われて商人が捕まったという話もあるくらいだ。リスクを負ってまで商人が請け負うことはないだろう。
この手紙は当人によって村まで持ち込まれた可能性が高い。だとすれば、近くにいるのか?
目的は手紙の内容通り、俺への弟子入り?
「⋯⋯誰だ」
ロゼ・アレクサンドロスはギルドの公表で亡くなったと広まっている。俺が生きていて、女になったという事実を知る者は極わずか。
それこそダンカンとエクレリの二人しかいない。
エクレリが知ったのはそれこそ四半日ほど前。俺とエクレリとのやり取りを盗み聞きしていた可能性は⋯⋯ないな。
いくら女になったと言えど、人が近付いて来れば気配で分かる。エクレリが殺気立っていたのもあって、周囲に人が近付いてきた形跡はなかった。
だとすれば、ダンカンが口を割った?
「それもないな」
即、否定する。
例え王族が詰め寄ったとしてもあいつは口を割らないだろう。他の誰よりも俺に英雄たれと、願ってるような男だ。
共に築き上げてきたロゼ・アレクサンドロスという理想の英雄に泥を塗るような真似は許さない。だからこそ俺の死を公表することを決めた。
そんな男が、俺の正体を知っていると半ば脅しのような手口で弟子入りを願うような輩に口を割るとは思えない。
「面倒だな⋯⋯」
ただでさえ、エクレリとの間に問題を抱えているというのに⋯⋯。
「はぁ⋯⋯」
こぼれ落ちたため息は、夜の静寂の中に静かに消えていった。