レオンは足を止めた。
空気が違う。
森が静まり返っている。
さっきまで聞こえていた鳥のさえずりも、風に揺れる葉の音さえ聞こえない。
「……なんだ?」
無意識に木剣へ手を伸ばす。
その時だった。
ガサッ!!
背後の茂みが大きく揺れた。
「っ!」
反射的に振り向く。
飛び出してきたのは、一匹の灰色の狼だった。
昨日の夜に見たものより、一回り大きい。
黄色い瞳が獲物を見据え、鋭い牙の隙間から唸り声が漏れる。
「グルルル……」
レオンの喉が鳴った。
逃げたい。
そう思った。
だが、狼との距離は十歩もない。
背中を向ければ追いつかれる。
父の言葉が頭をよぎる。
『狼から目を離すな。』
木剣を握る手に力が入る。
「来い……!」
その瞬間。
狼が地面を蹴った。
「速っ──!」
目で追う暇もない。
レオンはとっさに横へ飛び込んだ。
ガキィッ!!
牙が木剣をかすめ、激しい音が響く。
衝撃で腕が痺れた。
「うっ……!」
木剣が吹き飛びそうになる。
狼は着地すると同時に向きを変え、再び襲いかかってきた。
「くそっ!」
レオンは後ろへ飛び退く。
しかし足元にあった木の根へつまずき、そのまま尻もちをついた。
狼が牙を剥く。
(終わる……!)
その一瞬だった。
『魔術は落ち着いて魔力を流しなさい。』
母の声が頭の中で響いた。
レオンは震える右手を狼へ向ける。
「ウォーターボール!」
ボンッ!
拳ほどの水球が飛び出す。
だが焦りから魔力が乱れ、水球は狼の鼻先をかすめただけだった。
「グァッ!」
それでも冷たい水を嫌った狼は、一瞬だけ顔を背ける。
その隙を逃さない。
レオンは転がるように木剣を拾い上げた。
「はああっ!」
渾身の一撃。
しかし狼は身をひねり、木剣は肩を浅く叩いただけだった。
「効いてない……!」
狼は怒りをあらわにして飛びかかる。
バキッ!
木剣で受け止めた瞬間、凄まじい衝撃が腕を貫いた。
「ぐっ!」
そのまま吹き飛ばされ、地面を転がる。
腕が痛い。
息が苦しい。
立たなければ。
そう思っても足が震えて動かなかった。
狼はゆっくりと近づいてくる。
獲物は逃げられない。
そう確信したような歩き方だった。
レオンは唇を噛む。
(まだ……。)
(まだ終われない。)
父との約束。
母との約束。
まだ何一つ果たしていない。
「うおおおおっ!!」
叫びながら駆け出す。
狼も同時に飛び込んだ。
互いの距離が一気に縮まる。
その瞬間、レオンは父との稽古を思い出した。
『真正面から受けるな。半歩だけ身体をずらせ。』
レオンは半歩だけ左へ踏み込む。
狼の牙が肩をかすめ、服が裂ける。
熱い痛みが走る。
だが、止まらない。
すれ違いざまに木剣を思い切り振り抜いた。
ゴッ!!
鈍い音が森に響く。
木剣は狼の側頭部を強く打ち据えた。
「ギャウッ!」
狼が苦しそうな声を上げて地面を転がる。
レオンは息を切らしながら距離を取った。
まだだ。
父は言っていた。
『魔物は倒れるまで油断するな。』
木剣を構え直す。
狼はふらつきながら立ち上がったが、警戒するようにレオンを睨みつけるだけで飛び込んではこない。
数秒。
いや、数十秒だったのかもしれない。
張り詰めた空気が流れる。
やがて狼は低く唸ると、ゆっくり後ろへ下がり始めた。
「……え?」
さらに数歩。
そして踵を返し、森の奥へ駆け去っていく。
静寂が戻る。
レオンはしばらくその場から動けなかった。
やがて全身の力が抜け、その場へ座り込む。
「勝った……のか?」
いや、違う。
倒したわけではない。
生き延びただけだ。
肩から流れる血を見て、レオンは苦く笑った。
「父さんの言う通りだ……。」
「本当の戦いって、こんなに怖いんだな……。」
レオンはしばらくその場から動けなかった。
肩で荒く息をするたび、左肩に鋭い痛みが走る。
恐る恐る傷口を見る。
服は牙で裂かれ、皮膚が浅く切れていた。
血は流れている。
だが、腕は動く。
「……助かった。」
その一言を口にした瞬間、全身から力が抜けた。
木剣を手放し、その場へ座り込む。
手が震えていた。
今さらになって恐怖が押し寄せてくる。
もし半歩踏み出すのが遅れていたら。
もし魔法が出なかったら。
もし木剣を拾えなかったら。
考えるだけで背筋が冷たくなった。
「怖かった……。」
ぽつりと漏れた本音は、誰にも聞かれることなく森へ消えていく。
しばらく目を閉じ、呼吸を整える。
父が稽古の後によく言っていた。
『焦ったら負けだ。まず呼吸を整えろ。』
レオンはゆっくり息を吸い、ゆっくり吐いた。
少しずつ鼓動が落ち着いていく。
「帰ろう……。」
そう言いかけて、言葉が止まった。
「……帰る場所なんて、ないか。」
自嘲するように笑う。
それでも立ち上がった。
ここで立ち止まっていても何も始まらない。
傷口を水で洗うため、小川を探して歩き始める。
⸻
ほどなくして、水の流れる音が耳に届いた。
レオンは足早に川辺へ向かう。
透き通った水へ傷口を浸す。
「っ……!」
焼けるような痛みが走った。
思わず歯を食いしばる。
「こんなの……父さんなら平気だったのかな。」
父の腕には、昔からたくさんの傷跡があった。
子どもの頃は不思議だった。
どうしてそんなに傷があるのか。
父は笑って言っていた。
『強い奴ほど傷がある。傷は逃げなかった証だ。』
その言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
レオンは荷物から布を取り出し、肩へ巻き付ける。
ぎこちない手つきだったが、何とか血は止まった。
「よし……。」
まだ痛む。
けれど歩けないほどではない。
⸻
腹が鳴った。
そういえば昼から何も食べていない。
レオンは周囲を見渡す。
その時、視界の端で何かが動いた。
一羽の野鳥だった。
木の実をついばみながら枝へ止まっている。
「……。」
レオンはゆっくり腰を落とした。
音を立てないよう、小石を拾う。
狙いを定める。
息を止める。
そして、投げた。
カンッ。
石は枝に当たり、鳥は驚いて空へ飛び立ってしまう。
「はぁ……。」
思わず肩を落とした。
そう簡単にはいかない。
空を見上げると、鳥はもう小さな点になっていた。
「狩りって難しいな……。」
父はいつも当たり前のように獲物を捕っていた。
その姿を思い出すたび、自分との違いを痛感する。
「もっと……強くならないと。」
剣だけじゃない。
魔法だけでもない。
生きる知識も、経験も、全部足りない。
レオンは木剣を握り直した。
その時だった。
ゴロゴロ……。
遠くで雷が鳴る。
空を見上げると、黒い雲が森を覆い始めていた。
「雨……!」
慌てて辺りを見回す。
このままでは焚き火も起こせない。
身体も冷える。
日が落ちる前に雨をしのげる場所を見つけなければならない。
レオンは荷物を背負い直し、駆け出した。
ぽつり。
頬に一滴、冷たい雨が落ちる。
それはすぐに二滴、三滴と増え、やがて森全体を激しく叩き始めた。
雨音にかき消されるように、どこからか獣の遠吠えが響く。
レオンは思わず足を止める。
「急がないと……。」
少年は雨の中、必死に走り続けた。
雨は夜になっても止まなかった。
木々を叩く雨音が、森中へ響き渡る。
レオンは必死に走り続け、ようやく大きな岩山の麓へたどり着いた。
岩陰には小さな洞穴がある。
奥行きは浅いが、雨風をしのぐには十分だった。
「はぁ……はぁ……。」
全身ずぶ濡れのまま洞穴へ入り込む。
肩の傷がじんじんと痛む。
服からは雫が絶え間なく落ち、体温が少しずつ奪われていく。
「火……。」
震える指で火打石を取り出す。
父が何度も教えてくれた通りに石を打つ。
カチッ。
カチッ。
何度やっても火花はすぐに消えた。
「お願いだ……。」
もう一度。
カチッ。
乾いた枯れ草へ火花が落ちる。
小さな煙。
そして、ぽっと小さな炎が生まれた。
「ついた……!」
レオンは急いで細い枝を重ねる。
炎はゆっくりと大きくなり、冷え切った体を温め始めた。
「あったかい……。」
思わず火へ両手をかざす。
たったそれだけのことが、今は何より幸せだった。
⸻
しばらくすると雨音だけが聞こえる静かな時間が流れた。
レオンは革袋を開く。
干し肉はあと少し。
水筒。
毛布。
そして、一番奥にしまっていた一冊の本を取り出す。
母の魔術入門書。
雨に濡れないよう布へ包んでいたため、傷一つ付いていなかった。
「母さん……。」
表紙をそっと撫でる。
本を開くと、見覚えのある文字が並んでいた。
幼い頃、母が何度も読んでくれたページだ。
『魔術とは、魔力を世界へ働きかける技術である。』
レオンは小さく声に出して読む。
母はいつも言っていた。
「ただ呪文を覚えるだけじゃ駄目。どうして魔法が生まれるのかを理解しなさい。」
あの頃は難しくて分からなかった。
でも今なら、一つでも多く覚えたい。
生きるために。
⸻
ページをめくる。
そこには初歩魔術について書かれていた。
『水球を作るには、水を想像すること。』
『風を起こすには、空気の流れを感じること。』
『炎を生み出すには、火種を育てるように魔力を集めること。』
レオンは焚き火を見つめた。
「火……。」
右手を前へ突き出す。
母の真似をするように目を閉じた。
体の奥にある何かを意識する。
温かい。
小さな流れ。
それを腕へ。
指先へ。
ゆっくり流していく。
「ファイア……。」
何も起きない。
もう一度。
「ファイア。」
また失敗。
レオンは息を吐いた。
「そんな簡単じゃないか。」
諦めかけた時、本の隅に母の字で書かれた小さな文字が目に入った。
『焦らないこと。魔力は力ではなく、呼吸と同じ。』
思わず笑みがこぼれる。
「母さんらしい。」
レオンは深呼吸をした。
一度。
二度。
そして三度目。
体の中を流れる魔力をゆっくり感じ取る。
「……ファイア。」
ぽっ。
指先に豆粒ほどの小さな火が灯った。
「え……。」
炎はすぐに消えた。
けれど、確かに生まれた。
レオンは目を丸くする。
「できた……。」
嬉しさのあまり、思わず立ち上がる。
もう一度。
「ファイア。」
今度は少しだけ長く火が灯く。
まだ焚き火の代わりにはならない。
戦いで使えるほどでもない。
それでも、昨日の自分にはできなかったことだ。
「少しだけ……前に進めた。」
レオンは本を抱きしめた。
「ありがとう、母さん。」
洞穴の外では、まだ雨が降り続いている。
しかしレオンの胸の中には、小さな炎が静かに灯っていた。
その夜、少年は眠る直前まで何度も魔力を練り、小さな火を灯す練習を繰り返した。
火はまだ弱い。
水球も風も安定しない。
それでも一歩ずつ、一歩ずつ。
レオンは父から受け継いだ剣だけではなく、母から受け継いだ魔術も、自分の力に変え始めていた。
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あと一応赤ゲージ目指してます!
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作者はにわかなのでそこのとこよろしくお願いします